暗闇のなかで誰かが笑っている。それを包む紅蓮の炎。目の前の光景に必死に手を伸ばしても届かないもどかしさは怒りにも似た衝動がこみあげて、突きあげる。 ああああああああああ! 声にならぬ悲鳴をあげた。 ハッとカンタレラは目を覚ました。 ドクドクと脈打つ鼓動、胸の中にぽんと生まれた騒がしく不愉快な不安を落ちつけようと深呼吸を繰り返すが視界に広がる闇の孤独に心が揺らぐ。けれど自分は一人ではないことは肌に伝うぬくもりと腕でわかる。カンタレラはそっと気配を殺すと体を起こして、久しぶりに旅から戻ってきた恋人が安らかな寝息をたてている姿を見て泣きたくなるような安堵に包まれる。 カンタレラは再び、彼に寄り添うように横になる。 夢は所詮夢だ。 最近、ずっと感じ続けているなにか大切なものをなくした、または欠けてしまったような感覚が込み上げてくる。 主? レシェフ様――? 優しい、慈愛に満ちた主の笑顔が脳裏に広がった。そして紡ぐ言葉は何を言おうとしているのか、どうしても聞こえない。 ☆ ☆ ☆ 私のカンタレラ。ようやくお前は生まれたのだね。ああ、なんと良き日か! 私のカンタレラ! この日こそ私の長年の願いがかなえられた日! 見ろ、雪のような銀髪、北の果てにいるファーンというシカから数本しか採れぬ毛を贅沢に使って作り上げた! 目を見ろ、南の海の底からとれるサファイア、血のような赤、紅、決して誰にも染まらぬような赤! 何年、この時を待っていただろう? 五百年を生きた大樹を削り、人の皮を被せ、一つひとつの四肢に私の血と魔術を注ぎこみ、月の女神に祈りを捧げて作り上げた! 何体ものカンタレラが生まれては失敗したことか。私もそこから学んだ。生物としての記憶を与えなくてはただの人形になってしまう、私は生きた人形が欲しいのだ。だからカンタレラ、今からお前に記憶をやろう。そうだな。お前は貧しい両親、そう、忌むべき一ツ神の信仰を持つ者から生まれ、素晴らしい力を否定された……お前はひどく、ひどく悲しい生い立ちなのだ。一ツ神は敵だと思う様に、私以外は信頼しないように、うんと不幸にしよう。なにもない、ただ空っぽの日々、人にひどく扱われる日々、不毛な日々、そんななかでカンタレラ。お前を私は買い取ったのだ。ああ、ようやく目を開けた。そうだよ、私が主だ。……奴隷市場に売られているお前を買いとったのだよ? ふふ、きれいな目をしている。まるで、そう、銀の葉にかたどられた花のようだ……私のカンタレラ。 素晴らしい、素晴らしい! 私のカンタレラ! 記憶を吸収し、己を人間だと思うカンタレラ! あの子は私を主と言い、己の名をカンタレだと名乗った。私の屋敷のなかで読み書き、世界の理を……これは、記憶を与えるとき慎重にした。忌み嫌われていたからこそ何も知らないカンタレラ。だから私が与えることがお前のすべてとなっていく。私がバンドネオンを奏でるとカンタレラは歌い、踊った。 樹で作ったことがよかったのだろう、気配を生物よりもずっとうまく殺せるとは! 私はお前に唄だけを与えるつもりだったが……ささやかな誤算だが、素晴らしい! 私のカンタレラ! 実践に出してみよう。少しばかり早いかもしれないが、大丈夫。お前なら……私のカンタレラ、歌え、踊れ、そして殺せ。私のために。 白状するとね、最初から、私の一目惚れだったんだよ ――カンタレラ。 お前には記憶を与え、人形であるということをあえて伏せた。人形ではささいな動き、判断が出来ないからだ。己を知らぬゆえに蜂は飛べる。その原理に則ったのだが……お前にとって造り手である私が最も尊いのは当たり前のこと。しかし、記憶がないゆえに愛か、ふふ、愛となるか。心なんぞない人形が? カンタレラ。お前の顔は私を裏切ったあの一ツ神の信仰にこりかたまった女! ……その顔で私に愛を囁き、求めるか! 私は人が嫌いだ。私たちの信仰を根こそぎ奪いとり、それだけではなく、私をこんな森の奥へと追いやった! 同胞たちの悲しみと血、裏切り……それを忘れはしない、そんな私はもう人など愛せない。だからお前を作ったのだからな。それなのにお前まで私に愛を求めるのか。それが愛? 違うな。愛であるものか。だから笑いながらお前に愛を囁こう。 もう憎悪しか胸に抱けぬ私と、作られた人形のお前。滑稽な舞台だ。なぁ、カンタレラ。 私のために、踊れ 私のために、歌え 私のために、殺せ! 人形め、人形よ、お前に与えるのはそれだけだ……! 私を慰めろ、私を楽しませろ、私を…… ……カンタレラ。 ああ、カンタレラ。お前は毒なんだよ。一滴の毒。けれど確実に命を奪い取る。私の毒。私の最高の毒。 それ以上、何をお前に求める? カンタレラ。私の毒。お前は、私すら冒して殺すつもりか? なぜだ。カンタレラ、お前は私の最高傑作であったはずなのに……? 多くなる依頼に対して同胞たちのいくつもの手紙と深夜の不躾な訪問が頻繁になった。カンタレラを破棄しろ、あれは不用品だ。なぜ、あれは今まで失敗はなかったというのにか? 今だって、あの子はしっかりと依頼をこなしているというのに。わからないのか? レシェフよ、あれは、目立ち過ぎるのだ。そして美し過ぎるのだ。そんな簡単なこともあの人形といてわからなくなったのか? ――私が、私がたかだか一体の人形に惑わされているだと! たかだか人形に! 私が、私のために作り上げた人形如きに! 違う、違う、違う、違う! カンタレラは、私の、私の…… ふ、ふはははははは。最高だ。カンタレラ! たかだか人形のお前にしてはよくやったよ。そうだ。だから私はお前に一つだけ贈り物をやろう。お前に最初で最後のプレゼントだ。受け取るがいい。そして、私を探せるものならば探すがいい。お前は必ず私を探すだろう。きっと……ああ、これは賭けだ。私のカンタレラ。追ってこい。そうしたら、くれてやる。追ってくるな。愚かなカンタレラ、そうしたらお前は自由だ。さぁさぁ、魔術師レシェフの最後の舞台! キャストは私とお前、カンタレラ! ……お前がもし周りの者たちが言うように人ならば、お前は私を追わないだろう。決して……もし人形であるならば追うだろう。さぁ、見せておくれ。私のカンタレラ。私の猛毒。私すら殺して見せろ! 愚かなカンタレラ。私をとうとう追ってきたか。私は屋敷の窓辺でカンタレラを見下ろす。あの子の銀の髪は葉のよう、赤い実のような瞳が屋敷を見つめている。ああ、駆けよって、扉を叩く。愚かなカンタレラ。お前はもう知っているはずだよ。私の人形はお前だけではないと、お前よりもずっと素晴らしい人形があるのだよ? なのに、お前はとうとうここまできてしまった。 私のプレゼントをちゃんと受け取りに 「ドアは優しくノックするものだ。叩き開けるものではないと私は何度もお前に躾たはずだぞ?」 「主」 私はバンドネオンを奏でかなら微笑んだ。私のカンタレラ、私の最高の毒。お前はとうとう 「愚かなカンタレラ、とうとうここまできてしまったね」 「主、その横にいるのは」 「お前だよ。カンタレラ、私のカンタレラ、私のために踊り、歌う」 カンタレラ、さぁ、踊れ、踊れ、踊れ。愚かなカンタレラを嘲るように。 「お前など、もう不要なのだよ」 優しく、お前の記憶にある最も幸せなときのように微笑んでやろう。愚かなカンタレラ。 その瞬間の悲鳴を私は生涯、忘れることは出来ないだろう。 声になら声によって、一瞬にして灰となった踊るカンタレラ。彼女の赤い目は輝き、私を見つめている。私だけを。ああ、カンタレラ。さぁ、お前こそ 声が再び響く。彼女が両手を伸ばし、力強く発する魔の唄声。私のバンドネオンが響く。重なり合う、もつれ合う、同調する。駆ける、揺らぐ、戯れる。ステップのように軋むバンドネオンに合わせて、炎が、燃える、燃える、燃える。紅蓮、お前の眼よりもずっと弱弱しい炎、まだまだ。まだ駆けられるだろう。その声は 悲鳴のような声が轟き、燃えていく。燃えていく。屋敷が、赤く、それに合わせて周囲の木々も、飛んだ火によって、お前の目のようだ。ああ、いま、お前の瞳の赤はどれほどの業火を燃やしているのか。さぁ、踊れ。その歌声のままに。そうだ。カンタレラ! すべて燃やし尽してしまえ! お前は私の憎悪から生まれたのだから。私がお前に最後にやれるものは私の憎悪。もしお前が愚かなカンタレラのままでいたならば、与えてやろうとずっと待っていた。こんな災いを起こせば、誰もお前をほっておかないだろう。魔女。そう、私は人形ではない。魔女を生み出したのだな、カンタレラ。 世界を敵にまわした魔女! カンタレラ、お前は毒。 猛毒だ。愛すれば必ず私を冒し、殺してしまう。私はお前にそれをやろう。お前が、魔女として生まれる、この瞬間、世界を呪え、歌え、踊れ、憎め! 私の体も炎に包まれ、……最後に微笑んでやろう。お前のために。 ☆ ☆ ☆ カンタレラは身をぶるりっと震わせた。寒いわけではない、怖いわけでもない。瞼を閉じて蘇る赤い煉獄から逃れようと必死に心が駆けだしていく。だのに体は冷たく動いてくれない。カンタレラは愛しい腕に両手を巻きつけて、幼い子供が迷子になってしまったかのようにぎゅうと目を閉じる。こうしていれば怖いものは風によって去っていくと無垢にも信じるように。けれど心の不安と畏れは取り除かれることはない。ふいに頭にぬくもりがやってきた。頭を撫でる優しい手。これは だれのもの? いま、愛している恋人のものなのか、それとも、それとも、レシェフ様のものなのか……カンタレラは判らない。泣きそうになる己を叱咤し、逃げるようにさらに強く、強く、しがみついて目を閉じる。 耳に響く。歌い誘う、闇の底から響くようなバンドネオンの音が――さぁ、踊れ、歌え、カンタレラ
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