キルシュ家の、洗練された瀟洒な屋敷は、その外観に反してひどくざわついていた。 数百年の歴史を持つ、この地域でも屈指の名家である。 キルシュというファミリー・ネームから察するに、もとはドイツから渡ってきた一家だったのだろうか。ともかく真面目な働きぶりで財をなした商人の一族は、その後も繁栄に驕ることのない勤勉さで蓄財を続け、事業を拡大し、今やこの地域では知らぬもののない――イタリア全土でも名の知れた――貿易商へと発展を遂げた。 さらに言えば、女系で、男児の生まれることが極端に少なく、嫁ではなく婿をとることが慣例化していたキルシュ家には、現在、百年ぶりの後継ぎとなる少年がいて、一族の期待は高まるばかりだという。周囲の人々も、御曹司が長ずるにつけ、優秀な後継ぎに率いられたキルシュ家はよりいっそうの繁栄を享受するだろうとささやき交わしたものだった。 社交的なキルシュ家にはたくさんの著名人財界人が集まり、華やかな場をつくりだしていたが、しかし、この日のざわめきは華やかさとは縁遠かった。 引きも切らさず訪れる人々は、伝統的な服喪の色である紫の衣装を身に着けており、そこで何が起きたかを無言のままに語っている。 弔問客を捕まえて尋ねれば、同じ答えが返ったことだろう。 先代当主アンナマリーア・キルシュの愛夫、桐生 猛が亡くなったのだ、と。 桐生猛は生粋の日本人で、そして生来の旅好きだった。海外旅行が一般的ではなかった彼の世代には珍しく、日本以外の国にも頻繁に通っていたのだそうだ。自由で自然体、陽気で思いやり深く不屈の精神にあふれた冒険家気質の猛はどの国でも愛されたという。 そんな猛に、生真面目で気丈で自律的な、およそイタリア女らしくないと評判のアンナマリーアが一目惚れし、猛烈な勢いでかき口説いて婿に迎えたというエピソードは今でも語り草になっているそうだ。 四十年連れ添った夫に先立たれたアンナマリーアの嘆きは深く、またごく自然にイタリアへ溶け込んだ猛への哀惜も強く、弔問客は決して表面上だけではない悼みを持って葬儀に臨み、故人の足跡を語り合った。 屋敷は、深い哀しみに沈んでいる。 * * * 本当に困ったときにこれを開けること。 生前の祖父の、悪戯っぽいその口調まで、マルチェロ・キルシュは今もありありと思い起こすことが出来る。 「ノンノ……じいさん」 口にすれば、また涙がこぼれそうになる。 ほんの十日前まで、彼は生きて、笑っていたのだ。 実を言うと、その瞬間まで、マルチェロは、祖父もまた死ぬのだなどとは思ってもみなかったのだ。そのくらい突然で、誰ひとりとして予測しない別れだった。 あまりにも唐突だったがゆえに現実味は遠く、それなのに突きつけられた覆しようのない事実が、激烈な哀しみを幾重にも押しつける。 マルチェロは、ぐっと奥歯を噛みしめて膝を抱えた。 彼は今、屋敷の隅にある納戸に隠れて息を殺している。 誰とも会いたくなかったし、誰にも何も言われたくなかった。 祖父を喪い、打ちひしがれたこのときにまで、キルシュ家の跡取り、御曹司であることを強要されたくはなかったのだ。 祖母も母も、母には逆らえない父も、その他キルシュに属するすべての人々は、きっとマルチェロの顔を見れば祖父のぶんも頑張って勉強し、立派な後継ぎになれと口をすっぱくして言うだけだろう。遺産相続の慌ただしさに忙殺される人々は、少年の心の痛みにまで想像を及ばせることは出来ないだろう。 マルチェロは祖母の、自分や祖父への愛を疑いはしないが、だからといってそのすべてを、勉強しろ、キルシュ家の後継ぎとしてふさわしくあれという言葉に転化されるのはうんざりだった。 「じいさん、俺は」 封筒を握り締める。 とてつもない孤独がマルチェロを満たしていた。 キルシュ家の跡取りとしてしか扱われない息苦しい世界で、祖父だけが彼をただの孫、ただの十五歳の少年として見てくれた。祖父の前でだけ、マルチェロは自由だった。祖父のそばだけが、マルチェロが身体から力を抜ける貴重な場所だったのだ。 そのよりどころをなくし、少年の心は寂しさと寄る辺なさに揺らぐ。 もう一生、キルシュ家の御曹司、後継ぎ、果ては当主として生きていかねばならないのかと思うと、冷え冷えとした絶望すらこみ上げる。 「う……」 また涙がにじんで、マルチェロは乱暴に服の袖で目元をぬぐった。 すがりつくように手紙の封を切り、中を探る。 「……鍵?」 出てきたのは、日本語で書かれた手紙と、古びた小さな鍵と、しるしつきの地図だった。 むさぼるように読めば、そこには、マルチェロがこれを読むころにはすでに自分はこの世を去っているであろうこと、ふたりで世界を巡りたかったこと、強く自由に、思うままに生きればいいという励ましなどが綴られていた。 文面のすべてに、祖父の愛があふれていた。 「じいさん……ッ」 すさまじい哀しみが痛みを伴って込み上げて、マルチェロは手紙を抱きしめ、声を殺して泣いた。しゃくりあげ、祖父を呼び、どうしてと繰り返す。 唐突な喪失に、四肢がばらばらにちぎれてしまいそうだと――もう、このままちぎれてしまったほうがいいのかとすら思った。このまま、人形のように『キルシュ家の跡取り』を演じていくしかないのならいっそ、と。 しかし、いつでも見守っているというしめくくりのあとの、同封した地図の印の場所へ鍵を持っていくように、という追伸が、マルチェロの意識を現実に引き戻し、冷静さを取り戻させた。 祖父が最期に示したそれに、意味がないはずがない。 そこにある運命が、悪いものであるはずがないという確信もあった。 「……」 マルチェロが、こっそり貯めていたお金と封筒の中身を持って屋敷を抜け出すのは、そこから三日後のことである。 * * * 『Notte』、そういう名の店だった。 骨董品や舶来品を取り扱う、小ぢんまりとした店だ。 地図のしるしは、そこを指し示していた。 「ふぅん……お前さんがキリュウの孫か。あんまり似てないもんだね」 いかつい風貌の、頑固そうな店主は、鍵とマルチェロを順番に見てそう称した。 「俺は祖母似らしいので」 「なるほど。まあいい、お前さんがその鍵を持ってるんなら、俺に否やを言うつもりはない。こっちへおいで」 そんな鍵は知らないと突っぱねられたらどうしようという心配はすぐに消え、店主はすんなりと『それ』の場所まで案内してくれた。 「キリュウは若いころからのお得意さまでね」 照明を落とした静かな店内を歩きつつ、店主はしみじみと懐かしげに語る。 「お前さんのばあさま、要するにアンナマリーア・キルシュに見初められてこの国に住むようになる前、彼がまだ、ただの旅行者だったころからのつきあいだ」 「そんなに昔から。じゃあ、もう……」 「そうだな、四十年以上経つよ。時間の過ぎるのは早いもんだ、俺もこんなに年を喰っちまった」 案内された先には、アンティークの、海賊たちが好んで使いそうな箱があった。箱の真ん中には鍵孔があり、鍵がかかっているようだ。 「五年ほど前だったかな、最後に来たのは。そのときにこいつを買っていった。ただ、持って帰ったのは鍵だけでね。箱のほうは、いつか誰かがこの鍵を持ってくるまで預かる、って約束だったんだ。その誰かってのはお前さんのことだったんだな。……ほら、開けてみな」 言われるまま鍵を差し込み、回すと、それは容易く開いた。 中から出てきたのは預金通帳と印鑑、ずっしりとした重厚なつくりの腕時計、それからたくさんの手紙。 「ははあ、こりゃ、お前さんへの遺産ってやつだな。どうせ本筋のほうはごたごたするだろうってんで、こっそり遺したんだろう」 祖父は愛情深い男であったから、妻にも娘にも何かを遺したのだろう。 そして最愛の孫であるマルチェロのために、この箱を遺してくれたのだろう。 「ああ、その時計はここで買ってくれたものだな。とても気に入って、どこに行くのもいっしょだと言っていたから、正真正銘お前さんへの形見ということだろう」 懐かしげに眼を細める店主の傍ら、マルチェロはさらに手紙を改める。 三十数通にも及ぶそれらの中に、一通だけマルチェロへのものがあり、中を見れば、手紙は旅先で世話になった人々へのお礼状だと書いてあった。さらに「この手紙を届けてほしい」という最後の願いが記されていて、マルチェロは発奮する。 哀しみで塞いでいた心に気力がみなぎってくるのが判った。 「じいさんの願いごと……叶えないわけにはいかない」 あて先は国も地域も様々だ。 この『お願い』は、一筋縄ではいかないに違いない。 しかし、何としてもやり遂げてやろうという意志が、今やマルチェロの中にはふつふつと湧き立っていた。生きる活力を、最後の最後まで祖父がくれたのだ。 「ありがとう……じいさん。俺、頑張るよ。絶望せずに、生きてみる」 形見を握り締め、記憶の中で笑う祖父に語りかける。 腕時計はまだ、彼には大きかった。 それが似合う男になって、いつか胸を張って祖父に報告するのだと心に決め、マルチェロは新しい時間を生き始める。 多種多様な分野で活躍する人々への、“桐生猛の孫”の紹介状を兼ねた手紙、祖父のつてのおかげでマルチェロが日本へ辿り着く――その後『ロキ』と名乗り、日本で暮らし、覚醒してロストナンバーとなる、およそ八年前のできごとだった。
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