オープニング

 朱昏は東国・真都の南、大陸を二つに分割する大河から流れ込む傍流の中州に、その街は作られていた。

 三角形の島を覆うように高い塀が立てられ、天井は硝子で遮られる。塀の外には果てしない水流が流れ、万一にも女達が解き放たれる事のないよう、徹底的に街は鎖された。
 閉じ込められた女達の気を紛らわす為か、訪れる男をもてなす為か、街の中は鮮やかな彩りで飾り立てられている。屋形の中には朱塗りの欄干と廊下、店の外には目を射るほどの白い砂が敷き詰められ、靴が地面を磨る度にささやかな音を立てる。大通りに備えられた灯は枝垂れ柳の姿を取り、葉の一つ一つが宝玉の如くに煌めいて光を放つ。

 公娼街、朱雀縞原。
 それはまさしく、目にも鮮やかな、一夜の夢と見紛うばかりの街だ。

 怪異の発端は、ひとりの遊女の死であったと言う。
「朱雀縞原でも有数の妓女だったそうだ。美人画に描かれた事もあるくらいのね。……それがある朝、客を取ったその部屋で死体となって発見されたんだ。首に簪を突き立てられた、無残な姿で」
 珍しく饒舌に事件を語る朱金の虎猫は、導きの書に目を落として淡々と言葉を続ける。
「何故か、その日彼女を買った客が誰であったかは判らない。心中未遂のはずなのに、死体が発見された時には男の方は忽然と姿を消していたんだ。……それでも、部屋には彼女と客、二人分の血が流れて、天井まで赤く染まっていたそうだよ」
 まるで、燃え立つ朝の陽に染まる白壁の如くに。少し詩的な表現だったかな、と首を傾げて、猫は口端を持ち上げて笑う。
「遺体は無縁仏として近くの寺に埋葬された。ちゃんと供養されなかった事がこの怪異をもたらしているのかもしれないし、それとも現世に何か未練があるのかもしれない。真相は、きみたちの眼で見てくるといいよ」
 きみたちなら大丈夫だろう、といつも通りの台詞を残して、怠惰な世界司書は四人の旅人を見送った。


 朱雀縞原の遊女には『娼妓』と『芸妓』の二種類がある。実際に客の部屋へと赴いてその相手をするのが娼妓であり、茶屋で行われる宴席で舞や唄を披露するのが芸妓だ。――殺された件の遊女は、その屋形での看板娼妓であったと言う。
 宴席を設ける店を『茶屋』と呼び、娼妓や芸妓を抱える店を『屋形』と呼ぶ。茶屋に客が訪れる度に、屋形から妓女を借りてくる仕組みとなっているらしい。そう珍しくもない話だ、と欠伸を噛み殺してリエ・フーは壁に凭れかかる。
 公娼街であるゆえか、朱雀縞原の治安はそこまで悪いとも言えないようだ。少なくともこの屋形に居る遊女達は、客と同僚と、それぞれに良好な関係を築いている。陰鬱だが朗らかな空気が、午後の待合部屋を包む。
 窓から差し込む光は柔らかい。今はちょうど昼見世の時間であり、ほとんどの妓女は声が掛からない。見習いの“遊女”として潜入したリエもまた、そうだった。
 昼見世の緩慢な賑やかさに身を委ねながら、リエは待合部屋に集う妓女達に目を向ける。値踏みでもするかのように、金の眼が細まる。

 かの傾国の美女が居た楼と、この屋形、どちらがよりいびつなのだろう。
 答えが出るわけでもない比較をして、ひっそりと笑みをこぼしたまま少年は猛獣の如き瞳を瞼の奥に閉ざした。


 やがて、世界を朱に焼き尽くした太陽は落ちて、深く昏い夜が来る。


「さあ、そろそろ時間だ」
 白菊という名の娼妓が、落ちる日を眺めていたほのかへと声をかける。
「ええ。……もう少し」
「もたもたしてるんじゃないよ? 御客はもうすぐ来るんだから」
 幽かな笑みを残して再び日へと目を向けたほのかに、姉芸妓である白菊は肩を竦めた。 
 初めの頃は「随分ととうの立った見習いだね」と呆れるように憐れむように笑っていた女も、ほのかの持つ儚くも得体の知れない魅力を垣間見、その唄声の美しさに感嘆して、次第に彼女の仕込みに力を入れてくれるようになっていた。そうして話し合ってみれば決して傲慢なだけでなく、寧ろ情に篤く優しい女だと言うことを、ほのかも少しずつ理解し始めていた。
 春を売らぬ芸妓だからこそ、その舞や唄に精魂を籠める。
 ひとときだけであれ芸妓となったほのかもまた、彼女らの矜持に恥じぬ唄を披露せねばなるまい。
「さあ、ほのか」
「……ええ」
 ついと視線を移せば、白菊の黒い髪に挿す、朱漆の簪が目に留まる。
 彼女の名に似合わぬ鮮やかな色のそれは、死した女の首を貫いた簪、話でしか聞かされていないそれを思い起こさせた。女に刺さったまま発見された鋭い刃は、半ばで折れ、どのような装飾であったかは判らなかったらしい。ただそれが、生前懇意にしていた男からの贈り物だと言う事だけが色街に噂されるのみで。
 姉芸妓の艶麗な流し眼に促されるままに、ほのかは黒い髪を靡かせて付き従った。


 舞太夫・淡雪。
 娼妓でありながら、その舞姿の美しさから度々宴席に呼ばれては立方(たちかた)として舞を披露していたらしい。同じ屋形では娼妓のみならず芸妓たちにも一目置かれ、しかし違う屋形からは目の敵とされていた。己の美しさを知るが故に誇り高く、堂々たる物腰の、気風の良い女であったと言う。
 決して手折られる事のない花。
 アルアの姉娼妓は淡雪の事をそのように譬えていた。
『それがいつの間にか、誰かさんの手に落ちてたようだけどねェ』
 からかうように、嘲るように。浮世を知った女の貌で、姉娼妓は艶やかに笑って言った。何故判るのかと問えば、髪が短くなっていたからだ、とだけ答えて。
 その答えの意味を、未だにアルアは解しきれていない。
(人とは、ふしぎなものですのね)
 独りごちて、灯りの落ちた廊下を歩く。
 着慣れぬ和装はやや心地が悪く、けれど精緻な刺繍の施された薄紅の袖の美しさに、知らず笑みが零れる。――彼女も神である前に、一人の娘だ。見慣れぬ衣裳に心が躍り、歩む脚は密やかに軽い。
 屋形に来て以来彼女の面倒を見てくれた姉娼妓は、数日だけとは言えアルアに情が移ってしまったらしく、待合部屋を出る彼女を不安そうに見守っていた。或いは、彼女に売られた当時の自分を重ねていたのかもしれないが。
(お仕事ですもの、がんばりますわ)
 だが、アルアにとってみれば、これもまた勉強の一つだ。
 たとえ、これから初めての“客”の元へ向かうのだとしても、彼女の心に惑いは無い。
 襖の前に膝を着いて、部屋の中へと声をかける。返る応(いら)えに促され、襖に手を宛てて音を立てぬように開けば、その向こう側で一人の男が坐していた。
「ああ、……こちらへおいで」
 語りかける言葉は優しく、しかし妓に対すると言うよりは、妹に呼び掛けるような柔らかさを含んでいた。微笑んで頷き、擦り寄るような足取りで男に近付く。
 微笑む男の、胸元にふと目が止まった。
 鎖骨の下に残る傷跡の下、無造作に紐に括られ、首からぶら下げられた朱漆の飾り。精巧な細工の施されたそれは誠実そうな男には不釣り合いで、逆に彼女の眼を惹いた。
 長い尾を翻し、天へと飛翔する瑞鳥。瞳に填め込まれた輝石が薄く開かれた窓から降る光を受け、深い青に煌めく。そこからゆっくりと視線を移して、アルアはかすかに首を傾げた。
 ――鳳凰の脚にあたる部位が、無惨にも折れている。細く伸びるはずであったそこから先がどうなっていたのかは、彼女には判らない。
「……どうかしたのか?」
 男の指が朱漆の鳳凰を掴み、握って掌に隠す。
 ばつの悪い子供のようにはにかんだ男を、神々しささえ孕んだ銀の瞳が見据えていた。


 宝玉の枝垂れ柳が淡い灯を燈す中を、足早にヴァンス・メイフィールドは歩き抜ける。朱雀縞原の大通りは人も店も多く、立ち止まってしまっては直ぐに妓夫に声を掛けられ、中へと引っ張りこまれてしまう。それを避けて、店と店の間に伸びる細い路地へと入りこむ。
 角を曲がってすぐに、並んでいた柳の灯は姿を消した。薄い暗闇が視界を支配し、けれど歩けぬほどの暗さではない。そのまま脚を進めるヴァンスの耳に、幽かな声が届いた。
 ――アァ、ア、アアア、ァア
「……?」
 足を止め、声の方向へ聞き入る。店の脇に積まれた桶の隣に、小さな朱色が震えているのが目に留まった。
「こんな所に、迷い鳥?」
 言葉を持たぬ声を上げ、涙を流せぬままに泣き叫びながらその鳥は朱色の翼をはためかせる。産毛のような羽が空気を含み、彼が片手で抱えられるほどの大きさだ。
 鎖された街へ、遊女達の籠へ自ら飛び込んできた獣に関心を寄せる。
 やまぬ呻き声が、まるで、親を見失った幼子のあげる涙の様で。思わず声をかけた。
「何処から迷い込んだのかは判らないけど、私でよければ送り届けるよ」
 茶屋の立ち並ぶ大通りから一本逸れた路地の隅だ、鳥に向けて語りかける奇特な男を見咎めた者は居ないらしい。屈み、鳥の貌が在るであろう位置に目線を合わせる。
「さあ」
 ――アアァ、ああ、――噫
 鳴き声は止まない。呻き声も、また収まらない。
 だが、不安げな鳥は彼の声を確かに聞いたようだった。
 ひくり、と、細やかな羽毛を備えた翼が揺れる。
 ふわり、と、花ひらくように羽が広がり、重なる朱の間に隠されていた姿が顕わになる。ヴァンスの声を受けて、安堵したかのようでもあった。
「……なッ、」
 灰の瞳がその幼鳥を映して、大きく見開かれる。

 ――噫

 鳥ではない。
 女だ。
 広げた翼の間、生物としての身体が在る筈のその場所に収まる、美しくも醜悪な女の頭部。
 滂沱の涙で白い頬を朱く穢し、整わない黒髪を振り乱して、首から上だけの女は笑う。後頭部に挿した朱の簪から鮮やかにして大きな翼を伸ばして、その貌を覆うように羽ばたく。
 気付かぬ内に、泣き喚くだけであった声は言葉を有し始めていた。

 ――ひとりで、きえたひと
 ――ゆるさぬ

 大気を揺るがすほどの憤怒。
 或いは悲嘆とも取れる妖気が、ヴァンスへと叩きつけられる。咄嗟に張った氷の壁をも打ち砕いて、しかし身を焦がすほどの怨嗟は物理的な刃にはならなかった。
 高く啼く声。
 赤子のように小さく、老婆のように歪な声を上げる女の首は、驚きに目を瞠るヴァンスの頭上を高く飛び越えて裏通りを飛び抜けていった。


 べィん、べィん。
 鈍くも張りのある音が旋律を奏で、相の手を打つ鼓と寄り添うように、室内に響き渡る。立方が歩みを始めるのを横目に、ほのかは坐して出番を待った。
 宴の場に集まった男達は皆、似たような髪型と似たような顔つきをしている。彼らこそが灯緒やリエの言っていた“軍人”なのかと、ほのかは何となく納得した。ゆらゆらと、焦点の合っていないように見える琥珀の眼が、男達から舞う立方、そして弦を爪弾く女達へと揺れる。
 並んで座す地方(じかた)の一人で、三味線を爪弾く右隅の芸妓。ちょうど、唄地方の端に座るほのかの正面の位置に居る、黒い髪を朱色の簪で止めた、儚い容貌の女だ。脆く見えるまでに白く繊細な指が弦を抑えて赤みを帯びる様は艶めかしく、撥を来る腕の動きもしなやかだ。
 唄の出番を待つ間、ほのかの幽玄なる琥珀の視線はただ女へと注がれていた。吸い込まれるように、惹き付けられるように、その美しい女へと。
(……おかしい)
 ほのかの霊験が、違和を訴える。
 その妓女は、確かに美しいと判る。
 だが、貌を詳しく語ろうとしても、言葉が出てこないのだ。ならば瞼を閉じて、脳裏で画に起こそうとしても、ぼやけたまま輪郭すら出来上がらない。曖昧模糊たる靄に包まれた、奇妙な女だ――或いは、海神の花嫁たるほのかと似たような存在なのかもしれぬ。

 五拍の後に、唄が始まる。
 模糊たる美妓の奏でる音を耳に受けながら、立ち回る白菊のくれた目配せに頷き、ほのかはひとつ息を吸い込んだ。


 心中未遂の起きた日の客が誰であったかは、妙に朱昏に詳しいと言う鬼面のコンダクターが既に調べ上げていた。淡雪を取った客の名までは判らなかったようだが、事件の起きた茶屋に訪れていた団体の詳細を。0世界から出る事もない男が何故、と思うも、リエの主たる関心はそこには無かった。
 真都守護軍第二小隊。それが団体で利用していた客の名であると言う。
 第六小隊が“六角さん”であれば、第二小隊は“二角さん”とでも呼ばれているのだろうか。同じ小隊の名を冠しているにも拘らず六角さんの二から三倍ほどの人員を有し、主に真都の南東側の防衛を担当する。
(軍人……か)
 あの楼も、軍人がよく出入りする場所であった。
 魔都に居た頃のことを思い出し、ひとつ苦い笑みを零した後、幼い少女の貌を再び繕う。紅地に金の刺繍が施された華美な着物を纏い、頼りなげな風を装って歩くその姿はまさに、艶麗な本性を押し隠した無垢な生娘だ。
 鋭敏なる虎の子が、猫を被る。駄洒落か何かか、と己の胸の内だけで嘲笑い、リエは纏う着物の裾を払って淑やかに膝を着いた。
 頭(こうべ)を垂れるその一瞬、黄金の瞳に映したのは、威厳を伴った恰幅の良い壮年の男。衝立に掛けられた臙脂色の軍装には、略綬が幾つも下げられている。
 丸めた頭や気の張り方は、朱昏に足を踏み入れた後、初めに言葉を交わした真都守護軍の小隊長と何処か似ている――否、下手を打てばそれよりも高い階級の者なのかもしれない。
 だが、そのようなものはこれから訊き出せばいいだけの事。

 さて、どんな表情を偽って見せようか。
 深く深く畳へと伏せた顔に獰猛な笑みを刷き、リエは思考を巡らせた。



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!注意!
この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。ただし、参加締切までにご参加にならなかった場合、参加権は失われます。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、ライターの意向により参加がキャンセルになることがあります(チケットは返却されます)。その場合、参加枠数がひとつ減った状態での運営になり、予定者の中に参加できない方が発生することがあります。

<参加予定者>
リエ・フー(cfrd1035)
ほのか(cetr4711)
アルア・ティーダ(cpav3661)
ヴァンス・メイフィールド(cbte1118)

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品目企画シナリオ 管理番号1278
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメントこんばんは、玉響です。この度はオファーありがとうございました。
大変お待たせいたしました。企画シナリオのOPをお届けいたします。

今回はせっかくなので、PC様をお借りし、割と自由に動かさせていただきました。あれもこれもと欲張っている内に、非常に長いOPとなってしまった事をお詫び申し上げます。

このシナリオではOPの通り、朱雀縞原に潜入した後からのスタートとなります。色街にて起こっている怪異の元凶を探り、その解決をしていただければ。
それでは、OP時点での皆様の立ち位置を説明いたします。

リエ・フー様、アルア・ティーダ様:“娼妓”として、それぞれ別の客を取っていただいております(どのような人物かはOPから推察くだされば)。客への対応、どのような話をするか、その後どうするかなど御自由にお書きください。
ほのか様:“芸妓”として宴席の場に呼ばれ、唄を披露していただいております。宴の場での行動と、その後どうするかなどを教えてくださいませ。
※遊女見習いとして潜入してくださった三名様は同じ屋形に居り、OP時点では同じ茶屋に呼ばれております。

ヴァンス・メイフィールド様:おひとりだけ朱雀縞原の街中からのスタートとなります。突然遭遇した怪鳥を追っても、どこかの茶屋に入って情報を得ても構いません。

あれこれと提示いたしましたが、皆様が何を想い、どう行動するかは自由です。それによってどんな結末を迎えるかも、今の段階では白紙となっています。
どうぞ、皆様の思うままにお書きくださいませ。

それでは、参りましょう。怨嗟の鳥が啼き叫ぶ、艶やかにして歪な街へ。

参加者
リエ・フー(cfrd1035)コンダクター 男 13歳 弓張月の用心棒
アルア・ティーダ(cpav3661)ツーリスト 女 24歳 植物と生命のティターニア
ヴァンス・メイフィールド(cbte1118)ツーリスト 男 24歳 守護天使
ほのか(cetr4711)ツーリスト 女 25歳 海神の花嫁

ノベル

 項垂れたまま、黄金の瞳をその瞼の内に仕舞い込む。
 ふ、とひとつ息をこぼして、リエは面を上げた。

「りえ、と言います。お招きありがとうございます」
 妖艶なる内掛けを纏い、幼い少女が屈託のない笑みを浮かべる。どことなくぎこちなく見えるのは初めての客だからだろう――そう、相手の眼には見えたはずだ。朴訥さを表すために、敢えて用いる言葉も幼いものを選んでいる。
 慎重に、しかし堂々と己ではない己を演ずる。男の望むように己を偽る。魔都に居た頃と、それは何の変わりもない。容易いものだ、と自嘲じみて笑う。
 案の定男は何の疑問も抱かず、相好を崩してリエを招き寄せた。求められるがままに応じ、身をすり寄せて膳の上の徳利を手に取る。酒を一献注げば、男は考える素振りも見せず即座にそれを呷った。


(あなたは)
 唄を遮らぬよう、ほのかは心の内から問う。
(……誰、なの?)
 無貌の地方。形容し難い幽かな佇まい。生者か、化生か、それさえも悟らせない女は、美しく微笑んだ。――確かに美しいと判るのに、言葉にしてそれを語る事は許されない。
 女の三味線を繰る手は止まらない。左の手は弦の上を流水のように滑り、右の手は飛沫に似た仕種で撥を振るう。唄いながら、女の観察を続ける。顔が見えぬのであれば、その他の特徴を。なるべく仔細に覚えるべく。
 女の身に纏う、美しい紅の袖。
 胸元の鮮やかな紅一色から裾に近付くにつれて白いぼかしが入り、足先には深雪にも似た白が広がる。赤から白の流れる様が素晴らしいと感嘆し、目を凝らした所で、ほのかはそれがただのぼかしではない事に気が付いた。
 蝶だ。
 無数の白い蝶が紅の空へと飛び立つ様子なのだ、あの女が纏う袖は。

 閉じた瞼の裏側に、無数の白い蝶が群がるような錯覚。
 白い翅が幾つも羽撃き、散り、落ちて、それはやがて雪に変わる。――その狭間に、ほのかの意識もまた融けた。



「今日は学者先生と来ていてな、猿芸などつまらぬから二人で早々に席を立ったのだ」
 一杯重ねるごとに、男の舌は滑らかになっていく。芸妓たちが精魂を籠めて演ずる曲目を“猿芸”と切り捨てる、その語る言葉はあまりにも浅ましい。
 聞き出すべき事は尽きぬほどある。酌をする手を止める事なく、リエは男の語る言葉に応えて頷いた。言葉を挟む必要もない。男は己の功績に誇りを持ち、それをリエに示したくて仕方ないのだから。ただ人形のように、押し黙ったままニコニコしていればそれで良い。
 聴く所によれば、男は真都守護軍の佐官であり、本来ならば真都中央の本部に属するらしい。“学者先生”もまた、本部に努める者の一人のようだ。普段は都の中央部から滅多に離れぬ男が、今日は南に足を向けたついでに、第二小隊の接待を受けているのだという。
 傲慢な豚が皮を被っている男――リエの獰猛な金眼には、最早そうとしか映らなかった。豚とは言え骨の髄まで腐っている。コイツ自身の話はもう沢山だ、とリエは酌の手を止め、身を乗り出した。
 肩に手を置き、瑞々しい“少女”が伸び上がる。
 語り続ける男の唇を、己が口で以って封じた。
「……りえ、そんなことよりも」
 至近距離で視線が交わる。瞳の奥まで濁り切った男だ、侮蔑の言葉は胸の内に仕舞いこむ。
「軍人さんと遊びたいな」
 “少女”は身を退いて、再び徳利を手に取った。
 無垢であった少女が見せた、唐突な妖艶さに男が惚けたまま、頷きを返す。
「ね。飲み比べ、しよ」
 膝に乗せた手に、己が両手をそっと添える。男の視線が此方へ向いたのを認めて、殊勝な貌を創る。
「軍人さんが勝ったら、好きにしていいよ?」
 何も知らぬ仔猫がするように小首を傾げ、無垢にそう言い放つ。『好きに』の言葉をどう受け取るかは男次第だが、鋭いその眼に粘着質な慾の火が燈ったのを見てとり、思惑通りだとリエは内心で薄く笑った。
 二つの盃に注がれる水音が、仄かな灯りの中に響く。


 ぱちん、両の手を勢いよく合わせる音が、室内によく響いた。
「まあ、学者様なのですね」
 感嘆の仕種のまま、首を傾げてアルアは笑う。
 アルアにとっては純粋な反応だったが、男はそれを世辞と取ったのだろう。困ったように眉を下げて、しかし小さな感謝を返した。
 ふ、と遠くを見るその瞳が、やけに暗く、やけに悲しそうな色を宿す。
「学者と言っても、そんなに偉いものじゃない。……ただの人殺しさ」
 その言葉の指す意味を、アルアは尋ねない。男自身が、それを追求されるのを畏れているように見えたから。
「ところで……その、簪」
 話題を変えるため、先程男が手の中に隠していた首の鳳凰に指をさす。
「壊れてしまってるなんて……残念ですわ」
 心からの言葉だ。鳳凰の意匠はアルアの眼にも美しいと思うし、完全な形でそれを眺めてみたかったのも事実。しかし、女神の銀眼は探るように、窺うように男の眼を覗き込む。
「どうして壊れてしまったのか、お尋ねしても?」
「ああ。……いや、」
 アルアの懇願に頷き、しかしすぐに首を横に振り直す。彼女の目から隠すように、再び鳳凰を手の中に握り締めて、男は困惑気味に笑った。
「どうってことはないんだ。手違いで、折ってしまった」
 まるで、悪戯を叱責された童のような表情。下がった眉が可愛らしく思え、見つめるアルアの瞳も自然と和らいだ。
「不運な事ですのね……。でも、桂木様は簪をおつけになるのですか?」
 自然と漏れ出た問いに、男は更に動揺を示した。
「……さっきから、質問されてばかりだ。そんなに私が気になるかい?」
「ええ」
 鳳凰を握る手が、赤く見えるほどに力んでいる。穏和な貌を顰め、警戒を表面に出し始めた男へ、アルアはやんわりと頷いた。
「素敵な男性の事ですもの、当然気になりますわ」
 柔らかな声音に、世辞の色が見えないと男もようやく気がついたのだろう。困惑気味に笑い、朱の鳳凰からようやく手を離した。
「……すまない、失礼なことを聴いた」
「いえ、こちらこそですわ」
 つられて浮かべた笑みをふとしずめ、アルアは近づいて男の頬に手を伸ばす。薄暗がりの中で、男の顔をじっと見つめる。
「不躾ですが、すこし気を張っているように見受けられますの。……少し、お休みになられてはどうでしょう?」
 相変わらず困ったように笑いながらも、彼はその手を拒まない。
「わたくしの胸でよければ、お貸しいたしますわ」
 微笑んで投げかけるその言い回しに、決して他意はない。世間知らずなアルアにとって『胸を貸す』とは単なる慣用句に過ぎず、しかし遊郭に慣れている男は突然の言葉に目を丸くした。
 やがて、嘆息と共に緊張を解いて、その頬を緩める。
「……不思議なひとだな、貴方は」
 女神は何も言わぬまま、力を抜いて倒れ込む身体を柔らかな腕で受け止めた。
「胸でなくていい。一時だけ、その膝を貸してくれ」
「ええ、よろこんで」
 紅の袖を揺らして、膝の上に頭を乗せた男の瞼に掌を乗せる。もう何を見る必要もないのだとわらって聴かせ、夢の世界へと誘(いざな)う。

 揺れる水面。ただただ白い空間。
 波紋を描いた傍から白かった景色は色を得、それは次第に小さな部屋――アルアと男の居る、茶屋の一室を描き出す。
 男とともに瞼を閉じたアルアの脳裏に浮かぶのは、眠る男の視る夢。

 男の視点で描かれる夢の中に、アルアは自分の姿を映しこんでいた。
 紅から白へと流れる色合いの袖を身に纏って、男と向かい合うアルアはただ愛しげな眼差しを彼へと送っている。苦悩に声を歪める男の呻きを、一言も聴き漏らすまいとするかのように。
『――いっそ、この命ごと断ち切れればいい』
 貌を押さえた掌の隙間から、嘆きの声が漏れる。対峙する女の銀の眼は少しも揺るぐ様子を見せず、白い手が男へと伸ばされた。
『……ほんとうに、残酷なおひと』
 人の気も知らないで、と夢の中の己がわらう。なじるような口ぶりながら、その表情は幸せに満ちている。
『あなたが逝くと云うのなら、私もついていきます』
 高くまとめた桃色の髪に、美しい簪が揺れる。
 鋭い切っ先を備えた、鮮やかな朱が。

 夢はそこで途絶え、男の意識は更に深く深くへと落ち込んで行く。髪を撫で、聞きかじった歌を歌い、生命の女神はその眠りを支えた。
 童のようにあどけない表情で眠る、その唇が微かに上下する。
「……あけ、び」
 アルアは静かに首を傾げ、しかし幸せに満ちた顔で眠り続ける男を微笑ましく見下ろした。
「あけびさん。……そう、そんなお名前なのですね」
 夢の中の“わたくし”は。
 そう続けるはずだった言葉は、胸の内に仕舞い込む。
 せめて、この一時だけは男が幸せであるようにと、アルアはただそれだけを願う。


 瞼を持ち上げる。
 暗く、質素な色の天井が視界に広がった。
 灯りがついているのに暗い部屋の中で、姉芸妓の白い肌だけが艶やかに映る。
「……白菊さん」
 声をかけて、ほのかは渇いた喉を自覚した。
「! 起きたかい?」
「……ごめんなさい。迷惑をかけて」
 茫洋とした琥珀の瞳が白菊を捉え、しかしすぐに逸らされる。あちらへこちらへとさまよう双眸を、白菊は心配そうに見つめた。
 どうやら白菊は、宴の席で倒れたほのかを別室へ運び、甲斐甲斐しく世話をしていたらしい。情に篤い彼女らしい行動だ。
「初めての席だ、しょうがないよ。無理だけはしちゃならない」
「……ええ」
 まっすぐ向けられる眼差しに、思わず動揺して言葉が澱む。
 本当は失神などしていない。外見にそぐわず面倒見の良いこの姉芸妓を騙すのは気が引けるが、あの場から穏便に抜け出すにはこうするのが一番良いと思ったのだ。
「白菊さん。……ひとつ、聴いてもいいかしら」
「ん?」
「地方の……一番右に居た人、覚えている?」
 女の名は知らぬ。位置で説明を加えれば、彼女も合点が行ったようだ。一つ頷き、しかしすぐにまた首を傾げる。
「あの子は……やだ、思い出せないね。寝ぼけてた訳じゃあないんだけど……」
 霊的な気配を纏わせる女の事、まともな人間にはそれが普通なのだろう、とは思いはしたが、口には上らせない。
「知りあい……?」
「ああ、……ううん、それもわからないね……」
「では……白蝶が雪のように積もる柄の袖に、覚えは……?」
 白革の三味線を手に、白い裾を揺らして紅袖の地方が弦を弾く姿が脳裏に浮かぶ。それはさながら、暁の空が白雪に覆われる様か、雪原に血が舞う様か。
 記憶をなぞって謳うほのかの言葉に、白菊は柳眉を跳ね上げた。
「……どうしてそれを?」
「……何か、心当たりがあるの?」
 身を起こそうとして、気付いた白菊にそれを制される。それでも尚琥珀の双眸で見据え続ければ、やがて姉芸妓はひとつ溜め息をついて、敵わないねと呟いた。
「雪蝶――淡雪さんが、好んで着ていた図柄さね」
「淡雪太夫……しばらく前に、亡くなった人ね……」
 もちろん、ほのかとて彼女のことは存じている。だが倉確認をとった方が、怪しまれることはないだろう。ありがとう、と謝辞を口にして、起こしていた身を倒す。
「私はもう大丈夫……白菊さんは、席に戻って」
「だけど、」
「あなたまで咎められるわ……」
 上客をもてなすための妓が二人も抜けたとあっては、屋形の名を汚す事にもなりかねない。静かだが有無を言わせぬ語調でほのかが促せば、白菊は渋々といった体で立ち上がった。
 ほんとうに、強情な子なんだから。
 子を思う母親に似た声音でぼやく後ろ姿に、ほのかは布団の中でひっそりと笑みをこぼした。


 一対の翼を大きく翻して遮られた空を飛ぶ怪鳥を、二対の翼を持った天使が追い縋る。
 既に夜も更け、大通りを歩く人間の姿も随分と減っている。これであれば見とがめられる心配もないだろうと考え、ヴァンスは逃げる鳥の後姿を真っ直ぐに追いかけた。
「……放っておくわけにも行かないしね」
 嘆息混じりにそう呟いて、ふらつきながら飛ぶ女怪の前方をふさぐように氷壁を張り巡らせる。
 怪鳥が、突然の氷に翼を戸惑いに揺らめかせる。すぐに叫びで氷を打ち砕き、また飛び立ったが、かすかの逡巡でヴァンスとの距離は随分と縮まったように思う。
 もう一度、今度は分厚く氷の壁を張る。音波で砕かれてしまう事のないように、二重三重と、【コールドブラッド】を揮った。眼前を塞がれた立ち止まる怪鳥は翼を憤りに震わせ、振り返ると血走った眼をヴァンスへと向ける。
「貴方は……誰かを殺すつもりで?」
 ようやく己に向き合った女の貌は、血に塗れていながらもやはり美しい。女怪はしかし、応える素振りも見せずに翼を大きく広げ、羽撃かせる。そこから放たれた幾多もの羽根が、ヴァンス目掛けて迫った。
 コキュートス――第九圏、裏切り者の地獄、嘆きの川の名を冠した長槍を揮う。一振りで迫る羽根の全てを薙ぎ払って、ヴァンスは女に飛びかかった。
 傷を付けるつもりはない。
 ただ、このまま逃してしまえば、誰かを呪い殺す危険性がある。だからここで捕えるのが賢明と、そう判断した。
 逃げようとする女の翼を、咄嗟に凍らせる。
 空中に磔になり、怪鳥は竦み上がって目を瞠った。
 もう少しで、髪に手が届く。
 そう思ってまっすぐに伸べた指はしかし、怪鳥に届くことはなかった。

 はらり。

 それ自体が意志を持つ生き物であるかのように、黒い髪が大きくうねる。羽撃きの起こす風に流され、広がって、落ちる艶やかな髪。それを束ねていたはずの朱色が離れて落ちたのだと、ややあってヴァンスは悟る。
 小さくともよく響く音を立てて、地面に辿り着く朱の簪。
 鮮やかな赤の名残が、宙に残って尾を引いた。
 叫び声が、翼の氷を打ち砕く。
 それに目を取られた一瞬の隙を突いて、女の首はヴァンスの視界から姿を消した。周囲に耳を凝らしてみるも、羽撃きの音ひとつない。――まるで、近付けば消えてしまう蜃気楼のような。唐突な消え方だ、とヴァンスは首を傾げた。
「ともあれ……どうするかな」
 翼を畳み、落ちた簪に近寄ってそれを拾い上げる。
 髪に挿す側と反対の端が、無惨にも折れてしまっている。所々で鮮やかな朱色を穢すこの黒ずんだ染みは――
「……血、か」
 指先に、濡れた感触はない。酸化の具合からも、随分前に血を浴びて、既に乾き切ってしまっている事が見て取れた。スーツの胸ポケットから取り出したハンカチーフに丁重にくるんで、なくさぬように仕舞う。
「次に会った時に、返してあげなければね」
 首から上だけとは言え、あの妖は確かに女性の姿をしていた。ならば優しく扱うのは当然ではないかと、ヴァンスはさして疑問も抱かずに思う。
 手の中に呼びだしたトラベラーズノートの帳面を捲り、この狭い町に散らばった三人の顔を順に思い描く。続けて真白な紙面に言葉を綴れば、描かれた文字が夜の闇に浮かびあがり、柔らかに融けて消えた。



 膝の上に眠る男を乗せたまま、アルアはトラベラーズノートを開く。そこに浮かび上がる文字を華奢な指先でなぞり、ゆったりとした仕草で銀の瞳を瞬かせた。
 装飾の折れた、朱色の簪。
 文面に綴られたその言葉を気に留め、ちらりと一瞥した男は、未だ瞼を閉じて寝入っている。
 畳の上に垂れ下がる鳳凰の首飾りに、ゆるりと手を伸ばす。男を起こさぬよう慎重に、それを留める紐をほどいた。
「すこしだけ。……すこしだけ、貸してくださいませね」
 悪戯な童子にも似て、けれど穏やかな母親の如き柔和な笑みを浮かべる。――眠る男には見えないと判っていて、聴こえないと知っていて、しかし言わずにおけないのは彼女のまっすぐな気性故か。
 手の内に握り込んだ鳳凰は、人の身を巡る、あたたかな血の色によく似ている。


 格子越しに忍び込む光。
 回廊を歩く、人でありながら人でない幽体の女。
 就寝を装い空の肉体をおいて、抜け出した霊魂だけでほのかは茶屋内をさまよう。身体は駆けつけてくれたアルアに任せた。心配は要らないだろう。
 ふと、回廊の向こう側に奇妙な呪符で封をされた襖があることに気がついて、ほのかはそちらへと歩みを進めた。
 襖をすり抜けて、まず目に入るのは黒く広がる畳の染み。
 視線を移ろわせれば、それは壁から天井に至るまで飛び散っていることが見て取れる。この部屋で間違いないようだ、とほのかは黙したままそう断じた。
 惨劇の痕を目にしても、彼女の心は波立たない。
(血は平気……魚にも流れているものよ)
 飛び散る血はくすみ、薄闇の中ではただの黒い影である。幽体でありながらそれら一つ一つに手を伸べつつ、ほのかは部屋の中をゆっくりと見究めた。
(天井迄染まる程の血飛沫……果たして自刃なの……?)
 胸中で問うても、答える者はない。
 部屋の中にかすかに残る、女の思念。
 はじめは雑音に過ぎなかったそれも、耳を澄ませ、意識を向けることで次第に言葉としての形を得ていく。

 ――なぜ
 ――どこへ、きえたというの?
 ――わたしを、おいて

(……それが、彼女の無念)
 妖に身をやつしてまで、現世に留まり続ける理由。
(人は何処迄も追い縋るのね……失った命や、失った望みに)
 哀れだなどと、想わない。
 憤る心も、持たない。
 ただあるがままを静かに受け止めて、ほのかの霊体はゆらり揺らめいた。 そろそろ、肉体に戻らなければならない。きびすを返そうとした彼女の視界に、ふと光が映り込んだ。
 薄闇の中、部屋の隅で何かが光を跳ね返したのだ。そちらの方向へと目を向けたほのかは、くすんだ血の中に落ちている物に気を留めた。
 黒い簪が一本、窓際に落ちている。
 切先は鋭く、喉を貫けばひとたまりもないだろうと推測させる。そしてその反対には、精緻な鳳凰の意匠が彫り込まれていた。
 不意に手を伸ばそうとして、幽体では触れられぬ事に気がつく。
 それが”在る”という事実だけを記憶に留めて、ほのかは部屋を辞した。

 ――足りないの
 ――いなくなってしまった
 ――さがさなければ(とめなければ)

 ほのかの消えた後も、語り続ける妓女の思念。激情と静謐、女の声は二つに分かたれ、それぞれに囁いた後、ひとつに融けた。

 激しく燃える焔の如き想い。
 それが少しだけ、彼女には羨ましい。


 白菊が宴席へと戻っていく姿を、リエは向かいの部屋に潜んだまま窺っていた。
 外見は幼くとも、数十年を生きるリエは酒で酔うことなど滅多にない。軍人にわざと飲み比べを持ちかけて、潰すなどたやすいことだ。
 はじめは小隊にクーデターの謀議があるのではないかと疑い、男の服や荷物を漁ったが、それらしきものはみつからなかった。
 だが、彼らが淡雪殺しに関与しているのは確実だろう。
「……まあ、すぐにボロを出すだろ」
 呟いて、首から外したペンダントを、宙に掲げた。
 白と黒、陰陽一対の勾玉が一つの円を作る。緩やかに回転するその中央が、白く鋭い光を放つ。
 空気が撓む。しなり、張り詰めた弦の如くに――切れた。

 鎌鼬が、室内を苛烈に駆ける。座る妓女と軍人の頭上を飛び越え、獣の唸りに似た轟音を立てる。
 燭台が倒れ、火がかき消される。ならばと天井の灯をつけようとしたところで、それもまた風の刃に切り裂かれた。
 宴席は混乱に陥る。我先に逃げる妓女、脱いだ外套を探す軍人。膳は倒れ、障子は切り裂かれ、しかし誰一人として傷を負うものはいない。
 暗闇から伸ばされた腕が、一人の男の喉元を捕らえて引き寄せる。
「――ひっ」
「おっと。叫ぶなよ、叫べば喉かっさばくぜ」
 リエの黄金の瞳が、暗闇の中で煌めく。
 背後から羽交い締めにし、低い声音で脅しをかければ、男は竦み上がったまま幾度も首を縦に振った。
「良い子だ。大人しく質問に答えれば、このまま見逃してやるぜ。……あの日、なにがあった?」
「あの日……?」
「とぼけんじゃねえ。淡雪が殺された日のことだ」
 淡雪、の言葉に男が反応を返したのを、見逃すリエではない。男の首に当てた刃を引けば、ひきつった悲鳴が上がった。
 一筋の薄い赤が男の首に描かれる。
「――! お、俺はなにも知らない……!」
「白々しい嘘を」
 この期に及んで尚、保身に走るか。
 形のいい眉を鋭くつりあげて、少年は見た目にそぐわぬ強さで男を引き倒した。
「お前ら、本当は全部――」
 リエの言葉はそこで、唐突に遮られた。
 闇を切り裂いて、響き渡る鳥の叫び声によって。


 格子窓を突き破り、黒い塊が部屋に飛び込んでくる。
「鳥……!?」
 口にした後で、鳥ではないと気づく。
 蠢く黒は長い髪。滴る赤は流れる涙。羽ばたく翼の間に庇われるのは、美しい貌。
 女の頭部だけが、翼を纏って飛んでいる。
 それはまさしく、異形と呼ぶにふさわしい姿だ。
 血の涙を流し、言葉にならぬ呻きをこぼす女鳥は血走った眼をさまよわせ、何かを必死に探している。長い髪が貌にかかり、風に吹かれ、闇のように靡く。
 くつり、とリエは口の端を歪めて笑んだ。
「本物がきてくれたってわけか」
「……いいえ」
 何処か楽しげに肩を揺らすリエに、幽かに反論を返したのは、廊下の端に立つほのかだ。暗闇と叫喚の中を、まるで光の中に在るようにしっかりとした足取りで進む。襖の向こうに隠れるリエの元へ。
「どうした」
「……違うわ、“ほんもの”は……初めから、この場所に居たの」
 平時の彼女と同じ、定まらぬ物言いに、リエが眉間に皺を寄せる。
 それに応える事なく、焦点の合わない琥珀の眼が暗闇の中を彷徨う。怯える女、憤慨する男、啼き叫ぶ鳥、彼女はそのどれにも興味を示さない。ゆっくりと、畳の上へ足を進める。幽かに首を傾げ、生の気配が希薄なその姿は、まるで彼女自身が霊であるかのようだ。
「そうでしょう。……淡雪さん」
 ほのかの足を止めた、その先に立つのは白蝶の袖の女。
 ないはずの首を傾げて、女がほのかを見つめる。
「……貴方の首が、あの鳥。……貴方たちは、二人でひとつなのね」
 無貌の女から答えは返らない。
 だが、無言こそが最大の肯定であると、ほのかは気づいている。
「ああ、やっと見つけた」
 暗闇の外側から、声がかかる。
 格子窓の外に、二つの人影がたたずんでいる。桃色とオレンジの、双方に長い髪をしたアルアとヴァンスだ。
 柔和に微笑んだまま、ヴァンスは女の首へと近づく。
「返さなければと思っていたんだ」
 折れた簪をその眼前に差し出せば、女は驚いて目を見張った。
「……貴方が本当に罪もなく殺されたというのなら、僕は止めない。それが真実、心中でなかったとしたら、ね」
 彼女の恨みに正当性があるのなら、止める理由はないだろう。
 ひたと女の血走った目を見つめ、天使は言う。柔らかな風貌の優男である普段の彼からは想像つかぬ、真摯な声音で。
「でもね、貴方はとても苦しんでいる。……本当は、憎みたくなんかないんじゃないかな」
 ヴァンスの隣に、ほのかが並ぶ。
 差し出された簪の側に、朱色の鳳凰の飾りを並べる。
 ――女の唇から、嗚呼、と声が漏れた。感極まったような、ただの言葉もなく自然とこぼれ落ちる嘆息。
「これを、探していらしたのですね?」
 桃色の髪をゆらして、アルアが小首を傾げて問う。
 首だけの鳥が血の涙に濡れる瞳を瞬かせ、無貌の女が無いはずの頭部を縦に動かす。――彼女たちはやはり、根底では一つの魂なのだ。
 ちょうど、アルアとヴァンスが手の中に握っている、二つに別たれた朱色の簪のように。
「……桂木様は」
 アルアの口から紡がれる、一つの名前。
 その名に、鳥と女、ふたつの妖が、驚いたように彼女をみる。
「共に往けなかったことを、今でも悔いておられますわ」
 彼女の姿を夢に描き、形見の鳳凰を愛おしむほどに。
 ふ、と女鳥の姿が揺らぎ、霞んでいた妓女の首に、光が走る。先ほどまで形容できなかった貌が、美しい、と確かに語る事のできる、実体のある姿に変わる。
 生前の淡雪と同じ、美しい姿の女は、微笑むと一度会釈をした。
 無数の白蝶が、淡雪の袖から立ち上る。空に舞い、天井高くまで登ったそれらは、ひらりひらりと雪のように降り注ぐ。その向こう側に隠されて、女の姿は融けて――消えた。

 後に残るのは、鳳凰の簪と、雪蝶の袖一枚。


 四人がアルアの部屋に戻ると、眠っていた男がちょうど目を覚ました所であった。
「君たちは……」
 警戒に眉をひそめる男――桂木に、アルアは鳳凰の簪を差し出す。途端に男は驚愕し、そして悲痛に顔を歪めた。
 簪を胸に抱き締めて、訥々と語り始める。
「飽いていた。……いや、倦んでいたんだ」
 己を取り巻く環境の全てに。のうのうと生を甘受し続ける自分が憎い。いっそ断ち切ってしまえれば――そう嘆いた男を、太夫は優しい笑みで抱き締めた。
「あなたが逝くのなら私も逝く、と」
 夢の中の己――淡雪が囁いた言葉をアルアが唇に乗せる。室内には熱が籠っていると言うのに、男は両腕で震える肩を抱いた。
「……だから心中を選んだってのか」
 噛み締める唇。無言の頷きは、肯定の証。
 シャツの襟から覗く、喉下の傷痕にほのかが琥珀の眼を向ける。妓女の死んだ部屋に転がっていた、一本の簪を思い返す。
「淡雪さんは……朱の鳳凰で。そして貴方は、黒の鳳凰で……」
 対の簪で互いの喉を。
 貫き、抱き合い、流れる血さえも混じり合おうとしたのだ。
 だが。
「死にきれなかったんだね、貴方は」
 優しい声音が震える男を覆う。
 しかし、ヴァンスの瞳は湖面の薄氷の如き銀色を湛えたまま。
 ――男の力と、女の力。その明白な差が、彼らの運命を別った。
 或いは、死に対する覚悟の違いだとでも言うのか。
「貴方を死なせるわけにはいかないと、軍が淡雪さんの部屋から証拠を消し去った」
「……私は、このまま生き続けていいのだろうかと、悩んでいた。……淡雪……“明日”が迎えに来るというのなら、それでもいいと」
 だから、この場所に来た。
 淡雪の怪異が噂される、この場所に。
 許しを乞うように男はうなだれる。一筋の涙が、畳に散る。
「我が身可愛さに一度逃げたんだろう? はっ、ふざけんじゃねえ」
 男の惑う姿を一笑に伏し、リエはこれ以上は無用だとばかりに踵を返した。
「……ちょっとでも悔やんでんなら、きちんと供養してやりな」
 向けた背越しにそう付け足した言葉は、苛烈な少年の垣間見せた本心か。
 閉ざされた襖は、断罪の響きだとでも言うのか。

「……あけび」

 押し殺した嗚咽の声が、襖の向こうから漏れ聞こえた。


 塀の向こうに昇る朝日が空を朱紫に染め上げて、女達の街に新しい日を呼びこむ。
 南天に取り残され、朱色に染められた月。弧を描くその姿は、微笑む女の唇に似ていた。

クリエイターコメント四名様、大変お待たせいたしました! 御参加、ありがとうございました。
艶やかな色彩の街で起こる、一組の男女にまつわる怪異の真相を記録させていただきました。

今回、企画シナリオだからこそできるOPの形態を使用してみたのですが、結果的に皆様のプレイングの自由度を下げてしまう危険性を考えておりませんでした。申し訳ありません。今後はもっと精進していきたいと思います。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら事務局まで御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

皆様、今回は御指名頂きほんとうにありがとうございました。とても楽しく書かせていただきました。
御縁が在りましたら、また何処かの階層で御逢いしましょう。
公開日時2011-06-20(月) 22:00

 

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