クリエイター玉響(weph3172)
管理番号1351-11844 オファー日2011-08-23(火) 12:53

オファーPC リエ・フー(cfrd1035)コンダクター 男 13歳 弓張月の用心棒
ゲストPC1 業塵(ctna3382) ツーリスト 男 38歳 物の怪

<ノベル>

 踏みしめる大地の感覚に、リエ・フーの足が自然と歩みを緩める。
 建物ばかりが乱立し、大地を閉じ込め空を狭めているこのインヤンガイにおいて、緑ある景色と言うのはそれだけで貴重ですらある。豪邸の門から玄関へと辿り着くまでの間だったが、自然の匂いをその小さな肺に吸い込み、少年は皮肉げな笑みを唇に刷いた。
 案内役である女探偵の促すままに、邸宅の扉を潜る。
「暴霊が来るのは、決まって夜」
 首に巻いたマフラーに顔を埋め、探偵が何度目かの依頼の説明を口に登らせた。
 良家の令嬢が、身分違いの恋をした。
 添い遂げる事の叶わぬ関係を苦にして、心中を遂げ、しかし女だけが助け出された。――以来、取り残された女の元に、死んだはずの男が迎えに現れると言う。
 心中の末の生き残り。
 よくある話だ、と笑い、かつて朱き天を戴く色街で携わった事件を思い描く。あの事件で生き残ったのは男の方であったが、此度は女が生き残り、その命を男の暴霊が狙っている。よくある話だ、ともう一度呟いて、嘆息を零す。
 探偵の言によれば、心中を起こしたのが、数日前の深夜の事だったらしい。この邸宅の外れに在る納屋で、二人手を取り合って炎を起こしたのだと。それ故、暴霊は夜に、この家に囚われる。
「日中は特に何もないと思うが……念のため、見ていてくれとの事だ」
 それとだけ告げると、女探偵は吹き抜けのホールの二階へと声をかけた。
 声に応え、高い靴音が階段を下りてくる。黒い影が、姿を見せた。
 黒く長いスカートの裾を揺るがせて、その女は一段一段、ゆったりとした動作で足を進める。ホールに立つ三人から見える横顔は、漆黒のヴェールによって口許以外を隠されていた。
 まるで誰かの、喪に服しているかのような姿。
 踊り場で立ち止まり、彼らを見下ろすようにして向きを変えた女は、長い髪とヴェールを揺すらせて微かに首を傾げてみせた。
 女の露出した口許、そのすぐ左上に僅か覗く焼け爛れた傷跡が、リエの目を強く惹きつけて離さない。
「……あんたが、今回の依頼人?」
 リエの問いかけは、黒衣の女へと確かに届いたようだった。
 ヴェールの生み出す影の下、女の唇が撓む。
 笑みと呼ぶにはあまりにもいびつで、ただの痙攣と呼ぶには明確な意思を伴った表情の移ろい。しかしその女は、熱傷で爛れた皮膚を引き攣らせて確かにわらったのだと、リエには判った。
 そのまま、女は無言で踵を返す。
「あ、おい」
 リエの声にも、応えは返らない。
 咄嗟に隣の業塵を見上げれば、陰鬱に落ち窪んだ目とかちあった。男はぱちん、と開いていた扇を閉じて、それを令嬢の後姿へと向ける。そして無言で顎を動かした、その仕種の意味を悟れぬほどリエも愚かではない。
 ホールから続く階段を、黒衣の“未亡人”を追って駆けあがる。


 二階の端に在る令嬢の部屋から廊下へと出たリエを、開いたままの窓から吹き込む風が無慈悲に迎えた。肩の上のセクタンが思わぬ寒さに震えるのを、宥めるように撫でてやる。
「娘の様子は、どうであった」
 気配もなくかけられた声に、訝しがるでもなく振り返る。
 袴の裾に落葉の屑を付着させたままの業塵が――ちょうど外を散策し、邸へと戻ってきた所だったらしく、窓の桟を乗り越えようとしている奇妙な姿勢で首を傾げた。
「ん。ああ……」
 何と答えたものか、迷っている間に男はリエの前を横切り、令嬢の部屋の前へと足を向ける。扉に手を当て、ゆるりと瞼を閉ざしたのは、何かを感じ取っているためだろうか。
「……一緒に逝かせてやったほうが、倖せかもな」
 胸の奥から深く吐き出した呼気と共に、独り言めかせて呟く。
 決して依頼を投げ出すわけではない。怠慢から来る言葉ではなく、むしろ令嬢の傍について彼女を知るごとに、その思いは彼の中に濃く澱を成す。
「まるで虚ろだ。人の言葉なんて何一つ聞いちゃいねえ」
 心此処に在らず、といった言葉が最もしっくり来るであろうか。
 ヴェールの奥に隠された瞳は何処を見ているのかも判別できず、時折頷くために顎を引く以外は、女は何の反応も示さない。心どころかその魂さえもを何かに明け渡してしまったかのような令嬢の姿は、近付くものを何一つ映さぬ鏡にも似て、空虚だ。
 ただ、唇の脇を走った熱傷の痕を愛おしげになぞる、その仕種だけがリエの心に強く残っている。
「……虚ろ?」
 業塵が、閉ざしていた瞼を開く。生気のない眼が揺らぎ、視線がぐるりと空を這う。
「否、虚ろではない」
 乾き切った唇が、言葉を編んだ。ぼそりと、しかし確かな力を伴って投げられた声に、リエは面(おもて)を上げてその続きを待つ。
 腕を掲げ、伸ばした指先に、袖の奥から這い出てきた妖蟲が渡った。枯枝に似た指に絡みつき、ただ何をするでもなく這い回る。
「アレには、命が充ちておる」
 呪(まじな)いじみた言葉は、辿り着く先を喪って潰えた。


 事務所にて待つ探偵から、連絡用にと手渡された霊力端末を持つのはリエではなく彼の方だ。痩身を丸め、直垂姿の男が両手で握り締めた端末のボタンを、目にもとまらぬ速度で叩いていく、その異様さには既に慣れた。今では僅かに残った違和感と共に、生温い笑みを零してしまえるほどに。
 そもそもがこの業塵と言う男、大妖怪であったと聞くが、こうして会話をしてみる分には酒と甘い物の好きな、陰気で寡黙でぼんやりとしたただの男にしか見えない。常に気分の優れないような或いはただ眠たいだけのような表情で令嬢の部屋の外に佇み、壁に掛けられた抽象絵画を何時間でも飽かずに眺めていられる、リエとは違う時間を生きている男だ。差し入れに来た探偵へ壱番世界のドーナツチェーン店のメニューを口にし、当惑させている姿さえも見かけた。
「令嬢の部屋の窓の外だが、壁が焼け焦げていた」
 ふと、霊力端末から視線を外した業塵が、リエへと問いかけた。
「未だ、あの窓までは辿り着いていないようだったが。地面に近ければ近いほど、損傷が激しい」
「……って事は」
「日に日に、令嬢への距離が近付いておる」
 初めの日は、壁にすら届かずに潰えた。
 次の日は、壁に触れはしたが登る事は叶わずに。
 黒く煤けた跡がまっすぐに窓を目指して登る様は、暴霊の並みならぬ執念を表しているかのようでさえあったという。
「……俺は令嬢の元へ戻るぜ」
「なれば、儂は外で待とう」
 リエが扉を開け、部屋と結界の中へと入って行ったのを見届けると、業塵は廊下に並ぶ窓の傍へと足を進めた。窓を開けて、静かな眼で外側へと手を伸ばす。
 ざらり、とその指先が崩れる。指先から見る間に形を喪っていく男の影が、夕闇に融け、風に乗って消えた。
 窓から覗く淡い紫の空には、大百足のシルエットだけが浮かび上がる。


 業塵が張った結界の中、居心地の悪さから部屋の中を歩き回る。
「暴霊はどっちからくるんだ?」
 暴霊、の言葉に、女の口許、僅かに見える表情が揺らいだ。
 リエの問い掛けに初めて返した反応。それを逃すまいと、猫科の猛獣めいた瞳を女の横顔に向ける。
 やがて、頑なにリエの方向を見ようとしないまま、令嬢がゆっくりと口を開いた。
「窓の外。……いつも、そちらからあの人の声が聴こえて、……光も」
 言葉に詰まり、しゃくり上げるようにして続きを紡ぐ女の口許を注意深く眺め、リエは彼女の指差した窓際へと歩みを寄せた。
「光?」
 指先で桟をなぞる。長い間誰も触れていなかったのか、くっきりと痕が分かるほどの埃が指に残った。
「……暗闇の中で、ぼんやりと光る、赤い光」
 記憶を辿るような逡巡の後、落とされた女の言葉はおぼろげで、しかし何処となく甘い。
 何気ない仕種で窓枠に手をかければ、それは容易く、ほとんど抵抗を見せる事なく外側へ開いた。流れ込む風の冷やかさに、頬を打たれる。

 ――それがまるで、来訪者を受け容れるようであったと感じたのは、ただの思い過ごしだろうか。


 陰鬱に澱む、リージャン街区の黄昏を一匹の大百足が駆け抜ける。
 否、一匹ではない。無数の小さな蠅、蛾、蝶、様々な翅持つ蟲達が、統率された動きで以って群れているだけの事だ。
 巨大な口吻と無数の肢を持った大百足の姿で、蟲の群れは飛んでいく。周囲の変化を見逃さぬように。燃えた納屋から、邸宅の隅――令嬢の部屋、その周辺を重点的に、見て回る。
 揺れた。
 ただの葉擦れとは思えぬ大きな音が、無数の蟲の“聴覚”を揺るがす。
 それと同時に迫る、熱。
(焔か)
 焼け爛れた女の頬。焦げ煤けた窓の外側。薄々と覚えていた予感が正しいものだったと悟り、蟲の群れは百足が首を擡げるような動きで身を翻した。

 突如として部屋の窓から飛び込んできた、無数の黒い蟲達に虚ろな女が悲鳴を上げる。
「業塵!」
 怯える女の肩を支え、乱雑な行動を取った相棒へ咎める声をかければ、瞬時に蟲から人へと戻った業塵はまっすぐにリエを見下ろして応えた。
「来る」
 短い警告に、リエは次の言葉を呑み込んだ。
「窓は」
「主に拒絶の意志がない以上、閉ざしていても無意味であろう」
 つまりは、真っ向から迎え討つしかないのだと。
 ぱん、と乾いた音が響く。業塵が手に持った扇を開けば、黒地に紅の蛾が描かれた図柄から、はらはらと黒い粒子が零れ落ちた。
 夜の静けさの中で、小さな呻きが窓の外から聴こえた。
 紺青に染まった宵闇を、不意に紅の光が断ち割る。
 窓の下からゆらりと立ち昇った光は、灯火めいた揺らぎを見せながら徐々にその色を深め、その光を強めて行った。迫って来ている。灯火の動きで、それを察する。
「ああ……」
 よろめいた令嬢の肩を支えたまま、リエは首から下げるペンダントへと手を伸ばす。足元で仔狐型のセクタンが、威嚇にその小さな身を揮い立てた。
 窓枠から伸び出た黒い手が、桟を掴む。
 掴まれたその場所から、木枠が音を立てて燃え燻ってゆく。やがて掛けられた手と同じ黒へ色を変えて行くのを眺め、そこでようやく、その手が焼け焦げ、炭と変じている事に気が付いた。包み込むように大きな、焼け爛れ崩れ落ちた、男の手だ。
 窓枠を掴む手に力を入れ、ゆっくりと登る、その男の全身もまた燻り、炎に包まれている。
 炭化した肉体を覆う炎。放つ光の鮮烈さに、女が竦み、ヴェールの奥で目を瞠ったのが、傍らに立つリエにも解った。
 ぼとり、と、焼けた木材が崩れ落ちるのにも似た無造作な動きで、暴霊が部屋の中へと降りる。黒く燃える顔は既に鼻も口も耳も判別できないほどに崩れていたが、ただぽかりとあいた眼窩の奥でゆらりとゆれる光が、令嬢とリエとを捉える。
 暴霊の放つ声は最早言葉を為さない。獣の鳴き声に似た、ただ繰り返されるだけの呻きを喉から零し、熱気を孕んだ荒い息を吐く。
 一歩踏み込む、その足元で床が音を立てて焦げた。
 業塵が扇を翻す。無数の黒い粒子が奔流と化し、燻ぶる暴霊へと襲いかかる。暴霊が動きを止めた、その隙にリエはトラベルギアを展開させる――しかし、それは叶わなかった。

「逝かせて」

 不意に、リエの手が、強い力で振り払われる。
「――ッ!?」
 隣に立っていたはずの女が、結界の外へと駆け出す。慌ててその後姿に縋ろうと手を伸ばすも、黒いドレスの背に拒絶の色を感じ取り、リエは思わず竦んだ。
 結界から躍り出た女が、降り注ぐ焔に、その身を曝す。
「もう、生きてても意味がない」
 肩に、腕に、頬に、髪に火が落ちるのを甘受して、一歩、足を進める女の顔を覆うヴェールが、音を立てて燃えて行く。
 柔らかな布の鎧が剥がれた下で、醜悪な傷痕を歪ませて、令嬢は穏やかに笑んだ。振り返った、片方だけの瞳が、リエを捉える。
「おい!」
「ありがとう」
 焼け爛れた左の貌を黄泉返った恋人へと、在りのままを残した右の貌を結界の奥のリエへと向けて、此岸と彼岸の狭間で女は立ち止まる。
 尚も何かを云い募ろうとするリエを、枯れ枝のような手が制した。業塵の、生気のない目が女の横顔を捉えて、そしてゆっくりと視線を下げる。

「腹の子も死なすのか?」
 淡々と落とされた声は、呪(まじな)いにすら聞こえた。
 女が、歩みを止める。
 男が、動きを止める。

 その一瞬を、リエが見逃す事はなかった。
「楊貴妃!」
 名を呼ばれたセクタンが、肩から顔を出す。その尾がしなやかに揺れて、鈴の音が高く鳴り響く。小柄な身体から吐き出された炎は、しかし身体に見合わぬ苛烈な勢いを持って男の焔を退けた。
 暴霊が怯んだ隙を狙い、呆然とする女の腕を取ったリエが結界の中へと引っ張り込む。
 尚も縋ろうとする、暴霊の腕。
「――てめぇも、しつこいんだよ……ッ!」
 首に提げたペンダントが、重力に反して軽く浮き上がった。陰陽一対、白と黒の勾玉がゆるやかに回転する。業塵の結界に合わせ、リエと女とを囲む空間に、勾玉と同じ図柄――大極図が浮かびあがる。
 その縁を、色なき刃がなぞった。
 結界に触れようとしていた男の腕を切り刻み、纏う焔を掻き消して、真空の刃が渦巻く。叫び声を上げて引き下がる暴霊へ、息つく隙も与えぬ黒き奔流が襲いかかった。業塵の操る妖蟲と毒とが、その視界を覆うように男へと群がる。
 女が、男の名を呼ぶ。最早音すら留めぬ、焼け爛れたその名を。
 まろびながらも飛び出そうとしたその肩を、リエの手が掴み、引き留めた。
「まだ、逝くって言うつもりか」
「……!」
 当惑と共に振り返る、その先にあるのは、真摯に閃く黄金の瞳。
 常から浮かべている皮肉げな笑みを沈め、少年はただ首を横に振る。陰と陽の入り混じる紋様の上で、清濁併せ呑んで来たはずの彼が、ゆっくりと言葉を探すように息を吐く。
 彼女を引きとめるには、ハッタリも、猫被りも、必要ない。
「てめぇが死んじまえば、腹の子も――あいつの子供も、死んじまうだろ」
 ただ、その真実だけがあれば良い。
 女の貌が、リエの言葉に呼応して竦む。震える唇に、焼け爛れた名を、乗せる。しかし、その声音は先程よりも明瞭で、その表情は落ち着きを取り戻し始めていた。
「あぁ、私……わたし、は」
 惑う声。彷徨う視線の行き着く先を、リエは待ち続ける。
 やがて、片方だけの瞳が、リエの黄金の瞳を捉え、一度強く瞬いた。

「私……は、いきたい」

 踏み出すその一歩が、確かに此岸の砂を踏んだ。
 そのまま力を喪い、崩折れる女を受け止めて、リエは女と共に床に膝をつく。俯きと共に表情を緩めて、息をひとつ吐いた。
 確かな生者の温もりを両腕に感じ取りながら、ふと黄金の瞳を吊り上げて叫ぶ。
「業塵!」
「応!」
 短い呼びかけに的確に応じ、業塵が細い腕を翻す。手に持つ扇の黒と赤とが鮮やかに踊り、その後を追うようにして黒き奔流が舞った。
 無数の妖蟲と毒の群れが、男の暴霊を覆い尽くす。
 既に死した肉体に、毒が効かぬ事など承知の上だ。ただ、その動きを抑えられればいいと、寡黙な大妖怪は理解している。

 ――リリ……ン

 暴霊の叫びと、妖蟲の羽打つ音の隙間に、小さな鈴の音が落ちる。
 陰陽一対の勾玉が、宙に浮かび上がる。主の肩から跳び上がった子狐と、大極図、その両方から、苛烈な焔が吐き出された。
 群がる妖蟲が音を立てて燃え上がる。黒の奔流が、瞬く間に焔の渦と化した。
 鮮やかな浄化の焔が、燻ぶる男を焼き払う。煤の黒を、炭と化した肉体の表面を撫ぜる――その傍から、暴霊の身体が白い色を伴って輝き始めた。
 炎に包まれたままの眼窩が、瞳の光が、生を選んだ恋人へと向けられた。
 咄嗟に、女を庇うようにリエが腕を広げる。しかし、業塵の厳かな手が、それを制した。光纏い始める魂へと、引き寄せられるように歩み始めた女を、止めてはならぬと無言で語る。
 切り刻まれ、焼け爛れた男の腕が、白く輝き、そして透き通る。
 暴霊にない穏やかさで以って広げられた腕を、そのまま女の背へと回して、男は恋人を軽く引き寄せた。

(――元気で)

 消失するその一瞬、やわらかな声が降り注いだ。


 夜が明け、邸宅の門前で迎えの車を待つ二人へ、黒衣を脱いだ令嬢が見送りに現れた。
「いいのか、その顔」
「ええ」
 まっすぐにリエの瞳を見下ろす女の眼は、片方が爛れた皮膚で塞がれている。口端から伸びた熱傷は彼女の貌の半分以上を覆い、まさしく異形と呼べる有様を呈していたが、何故かリエにはそれを醜いと断ずる事が出来ない。
「家を出て、この子と一緒に生きようと思うんです」
 未だ膨らみの目立たぬ腹を愛おしげに撫でる、その指先は頬の熱傷を撫でていた時と同じ穏やかさを孕んでいる。
「そうか」
 業塵が、閉ざしていた瞼を開く。生気のない目がゆっくりと空を這い、やがて女へと向けられた。
「息災であれ」
「……はい!」
 端的な、しかしこの上ない激励の言葉。はにかんで頷く女の表情に、業塵の陰鬱とした顔が微かに揺らぐ。
「参るぞ」
「あ、おい!」
 やってきた車に乗り込む、相方の後をリエが追う。皮肉げな少年の、年相応に慌てた声に、女が思わず微笑んだ。
「てめぇ、今――」
 隣に座る大妖怪の、憂いを帯びたとぼけ顔をまじまじと見遣って、リエは口を噤む。不意に、何もかもが馬鹿らしく思えた。
 先程、微かに見えた業塵の表情の揺らぎ。――それが笑みであったとしても、奇怪に思う事などないのだろう。
 ふ、と自身もまた笑みを零して、リエは膝の上で丸くなる楊貴妃の背を撫でた。

クリエイターコメント二名様、オファーありがとうございました!
そしてぎりぎりまでお待たせしてしまい、申し訳ありません。

心中の生き残りである良家の令嬢、という指定を頂きまして、どうにも謎めいたヴェールの女のイメージが抜けなかったので、このようなシチュエーションとさせていただきました。
尚、タイトルにある「起火」は文字通り、中国語で「炎上」と言う意味です。

今回は素敵な物語をお任せいただき、ありがとうございました。
それでは、御縁がありましたらまた違う物語をお聞かせくださいませ。
公開日時2011-09-24(土) 10:10

 

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