上海の中心には巨大な鏡が横たわっている。大河の支流である。太陽が潰えると同時に水鏡の上で摩天楼が揺れ始めるのだ。絶えず煌めくネオン群は星と呼ぶにはヴィヴィッドに過ぎるが、幻想的なイルミネーションとも趣を異にする。世界有数の都市にひしめくのは良くも悪くも人の息吹だった。 陽気に響く歌と囃子で老人は目を覚ました。自分の船で宴会が始まったのかと錯覚したのである。だが、夜の底のような船室から這い出した老人が見たのは酔客を乗せて通り過ぎる船の姿だった。老人は孤独で、彼のぼろ船は河岸に繋留されたままなのだ。しかし今の老人を苛むのは感傷よりも空腹であった。最後に物を食ったのは二日前か、三日前か。仕掛けた釣竿はぴくりともせず、竿先の鈴は死んだように沈黙を保っている。 「うまくいかんな」 冷えた風が嘆息をさらう。溜息のように鈴が鳴る。魚かと竿に飛びついたら、背後の甲板がぎしりと軋んだ。 「あ? 先客か」 少年の声が飛んで来て老人は振り返った。 暗闇の中で黄金色の目が瞬いている。人を小馬鹿にしたような目つきに強烈な既視感を覚え、刹那、呼吸を忘れた。 「お前は……まさか、そんな」 「オレのこと知ってんのか?」 再び鈴が鳴り、小さな狐が少年の背中に隠れた。 老人の名はチャンという。彼は孤独だった。しかし少年時代には多くの仲間がいたのだ。愚連隊と揶揄される類の集団であったが、唯一の居場所であることに変わりはなかった。 チャンが十歳を出たばかりの頃、両親が事変で死んだ。国も世界も情勢は不安定で、街には同じような孤児がわんさと溢れていた。しかしチャンは彼らと馴染めなかった。いきがるために犯罪に手を出す輩はどうも好きになれなかったのだ。しかし一人だけ毛色の違う少年がいた。虎のような金眼と、癖の強い黒髪を持つその少年こそが浮浪児グループのリーダーだった。とはいえ浮浪児のこと、所業はスリにかっぱらいに追いはぎだ。金眼の少年は、ただ生きるために犯罪を繰り返していた。 「働かざる者食うべからずだ。生きたけりゃ奪え」 愚連隊は狩猟者だった。獲物を仕留めれば腹は膨れ、仕損じればたちまち飢える。そして、彼らは捕食者であると同時に被捕食者でもあったのだ。彼らの天敵は官憲だった。 熟練した浮浪児の群れにあって、両親を亡くしたばかりのチャンは幼獣に均しかった。襤褸の靴を履き、反吐とカビの凝る裏通りを駆け抜ける日常は彼の体に負担と負傷を強いた。持久力も瞬発力もないチャンはしばしば仲間に置き去りにされた。猛獣ならば幼獣を守りながら進軍しただろうが、浮浪児たちには獣ほどの余裕も力もなかったのだ。 「てめぇのケツはてめぇで拭け。一人を助けに戻ってたら全員やられちまうだろうが」 それがリーダーの口癖だった。へまをしたチャンを小突き、悪態をつきながら助けてくれたのも彼だけだった。その甲斐あって、チャンは徐々に彼らに馴染んでいった。 しかし当時のチャンは多感な少年であった。仲間に囲まれていても、ふとした拍子にホームシックにかかることは不自然なことではなかったのだ。“仕事”にも出られず、路地裏から大通りを眺める日々が続いた。 「餓死する気なら出てけ。人間、死ぬときゃ独りだろうが」 そんな時でもリーダーは容赦がなかった。チャンの胸倉を掴み、容赦なく吊るし上げる。リーダーの手の中で、痩せた体はぶらんと宙に浮くばかりだ。リーダーは剣呑に舌打ちした。 「辛気くせえ。生きてんのか死んでんのかはっきりしやがれ」 そして、はたはたと涙をこぼすだけのチャンを乱暴に投げ捨てた。 「生きたけりゃ奪え、食え。それができなきゃ死ね」 生ごみのように崩れ落ちたチャンに向かって、とどめとばかりに何かを投げつける。カビの生えた――それは彼らの餌にしては上等な――点心だった。リーダーはそういう奴だった。 チャンは愚連隊の中で成長し、グループは少しずつ大きくなっていった。人員も徐々に増えていく。 「……抗争?」 仲間からもたらされた知らせにリーダーの眉が曇ったのはいつのことであったか。興奮気味の仲間が、川の対岸に陣取るグループへの宣戦布告を盛んに言い立てていた。力を持たぬ少年らにとって、街を二分する大河は海にも均しい境界だ。 「船を出せばいい。材料をかっぱらって作るんだ」 と言ったのはチャンだった。腕組みをしていたリーダーは初めて顔を上げてチャンを見た。 「そいつぁいいな。興味あったんだよ、川の先に何があるか」 そして、いつものように不敵に笑う。それが嬉しくて、チャンも無防備に相好を崩した。 さああああ……。川風が回想を冷ましていく。 「そんで確かめたのか? 川の向こう」 今、チャン老人の隣にいるのはリーダーそっくりの少年だ。二人は並んで船べりに腰かけていた。眼前で、夜の大河がゆったりとうねっている。対岸のネオンを集めた水面はまるで光の川だ。静かなさざなみを立てながら天の川のように続いていく。 「一度だけ船をかっぱらった。適当に盗んだ廃船の部品を組み合わせて川に漕ぎ出したよ。だけど所詮ガキの船遊びさ。川の半分も進まずに沈んじまった」 「はは。お似合いじゃねえか」 「そうじゃな。浮浪児にはお似合いだ」 深い皺で縁取られた眼の中でネオンのかぎろいがちろちろと揺れている。 仲間やリーダーがいれば何でもできると思っていた。この先、ずっとこのままでいられると思っていた。 「今だって似たようなもんだろ。こんな所で寝起きしてるんならよ」 くつくつと船が軋む。あるいは少年が笑ったのか。チャンも「違いない」と喉を鳴らしたが、空気を吸い過ぎて咳込むはめになった。何せ彼の髪は白く縮れ、皮膚はすっかり張りを失っているのだ。 「しかしよく似ている。空似にしろ、他人とは思えん」 チャンは自嘲しながら傍らの少年を見つめた。瑞々しい頬。癖の強い艶髪。 「あいつの名前は……確かリエだったか」 「女みてえな名前だな」 少年は嘲るように笑う。 「あざなじゃろう。自分のことを多くは語らなかったが、いつだったか娼館の生まれと言うておった。そういえば、母親の形見だとかいうペンダントを持ってたな」 「へえ。で、仲間たちはどうなったんだ」 「ある日、とうとう官憲に見つかった。きっかけは例の抗争さ。船を直して相手のシマに乗りつけた途端に湧いて出やがったのよ。ハメられたんだ。一旦はまいたが、しつこく追われて散り散りになって……それっきりだ。リエもわしも、他の連中もな」 チャンの喉がぜいぜいと掠れた。久々の能弁は老いた声帯をひどく痛めつけていた。 「わしは路地裏からここに場所を移した。日雇いの仕事で食い繋いで、戦後のどさくさに紛れてこのぼろ船を手に入れた。これだけさ。たったこれだけ。家も親類も仲間もありやしない。皆、どうしてるもんか」 「知らねえよ」 「そうともさ」 視界が滲み、眼前の少年が瞼の裏のリエと重なる。チャンは孤独だった。金も力も縁故もない。あの頃とさして変わってはいないのだ。変わったことと言えば、仲間を失ったことくらいだった。 「昨日、この近くで行き倒れが出ての。今月に入って三件目。来月はもっと増えるだろうて」 咳に痰を絡ませ、背中を丸めて二の腕をさする。川風は冷凍室の冷気に似ている。鎧のように身を硬くしても、徐々に体温が奪われていく。巨人のようなネオンの塔は対岸からこちらを見下ろすばかりだ。オフィスビルの喧騒も歓楽街の嬌声も二人の元には届かない。 「な? 何十年も経って、浮浪児が浮浪者になっただけさ。いったん落ちちまえばもううまくはいかん。行く先なんぞたかが知れとる。……あいつはどこでどうしとるのやら」 川面の煌めきはアメーバのようだ。妖しく、時に艶かしく形を変えながら見る者の目を惑わせる。揺れ、溶け、在りし日の光景へと変じていく。 「はは。お似合いじゃねえか」 継ぎ接ぎの船が転覆したあの時、水中に投げ出されたリエは皮肉っぽく笑うばかりだった。ネオンを弾く水の中でけばけばしい輝きの破片に囲まれ、ご機嫌だった。 「知ってるか、チャン。この川の先に何があるか」 「相手のシマだろ」 「そういう意味じゃねえよ。川を下った、その向こうさ」 チャンにはリエの言うことが分からなかった。 「川の先には海がある。そのまた先には別の国があるんだぜ」 「へええ?」 チャンは目を白黒させた。その日暮らしの浮浪児にとって、外つ国の存在など夢物語に均しい。 「知らねえのか、バーカ」 「俺らには関係ねえよ!」 チャンはぶきっちょな立ち泳ぎでリエに近付き、ヘッドロックを仕掛けた。リエはチャンの髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。 さああああ……。 凍みるような川風が吹き渡る。水面が乱れ、震え、思い出が吹き散らされていく。 「ああ……済まんな、少年。老いぼれの昔話に付き合わ――」 夢から戻ったように瞬きをしたチャン老人は言葉を失った。 どうして気付かなかったのだろう。少年の胸元で何かが光っている。 「それは」 声が震える。見覚えのあるシルエットからどうしても目を離せない。 「お前は……まさか、そんな」 「これか?」 リエによく似た少年は首のペンダントを引き上げた。陰陽一対の、勾玉だった。 「お袋の形見だ」 かつてのリエと同じ顔、同じ台詞で少年は笑いかけた。 「ちょっと見ねえ間に随分と老け込んじまって。オレと別世界の人間みたいじゃねえかよ。なあ……」 言葉を失うチャンの白髪を少年はぐしゃぐしゃと掻き回した。しなやかな、少女めいてすらいる滑らかな手で。大河に投げ出された時と同じように。 「お前……本当に、リ――」 轟音のような汽笛が二人の間に割り込んだ。 ネオンで煌めく川面を大きな客船が滑っていく。河口へと下るのだ。船窓から照射される明かりを受け、少年は唇の端を吊り上げた。 「間違っちまった。オレの船はあっちだ」 呆然とするチャンの前で少年はひらりと身を翻す。彼の肩に狐がちょこんと顔を出した。かすかに鈴が鳴った気がする。 「もう行かねえと。――時間ってのは残酷だな、チャン」 その言葉を最後に、少年は逆光の中心へと飛び移った。 眩い船が光の川を下っていく。 少年がいずこを目指すのかチャンには分からない。ただ、遠ざかる船影を見送るばかりだった。 ◇ ◇ ◇ その後、河口付近で沈んだ船が発見された。中には老人の死体が横たわっていた。老朽化した船で河口に漕ぎ出したものの、転覆して死亡。平凡な事故死として処理された。 彼は孤独で、身寄りもなかった。チャンという名を知る者すらいない。他の浮浪者とひとからげで共同墓地に埋められ、それで終いだった。 「お似合い、か」 リエ・フーは名も無き墓碑の前に立っていた。 「お互い様さ。川の向こうはどうだったよ?」 口づけた野薔薇を手向け、風のように踵を返す。 凍てついたチャンの遺体は穏やかに微笑んでいたそうだ。 (了)
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