陽が落ちて、灯が点る。文字通り赤々とした灯だった。赤くほの暗い闇は人の心を高揚させる。一種のさざなみに似た、心を甘く逆撫でする感覚とでもいうべきだろうか。丁寧にくるまれた劣情が顔を引き攣らせ、指先を落ち着かなくさせるのだ。 だが、リエ・フーを指名した男はやけに枯れていた。 「添い寝だけでいい」 みすぼらしい身なりの男は短く乞うた。リエはひょいと眉を持ち上げた。せいぜい三十前といったところなのに、この老人のような声は何事か。 「それ用のやり方も色々とあるけど。訳ありの客なんざ珍しくもねえ」 リエは男の下肢を一瞥した。ズボンに包まれた二本の脚のうち、左側のシルエットはマネキンのように硬直している。しかし男は静かにかぶりを振るばかりだ。リエは小さく肩を揺すった。 「かしこまりました。湯は?」 「いい。休む」 「料金は同じだぜ」 男の体からは浮浪者と同じ臭気が立ち上っていた。 湯を浴びて夜着を纏った男は多少人間らしく見えた。しかし枯れた印象は変わらない。垢とは違う、風呂でも落とせぬ疲弊と憔悴が彼を包み込んでいるようであった。 「じゃ、どうぞ」 手を取り、刹那の夜へといざなう。 寝台が軋む。ナイトテーブルが揺れ、花瓶の花がかすかに震える。 「本当に添い寝だけでいい」 胸板を撫でるリエの手を男は押しとどめた。節くれだって硬化した彼の手はリエの滑らかな手をそっと握るだけだ。リエは彼の胸板に頬を押し当て、夜着からはみ出すマネキンじみた義足を眺めた。失われた左脚と残った右脚の間の膨らみは沈黙したままである。枯れた“機能”の前では、リエが纏う麝香も匂い立つような柔肌も意味をなさなかった。 「失ったのさ。色々な物を」 男は低く笑った。武骨な指が、見かけとは裏腹の穏やかさでリエの癖毛を梳きほぐしていく。赤い薄闇の中、リエはけだるげに頭をもたげた。 「珍しくもねえ話だ」 「だろうな。よくあることだよ」 自分は軍人だと男は名乗った。正確には、軍人だったとも。戦場で足を失って厄介払いされたのだという。 リエは男娼でここは娼館である。サービスを提供する側も受ける側も訳ありの人間だらけだ。しかし男娼も娼婦も客の懐に立ち入ることはしない。それでも客の多くが心を吐露して眠りに就く。一夜限りの気楽な相手に、重い荷物を一方的に下ろすのだ。この傷痍軍人も似たようなものなのだった。 「元から大した物は持っていなかった。生家は貧しい農家。金も地位もコネも学もありゃしない、あるのは親の借金だけ。先なんざ知れてる。軍ならこの腕だけで成り上がれると――」 軍人は軽く咳込んだ。老人のような、やたら湿っぽい空咳だ。咳が去った後の男の目は充血し、奇妙に潤んでいた。熱っぽい、どこかを浮遊しているような眼差しだった。 「これでもいくつか勲章を貰った」 喘鳴と共に言葉が継がれる。何年にどこそこでこんな功績を上げた。何番目の戦線で誰それと一緒に何をした……。極めて内輪の、本人にしか意味をなさない類の話。リエは下手糞な愛撫に喘いでみせる時と同じように丁寧に相槌を打ちながら聞いた。身の上話を聞くだけで金になるなら楽な仕事だ。 「その挙句がこのざまさ。一瞬だった。地雷を踏んで、熱を感じて、気が付いた時には左足がなくなってたってわけだ」 「ああ」 リエは何も訊かなかった。 「何もないんだ。行くあても。帰る場所も」 リエの頬に、涙のようにぽたぽたと言葉が落ちてくる。リエは黙ったまま思案した。客の重荷に興味はないが、尋ねた方が良いだろうか。 「生まれた家には帰れねえのか?」 話したがっている相手には水を向けてやるのがいい。そうすれば勝手に喋って満足してくれる。 いらえはない。沈黙が降りてくる。ナイトテーブルの花だけが溜息に似て震えた。 「今更戻れない」 簡潔で乾いた、嘆息じみた答えだった。 「捨てた家に戻ってどうする。うんざりしておん出て来たのに」 「へえ」 「長男なんだよ。跡継ぎってやつだ。借金まみれの家を背負うなんて、反発したくもなるだろう?」 「ああ」 ありがちな話だと思った。 「その挙句がこのざまさ。……済まんが、ちょっとどいてくれないか」 リエは言われた通りに半身を起こした。すると軍人はリエに背中を向け、体を丸めて咳込み始めた。リエは事務的な、仕事用の親愛を込めた手つきで背中をさすってやった。元軍人とは思えぬ、弛んでつやのない背筋がびくびくと痙攣を続けた。 「弟が、いたんだ」 喘ぐように軍人は呻いた。背中が、また震える。 「両親が中年になってから思いがけずできた子で……歳を取ってから生まれた子ってのはどうしてあんなに可愛がられるんだろうな。年の離れたきょうだいってのはどうしてあんなに可愛いんだろうな?」 咳込むような物言いだ。きしきしと寝台が鳴る。軍人の義足が軋んだのかも知れない。 「両親は畑仕事で、俺は子守りさ。よくこうして添い寝してやったっけ。寝付きの悪い奴で、手を焼かされたよ」 「弟はどうしてる」 「俺が家を出た時、弟はまだ三歳かそこらだった。俺のことなぞ覚えちゃいないさ。だが……生きていればちょうどお前と同じくらいだろうよ」 背中を向けたまま軍人は呟いた。リエは眼前の背中を撫で続けた。 「会いてえか? 弟に」 花瓶の花がわずかに静寂を揺らす。 軍人は、細く長く息を吐き出しながらかぶりを振った。 「こんなザマを見せられない」 それっきり軍人は口を閉ざし、死んだように静かに眠っていった。リエはくたびれた背中に寄り添ってまどろんだ。この男の弟もこうしていたのだろうかとふと思う。ならば、添い寝されていたのは弟ではなく兄の方ではなかったのか――。 清冽な朝日が夜の混濁を追い立て始めた頃、リエは冷たさで目を覚ました。軍人はリエに背を向けたまま、胎児のように体を丸めて死んでいた。 花瓶の花が、二人の上にほたりと落ちる。花弁は夜を徹した女のようにしなびていた。リエはそっと軍人の肩に手をかけ、顔を改めた。半開きの瞼を閉じ、乱れた夜着を事務的に整えてやる。リエの手際はすこぶる良かった。娼館では時々あることなのだ。 「おやすみ」 仕上げに、親愛を込めて唇に接吻した。初めから終わりまで楽な仕事だった。 しかし、リエはほんの少し残業せねばならなかった。 死体をいつまでも置いておくわけにはいかない。かといって娼館のこと、官憲に知らせれば面倒な疑いをかけられぬとも限らぬ。リエは娼館の責任者の立ち会いの下に軍人の所持品を改めた。幸いにも身分証があり、すぐに生家が判明した。 しかし遺族は遺体の引き取りを拒んだ。家を捨てた長男を家の墓に入れるわけにはいかないというのが理由だ。生家との書簡が往復する間にも遺体はどんどん傷んでいく。仕方なく、娼館が密やかに埋葬した。娼館ではこんなことが時々あるので、そのための伝手もないわけではない。こうしてリエはあっという間に日常へ戻って行った。 「申し訳ありません。こういった場所にお客様のような方は……」 「どうしても用があるんだ」 「しかしですね」 押し問答が娼館に響いたのはふた月ほど後になってからだった。 リエはちょうど待機時間で、体が空いていた。声変わりすら迎えていない甲高い声に興味を覚えて様子を見に行った。リエと同じ年頃の少年が、玄関前でいきり立っている。 「先々月、ここで軍人が死んだだろ。そいつは俺の……」 みすぼらしい身なりの少年は苦しそうに顔を歪ませた。 「……俺の、兄貴なんだ。顔も覚えてないけど」 呻くように押し出された言葉にリエはひょいと眉を持ち上げた。 「じゃあ、あいつが言ってた弟ってのは」 「悪いか」 少年はきっとリエを睨めつける。思春期特有の、全てに抗って斬りつけずにはいられない眼差しだ。家を出た時のあの軍人もこんな目をしていたのだろうか。 「今更何の用だ。死体ならもう墓の下だぜ」 淡々と事実を告げると、刹那、少年の目が揺れた。何かを見失って惑う子供のように。だが、わがままで幼い子供はすぐに別の不満をぶちまけた。 「なんで勝手にそんなことしやがった!」 「お宅の父ちゃん母ちゃんには知らせたがね。何べん頼んでも引き取りたくねえって言われたからうちで処理するしかなかった。オレが知ってるのはこれで全部」 「そんな……なんで……」 「そっちの事情は知らねえよ。訊きたきゃおうちに帰って訊きな」 リエは不遜に唇を歪め上げ、少年は黙り込むほかなかった。 軍人の遺品だけは保管されており、リエはそれを少年に渡した。といっても着衣と義足と身分証だけだ。家族の写真などは一切出てこなかった。 「これだけか」 少年は独りごちるように訝しがる。リエは肯定の代わりに肩をすくめるばかりだ。 「馬鹿な兄貴だ。こんな所で野垂れ死ぬなんて。いっぺんくらいぶん殴ってやりたかったのに」 棒きれのような義足を握り締め、少年は俯いた。声も肩も震えていた。 「いいや、お似合いだ。ざまあ見ろだ。罰が当たったんだ。あいつが出奔したせいで、お、俺たちがどれだけ苦労したか!」 咳込むような物言いだ。 「何が“決められた人生は嫌”だ。何が“自分の意志を貫きたい”だ。我を張るのとどう違うんだよ。家族の人生ぶっ壊したくせによ! したいことだけしてくたばったんならさぞ幸せだろうな! はは、羨ましいよ。ざまあねえ。ざまあ見ろ。はは……大馬鹿クソ兄貴」 澱を一気に吐き出し、少年は俯いたまま言葉を切った。沈黙が降りてくる。荒い息使いだけが響いている。 「傑作だな。確かに兄弟だ」 揶揄するようにリエは言った。おもてを振り上げた少年は再びリエを睨みつける。兄の義足を握り締める手が白く固まって震えている。リエは他人事のように鼻を鳴らした。事実、他人事以外の何ものでもない。 「兄弟揃ってとびきりの馬鹿。は。愉快なもん見せてもらったぜ」 リエの視線の先、くたびれた義足に、雄弁な涙が滴っていた。 娼館の日常は今日も流れる。一晩の相手。通り過ぎる快楽。お気に入りを指名して夜を重ねても、それは人生という母屋から隔てられた離れにすぎない。 そこを賢しく指摘するのは野暮だし、作法にも反する。売り手も買い手もすべて承知で夜を過ごす。母屋では撒き散らせぬ泥を吐き出した客は身軽になって帰っていく。リエが対価と一緒に受け取る荷物は少なくも軽くもないが、それらは夜が終われば吐息ひとつで吹き飛ばすべき物なのだ。 「わりいな。アンタとはこれで最後だ」 共同墓地に花を供え、リエは風に髪を嬲らせた。目の前には名も無き墓碑が無言で佇んでいる。そういえばリエはあの軍人の名前を知らない。知る必要もない。 「随分サービスしたつもりだぜ。延長料金はまけといてやらあ。後は勝手にやりな」 後には花だけが残された。瑞々しい花弁はすぐに枯れ、風に吹き散らされてしまうだろう。花を手向ける者が他にいるのか、それが誰なのか、リエには関わりのないことであった。 (了)
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