青い三日月が物憂げに揺れ、雫が滴り落ちてくる。氷のように冷たい粒はティリクティアの頬を濡らした。実際、氷であったのだろうか。ティリクティアの体温で溶けただけなのかも知れない。 寒い、寒い夜だった。草木は凍てついたように沈黙し、ティリクティアの足音ばかりが静寂を打つ。かりん、かりん。かりん、かりん。土もすっかり凍りついている。 (何してるの) 濃紺の天球に少女の声が響く。 (どこに行くの) ゆらゆらとした声はやがて歌へと変わった。 (小鳥が泳いでお魚飛ぶよ) 「何?」 ティリクティアはさっとこうべを巡らせる。 (お空は白で雲は青) 「誰かいるの?」 (知りたいんならこっちにおいで) 声が笑い、ティリクティアは導かれるように走り出した。 (モグラが鷲と並んだら) (蜂の畑にお花が飛んで) (あめあめふれふれ、クラゲが咲くよ) (水溜まりには欅の扉。扉の先には――) ふつりと声が途切れ、ティリクティアははたと足を止めた。細い空。細い道。いつの間にか路地に入り込んでいる。両側には高い塀が聳え、巨人のようにティリクティアを見下ろしていた。 圧迫感すら覚えて夜空を仰ぐ。蒼白な三日月が中天でゆらゆらとしている。背後を振り返ると細長い暗闇が伸びていた。次いで前を向く。やはり縦長の暗闇が横たわっている。 「行っても戻ってもおんなじね」 前に進むことを選んだ。 かりん。氷の粒が落ちてくる。頬の上で溶けたそれを拭い去り、ティリクティアは小走りに駆けた。息が苦しい。両側から壁が迫り、道がどんどん狭められていく。暗くて、密で、押し潰されそうになる。 (柱はピンク、壁はオレンジ) 幼い声が歌っている。ティリクティアは息を弾ませて走る。 (シューティングスターが昇ったら) (ミミズクの首がぐるりんぱ) (首はぼちゃんと池の中) (池の底には――) とうとう視界が開けた。 「……は」 ティリクティアは我に返ったように息を継いだ。目の前には倉が聳えている。入り口を押し開けると暗闇が這い出してきた。火照った頬を湿気が舐めていく。 「誰かいないの」 次第に目が慣れてくる。ひんやりと沈黙する石の壁。遥か頭上の、採光用の窓。 「ここどこ? ねえ」 苛立った問いかけに応えるようにはらりと紙が舞い降りた。クレヨンで絵が描かれている。魚のように池を泳ぐ鳥。鳥のように空を飛ぶ魚。白い空に青い雲。 (モグラが鷲と並んだら) (蜂の畑にお花が飛んで) 幼い声が不条理を歌う。 (あめあめふれふれ、クラゲが咲くよ) 「誰かいるの?」 ティリクティアはやみくもに歩き回る。いらえはない。 (水溜まりには欅の扉。扉の先には――) 「誰なの!」 カッとなって叫んだ時、 ごろごろ、どたん。ベッドから落ちて目が覚めた。 「ティリクティア様、ティリクティア様」 庭師が裏声で女官を真似る。 「あらまあ大変、打ち身を作って。さあさあお手当てしましょうね」 「や・め・て」 ティリクティアはぶーっと頬を膨らませた。床にぶつけたお尻が痛むのである。庭師はジョウロを操り、見透かしたように笑った。 「寝ている時までおてんばとはね。怖い夢でも見たのかい?」 「別に……ただの夢よ」 「案外予知夢だったりして」 ティリクティアは答えず、考え込んだ。未来予知の力が夢に介入しないとは言い切れまい。 中庭には相変わらず花が咲き乱れている。つまらない……もとい、無彩の神殿の中で唯一色彩に溢れた場所だ。風が舞い込むたび花の香が立ち上る。瑞々しい葉がさらさらと揺れ、ティリクティアの髪を解きほぐしていく。 「予知夢って、未来のことでしょ」 ティリクティアはようやく口を開いた。 「夢の中を歩いてたのは今の私だったと思う」 「登場人物は君だけ?」 「どう……かしら」 ティリクティアは再び考え込んだ。 「もう一人いたわ。姿は見えなくて……歌声だけ聞こえて。歌を追いかけてたら暗い倉に着いたの」 「興味深いね」 庭師はうそぶき、くるりとジョウロを回した。 「王太子に話してみたらどうだい。君の就任式に来るんだろう?」 「嫌」 ティリクティアの唇がひん曲がった。 「そもそも式典だって出る気ないわ」 「堅苦しいから? 人と会うのはいいことだよ。視界が広がる」 庭師のジョウロから虹が生み出されては消えていく。ティリクティアは「そうだとしても」と噛みついた。 「初対面で夢の話なんて。歌、とってもおかしかったのよ。空と雲の色が逆だったり、鳥と魚が取り違えられてたり」 「いいね。ファンタジックだ」 「そうかしら。子供の落書きって感じで――」 はたと口をつぐむ。庭師がゆっくりと振り返った。 「どうしたんだい」 見えぬ目がひたとティリクティアを見つめている。ティリクティアはつい俯き、やがて目を揺らしながら顔を上げた。雲の影を受け、勝気な瞳が金と琥珀の間を移ろう。 「私――」 花園の中央で固い蕾が立ち竦んでいる。 「知ってるかも。歌も絵も」 予期せぬ仕事を命じられ、女官たちは大わらわだ。 倉から運び出された箱がティリクティアの前に積み上げられていく。幼少時の服。教導の初等の書。それに、昔描いた絵。 「おなつかしゅうございますね」 最年長の女官が目を細めた。 「ティリクティア様はお絵描きがお好きでした」 「そ、そう?」 口許がむず痒くなって、ティリクティアはぶきっちょに笑うしかなかった。 女官たちを退出させ、ひとり箱を開ける。途端に耳たぶが熱くなった。出るわ出るわ、幼い絵の数々。添えられた文字もへたっぴで、暗号めいている。早くから巫女姫と定められていたとはいえ、ティリクティアにだって幼少時代があったのだ。 「……変なの」 一枚一枚取り出し、床に並べる。自分のルーツを整頓するかのように。 描かれている物は様々だった。庭園の花、神殿の柱。どれもこれもが極彩色だ。花などは金や銀だし、モノクロの神殿はピンクやオレンジで彩られている。白い筈のベッドは花柄で、空の色は赤や紫。雲も黄色や青だ。無秩序な色彩の競演で目がちかちかする。 (ティリクティア様。神殿はピンクではありませんよ) (ピンクの方が綺麗だもん) (神殿は白でございます。それに鳥は泳ぎませんし、お魚は水中にいるものです) 紙の上に広がるのは想像の世界。両親から離され、閉ざされた部屋で教練を受けていたティリクティアはひとり空想を羽ばたかせていた。 そして今宵も夢を見る。 月が震えて涙をこぼした。相変わらずの氷の粒だ。氷はティリクティアの頬で溶け、顎へと伝い落ちていく。 (お空は白で雲は青) (モグラが鷲と並んだら) 歌の続きを求めるように路地に入り込む。ただでさえ細い道がまた狭まっていく。息が苦しい。みっちりしたトンネルを通り抜けているかのよう。 (蜂の畑にお花が飛んで) 「……は」 路地をくぐり抜け、息を継ぐ。石作りの、冷たい暗闇。小さな窓の向こうで月が震えている。 (あめあめふれふれ、クラゲが咲くよ) かりん。かりん。かりん。月が次々と氷の粒を落とす。粒はたちまち豪雨へと変わった。水が溜まり、ティリクティアの体を呑み込んでいく。次の瞬間、床が抜けた。足元に城下町が広がる。町並のあちこちで雨傘がクラゲのように揺れている。息ができない。しかし不思議と苦しさはなかった。それに、この水はどうしてこんなに温かいのだろう。 ゆったりと水を掻く。泳いでいるのか、飛んでいるのか。 (水溜まりには欅の扉。扉の先には――) 水底に重厚な扉が見えた。 (開けてみて) 扉に手をかける。 白い部屋に白い調度品。白い画用紙の上にはカラフルなクレヨン。 「ティリクティア様。神殿はピンクではありませんよ」 クレヨンを握り締めた幼女を女官が諭している。白いお仕着せにくるまれた幼女はぶーっと頬を膨らませた。 「ピンクの方が綺麗だもん」 「神殿は白でございます。それに鳥は泳ぎませんし、お魚は水中にいるものです」 「こっちのほうが楽しいもん」 呼び出しベルが鳴り響く。女官は幼女に向かって膝を曲げ、あたふたと退出していった。 後には幼女ひとりだ。 「蜂の畑にお花が飛んで」 クレヨンが紙の上を迷走する。 「あめあめふれふれ、クラゲが咲くよ」 ぼきりと、小さな手がクレヨンをへし折った。幼女は泣いていた。だだっ広くて不自由もない、けれど自分の求めるものがない部屋の中で泣きじゃくっていた。 「神殿はピンク……ピンクがいい……」 部屋の中にざあざあと雨が降る。幼女の涙が瞬く間に池と化していく。 「ちょっと」 ティリクティアはとうとう幼女の前に降り立った。 「めそめそしたってどうにもなんないのよ」 どういうわけかひどく苛立っていた。 「空想って私も好き。でも空想は空想なの。空は青で雲は白なの、神殿だってつまらな……真っ白なの。分かる?」 「違う……違うもん……」 「違わないわ」 乱暴に幼女の肩を掴み上げる。 「よく見てごらんなさい」 「嫌。嫌。こんな所、嫌」 幼女は泣き止まない。塩辛い水はティリクティアの顎の下までせり上がっている。 「今の私たちはここにいるのよ。ここでどうにかするしかないのよ。どうして分からないの。ねえ!」 頭が沈み、体が浮き上がる。ティリクティアは懸命に水中でもがき続ける。 池の底に扉が見えた。 迷わず手を伸ばす。 どたん、ごろごろ。ティリクティアはお尻をぶつけて転がった。 「いったーい……」 石の壁。石の天井。小さな窓から青い月の姿が見える。暗くて四角くて深い倉の底だった。 「誰かいないの」 発した声はエコーだけを伴って返ってくる。ティリクティアはぶるりと震えた。寒い。暗がりの中にひとりきりだ。今に始まったことではない。庭師や養育係は良くしてくれるが、巫女姫候補はいつだって特別扱いだ。 巫女姫という高みの隣には誰が座ってくれるのだろう。 かりん。かりん。かりん。涙が転がり、凍てついていく。 「あれ」 手の甲で横殴りに頬を拭う。泣いてもどうにもならない。しかしティリクティアはまだ少女だった。目一杯気を張って攻撃的にならなければ立っていられぬほど小さかった。 「寒い」 肩を抱いて震える。暗い。怖い。 「誰か……」 ざあざあと涙がこぼれ、雨と化す。雨はたちまち池を作る。人肌の水がせり上がり、ティリクティアを呑み込んでいく。ティリクティアは懸命にあがいた。耳元で水がごうごうと渦を巻き、体ごと押し流されそうになる。 水底で扉が揺らめいている。手を伸ばす。扉が開く。水圧が押し寄せ、ティリクティアの体は錐揉みしながら飛び出していく。 (おいで) 見たことのない腕に引き上げられ―― 暗がりが止んだ。 「痛い」 光溢れる花園でティリクティアがむくれている。 「またお尻を打ったのかい」 庭師はいつものように水やりをしていた。 風が囁き、花が揺れる。ティリクティアの足元ではクリーム色のひなたがとろけている。 「また夢を見たの」 「どんな?」 庭師のジョウロが刹那の虹を作り出す。 「この前みたいな感じ。歌と絵と。それに……やっぱり予知夢だったのかも知れない。知らない人の腕が――」 「ティリクティア様、ティリクティア様」 女官の声が近付き、ティリクティアはしかめっ面で立ち上がった。 「もう行くわ」 「ああ。そろそろ式典の予行演習だね」 庭師は見透かしたように笑う。 「出席するのかい」 「一応ね」 ティリクティアはさらりと踵を返す。白金の髪を静かに見送り、庭師は花園の中央へ歩み寄った。 「さて、誰が出てきたんだか」 背の高い花をそっと撫でる。てっぺんで沈黙する蕾はうららかに染め上げられていた。 (了)
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