ターミナルが、聖夜の祝祭に沸いている頃―― その事件は起こった。 いつぞやのアリッサの発案が思いのほか住人に好評だったこともあり、壱番世界でクリスマスと呼ばれる日の前後も、ターミナルには『夜』がもたらされていた。 気温も低めに設定され、冬の夜と呼んでさしつかえない状態のターミナルだ。 リリイ・ハムレットは、街灯だけに照らされた画廊街を、ひとりで歩いていた。 帰宅がすっかり遅くなってしまったのにはわけがある。 それは、ひょんなことから降って湧いた、「お茶会の主催」という役目のせいだった。 † † †「お茶会を主催せよ、と。この私が。……レディ・カリスがそうご所望なのね」 リベルから話を聞いたリリイは、不思議と落ち着いた様子で言ったのだった。「それも、先日のファッションショーで使ったあの劇場を会場にしたいと」 リベルは申し訳なさそうであった。 アリッサが、レディ・カリスのプライベートビーチであるチェンバーを無断で開放したことがもとで、『お茶会への招待』とは名ばかりの詰問の場に呼び出されたのが先日のこと。 なんとか場を収めるために動いたのがリベルであったが、それがなぜかこんなことになろうとは。(その劇場の小ホールを使って、リリイが趣向を凝らしてくれるのなら、出向くのも悪くないかもしれないわね) 世界図書館でも上位に属するとされる謎めいた貴婦人は、アリッサを連れ戻しに赴いたロストナンバーが、「お詫びの意味でレディ・カリスを歓待するお茶会を開きたい」と申し出たのに対してそう言ったのだという。「あの方らしいわ」 リリイはくすりと微笑った。「……レディ・カリスのことをよくご存知なのですか」「ええ、何度もお仕立てしたことがありますもの。というよりも、私が店を持てたのだって、レディ・カリスのお召し物をお仕立てする光栄にあずかれたからだわ。……引き受けましょう。あとのことは私に任せて」 リリイはそう言ってくれたものの、リベルは不安であった。 なんでもブランに聞いたところでは、レディ・カリスはことのほか風雅を好み、ほんの些細なことでも彼女が野暮だと感じるところがあれば、氷のように辛辣になるという。 その点、リリイの考える演出なら問題なかろうが……なにか胸騒ぎのようなものを、リベルは感じていたのだった。 その予感は、思いもよらぬ形で現実のものとなる――。 † † †「……あら」 ふと、彼女は足を止める。 帰宅が遅れたので、きっと愛猫オセロが腹を空かせていることだろうと、足早に帰途を急いでいたリリイだ。それは彼女の店舗兼住居たる『ジ・グローブ』まで、あと数ブロック、というところ。 そこで彼女は、街灯の中に、うずくまる人の姿を見たのである。 コート姿の、男性のようだ。こちらに背を向けているので、年格好などはわからないが、その人物は建物の壁にすがろうとしてそのまま膝から崩れたといった様子で舗道に屈み、肩を震わせているようだった。「……どこか具合でも?」 おそらく酔漢ではないだろうか。 リリイは近寄り、声をかけた。 そのときだった。リリイの翠の瞳が、なにかに気づいてはっと見開かれたのは。 形のよい唇が、驚きに開かれ、彼女は息を呑んだ。 次の、刹那! 低い唸り声と――鋭い悲鳴。石畳に、数滴の血が落ちる。 リリイは腰からへたりこんだ。冷たい石の舗道の感触。さらなる攻撃を予測して身をすくませたが、靴音は走り去っていくようだった。「ま、待って!」 思わず、リリイは叫んでいた。 街灯が照らし出したその人物が、一瞬だけ、振り向いた、その顔は……「狼だった、そうだよ」 世界司書モリーオ・ノルドは言った。 それは『人狼』だった、と……リリイは証言したのだという。 ツーリストならそのような容姿は珍しくないだろうが……問題は、その『人狼』がリリイに怪我をさせたということだった。それが何者であるにせよ、ターミナルの住人にとって危険な存在ならばしかるべき対処がとられる必要がある。「『導きの書』には何の予言も出ていない。ターミナルで犯罪が起きるなんてあまりないことだし、なぜ予言が出ないのかわからないけど……まあ、それはいい。とにかく、今すぐ画廊街に行ってくれないかな。リリイさんからもっと詳しい事情を聞けると思う。それで、この事件について調べてみてほしいんだ。さいわい、彼女の怪我は大したことはない。爪がかすっただけみたいだ。ただ、今日は午後から大事な用があるから、午前中のうちに来てほしいそうだよ」 かくして、モリーオの依頼を受けたロストナンバーが、『ジ・グローブ』を訪ねることになった。 † † †「いない? どういうことですか」「いや、だから……昨夜の事件のことを聞こうと店に行っても誰もいなかったって。リリイさんに連絡がつかないようなんだ」「そんな」 リベルは時間を確かめた。 時の流れぬ0世界だが、壱番世界のグリニッジ標準時にのっとって時刻は定められている。「……レディ・カリスをお迎えしなくてはならないのに」「え? レディ……、誰?」 モリーオはレディ・カリスのことを知らないようだった。 そして、件のお茶会をめぐる事情についても。「……私は劇場に行きます。モリーオさんは、できるだけ早くリリイさんを見つけてください」「それはそのつもりだけど……」 司書事務室の柱時計が時を打つ。その音が、いつになく大きく響いたような気がして、リベルとモリーオははっとした表情を浮かべた。 それはまるで――なにかの到来を告げる、不吉な宣告のようでもあった。!注意!このシナリオは、神無月まりばなWRのシナリオ『A Mad Tea-Party Vol. 2 ―7人劇場―』と同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる両シナリオへの同時参加(抽選エントリー含む)はご遠慮下さい。(※システムの都合上、抽選エントリーを取り消せませんので、複数エントリーされた場合、抽選後にご当選されていても、参加取消をさせていただくという形をとらせていただきます。ご了承下さい)<事務局より>このシナリオは、システム上の障害により、オープニング公開時点の予告よりも、1枠、参加者数の少ない状態で運営することとなりました。大変申し訳ございませんが、ご了承下さい。
1 気づけば、少女の黒い瞳にじっと見つめられていた。 「念のために言っとくが――」 オルグ・ラルヴァローグは、ともに司書の話を聞いていた彼女に向けて口を開いた。 「俺は見た目狼男だけど、リリイが言ってたヤツとは別だからな」 ふっ、と少女は口元をほころばせた。 「ええ。ご挨拶がまだでした? 私、志野菫。よろしく……お願いします」 「俺はオルグ・ラルヴァローグだ」 金毛の狼男は応えた。 ちょうどトラムがやってきたので、かれらともうひとり――ファルファレロ・ロッソが乗り込む。 すでに「夜」はとうに明け、ターミナルの空はいつもの退屈な青空に変わっていた。 その下を、ガタゴトとトラムは進む。時間の止まった街は、のんびりとした平和な雰囲気で、この街並みのどこかにリリイを襲った人狼のような存在がいるとも思われない。 標準時刻でいえば、まだ午前中だった。そのせいか、ファルファレロは眠そうで、トラムの座席にどっかりと腰をおろすなり、隠そうともせずに大きなあくびをした。 「リリイさんは午後からご用があって、この時間なんですね」 菫は今しがた司書が言ったことを話題に上らせた。 「ああ、なんでも図書館のエライさんを招いてのお茶会があるらしいな」 オルグが妹のように目をかけているコンダクターの少女が、その会に出席する予定だった。オルグがそのお茶会に至る経緯を――彼が聞きかじった範囲でだが――話してやっているうちに、トラムは画廊街へと到着する。 「やれやれ」 伸びをしながら、ファルファレロが再び大あくび。 トラムの扉が開くや、画廊街の石畳に飛び降りた。 「とっとと終わらせちまおうぜ」 「リリイさんのお店は……」 「あそこだな」 看板はひっそりと、目立たないものだったが、彼女の店はターミナルではよく知られている。 3人がその扉を開けると、ドアベルがちりりと音をたてた。 さっ、と動くものがあった。 白黒の模様の猫が、店頭の丸テーブルの上に飛び乗ってきたのである。 「にゃあう」 「オセロ、ちょいとお邪魔するぜ」 オルグが猫に話しかけた。 うす暗い店の中で猫の目はまるく、訪問者をじっと見つめていた。 訪問の約束はしてあったはずだ。しかし、リリイ・ハムレットは、幾度呼び鈴を鳴らしても姿を見せず、家の中に人の気配はないのだった――。 トラベラーズノートで事の次第が司書に伝わる。 「……」 戻ってきた返事を読んで、菫が顔をあげた。 「リリイさんを探してほしいって。できればお茶会の時間までに」 「何時からだった?」 オルグは店の時計を見た。 まだ時間はあるが、彼女が何処に行ったのかわからないのでは……。 「……約束をすっぽかすリリイじゃねぇだろ。それに午後は大事な用がある。……あー、なんか胸騒ぎがするな……」 「家のほう……上がらせてもらってもいいかしら」 菫が言った。 ここは店舗兼、リリイの私宅でもある。菫はカウンターの裏側に回りこんだ。生地の端切れが分類され、収められている小箱の並んだ棚――伝票を綴じた帳簿、針山、メジャー。 「書置きか何か……はねぇみたいだな」 と、オルグ。 菫はそおっと扉を開けた。 整頓されたリビングの、趣味のよい家具類だけが無言であるじを待っている。 そのときだ。 赤ん坊の夜泣きのような猫の声――悲鳴というべきか――がして、菫とオルグを驚かせた。 「こら、大人しくしねぇか、このバカ猫。お前を可愛がってたご主人様のあと匂い嗅いで辿るくらいはしてみろ」 ファルファレロの腕の中でオセロが暴れていた。 「!」 ついに、その手を引っ掻いて、白黒の猫はするりと彼の腕をすりぬけ、サッと物陰に逃げこんでしまうのだった。 「ンだよ」 ファルファレロが悪態をつく。掻かれたところに血がにじんでいた。 「嫌われたな」 オルグが微笑った。 癒しの白炎で治してやろうかと手を差し伸べようとしたとき、 「待って」 菫が口を開いた。 「血――。リリイさんも、怪我をしたと聞いたわ。ラルヴァローグさん、血の匂いで彼女の行方がわからないですか」 「俺もそのつもりだ。ごくかすかだが、どうにかなるだろう」 すん、と鼻を鳴らす。 「狼男は鼻が利く、か」 とファルファレロ。 「それはリリイが会ったヤツも一緒かね」 剣呑な笑みに頬を緩める。オルグと菫が顔を見合わせた。だとしたら、その人狼がこの店を探りあてた可能性もあるわけだ。 菫はリリイのリビングをもう一度、注意深く見渡した。 「ここでなにかあった形跡はなさそうね。……屑籠に、包帯を変えた跡。やっぱりリリイさんは自分の意志で出かけたのだと思う」 2 「この先は……リリイが人狼に会ったっていう場所じゃないのか」 3人は、オルグの先導でリリイの足跡をたどった。 彼の鋭敏な嗅覚は、リリイの血の匂いを嗅ぎ分け、いくぶん古く濃厚なそれと、新しいがごくわずかなそれとをも区別する。つまり、昨晩、怪我をして戻ったリリイと、今朝再びその場所へ向かったリリイの足跡が彼には見えていたといってもよい。 「仕立屋リリイ」……ターミナルきってのファッションデザイナーとして知られるロストメモリーの美女。 先だっての華やかなファッションショーで知られているが、どこかしら謎めいた陰のようなもつ女性でもあるように思われた。 「リリイを見なかったかい」 オルグは店を開けていた画廊街の住人に話しかけた。 その背中を見つつ、菫はぽつりと言った。 「お茶会の約束があるのに、リリイさんはなぜ出かけたのだと思います?」 「……」 眼鏡の奥のファルファレロの夜色の瞳。お嬢ちゃんの仮説を先に聞こう、と促したようだった。 「可能性としては――お茶会よりも重大な用があった。あるいは、お茶会や私たちの訪問には間に合うよう戻ってくるつもりだったがそれができなくなった。後者はつまり、なんらかの不測の事態があったということ」 「俺はなにかが妙だと思う」 ファルファレロは言った。 「そもそも、だ。人狼に襲われたってのもな」 「今日のお茶会を妨害する陰謀? ターミナルの有力者が出席するって……。でもそれなら、お茶会そのものを襲撃すればいいのに。リリイさんも軽い怪我だけで済んで……襲撃というにはお粗末だわ」 「襲撃だとしたら失敗だな。だが、お嬢ちゃんは言ったな。『不測の事態』と」 「人狼の襲撃――いえ、リリイさんとの遭遇自体が企図されたものじゃない、事故的なものだった可能性ね。それはあると思います」 「ならその翌日にリリイが消えたのは」 「姿を見られたリリイさんへの口止め、とか? でも店が襲われた様子は」 「なら答えは簡単だな」 「リリイが人狼を追いかけた。そうだろ」 戻ってきたオルグが会話に加わった。 聞き込みは大して収穫がなかったようで、かぶりを振る。 石畳の舗道を歩きながら、オルグは続けた。 「俺はそんな気がしている。理由はわからんが――ま、獣の直感ってヤツだ」 「なにもかもお茶会の演出のうち……あの女ならそのくらい言いそうなもんだと思うが、どうもそれじゃ済まなさそうな気がするぜ。司書の話を思い出せ。逃げる人狼をリリイは呼び止めた。なぜだ。自分を襲った相手に声なんか掛けないだろう」 「……」 菫は考え込む。 もうひとつ、別の可能性が彼女の懸念の中にあった。やむにやまれぬ事情でリリイが姿を消した可能性だ。彼女のもといた世界の知識では、人狼に襲われた人間は感染するおそれがあった。 「ここだな」 オルグは腰を落として、石畳の一画を指す。 すでに誰かが清めたのか、一見してそこに何の痕跡も見出すことはできなかったが、そこに血のしたたった跡がオルグにはわかる。 「リリイはここへ戻ってきた。犯人は現場に戻るっていうがね」 とファルファレロ。 彼の言いたい犯人とは誰か。 人狼なら、彼女が再び人狼に遭遇したかもしれない。 あるいはリリイなら、やはり狂言の可能性を疑うのか。 「なにかしら。この気配」 「おっと、こいつは」 オルグの指がそれを拾い上げた。 「待ち針! リリイさんだわ」 「……こっちだ」 オルグの先導する。 見えざる足取りは、細い路地へ。そしてぽっかりと口を開けた戸口をくぐった。 そこは……廃屋のようだった。 ターミナルにも時にこうした空き家はあるものだ。 「足あとは最近だ。一種類じゃないな。こっちは女靴だぜ」 ファルファレロが埃のつもった床を示す。 「地下がある」 菫が奥に石の階段を見つける。 「地下だって? チェンバーじゃないのか」 「違うみたい。どうしよう。灯りが――」 菫が言い終えるより先に、オルグが白炎を灯した。 3人ぶんの足音が、コツコツと下ってゆく。オルグの掲げる魔法の灯火が照らし出した光景に、かれらは驚いたようだった。 「こいつは……地下道、なのか。ターミナルにこんな空間があったのか」 「下水道かしら」 菫はよどんだ空気の匂いを嗅ぐ。 蜘蛛の巣の張った天井は高く、闇に閉ざされている。石のアーチと、それをささえる円柱が並び、その間を石の通路がどこまでも伸びているようだった。 「見ろ」 オルグが、一瞬、白炎の灯火を消した。 しかし、地下空間は完全な常闇に閉ざされることはなく、遠くにぼんやりとした光が滲んでいるのだ。 「誰かいるな」 ファルファレロは耳を済ました。かすかに人の声がちぎれてくるようだ。 3人は、円柱の陰を渡るようにして、遠い明かりの場所をめざした。近づくにつれ、円柱の影がゆらゆらと石壁に落ちているのがわかる。照明はランプかなにかのようだ。 自分たちはなにかに近付いている。 奇妙な……そんな確信が、あった。 姿を消したリリイ。謎の人狼。それだけではない。なにかこの先に、途方もないものが……すくなくともその片鱗を垣間見るような何かがあるのではないか。 そんな兆しのようなものが、3人の神経をぴりぴりと焦がすようだった。 「……! 止まれ!」 オルグが叫び、急停止した。 思わず彼を追いぬいて前に出かけた菫の襟首を掴む。 「!」 菫が息を呑む。 常人なら気づくことはなかっただろう。だがオルグは足を止め、菫も気付かされてはっきりと見ることができた。暗い地下空間を切り取るような、一本の線。 それは柱から柱へぴんと張り渡された糸だった。 次の瞬間、ふっ、と灯りが消え、周囲は暗闇に覆われる。 「気づかれたか」 ファルファレロが銃を抜き、真っ暗な前方へ構えた。 気配だ。そして、足音。 「ラルヴァローグ、灯りを――」 銀のナイフを抜き放ちながら菫が叫ぶよりも早く、すでにオルグは白炎を灯していた。 その光にさえ怯むことなく、コートの人影が前方から突進してきた! 3 銃声が轟いた。 コートの裾がひるがえり、背の高い人影が円柱の向こうへ隠れるのを、菫は見た。 「ロッソさん!」 「弾丸は銀だ」 ぶっきらぼうに、ファルファレロは言った。 「だがこの距離でなぜ外れた。魔方陣も展開しねぇとは」 「この糸だ。注意しろ、結界が敷かれている」 オルグが剣を振るって糸を断ち切ると、瞬間、赤い火花が散った。その光が、まるで赤外線セキュリティのように、ここから先の空間に張り巡らされているのだった。 「どういうことなの」 慎重に――しかし恐れることなく、菫は踏み出す。 人外のものに、彼女が遅れをとるはずはなかった。だが彼女の心をざわつかせているのが、これが単なる人狼にひとが襲われたというだけの、ただそれだけの事件でなどなかったのではないかという予感だ。 「手荒な真似がしたくない」 オルグの声が地下空間に響いた。それは彼の本心であったし、人狼に対する呼びかけであると同時に、仲間への牽制なのかもしれなかった。 だがファルファレロの行動はもう一歩も二歩も踏み込んだものだ。 「リリイはどこだ。いるんだろ。おまえが攫ったのか!」 再び、銃撃。 幾本かの『糸』が輝きながら弾けた。 「そう――、護っているのね」 菫は手近な一本をナイフで断つ。 あらゆるダメージを、この糸が肩代わりしている。 「攫った理由は口止めか? デートのお誘いにしちゃ乱暴だな、エスコートの仕方がなっちゃねえぜ」 挑発するようにファルファレロは大股に踏み込んでいく。糸を飛び越え、くぐり、コートの男(あるいは人狼)への距離を縮める。 銃は命中していないはずだった。 しかし、なぜか相手の足取りはおもぼつかない。 だからファルファレロが追いつくのは容易いことだ。 「ロッソさん!」 菫もあとを追う。 だがそれより早く、ファルファレロは相手に飛びつき、引き倒していた。 冷たい石の床に押し付け――その胸を革靴で踏みつけた。そして銃口を、まっすぐにその頭へ向けて構えたのだ。その、異形の頭へ向けて。 まぎれもない、獣の唸り声だった。 菫は銀のナイフを手に、人狼との距離を測った。人狼――さよう、それ以外の何と呼べただろう。剥きだした牙。獰猛な眼光。ファルファレロに抑えつけられながら彼を見上げるそのものの顔は、たしかに狼じみた獣のそれだった。だが、オルグなどと見比べてみれば、どこかしら狼よりももっと異質なもののようにも見えた。なにせその肌は青黒く、オルグのように毛皮で覆われているのではなかった。どちらかといえば爬虫類のような、ぬめりを帯びたなめらかな皮のようだ。 「……何者なんだ」 オルグは言った。 「どういうことなのか、説明してもらうぜ、リリイ」 「……」 石の円柱の影から、コツコツと足音が近づいてくる。 シュッ、とランプに火を灯す音。 「無事、なの?」 菫の問いに、美しい仕立屋は静かに頷いた。 だがそのおもては青ざめ、憔悴のあとがあった。 「ごめんなさい」 リリイ・ハムレットは言った。 「どうしていいか……わからなくなって」 そして人狼のもとへ近づくと、そっと膝を追った。埃の積もった床のうえに、ふうわりと彼女のドレスの裾が広がる。 「いいの。放してあげて。この人に、わたしたちを傷つける意志はないわ」 「さっきはそうでもなさそうだったぜ」 「でもいいの」 「だめだ」 リリイとファルファレロのやりとりに割って入ったのは、ほかでもない人狼だった。 牙のあいだから搾り出すように、低い、嗄れた声が言う。 「自分で自分を抑えることができない。いつどうなってしまうか。この姿でいる時間も、長くなってきている」 リリイの横顔が、悲痛なかなしみに曇るのが見てとれた。 「その人は誰なの」 「最初は気付かなかった。とても驚いたし、私も混乱していて……。でも、頭のどこかでわかってはいたのね。私が見間違えるはずはないのだから。私はね……今まで服を仕立てた何百人――いいえ、もっと多いかもしれない人のこと、ただの一人も忘れてはいないわ。仕立てたときの身体の寸法と、どんな服を仕立てたか、ということを。だからあとで……翌朝になって、そのことをはっきり思い出したの。その瞬間、理由もわからず私は彼に呼びかけていた。そう、それはこの――」 リリイは人狼の手をとり、そっと持ち上げる。 「このカフスを覚えていたから」 それから、自嘲するように唇をゆるめ、そしてかぶりを振った。 「いいえ、そんなのは後付ね。そんなものなくても、私は彼を見分けたでしょう。たとえどんな姿になっていようと」 「……その人はなぜ人狼になってしまったの。リリイさんや、他には感染していないのね? 感染源の人狼はターミナルに?」 菫は自身のいちばんの懸念を確かめたいようだった。 「その心配はない」 答えをくれたのは他ならぬ人狼だ。 「これは私だけの問題だ。問題を先送りすることで、私自身が招いた結果なのだから。……リリイ。きみはもう行け。きみを巻き込むつもりはない」 すう――、と、リリイの頬を、ひとすじの涙が伝う。 「……気に食わねぇな……」 聞こえるかどうかの小さな呟きを、ファルファレロが漏らす。 「人狼が知り合いだとわかったから、心配して追ってきた。そういうことでいいのか」 オルグがリリイに確かめた。 「午前中の約束や午後のお茶会はどうするつもりだったんだ」 そう続けてから、おのれの言葉の、なんというか白茶けた感じに、オルグ自身、閉口したようだ。事態の異様さを思えば、お茶会、などという平和な言葉がなんと遠く感じることか。 彼女にとって、それどころではなかったのだ。 それだけの意味を、持っていた。 「ごめんなさい。迷惑をかけたわ。……まだ、間に合うのかしら」 袖口でそっと涙をぬぐうと、リリイの声は、いつもの、ものしずかで穏やかだが、その底に毅然としたものを秘めた『仕立屋』のそれになった。 「今すぐ行けば、たぶん」 「なら行きましょう。レディ・カリスをお待たせするわけにはいかないわ」 菫に向かって、微笑さえ浮かべて見せる。 「こいつはどうするんだ」 と、ファルファレロ。いらえは、彼の足の下から聞こえてきた。 「私の身柄を世界図書館に」 3人ははっと目を開く。 人狼の姿が……変わっていこうとしていた。徐々に、人間に近い姿へと変貌してゆく。 「もう平気だ。だがいつまた自制を失うかわからない。またターミナルの街にさまよい……今度はリリイではなくまったく無辜の住人を傷つけるかもしれない。そうなってからでは遅い。私の自由を奪って欲しいのだ」 * だん、と大きな音を立てて、扉が蹴り開けられた。 あらわれたのはファルファレロ・ロッソ。 彼は大きな白い包みを抱いていた。包みといっても、その大きさや形状からして、それが『人』であることはあきらかで――それが白い布で包まれているだから、人々をぎょっとさせるに十分だった。 まるでそれは誰かのなきがらが運ばれてきたような不吉な光景にも見えた。 しかしそれも刹那のこと。 「仕立て屋をお届けに上がったぜ」 ファルファレロがそう言って、包みを投げ渡したのは、驚いて椅子から立ち上がったばかりのラファエル・フロイトにだった。 「おっと、これは」 ラファエルはどうにか受け止めたものの、そのまま尻餅をついた。 「……ごめんなさい」 布の中からあらわれたのは、むろんリリイ・ハムレットである。 「大丈夫ですか、リリイさん」 「……ええ、なんとか」 このいくぶん手荒なエスコートによって、しかし、青ざめていたリリイの頬は上気し、その意味ではなんら不審は感じられなかった。 彼女の演出にしては、やや唐突でサプライズに過ぎるとしても―― 乱れた裾を直しながら立ち上がったとき、リリイはお茶会の主催者としての優雅さをかけらも失っていなかったのである。 「話したいことがある」 リリイと入れ替わる形で舞台袖に帰ってきたリベル・セヴァンを、オルグ・ラルヴァローグと志野菫が呼び寄せたとき、リベルはふたりの表情から、もたらされるのが良い報せでないことを素早く察していた。 「なんでしょう」 「リリイはあのとおり無事だ」 「安心しました」 「それはいいんだがな……問題は『人狼』だ」 オルグはそこで言葉を切って、どう言ったものか、思案しているようであった。 「……図書館への保護を求めています」 菫が、要点のみを先に述べた。 「そうなのですか?」 「その人物は、自分の意志に反して『人狼』化してしまい、他者を傷つけてしまうおそれがある。だから、そうならないように拘束してほしいと」 「わかりました」 リベルは頷く。 そして、言葉の続きを待った。悪い報せは、まだだ。 「……来てくれ」 オルグがリベルの袖を引いた。 まだ舞台上で続いているお茶会の関係者の耳に入らない場所まで司書を連れ出し、そのうえで声をひそめて、オルグと菫はリリイの店を出てからのことを語った。 眉根を寄せ、話を聞いていたリベルの表情が、その最後のくだりで、かつて誰も見たこともないほどに狼狽したものとなった。オルグたちが見たものを、彼女自身も目にしたかのように。 (もう平気だ。だがいつまた自制を失うかわからない。またターミナルの街にさまよい……今度はリリイではなくまったく無辜の住人を傷つけるかもしれない。そうなってからでは遅い。私の自由を奪って欲しいのだ) 人狼が、人間に戻りつつあるのを見て、ファルファレロはようやく足をどけた。 一歩、下がり、しかし、銃口の狙いは外さないまま。 だがその腕も、人狼が完全に変態を遂げたあとは、無言で下ろされることとなる。厳しく、ひややかな瞳で、ファルファレロはその人物を見つめていた。 「ま、まさか!」 オルグが声をあげた。 「あんただったのか……!」 ひと呼吸遅れて、菫も息を呑む。 彼女も、彼を知っていた。 その場にいた3人だけではない。ロストナンバーなら……ターミナルに降り立ち、0世界の玄関口、あの駅前広場に立ったことがあれば、一度はその顔を、目にしていたはずなのだから。 「そんなことが」 「間違いない。俺たちは見た」 リベルの腕を掴んで、オルグは告げた。 「『人狼』の正体は、エドマンド館長だったんだ」 (【彷徨う咆哮】ターミナルの人狼・了)
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