だん、と酒場の扉が音を立てて蹴り開けられたが、スタンリー・ドレイトンはそちらを見ようともしなかった。 しかし店内の客たちの会話は一瞬途切れ、バーテンはグラスを磨く手を止める。 新しい客は、タイトなスーツを着崩した若い男だった。酷薄そうな唇で不機嫌な表情をつくり、つかつかと店の奥へと進む。 だがその行く手に、ぬう、と大きな影が立ちふさがった。 スキンヘッドの黒人に見えたが、頭には悪魔じみた角が生えている。この店に用心棒として雇われているツーリストだった。 「あんたは常連だが」 黒い肌の大男の瞳の中では、ちろちろと火が燃えていた。地獄の炎だ。 「厄介ごとを持ち込むなら、他へ行ってもらおう」 「なんだと。誰に口をきいてやがる」 彼も長身ではあったが、用心棒はさらに巨漢だ。それでも怯む様子はなく、眼鏡の下から鋭い視線を送った。 「おまえからは死と暴力の匂いしかしない」 巨漢の言葉に、彼は鼻で笑った。 「そうだろうよ」 そしてその手が懐に滑りこんだ――そのときだ。 「構わない。私の友人だ」 よく通る低い声が奥からかかった。 用心棒がカウンターを一瞥すると、バーテンは頷く。舌打ちして、悪魔の巨漢は道を開けた。 店の奥へと、彼は歩んだ。 天井近くに厚い雲のように紫煙がたまっているため、照明が天使のはしごを形づくっている。 その下で、スタンリー・ドレイトンが、カウンターの一番奥の席にかけ、彼を待っていた。 「てめぇと友人になった覚えはないが」 「しかし私に会いにきた。まさかこのようなところで会うとは思わなかった。なにしろきみは――」 「この店は俺の行きつけだ。ここじゃあんたのほうが新顔だな」 「その通り。あまり知られていないチェンバーだが良い店があると人に聞いてね。座りたまえ――ロッソ君」 忌々しげな表情をつくって、しかし、ファルファレロ・ロッソは、ひとつ間をあけたスツールに腰を下ろした。 そして何か言いかけたが、スタンリーがそっと制する。 くちびるの前で人さし指を立て。顎をしゃくってみせた方向では、静かにピアノが奏でられていた。 曲が終わるまで、ファルファレロは沈黙を強いられることになる。心得たバーテンがグラスとともに差し出した小皿のナッツを、苦虫のように噛み潰して時を待った。 いつものファルファレロなら何と言われようが遮って言いたいことを言っただろう。そうしなかったのは、むろん気遣いなどではないが、かといって本当の理由を死んでも認めはすまい。 「スタインウェイだ」 「……何?」 「ピアノだよ。常連なのに知らないのかね。あれはごく初期のモデルで――紆余曲折あって0世界に持ち込まれたものらしい。おかげで戦火を免れた。壱番世界では失われたと思われていたものが、実は時から取り残された世界の狭間で生き延びていたとは。……そう――、きみのように」 「何を言ってやがる」 ファルファレロが面白くもなさそうに応えるのに、スタンリーはほんの一瞬、おや?というような目で彼を見た。それには気づかず、ファルファレロはグラスを呷って、続けた。 「ブロードウェイの帝王。てめぇがそう呼ばれたのは昔の話だ。撃たれて生き延びたはいいが、それ以来、田舎にすっこんじまったんだってな。こんなところで会うたぁ、お笑い種だぜ」 「この店では私のほうが新顔だが、0世界そのものではきみのほうが新顔なのではないかね」 「ああ。だからあんたがブロードウェイを留守にしてるあいだ、何が起こったか教えてやろうじゃねぇか。世代交代ってやつだよ。今の帝王は俺」 ゆっくりと、スタンリーは葉巻を吸い、そして吐いた。 彼の身体にあるいくつかの弾痕のうち、ひとつはファルファレロの組織の人間によるものであった。その傷こそ、スタンリーが覚醒に至るきっかけになったものであるが、狙撃事件は壱番世界における別の事態のきっかけにもなっていた。 すなわちニューヨークマフィアによる、複数の勢力を巻き込んでの、血で血を洗う報復戦である。 「私にはできのいい息子と悪い息子がいる」 スタンリーは言った。 彼のふたりの息子は、今や、スタンリーが使い分けてきた裏表ふたつの顔をそれぞれ受け継いだかのように育っていた。 ひとりは彼が陽の光のもとに築いた王国を継承し、タイムの表紙も飾った。 もうひとりは彼が夜の闇に張り巡らせたネットワークを根城とし、そして…… 「その息子たちのどちらでも。きみの帝王の座とやらを奪い取る程度の力は持っているのだよ」 「ほう。あのクソチンピラにか? てめぇのガキにしちゃすこしは腕は立つようだが、手下がいねぇと何もできねぇガキだ。まして、お上品な兄貴のほうに何ができるってんだ。チャリティーパーティーで女の腰を抱いてマティーニ飲んでるところしか見たことねぇぜ」 「ロッソ君。私と息子たちは別の人間で、息子が誰とどのような関係を結ぶかはかれらに任せる。しかし私も父親である以上、息子を侮辱されることは好まない」 「そうか奇遇だな。俺もてめぇの今はただのラッキーなんだぜと面と向かって言われて黙っているほど気は長くないんでね」 「ならこの話はやめよう。私は静かに飲める良い店だと聞いてここへ来た。私はスタンリー・ドレイトン。きみはファルファレロ・ロッソだが――ここはニューヨークではない。酒場で隣合った旅人としての時間を過ごすべきだ」 「今はな。だが息子どもに伝えておけ。俺が戻ったら、てめぇら兄弟の××をチョン切って、お互いのをくわえさせて――」 バーテンがはっと息を呑んだ時には。 すでにふたりの銃の銃口がお互いをぴたりと狙っている。 客たちは水を打ったように静まり返っていた。 それでも演奏が止まらなかったことは、ピアニストに賞賛を送ってよいだろう。 ファルファレロの抜いた銃はスタンリーのこめかみをとらえている。 しかしカウンターの下で、スタンリーの銃がファルファレロの胸を撃ち抜くに十分な位置にあった。 くくく、とファルファレロの喉が鳴る。 「俺の勝ちだぜ。てめぇがその奥の席に座った時からな。俺はてめぇの左にいる。てめぇに撃たれるのは右の胸だ。だが俺の銃はその脳みそを吹っ飛ばす」 「この至近距離なら必ずしも心臓を狙う必要はない」 「じゃあ、試してみろよッ!」 銃声! 悲鳴と、怒号――そしてグラスが落ちて割れる音。 空気に、硫黄の匂いが混じっていた。 「お客さん」 悪魔の用心棒が、のっそりと身を起こす。 「厄介は困ります」 彼が両眼から噴いた地獄の業火は、とっさに避け、おのれをかばったスタンリーのシャツのカフスをわずかに焦がしただけだった。 ファルファレロに撃たれた用心棒の傷が、見る見るうちに再生してゆく。 「勝負なら」 コトリ、とバーテンがカウンターにボトルを置いた。 「お酒でお願いします。ここは酒場ですから」 ふん、と鼻を鳴らして、ファルファレロは銃を収める。 スタンリーは空になっていたグラスをすこし持ち上げた。からん、と氷が音を立てる。 ピアノの演奏は、相変わらず続いていた。 ◆ 同じ頃―― チェンバーの街路を歩くヘルウェンディ・ブルックリンの姿があった。 このチェンバーは夜の街だ。 最近でこそ、館長代理の気まぐれでターミナルの街に夜が訪れることがあるが、元来、時刻の変化のない0世界には、特定の時刻や季節を再現したチェンバーは少なくなかった。 街並みは、ヘルの目には古めかしく映った。彼女が壱番世界のアメリカという国の人間だと知った誰かが、アメリカの街を真似たチェンバーがあるよと教えてくれたのだが、異世界人のツーリストには現代のアメリカと前世紀初頭のそれとの区別などつくはずもなかったのだ。 「まるでスタジオツアーね」 ヘルは笑った。 そう――、これはいつか映画で見た風景だ。 あれはなんていう映画だったっけ。パパが好きだと言っていた映画。昔のニューヨークで、ユダヤ人のギャングが主人公の。ギャングは嫌いだし、すぐにつまらなくなって映画に夢中のパパをソファーに残して、キッチンのママのところへ行った。 キッチンから香ばしい、バターのすごくいい匂いがしていた。 (美味しそう! 何なの、ママ!?) (ポップコーンよ。もうできるわ。映画を見ながら食べるものはポップコーンって決まってるでしょ、ヘル?) 「やだ……」 両親のことを思い出したら、鼻の奥がツンとした。 先日―― クリスマスに、育てた花を分けてくれるという世界司書から、カーネーションを譲り受けた。 かつては、毎年、母親に贈っていた花。 今年はそんなプレゼントもなし。それどころか、両親にはずっと会っていない。ヘルはいまだ、家出の途中だ。 (ホントは会いたい) でも。 贈ることもできないカーネーションを貰ってしまったことを、ほんの少しだけ、悔やんだ。 窓辺に置いておけば、母がたくさん並べて育てていた鉢植えのことを思い出す。 (元気にしてるかな。ママも、パパも) 洗い物をしているママにそっと忍びよったわ。 ――びっくりした、おどかさないで、ヘル。 ごめんね。……ハイ、ママ。 まぁ……。ヘル……。 きまって、あたたかい、ハグ。そして笑って言うの。ありがとう、ヘル。大事にするわ。でもママの一番大事な宝物はあなたよヘル、自慢の娘。 (自慢だなんて) こんな悪い娘なのに……。 「ねぇ、そこの彼女!」 はっと気づく。 灯りと音楽が漏れる店の窓から身をのりだして、若い男たちがヘルを呼んでいた。 「独りなの? 遊んでいかない?」 店の中からは楽しげな笑い声が聞こえていた。 目をこらして見てみると、半分がダンスフロアになった、ダイナーのような店のようだ。 ヘルと同じくらいの年頃の女の子たちが楽しそうに踊っているのが見える。 料理のいい匂いもしてきて、ヘルは自分が空腹であったことを思い出す。 (ちょうどお腹も減ってるし……独りで食事するよりいいわよね) ヘルは笑顔をつくった。 「ええ、いいわよ。楽しそうな店ね――」 そう言って、店のドアを押し開けた。 ◆ 「……それがどうしたってんだ。人間はいつか死ぬ。それだけのことだろう。死んだらその場に死体になって転がるだけ。そうなったらもう生ごみと何のかわりもねぇんだ」 「おおむね、同意はする」 「そのわりには、汚ねぇ金を溜め込んでいるようじゃねぇか」 「きみからそのような言葉が出るとは。マネーにきれいも汚いもない。資本主義の世界ではより優位のものに金が移動するしくみになっているというだけだ」 「違ぇねぇ。だから俺も金儲けなんざする必要もないってわけだ。必要になれば、奪えばいいだけだからな」 「根っからの狩猟者。捕食する側の人類がきみだということか」 「生きることは奪うことだ。俺がすこしでも長く俺でいるためには、生き延びるしかない。そのために必要なら殺すし、奪う」 「さっきはいつ死んでもいいと言っていたようだが」 「俺が負けたなら死ぬさ。それだけのことだ。おっさんはどうなんだよ」 ファルファレロの言葉に、スタンリーは微笑を浮かべた。 壱番世界で、彼がそんなふうに呼びかけられることなどないし、ロストナンバーの中にあってさえ、外見や雰囲気からスタンリーには敬意をもって接するものが多いと言うのに、ファルファレロには良い意味でも悪い意味でも屈託というものがまるでなかった。 「私の目には、きみはいささか無目的すぎるように映る。私も……きみと同様、日々、賭けをしている。それは自分の意志というものを実現できるかどうかという賭けだ。きみは私が無駄に蓄財をしていると思っているようだがそうではない。マネーとは自由だ。自由があってはじめて、私は私の意志というものを持てる。きみは金がなければ奪うと言ったが、私は奪うための手間と時間さえ必要としない。きみが一晩使う程度の金額を、私の資産は毎日利息だけで生み出すことが……」 スタンリーの隣で、いつのまにかファルファレロがカウンターに突っ伏していた。 「……」 「お客さんの勝ちですね」 バーテンがすっとあらわれて、ファルファレロのグラスを下げた。 「……支払いを。彼のぶんも」 「かしこまりました」 「ロッソ君。起きたまえ」 肩をゆすったが、むにゃむにゃと寝言が返ってくるだけ。 しかし、スタンリーは強引に半身を起こすと、 「トラムの駅まで送っていこう」 と言った。 「置いといてくれれば、明日の朝、ゴミ捨て場に出しておきやすが」 悪魔の用心棒が言ったが、それには及ばないと応えて、スタンリーは彼の胸ポケットにチップをねじこんでやる。 肩を貸し、ひきずるようにして、夜の街のチェンバーを行く。 ふと、スタンリーは足を止めた。 数人の男女の、言い争うような声を聞いたからだ。 そんなものは盛り場には珍しいものではない。しかし。 「……。ロッソ君。すこし待っていてくれるか」 そうっと、舗道に座らせ、建物の壁にもたれかからせると、スタンリーは路地へと踏み込んでゆく。 夜を割くような、甲高い声――いや、ほとんど悲鳴だ。 取り残されたファルファレロの眼鏡のしたで、ぴくり、と、まぶたが震えた。 ◆ 最初は機嫌よく、楽しい時間だった。 ジューシィなフライドチキンに、山盛りのマッシュポテト。よく冷えたジンジャーエールとが、ヘルの気分を上向きにしてくれる。 ジュークボックスから流れる音楽は古くさいものだったが、いかにもこの店に合っている。 壁際に置かれたピンボールで遊んで、久しぶりに大声で騒いだ。 ヘルを誘った男たちや、フロアで踊っていた女たちはいつもこの店でつるんでいるんだと言った。出身世界はバラバラだったが、なんとなくここが気に入ってたまっているのだそうだ。 そしてどれくらい時間が経っただろう。 「じゃあ、私、そろそろ」 「待てよ。夜はこれからじゃないか」 男のひとりが、ヘルの手を引いた。 店の奥に、いくぶん灯りを落としたスペースがある。 ローテーブルを囲んだソファーで、ひそひそと囁きあう男女。 「でも……」 「いいじゃないか。さあ、きみも飲むだろ?」 「え?」 ヘルは見た。ソファにかけた男と、彼にしなだれかかっている女。コーラの瓶に、男がサラサラとなにか粉のようなものを注ぎ入れる。 「ちょっと待って。今何したの。何なのよそれ」 「何って?」 カップルはあやしい粉末を溶かし込んだ飲み物を回し飲みしている。 「……私、帰る!」 「おい、待てよ!」 鋭くきびすを返したヘルの肩を、豹変した表情の男が乱暴に掴んだ。 夜の街路を、ヘルは走った。 怒号をあげて、男たちが追ってくる。 「誰か!」 声をあげたが、助けはあらわれなかった。 いつのまにか、“夜も更け”たというのか、来たときには開いていた店も灯りを落としているのだ。 路地に飛び込んだが、それは失敗だった。 連中のほうが、このチェンバーを庭のように熟知している。 あっと思うまもなく、回りこまれ、はさみうちにされてしまう。 「こんなことして……世界図書館に通報したらどうなるかわかってるの!」 「通報できりゃあな」 男のひとりがヘルの腕を掴んだ。彼女が悲鳴をあげる。 そのときだった。 「ぎゃあああっ」 男の身体が吹き飛んだように、ヘルには見えた。 ごろごろと地面に転がって苦しむ、肩をおさえた指のあいだから、血があふれていた。 「なんだ、どうした!」 「今の音は」 「う、撃たれたぁあ」 「気をつけろ、銃をもったヤツが――うぐぉおっ」 今度ははっきりと、その音が聞こえた。それが銃声であることを、ヘルも知っている。本物の銃の音は映画とは違う。犯罪には事欠かない街に育ったヘルには幸か不幸かそれがわかった。 「伏せろっ! くそ、どこから撃ってきてやがる!?」 「姿が見えない!」 「ぎゃあっ」 「うおおおお!」 次々に、悲鳴があがった。ヘルは路地の壁に張り付いたまま、なりゆきを見守るしかない。 だがそこへ、男がぶつかるように近づいてきた。ぎらり、と街灯の光を反射したナイフ。 「誰か知らねぇが、出てこい! この女が死ぬぞ!」 「やっ――!」 「大人しくしろ!」 「……大人しくしたほうがいい」 「そうだ、大人しく……え?」 バリトンに振り返る。 大きなシルエットだ。厚く、がっしりとした。そのうえに、ソフト帽が乗っている。 「きみたちのほうがだよ」 「……誰――だ」 ぽっ、と赤い火が灯る。 ふわりとただよう葉巻の香りを嗅いだと思ったところで、男の意識はとろけてゆき、どさり、と崩れた。 「野郎!」 まだ立っている最後のひとりが飛び掛ってくるが、あらわれた人物の蹴りに返り討ちに合った。 それで立っているものは誰もいなくなった……と思ったが、まだ動けるものがいた。そいつはスタンリー……そう、それがスタンリーでなくて誰だろう――の背後から遅いかかる。ヘルが声をあげるよりはやく、しかしスタンリーは振り向く。コートがひるがえり、葉巻の煙が絡みつくように男をとらえて、それでも慣性のままに振り下ろされたナイフは、最後の銃声とともに弾き飛ばされていた。 「ミスター!」 ヘルが駆け寄る。 「ヘル君。ここはきみのような娘が出歩くような場所でも時間帯でもないようだが」 「ご、ごめんなさい。でも、私」 「……問題はないかね」 「え、ええ。ありがとう」 「クリスマスに私が言ったことを?」 ヘルは頷いた。 (ヘル君。困ったことがあれば私を呼びたまえ。力になれるかもしれない。……たまには善いことをさせてくれ) スタンリーは確か、そう言ったのだ。 「力になれただろう?」 「ええ……本当に。すごかったわ、ミスター。銃も百発百中だった」 「……」 スタンリーがかすかに表情を変えたのを、彼女は気付かなかった。 「すこし待って」 ヘルを残して、スタンリーは足早に路地を出る。 彼を置いてきたはずの場所には、誰の姿もなかった。 「……どうかしたの?」 「いや。ノートで誰か司書に連絡を。連中にはしかるべき処遇が与えられるだろうが、その前に手当が必要だ。なに、全員、急所は外されている」 「銃を撃ったのは、ミスターなんでしょ」 スタンリーはあいまいに微笑んだ。 チェンバーの出口まで、歩いた。 「……ヘル君」 道すがら、スタンリーが話しかけた。 「きみはまだ家出中なのかね」 「……」 「非難するつもりはなかった。すまない」 「ううん。私は悪い娘」 「私も親だが、息子だけだ。娘であったなら……また違っただろう」 「……」 「娘の父――か」 「ミスター?」 「いや」 スタンリーはかぶりを振る。 あの男はなにも告げずに立ち去った。ならその意思はないということだ。 これは自分のテーブルではない。賭けることができるのは、ヘルと、ファルファレロだけなのだ。 チェンバーから一歩出ると、0世界の静止した青空がふたりを出迎える。 真昼の街の眩しさに、ヘルは目をしばたき、そんな様子をスタンリーはそっと見守っていた。 (了)
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