イラスト/ピエール(isfv9134)
「本部を叩こう」 最初に言い出したのは誰だったか。 「もうそれしかない」 たちまち、想いは伝染してゆく。 もとより熱気に満ちていた会議室の温度がさらに上がったようだ。 国のためにすべてを捧げる男たちが集まっている場所である。まして、その日は血気盛んな若手たちが詰めていたのだ。 中秋の日に起こった事件からひと月が過ぎた。 司法機関、情報機関の全力をあげての捜査も、まだ襲撃の首謀者を特定するには至っていなかった。 だがそのことが逆に、犯人の名をありありと指しているように、かれらには見えていた。 すなわち、敵は権力の中に根を張っている。 皇国は蝕まれているのだ。 そうでなくてなぜ、首相が襲撃を受けるなどということがあるだろう。しかも刺客にはあろうことか外道さえ含まれていた。陰謀の首魁が中枢に潜んでいるというだけでなく、その何者かは悪しき神々の力さえ利用しているのだ。 それを思うとかれらは身震いを禁じえない。神棚に清酒が欠かされることはなく、清めの塩で厳粛に聖別されたこの拠点内にいてさえ、姿を見せぬ敵が垂れ流す穢れが押し寄せてくるように感じられるのだった。 「連中以外の誰にそんなことができる?」 「そうだ。叩けば埃が……いや、それ以上のものが出るに決まってる」 「やるか」 「やろう」 「いけるのは誰だ?」 「今、連絡を」 疑惑は行動へ。そうと決まれば行動力にあふれた青年政治家たちは素早かった。 しかし。 「待ちなさい」 落ち着いた、よく通る声だった。 「幹事長」 細谷博昭は居並ぶ面々を見渡す。 「そんなことをして何になるというのですか」 細谷の言葉は淡々としていたが、たったそれだけで不思議な重みをともなっていた。与党に属する青年たちはむろん聡明だ。彼が言わんとすることはすぐさま悟っている。幾人かは唇を噛み、幾人かは視線を落とす。 若手をまとめているリーダー格らしい青年は、細谷の言葉を理解してなお、言い返した。 「待っているだけでは、また次の襲撃を呼び込むだけです。今度はこちらから仕掛けねば」 「同じ土俵に堕ちるだけです。第一、かれらが首謀者であったという証拠がどこにあると言うのです」 「火を見るより明らかじゃありませんか!」 「ならば証拠を。証拠なき主張はどれほど正しく見えても本当の力を持たない。捏造を得手とするかれらがなぜ野党であるのかがその答です」 「ご迷惑はおかけしません。自分たちは――」 「もしあなたたちが血気にはやって若い命を散らすようなことがあれば。私はあなたたちの御両親や我が国にもなんと申し開きをすればよいのか。……気持ちはわかります」 眼鏡越しに、細谷の柔和な瞳が若手たちの顔をひとりひとり、見つめてゆく。 かれらのもどかしさ、苛立ち、義憤とを、すべて自分が吸い上げて引き受けようとするかのようだった。 「しかしその気持ちを御しなさい。どうか、彼の行動を無駄にしないでほしいのです」 若手のリーダーは、はっと胸を突かれたような表情になり、そして苦々しさに顔を歪めた。おのれの未熟さをあらためて知り、耐え難い痛みに悶える顔だ。 「幹事長……」 「粛々と。今、なすべき仕事をして下さい」 細谷は言った。 誰よりも悔しさに身悶えしているのは細谷だと、皆、わかっていた。 先の襲撃でも首相は守れたし、細谷も生き残った。しかし、大きなものをかれらは失ったのである。いまだ喪さえ明けないというのに、一気に緊張の度合いを増した国の空気は、かれらに悲しむ暇さえ与えてはくれないのだ。 官庁街は静かであった。 あれからひと月が経ち、夜空の月はふたたび満ちてきていた。 ただ、今宵のそれは泣いた目で見上げたように滲んだ朧月だ。 細谷は車の後部座席に身を沈め、腕組みのまま目を閉じていた。眠ってはいない。だがそうすることで少しでも肉体に休息を与えなくてはならなかった。あの日以来、まともに寝食をとっていないのだ。いかに彼が常人を凌駕する身体能力を持っているとはいえ、ひとたび気をゆるめればたちまち泥のような眠りに落ちるだろう。そうならないのはひとえに精神力の賜物であった。 運転手は気を遣って話し掛けてこないので、車中は静かだ。 どのくらい走っただろう。 ふと、細谷は目を開ける。 車は変わらず、法定速度内の走行を続けている。一定間隔で車窓から挿し込む道路灯の光が、細谷の横顔をなめていた。 「ここは?」 「――の交差点を過ぎたところですよ」 運転手は地名を挙げた。 「今、何時ですか。こんなに……空いているのですか」 「そういえば、今日は道が空いてますね。今はええと……あれ?」 車のデジタル時計が、でたらめな数字をめまぐるしく表示しているではないか。 細谷は窓の外へ目を遣る。空いているどころか、他に一台の車も走っていない。腕時計を確認した。深夜ではないが、歩道に一人の通行人もいないとは。 「停めて下さい」 「えっ」 「停めて下さい」 細谷は繰り返した。 言われるまま、運転手は車を路肩に寄せた。 「幹事長?」 「決して、車から出ないように。いいですね。決して出てはいけません」 そう言い置くと、彼は滑るように外へ出る。 大股に車道を歩き出した。 両側のビル群の、どの窓にも灯りがついていなかった。停電か? そして、目を凝らして見通した車道の向こうから、道路灯の光が順々に蝋燭が吹き消されるように消えていくのだ。 闇が、やってきた。 光は、月明かりだけになった。ぼんやりとした朧月でも、ないよりましだ。その幽かな光の中にたたずむ影を彼は見る。 「良い月ですね」 男の声が言った。 「まるであの夜のようです。そう思いませんか、細谷幹事長」 細谷の両手に、一振りずつ、刀があった。彼が鯉口を切れば、アスファルトのうえに鞘が転がる。 「おや」 月明かりのしたにいるのは、細谷と同じ年格好の男である。向こうも眼鏡をかけ、そして、両手に刀を抜身で携えていた。月下に、背広姿の二刀流の剣士がふたり、相対したことになる。 「その刀は……『大和』ですか」 「左様。今なら抜くことも許されましょう。あなたがいらっしゃるとは……いえ、驚くにはあたりませんか」 「ええ。立ちふさがるものは斬る。そうすることで生きてきました。細谷幹事長。あなたがそこに立っていられると困るのです」 「外道に魂をゆだねるとは、まったくもって尊敬できませんな、千獄さん――」 にぃっ、と相手は笑った――かのように見えた次の瞬間、数センチの距離に彼はいた。 キィン、と高い音。細谷の左手の刀が敵の第一撃を受け止めている。 刃を挟んで、ふたりの顔は吐息が混じり合わんばかりに近づいた。 「外道もまたこの世界を構成する力のひとつ。われわれはそれを操り、利用しているに過ぎぬのです」 細谷の右手の刀が敵を薙ぐ。だがとらえたのは残像だけだ。間合いは再び離れた。 「悪しき力は己さえ滅ぼします」 「どうとでも。わが柳葉と蓮葉……幾多の贄の血を吸ってきたこの刃、今宵はひときわ歓喜に啼いております。細谷幹事長、あなたを斬れると云って!」 駆ける。クロスした腕を開くように、ふた振りの刀をふるう。 刃は青白い月明かりに奇妙なぬめりを帯びているように見えた。外道の力を与えられた妖刀だ。もし傷つけられれば、たとえ浅いかすりきずでも、あとあとどのような祟りに見舞われるかわからない。 細谷は慎重に斬撃を払い、身を避けながら、間合いを測る。 邪悪な霊気のようなものを、相手はまとっていた。目に見えるものではない。しかし細谷は、彼の背後に深い怨嗟の声を聞いた気がした。 「大禍津日神……それがあなたの」 「禍(わざわい)あれ!」 切っ先が、細谷の背広の襟をかすめた。厚手の生地がすっぱりと裂かれる。 身体は傷つけられてはいないのに、恐ろしい悪寒を感じた。 外道は神ではあるが、意思は持たない。怨嗟の声と言っても、なにか具体的な恨みから生まれた悪霊などとは根本的に違うものだ。より抽象的で、高次の、この世の災禍を願う心の集合とでもいうべき存在だ。 「そのような穢れに、我が国を渡すわけには参りません!」 一瞬の隙を突いて、細谷は仕掛けた。 左手の『紫電』が、銘のとおり電光を迸らせながら敵の防御の刀身を横薙ぎに振り払い、こじ開ける。 通常、刀は打ち合いなどすればたちまち刃こぼれするが、かれらの扱う霊刀・妖刀は尋常でない強度を保っていた。だからこすれあう刃は火花を散らせながら、悲鳴のような音をたててなお、互いに引かない。 しかし腕が開いたことで空いた相手の胸元へ、細谷は右手の大和の一太刀を浴びせる。 渾身の斬撃だ。 「や、閻魔……っ」 敵は呻いた。 細谷が大和を授かった閻魔は地獄の神だ。地獄はこの世の穢れをすべて引き受ける場所である。それによって地上を、天を、清浄な世界に保つために在り続ける。 細谷の一撃が敵の胸板を斜めに斬り込んだ。 さらに踏み込む。磨かれた革靴の底が舗装を削るように差し入れられ、身体の重心を腰にためた細谷は状態を回転させる。どこかフィギュアスケートの動きにも似ていた。回転の遠心力を乗せて、紫電が、先ほど大和が敵に与えた傷に対して垂直に走る。十文字を胸板に刻まれ、血しぶきを吹いて相手はのけぞる。 そのまま細谷の身体は一回転する格好になり、信じられないことに、真上に跳躍した。 人間の肉体が持ちうる運動能力ではなかった。 「ほ、そ、や」 喉の奥から絞るような声を出しながら、敵は見上げた。 血にぬれた眼鏡に、朧月を背景に跳躍した細谷の姿が映る。 彼の二つ名がよぎる。――『出雲の鷹』。 鷹は狙いを定め、一気に急降下する。敵の脳天めがけて、刀が振り下ろされた。 「!」 だがその刃を受け止めたのは、妖刀を握る腕であった。 自らの腕で、斬撃を受け止めたのだ。 なぜ刀身で受け、弾かないのか。その答えはすぐに明らかになる。 大和の刃はまるでできたての飴を切るように実に容易く、その腕を切り落とした。 瞬間、男が邪悪な笑みを見せる。 切断面からあふれでる赤黒い血の奔流。それが生き物のようにうごめき、ねばねばとした粘液状になって、大和と細谷の腕を包み込んだ。 「……!」 じゅっ、と肉が灼ける匂い。長年、外道の力を使い続けた男の身体は外道の呪いを浴びつづけ、もはや人ならぬものに限りなく近づいていた。 呪いの力が細谷の腕を痺れさせ、背広の下、シャツの下にさえ侵入する。おそるべきスピードで、呪いに身を灼かれていくその苦痛も、しかし、細谷の表情にはほんの一瞬、あらわれただけだった。 「細谷幹事長」 敵は言った。 「あなたはすでに亡霊です。あの日、あなたも死んでいるはずだった。首相とあなたが死ぬのが計画。それが順番が違ってしまった」 「まさしく外道ですね」 細谷は厳然と言い放つ。 揺さぶりだ。死ぬはずだったのはおまえのほう。それはすなわち、彼が代わりに死んだと言おうとしている。そう言うことで細谷の動揺を誘ったのだ。 「ならば尚更!」 細谷は紫電の切っ先を、おのれの右肩に突き刺した! 「まだ逝けません」 電光が閃く。 電撃が呪いの血を吹き飛ばした。穢れた血が爆ぜ、自由になった腕には、まだ大和がしっかりと握られたまま。細谷は紫電を力任せに肩から抜いた。その勢いのまま投げつけた先で、切り落とされた敵の腕が、腕だけで襲いかかろうとしていたところを、アスファルトに縫い止める。 同時に、肩から吹き出した細谷の血が、敵にかかり、逆の作用でもって相手の動きを封じている。 細谷はまっすぐに大和を突き出し、全身でぶつかっていった。 たしかに、その切っ先が相手の身体を刺し貫いた――その実感があった。 諸共に倒れこみ、どこかへ落ちていくように感じた。 最後に見たのは、朧月。それが、遠く、遠く―― (まだ、です。自分は、まだ) 強く思った。 (申し訳ありませんが、まだ少し待っていて下さい) 彼方でいらえがあったように思った。 ――ああ、いいよ。俺ぁ、独りで……手酌で先にやってっからさ。 (お願いします。遅くなるかもしれませんが、必ず行きますから) 月が遠ざかる。 星も、街も。大地も。なにもかも。 意識さえ遠のいていくなかで、細谷は、ただその思いだけは手放すまいと、一心に念じ続けているのだった。 (了)
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