屋敷は、静まり返っていた。 耳をそばだてれば、コチコチと時計の秒針が刻む音さえ聞こえる。 だが虚空が聞きたいのはそれではない。 布団によこたわるあるじの寝息が、穏やかで、安らかであること――襖の隙間から、それをそっと確かめる。 自分は今、どんな顔をしているだろう、と思う。 あるじを、じっと見つめる青い双眸。いつかあるじの供をして行った能舞台で見た鬼面のように、身を焼く憤怒に狂っているか。――否、だ。あくまでも、そのおもては冷ややかで、この夜のように静謐だった。 むしろ、かがり火に照らされて、ゆっくりと舞っていた小面のそれに近い。 独逸の血を引く虚空の造作は彫りが深く、唇を引き結んでいれば、端正な秀麗さをあらわしもするが、見るものによっては近寄りがたくも感じるようだ。 あるじはそんな虚空を、この彫刻に似ていると言って美術の教科書の写真を見せてくれたものである。 「……」 しくり、と、虚空の裡には、あるじの顔を思い浮かべるたびに疼く箇所があった。 彼は今日も――義兄たちの部屋に呼ばれたようだ。 行かないほうがいい……いや、行ってはいけない――と、虚空が口出しすることなどできる立場ではない。 虚空は側仕えの忍びである。 どうしてあるじの行動を左右することなどできよう。いかにあるじが、虚空を親しい友のように扱っても、それは超えてはならない一線だ。たとえ、その行動があるじ自身を傷つけるのだとしても。 (本当にそうか?) その疑問は、いつ虚空の中に宿ったか。 義兄たちの部屋から漏れ聞こえる呻き声を聞いたときか。這うようにして自室に戻り、虚空の敷いた布団に倒れこんだあるじの憔悴した顔を見たときか。着替えのために脱がせた服のしたの、その痕を見たときか。 いくらあるじ自身が望み、受け入れることであっても、結果としてそれがあるじを苛むのなら、仕える自分は止めるべきではないだろうか。 その問いに、兄弟子たちも、誰も答えてはくれなかった。 それどころか、その目で見ろ、と、義兄の部屋の中で行われていることの顛末を、見させられさえもしたのだ。 (この家は狂ってる) そんなことはとうにわかっていたかもしれない。 数百年の歴史の闇に連綿と続く、小昏い血統が、狂気を孕むのは道理だったかもしれない。 虚空は忍びだ。 その命はすべてあるじのためにある。どんな犠牲も厭うつもりはなかった。 義兄の部屋から戻ったあと、高熱を出したあるじを、夜を徹して看る。切れた唇を、濡らした脱脂綿でそっと湿らせていたら、その口元がかすかに動いた。 「……何と?」 なにか欲しいものでもあるのか、してほしいことでもあるのか。 虚空は耳を寄せて聞き取ろうとする。 あるじの望むことは何でも叶える。あるじのためにできることは何でもする。それが虚空の誇りなのだから、どんな些細な一言も聞き漏らしてはならないのだ。 「……」 はっ、と虚空の目が見開かれた。 ぎゅう、と握りこんだ拳のなかで、爪がてのひらに食い込む。 (何故) 何度となく芽吹き、そのつど摘み取ってきた疑問の萌芽を、止められなくなったのはそのときだったかもしれない。 (何故、何故、何故――) かっ、と熱くなるのを必死にこらえる。忍びは感情になど振り回されてはならない。 だが、疑問は反響する。 何故、こんな目に遭わされてまで、その名を呼ぶのか。 今夜も、前の晩も、その前の晩も。 義兄たちはあるじを呼びつけて、叱責する。 「当主が家を置いて出ていけるはずなどあるか」 あるじは俯く。詫びの言葉をつぶやく。そしてその下から、それでも探しに行きたいのだと懇願を述べようとするも果たせずに―― あとは決まって、折檻が二時間にも及ぶ。 それが常態となって、もうどれくらい経つだろう。 少なくとも、虚空の中に吹いた芽が、しなやかな枝ぶりを見せて育つには充分な時間が流れたのだ。 (俺は何を躊躇っている) 青い瞳はあるじを見つめる。 ただじっと、見つめている。 (このままでいいはずなどない。この先は袋小路だ) 自分はどんな顔をしているか。 おそらく、あのものたちに手をかける瞬間も、あるじが、なんとかいう彫刻に似ていると言ってくれたその顔に返り血を浴びても、そこに表情が浮かぶことはないだろう。幼い頃から鍛錬に鍛錬に重ねた、それが忍びというものだ。眉ひとつ動かすことなく、やってみせる。 だが、もし。 そのことを、あるじに知られたら……? 血の海に臥す義兄たち。 返り血にまみれた虚空。 呆然と、それを見るあるじがそこに立っていたら、その瞳に映る自分は、どんな顔をしているだろう。 あるいは血煙のなかで、あるじの目から見れば、自分は鬼神にしか見えないのではないか。憤怒の狂った鬼面としか映らないのではないか。 「だから」 思わず、口を衝いて出た。 「……だから、なんだってんだ」 すとん、と襖を閉めた。 ◇ ◇ ◇ 月夜である。 夜半であるから、庭にあるのは虚空の姿だけ。 諸肌を脱いだそのうえに、蒼い月影が降りてくる。西洋人の血統を継ぐその肌は白く、なめらかだ。まさしく彫刻のようである。一見、細身に見えても、闘うものとして必要な鍛錬は、しなやかで強靭な筋肉となってその長身をくまなく覆っていた。 ゆっくりと、腕を動かし、肩を広げ、腰を落とせば、鍛え込まれた筋肉のひとすじひとすじが、隆起し、または深い陰を生む。 虚空の手にはひとふりの真剣が握られている。 その刃が、月の光をぎらりと反射した。 深く、呼吸する。 それにつれて厚い胸がゆっくりと上下する。 ひゅん、と風を切る音。 踏み込む脚が庭土を削るほどなのに、不思議と音を立てない。 真剣が、夜風を裂く。 月光を弾く残像だけが閃くほどの速さだ。 踏み込んで、斬って、斬って、斬って、受けて、捌いて、引いて、また踏み込む。 虚空の目には、切り結ぶ相手が見えているはずだ。 しかし傍目には、宙に向かって剣をふるっている。烈しいのに、それはどこか優雅で、奇妙に静かで、能の舞いにも、似る。 薪能の、舞台の上を摺り足で滑るように動く舞手。 びょうびょうと哭く横笛……打ち鳴らされる鼓の音。謡の声。 そっと盗み見たあるじの横顔。 かがり火が照らす、歳よりもずっと若く見えるそのおもて。魂を奪われたように、舞台を見つめる瞳。 (虚空……) 帰り道、彼はぽつりと言ったのだった。 (あの鬼になってしまった女の人は、鬼になっても、会いたいひとがいたんだね) ひゅう――、ん。 庭木から散った葉だった。真一文字にふるった白刃に、触れたとも見えないのに、すっぱりと真っ二つに分かたれ、庭石の苔のうえにはらりと落ちる。 ぴたりと静止した刀の鋒。 あれだけ烈しい動きをしてなお……肌は上気し、汗がその表面を濡らしてはいるけれど、虚空は息を乱していない。 まっすぐに構えた、柄を握って伸ばした腕でさえ、微動だにしないのだ。 ましてのその目は、宙を見据え、動きはしない。 「忘れんな」 彼は言った。 目の前の、彼にしか見えない、剣の相手に向かって言った。 夜風が渡り、庭木のこずえをざわつかせる。 叢雲が月を過ぎれば、夜半の庭は闇に包まれ、そしてまたぬめぬめと蒼い月明かりの下にさらけ出される。 そこに立つのは虚空自身だ。 虚空の中にいる、鬼面をかぶったもうひとりの己だ。 「お前が畏れているものは何だ。あいつに……拒まれることか。義兄の仇と、恨まれ、蔑まれ、避けられることか」 ぎり、と間合いをはかる。 「もしそうなったら、どうする」 幻想の剣士が仕掛けてくる。 その刃を、半身を傾けて避け、捌く。ふれあう真剣が、きぃん、と硬いを音を立てるのを、虚空はたしかに聞く。 「忘れんな。たとえそうなろうが、お前は」 そして斬り込む。 「お前の意味は、全部あいつの幸いのためにあるってことを」 まっすぐに、振り下ろした。 真剣が、鬼面をまっぷたつに割り……それが乾いた音を立てて転がる。 虚空の頬を、すうっ、と汗が伝う。 月夜の庭には彼ひとり。 他に誰もいるはずもない。 ただ、椿が一輪、ぽとり、と花を落とした。 ◇ ◇ ◇ あるじが眠る部屋の床の間に、赤い椿が生けられていた。 虚空は、もういちどだけ、あるじの寝顔を振り返る。 穏やかな寝顔だ。 そうだ、今は眠っているがいい。なにもかも忘れて、夢の中へ。 目覚めたときには、ぜんぶぜんぶ、悪い夢だったと……そう言ってやりたいが。 自分は今、どんな顔をしているだろう。眠るあるじをじっと見つめている自分は。 いや、もうそんなことは考えまい。 忍びとは無私の存在。自分がどう見えようと構いはしない。ただ、己のあるじの安寧のためにしか、この命、この身は在りはしないのだ。 あの紅い椿を、あるじは喜んでくれるだろうか。 そしてあの椿よりも紅い、血にまみれた義兄たちの屍を、彼は哀しむだろうか。 だが、それでも。 (俺はその紅をお前に捧げる。庭に咲く椿を手折って渡すように、やつらの首を捧げもって、そら、これでもう誰もお前を傷つけない、と……そう云ってやろう) 虚空は、すっ、と襖を閉じた。 そして閉じた襖を背にしたときにはもう、その顔から一切の表情は消えていた。 どこか遠くで、むせぶような笛の音と、高らかな鼓の音が聞こえた気がした。 (了)
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