「先生……有馬先生!」 うっそりと、有馬春臣は振り返る。 職員の女性が、微妙な表情で彼を見据えていた。憤りのようでもあり、戸惑いのようでもあり、あるいは恐れのようでもある、なにをどう切りだしていいかわからないような顔つきだった。 「何か」 「いえ、あの――今日の14時からの会議、いらっしゃいませんでした」 「ん。ああ」 「お電話したんですよ」 「すまないね」 大してすまなさそうでもない声で春臣は答えた。 「……事務長、ご立腹でしたよ」 「次は必ず」 「そんなこと仰って。合コンの話じゃないんですから」 「合コンなら行くさ」 ゆるく、微笑った。 そのまま踵を返す。くたびれた白衣の裾をひるがえし、ひたひたと歩く。春臣は長身だが、猫背だし、痩せているので大きいというよりは、細長い印象がある。 病棟の廊下を歩く姿は、深海の珍しい魚のように映った。 実際――、春臣は「変わった魚」だったのだ。 ひそひそと、背中に聞こえる囁きに、横目で一瞥すれば、職員や同僚の医師たちが噂に興じている。 (有馬先生、またミーティングすっぽかしたんだって) (そうなんですよ。本当に困っちゃいます) (症例研究は出てくるんだけどねえ……委員会とか、そういうのは嫌いみたいだ) (でもそれだって病院のお仕事のうちでしょう?) (なんだがねえ……いくら腕が良くったってあれじゃあ……) ――煩いな。 春臣は避けるように廊下の角を曲がったが、その先のロビーでまた別の一団と出くわしてしまう。 せいぜい目を合わせずに、軽い会釈だけして通りすぎたが、春臣という存在は、ただそれだけで、場を波立たせずにはおかないようだ。 (彼、せんに事務長と衝突したことあるだろう。ということはだ、考え方としては副院長に近いということなんじゃないの。私は彼にも話をして――) (いやいや、事務長派じゃないってだけでさ。有馬先生はなんていうか……) (俺、聞いたことある。なんでもおかしなところに出入りしてるって) (おかしなところって?) (それがさ……) 大学病院は巨大な水槽だ。 たくさんの魚たちが、それぞれの群れをつくって回遊している。 春臣は、その中で、どの群れにも属さず、どの魚とも鱗の色が違う一匹だった。 コポコポと――他の群れたちが吐き出す《噂》や《憶測》の気泡には目もくれず、彼はするりと岩陰へ。 ――私は医者だ。 ならばやるべきことはひとつしかないではないか。 「どう? リハビリの調子は」 休憩スペースに居た患者に話しかける。 「なんでもないときに痛むようなら言って。でもなるべく歩くほうがいいからね」 漏れ聞こえてくる囁きや、絡みつくような視線は意識から閉め出した。 「有馬」 呼び止められたのは、同じ場所。 しかし、すでに夕暮れ時であったので、窓からは西日が差し込み、廊下は赤く染まっていた。 そして呼び止めたのは―― 「いつこっちに?」 夕日の中にたたずんでいる旧知の姿をみとめ、有馬は驚いた声を出す。 「久しぶりだな」 「ああ……そうだな。電話してくれたらよかったのに」 「忙しいのか」 「まあな」 「疲れた顔だ」 憐れむように、相手は言った。 「それは……な」 朝から働きづめだから疲れもする。 にしても、そんなにひどい顔だろうかと、窓ガラスに映してみたがよくわからない。ただ、思わず顔をなぜた手には、無精ひげの感触が残った。 「ここの水が合ってないのだろう」 硬質な声。 春臣は眉を寄せて、相手を見つめ返す。 彼は研修医時代の同期だった。 廊下の窓を背にして立つ相手の顔は逆光になり、今ひとつその相貌をとらえきれない。にもかかわらず、その目が春臣へとじっと視線を注いでいるのがわかる。 射抜かれるような視線だ。 「……何だって?」 「こんなところに居るべきじゃないんじゃないのか」 「何を言っているんだ、急に」 「本当にここに居たいか。こんなところで働いていたいか」 「こんなところって――」 神経を磨耗させる激務はともかく。 それ以外の、わずらわしい事どもが嫌ではないと言えば嘘だった。 「もっと自分が求められている場所で、自由に働きたくはないか」 「……何を……」 「海外のある病院から呼ばれている」 彼は言った。 「良い病院だ。……一緒に行かないか。待遇は破格だぞ。それに、ずっと自由に働ける」 「……ほう」 ようやく話が見えてきて、春臣は余裕を取り戻す。 「それはよかった。……考えておこう」 「だめだ」 有無を言わさぬ強い口調が、突き刺すように告げた。 「すぐに返事をくれと言われている」 「……急だな」 「だから来た。おまえは、行くべき男だから」 「それは……」 買いかぶりじゃないのか、という言葉は出てこずに、唾液とともに喉の奥に消えた。 視線。逆光のシルエットの、黒々とした深淵のような影の中から、春臣を見つめている一対の目。 夕日が描く輪郭は燃えるような赤さを増し、包帯に滲む血のように徐々に広がっていった。 「一緒に行こう」 「……」 「こんな場所に居るべきじゃない。もっと、ふさわしい場所へ」 「……」 「さあ……」 ぐわっ、と、そのシルエットが何倍にもなって、魚眼レンズで歪んだ視界いっぱいに広がったような錯覚があった。 しかし。 「断る」 決然と、春臣は言うのだった。 「……なぜ」 「たしかにここは最良の職場じゃない。けどな」 春臣は片頬をゆるめる。 「だからって、さっさと立ち去ってしまうのも……“なし”だな」 「……」 「今は目が離せない患者がいる。それだけじゃない。嫌だから辞めるってわけにもいくまい。それが仕事ってもんだろう。そのくらいの分別はあるつもりだ」 「……」 「でも、ま。確かに永遠にここに居るっていうのも願い下げだ。……けど、自分がいつ何をするかは、自分自身で決める。……悪いが、そういう小賢しい誘惑は嫌いなんでね」 春臣は、旧知の医師を睨みつけた。 逆光で、顔はわからない。 思い出そうとしても、うまく記憶の中から浮かび上がってこない。 だから、影に沈んだそこは、黒い絵の具で塗りつぶされた無貌の仮面のようであった。 「……ま、そういうこった」 軽く片手をあげて、春臣は歩き出す。 相手は何も答えない。 すれ違った背中に、 「後悔するぞ」 と声がかかった。 「それも自分で決める。わざわざ来てもらって悪かったな」 「……また来よう。いつか、また」 「そうだな。いつか、また」 「そのときは――」 「自分で決める」 春臣は繰り返した。 「その時、必要なら契約してやる」 吐き捨てるように言いながら振り向いたとき、すでに相手の姿はどこにもない。 独りきりの廊下に、くくく、と忍び笑いだけが残響する。 (いいだろう。その言葉忘れんぞ) 風にさらわれる砂のように、声は消え入りながら言った。 (忘れないからな。有馬春臣――) 「……」 苦い表情でたたずむ春臣。 そのときだ、首から下げたPHSが鳴り始めた。 画面を見れば外線だ。しかも……今しがた会話していたはずの相手の名前が表示されている。 「……もしもし」 「ああ、有馬か」 懐かしい、声だった。 ああそうか、こいつはこんな声だったんだ、と春臣は思った。同時に、念頭に顔が浮かんできた。 「聞いたか?」 「何が?」 「……先生が亡くなった」 それは恩師の訃報であった。 「俺、今すぐ新幹線乗るから……なんとか通夜にも間に合うと思う。有馬も来るだろう?」 「あ……ああ……」 朗々とした読経――そして、そこかしこで啜り泣きの声。 春臣はじっと、祭壇の写真を見つめていた。 「ここ一年くらいは、診療所も閉めてたらしい」 「……」 「知らなかったよ。そんなに悪かったなんて。大学辞められてからは、あまり連絡も取ってなかったから」 言い訳するように、同窓の旧友は言って、残念そうに俯く。 喪色の和服を着た老婦人――故人の内儀であろう――が、傍へ来て、春臣たちに頭を下げた。 「この度は――」 ふたりして、悔みを述べる。 「主人はいつもお二人のことを気にかけておりました」 未亡人は語った。 「最期は、仕事ができないことがなにより残念そうで……そのかわりに、後進や教え子の活躍が気になっていたんですねえ……」 恐縮する友人を残し、春臣は失礼、と言いおいて場を逃れた。 弔問客の流れに逆らって、外へ。 夜気に頬を冷やしながら、喪服のネクタイをむしるようにして襟元を開けた。 ――こうなることを知ってて、わざと。 奥歯を噛み締めると、口の中に苦い汁が広がるようだった。 「おい、どうした」 追いついてきた友人に、春臣は、 「念のため聞くが……さっき新幹線でこっちに着いたんだな?」 「はあ? 何言ってんだ?」 「いや、いい」 と確認すると、夜空を睨みつけた。 ――ああ、そうだ。強がってみせたが、これこそ自分が恐れるものだ。 恐れる……のとは少し違うかもしれないが。 嫌であるには違いない。 いつか……自分もまた老いて、仕事が続けられなくなる日がくるということ。 そういう日が来るであろうということを、考えること。 それが嫌だ。 (……また来よう。いつか、また) あの存在はそう告げた。 あれは狡猾だ。 そう言ったからには、あれはまた必ずあらわれる。そして今度は、確実なときにあらわれるだろう。すなわちそれは……春臣が断らないときということだ。 そのときがくれば……自分はあれを受け入れるだろう。 あの存在は、残酷な性でもある。 そのような予感を抱かせておきながら、実はもう二度と姿を見せないつもりかもしれない。 そして老境の春臣が、いつかあれにまた会えたら、その時は、その時は、と思っているうちに、ひたひたと死の足音が迫り来てそれでもまだ姿をあらわさず、春臣が焦り、ああ、あの時に契約しておけばよかったと思うのをどこかで嘲笑う――そういったこともあるかもしれない。 (……その時は、その時か) 苦笑を、漏らした。 ポケットの中でPHSが震えている。 「……はい」 「有馬先生ですか? すみません、実は急変で――」 現実が、追いついてきて、春臣を引き戻した。 そうだ、これが今、自分が立ち、向き合っている世界だ。 ここから逃げ出すわけにはいかない。 その結果がどうであれ……ひとつひとつの選択を、たしかに自分で選び取ってきたならば、その先に何があろうといいではないか――。 「血圧は? ……よし、じゃあ、酸素吸入の準備。すぐに行くから――」 自分は医者だ。 その役目をまっとうすべく、春臣はタクシーを止めようと手をあげるのだった。 (了)
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