「あ――」 目覚めると、ベッドに寝かされていた。 それも、天蓋に覆われた豪奢なものである。ジュリエッタの小柄な全身が沈みこむようなやわらかなクッションに、手触りのよいシルクのシーツ。 驚いて起き上がると、記憶が甦ってきた。 (なんとかなだめて――連れて来て下さい。ターミナルの住人に被害が出ないうちに、急いで) 司書からの、緊急の依頼だった。 異世界で保護され、ロストレイルで連れて来られたばかりのロストナンバーが、保護の手を振り切り、ターミナル内を逃走しているのだという。なんらかの理由で、パニックに陥ってしまったのだろう。ありえない出来事ではなかった。 そのとき、たまたま図書館ホールに居合わせたものたちが司書の命を受け、手分けしてターミナルに散った。 ジュリエッタはその一人だったのだ。 彼女自身、ターミナルに来て日が浅い。混乱に陥って暴れるロストナンバーの気持ちはわからないことではなく、画廊街の近くでかれを見つけると名を呼んで駆け寄ろうとしたが、そうすると相手はますます逃げようとする。 どのくらい追いかけっこが続いただろう。 気づけばジュリエッタは相手を見失ったばかりか、見たことのない場所に紛れ込んでいたのだ。 見事な薔薇園をそなえた、赤煉瓦の壁の城館である。 「これは困ったのう……。もし、誰かおられぬか」 庭から館内へ。 静謐な空気に満たされた廊下を曲がったところで、はた、とフットマンらしき男に出会ったところまで、覚えている。 (そうじゃ、そのあと……) ベッドを降り、見回した部屋の調度類も、壮麗にして豪華の一言である。 サイドテーブルの上に、パスホルダーがそっと置かれていたのを、手にとった。 しかしトラベルギアと、セクタンのマルゲリータが見当たらない。 「お目覚めですか」 声に振り向けば、魚の図案を刺繍された服装のフットマンが、真っ赤なハート柄のスカートを履いたメイドを従えて立っていた。 「こちらへ。ミストレスがお会いになります」 「先程は、非礼をした。どこかに怪我は」 ジュリエッタはフットマンに問うたが、彼は答えずにさっさと背を向けてしまう。 仕方なく、ジュリエッタは案内されるままに歩くしかなかった。 そして、ガラス越しに薔薇園を見渡せるサンルームへと通されたのである。 「おかけなさい」 その姿を、ジュリエッタは今でもまざまざと思い出すことができる。 深い臙脂色のドレスと、大理石のように滑らかで白い肌、結い上げた金髪の対比は、神々しささえ感じさせた。ソファにかけたその優雅さ、フットマンに命じるときの振る舞いの自然さは、彼女がまぎれもない上流階級の、貴人と呼ぶにふさわしい階層の女性であることを物語っている。 そう――、フットマンは女主人(ミストレス)に会わせる、と云ったのだ。 「失礼をお詫びする」 ジュリエッタは、コーテシーの所作をとった。 緑の瞳がその様子をじっと見つめている。これは謁見の儀式だ。女王が屋敷に迷い込んだ招かざる客を値踏みするための。 「ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノと申します」 「ではイタリア人ね」 女主人は言った。ジュエリエッタの名から判断したのだろう。 「左様」 「まだ若いようだけれど。セニョリーナ、ここがどこかは知らなかったようね」 「……? ご婦人のお屋敷であろう。実はわたくしは司書に言われて――」 一部始終を、ジュエリエッタは語った。 ロストナンバーを追って迷い込んでしまったこと、そして鉢合わせしたフットマンが、いきなり刃を向けてきたので、こちらもついトラベルギアを出してしまったこと。 女主人は黙って話を聞いていたが、その傍にすっとやってきたフットマンが彼女の耳元になにかを囁く。女主人が頷けば、メイドが銀の盆のうえに短刀を……ジュエリエッタのトラベルギアを持ってきてくれたのだった。 「嘘ではないようね。図書館に照会して依頼があったことは確認できました。貴方の追っていたロストナンバーは保護されたそうだけど」 「おお、そうであったか。それならよかった」 「自分のギアの扱いに慣れていないのかしら、貴方は」 「あいすまぬ。実はごく最近なのじゃ、ロストナンバーになったのも……」 「でしょうね。……もう返してあげたいけれど、セニョリーナ。このターミナルにも法というものがあるわ。この城に無断で立ち入った以上、たとえそれが過失にすぎなくとも、ただで帰らせるわけにはゆかないの」 「……そうなのか? それは困ったのう。あいにく、ナレッジキューブの持ち合わせも大してない。それに……たしかに、他人の屋敷に勝手に入ったうえギアを暴走させて自分が気絶し、厄介をかけたのは申し訳なかったが、問答無用で刃を向けてくるのもどうかと思うのじゃが」 フットマンとメイドの、それまでまったく無表情だったおもてに、かすかにではあるが驚愕が浮かんだ。 この女主人に大して反論する人間がいることが信じられないといったふうであった。 「……。どうやら……本当に私が誰か知らないようね。……いいでしょう。私は、今からお茶の時間にしようとしていました」 女主人は言った。 「今日のお茶は貴方がお淹れなさい。『美味しい紅茶』を淹れることができれば、今日のことは不問にします」 ジュエリエッタはメイドに案内されて厨房へ。 その間に、フットマンは窓辺のテーブルのクロスを整え、お茶の時間の支度が行われるのであった。 「お待たせしたのう」 ジュエリエッタ自らがワゴンを押してあらわれた。 横合いから、メイドがそれを奪い取るようにして、テーブルのうえに食器を並べてゆく。 「あなたもおかけなさい」 「では遠慮なく」 差し向かいでテーブルにつく二人。 ティーカップに紅茶が注がれる。 女主人はかすかに眉根を寄せた。 「……ミルクがないのね」 「ミルクはないのじゃ」 ジュエリエッタは堂々と応えた。 「……」 そして、自分のカップの中にレモンスライスを浮かべる。 女主人は、ストレートのまま、紅茶に口をつけた。 ソムリエールがワインを含むがごとく――。 凝縮された間合いを置いて、彼女は言ったのだった。 「良く、淹れられているわ」 「それはよかった」 ジュエリエッタの顔がほころぶ。 「……セイロンを選んだ理由は」 「ご婦人は『美味しい紅茶』と言われた。じゃが、何が美味かなど、人によって違うものじゃ。ご婦人がイギリスの方なのは承知しておったが――」 整然と整えられた薔薇園に、組織だったフットマンとメイドを従えた屋敷、そのドレス、調度類、お茶の時間へのこだわり……いずれも、イギリスの習慣だ。 「……しかしただ『美味しい紅茶』とだけ言われたなら、わたくしはわたくしが美味しいと思うものを用意する。そうでなくては、わたくしの淹れる意味がないからのう」 「イタリアでは紅茶といえばレモンティー……そういうわけね」 女主人は、レモンスライスを紅茶に沈めた。 柑橘類の果汁の成分を得て、深い紅茶の色がさあっと浅く変わる。 「このクッキーはアールグレイのクッキーじゃ。良かったら」 「……。あなた」 彼女はジュエリエッタを見つめて、そして言った。 「最近、ロストナンバーになったのだと言ったわね」 「左様。ご婦人は長くこちらに?」 「そうね。長く……とても長いこと。時の止まった0世界で、私の時も止まったままだわ。……あなたもこれから、長い長い停滞の生を過ごすことになる。……恐くは感じない?」 「そうかの? たしかに己の時が止まるのは恐ろしいものかもしれぬが、もうわたくしにはお爺様しかおらぬゆえ、あまり気にせぬことにしておる。それよりは前を見ねばのう。紅茶一つでも国によって好みや淹れ方が違うように、様々な世界との出会いを、出会えるかもしれぬ恋を、今は楽しみにしておるよ。……ご婦人は、そうではないのかのう?」 「……私から、ひとつ忠告があるとするのなら」 彼女は言った。 「私に試されていると知りながら、英国式ではなく、イタリア式でお茶を淹れたように、自分自身を見失わぬこと。そうでなければ、ロストナンバーは自身の旅のゆくえを見定めることはできないでしょう。旅はロストレイルによって行うのではないの。いつだって、自分を前へ進めるのは、自分自身なのだから」 ホーゥ、と声が響いた。 「マルゲリータ!」 ジュエリエッタのセクタンだ。 オウルフォームのセクタンが、薔薇園に舞い降り、コツコツとガラスをつついていた。 「どこへ行っておったのじゃ!」 「貴方」 女主人は言った。 「オウルフォームを連れていたのなら、『ミネルヴァの眼』を用いれば、路にも迷わかなかったのではなくて?」 「あ、それは……」 言われてみればそのとおりだ。 ジュエリエッタは思わず赤面し、そして笑った。 マルゲリータがもういちど、ホーゥ、と鳴いた。 そんなことがあったのが、もうどれくらい前のことだろう――。 「先日の花宴では、驚いたのじゃ」 ジュエリエッタは、仲間にそう語った。 「あのときのご婦人が、レディ・カリスだったとはのう」 それではきみはレディ・カリスと差し向かいでお茶を飲んだのか、と、今度はジュエリエッタが驚かれる番だった。 そして、『赤の城』に迷いこみ、よく無事だったな、とも。 「知らぬこととはいえ、わたくしもずけずけと話してしまったものじゃ。しかしわたくしには……レディ・カリスは、言われているほど恐ろしい女性にも思えぬのじゃ。あれからずいぶん経つが……彼女はターミナルができた頃からここにいるのじゃろう? いったいどれくらいの時間を、あの城で過ごしておったのじゃろう。侵入者にただちに刃を向けるような屋敷とは、逆に言えば、そのようなものたちがあの城を訪れるという意味。彼女はあの城で、気を許してお茶を飲むような時間を持てておったのじゃろうか……」 近年、英国王立化学協会が『一杯の完璧な紅茶の入れ方』という題の文書を発表したことが話題になった。 むろん、ウィットの一種であるが、そこに示されていたのも、ミルクティーである。英国ではレモンティーは基本的に好まれない。 ジュリエッタが諭すまでもなく、しかし、絶対の、唯一無二なるものなどないことを、レディ・カリスは当然承知していただろう。最古参のロストナンバーとして、あまたの世界群について知り、大勢のロストナンバーをこのターミナルに受け入れてきたのだから。 あの日、ジュリエッタが淹れた以外に、『赤の城』でレモンティーが淹れられたことがあるかどうかは、誰にもわからないことである。 (了)
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