『お前は何故戦う』 「それは――」 言葉に、詰まった。 ハルカ・ロータスの肉体は、すでに細胞のひとつひとつが悲鳴をあげているような状態だったと言ってよい。 疲労し、傷ついた身体は、心をも弱らせる。 闇の中から大きな鉄骨が唸りをあげて襲いかかってきた。 いつもなら避けられたはずの動きがとれず、まともにその追突を受け止めることになってしまった。ごぼり、と血の泡が口内にあふれた。全身が軋みをあげる。 埃の積もった床のうえに膝を折り、血を吐き出した。 骨折した。 ハルカは喘いだが、息を吸い込んでも取り込まれるのは、よどみ、湿った瘴気のような空気だけだった。 身体を支えることができずに、そのまま倒れる。 まずい、と思った。すぐに次の攻撃がくる。身を守らなくては。 反射的に身体を縮め、そして盾になりうるものへ念動力の焦点をあわせようとなかば自動的に周囲へ意識を飛ばす。 だが、全身を苛む痛みが、なかなか意識を集中させてくれない。 それだけではなく、戦いのあいだずっと……ハルカの脳内には、彼自身のものではない《声》が響き続けているのだ。 (何故だ) それこそ、暴霊の最大の攻撃であった。 暗がりにたたずむ、ボロをまとった姿。それが音ならざる声でもって、ハルカに囁き続けていた。 (何故におまえは戦う) 「何故……だと……」 必死に、身体を起こそうとした。 血と汗のまじりあったものが、ぽたぽたと滴る。 「それは……戦うことが……」 食いしばった歯のしたから搾り出す。 「俺の――家族の、ために」 (家族だと) 暴霊の声がせせら笑った。 『家族というのは、誰のことだ』 「そ……」 それは、と言いかけて、ハルカの心は立ち竦む。 ずっとずっと俺は戦い続けてきたはずだ。 家族のために。 家族の―― 漠然と、脳裏に浮かんだイメージは、すぐに拡散し、闇の中に溶けてゆく。 目の端にはちらちらと見えるのに、はっきり見ようとするとどこかへ行ってしまう。知っているはずだ。その声も、名も、顔も、手触りも、匂いも。確かに知っている、知らないはずがない、忘れることなどありえないという実感がある。それなのに、思い起こそうとすると、それは指のあいだから零れ落ちる砂のように消えていく。 思い出せない。 顔も名前も。家族構成さえも。 そのときだ。 『おまえに家族などいない』 そんなはずはない、と声を限りに言い返したと思ったが、音にはならなかった。 冷たい床の感触。 全身の傷から、血が流れ出し、体温が奪われていく感覚があった。 ハルカが覚えているのは、そこまでだ。 * 「……もうだいぶやられたらしい」 「動いている探偵はいないのか?」 「まっさきにやられちまったからな……」 「このまま暴霊域になっちまったら、地区ごと封印するしかなさそうだな」 なにせちいさな屋台の席のこと、聞くでもなしに、隣の会話が耳に入ってくる。 やがて話の主たちが席を立っても、麺をすする手を止めがちな彼に店主は、 「気になるか」 と、問うた。 隻眼の店主は、汁麺の屋台のあるじでありながら、この街区で探偵として商う男だった。 そしてアキ・ニエメラは、彼の依頼を終えて、食事にありついていたところである。 「……放棄された廃墟に暴霊が発生して暴れているらしい、という話だ。よくあることだ。とても、よくある」 アキの青い瞳が、店主を見た。 インヤンガイの街区には探偵たちがいて、機能しない体制のかわりに人々の困りごとを解決している。隻眼の探偵は肩をすくめた。 「連中が話していたのは隣の街区のことでね。あいにく縄張りというものがある。よそのことには口を出さないのが不文律というやつだ。だが――気になるなら場所を教えることはできる」 「それはありがたいな。帰りの列車が出るまでまだ時間があってな」 アキの言葉は本当だった。 本来、依頼された、黒社会の犯罪を取り締まる仕事は思いのほか早くかたがついたのだ。汁麺を一杯食べて、それでも十分にお釣りがくるだけの時間が残されていた。 問題の場所は苦もなくたどりつくことができた。 放棄領域と聞いていたが、ごく簡単なフェンスと有刺鉄線で遮られているだけで、それが破れている場所はいくらでも見つけることができた。 大規模な高層集合住宅が、建築中に計画が頓挫し、そのまま放置されて幾年も経ったらしい。 駆体の工事が半ばといった感じで、無造作なコンクリートの空間がどこまでも続いていた。携帯してきたライトをつけると、光の輪の中に、打ち捨てられたもの寂しい廃墟が浮かび上がる。 建築中に放棄されたのであるから、かつてここに人が暮らしていたことはないはずだった。しかしそれなのに、アキは、奥へと進むごとに、闇のなかにじっと息を殺す人間の情念の残滓のようなものを感じるような気がした。それは彼がもつESP能力のためかもしれなかったし、あるいは、インヤンガイとはそのような場所だということなのかもしれなかった。 立ち入り禁止と言われていても、この場所には、もぐりこんで塒としていたホームレスもいたし、面白半分に入り込むものもいれば、貧民街の子どもらが売っていくばくかの小銭に変えるための廃材を拾いに来ることもあったようだ。 だがそれも今は、ない。 「……」 あきらかに血のあととおぼしい染みが、打ちっぱなしの柱や壁、床のあちこちに見られることに気づいて、アキはわずかに眉を寄せた。 キィ……、とかすかな音に脚を止め、素早く光を向けると、天井からたわんで下がったなにかのコードの束が揺れ、配管にこすれて音を立てていた。 キィ……、キィ……。 コードの束は、風もないのに揺れていた。 そこに、ゴミがひっかかっている、と思ったのが、よくみると、乾いた肉片の残滓と髪の毛だと、アキが気づいた、その瞬間――。 轟音! 砕けたコンクリート塊がアキの立っていた場所に激突し、暗い空間にもうもうと土煙を充満させる。 飛び退いたアキの身体が回転すると、携帯ライトの光が脱走犯を追うサーチライトのように闇を裂いた。その中を、第二弾、第三弾のコンクリート塊がやってくる。 だがそれもアキをとらえることはかなわなかった。 ナイフを抜き放ち、駆ける。 静かな、流れるような動きだ。 対して、前方から荒々しい足音が近づいてくる。 一見してそれは、廃墟にすみついたホームレスだったり、ツナギの作業服を着た工事従事者のように見えたが、瞬間、ライトに照らされたその顔は、すでに生命なき死者のそれであった。 眼窩はぽっかりと黒い深淵が口をあけ、同じくうつろに開かれた口は呼吸することなくただ腐臭だけを発している。ひからび、骨にまとわりつくだけの皮膚をもった、それは死骸である。暴霊の犠牲者が、その骸をいまだ弔われることなく操られているのだ。 死者たちは手に手に鉄パイプを持ち、アキに襲いかかってきた。 ギィン!とけたたましく響くのは、鉄パイプがアキではなく床を打つ音。アキ本人はそのとき、宙空にいる。そのまま、振り下ろされた鉄パイプのうえに着地し、手にしたナイフを横薙ぎに繰り出す。相手が生きた人間なら、武器を封じられたうえで、喉を割かれ、絶命していたはずだ。だが死骸の喉を割いても鮮血が吹き出すこともなく、相手が倒れる様子もなかった。 別の一体が背後からアキを狙うが、鉄パイプを振り上げた姿勢のまま時間が停まったように硬直する。先天性のESP能力者であるアキが特に強く発現している『静止』の効果だ。 バックステップで飛び降り、間合いをつめると、『静止』した一体の胴体へ肘鉄をお見舞い、喉を裂かれてなお動き出す前方の一体へ意識を向けると、相手が手にした鉄パイプが飴細工のようにぐしゃぐしゃに折れ曲がり、さらには手を離れて顔面に命中した。 その勢いて死者の頭部がごろりと落ちる。 「こんな雑魚をけしかけて、俺をどうにかできると思うなよ」 誰にともなく、アキは言い放った。 そして、前方の暗闇へと目を向ける。 すでに、死者たちは動かなくなっていた。アキのワークブーツが、踏み出された。 ナイフは握ったままだ。 一歩、前へ出るごとに、空気の濃度が変わる気がした。嫌な気配が充満しているのである。 やがて、明かりが見えてくる。そこは、天井が吹き抜けになっていたのだ。 青白い月明かりが射し込む――完成すれば気持ちの良いパテオにでもなっていたのかもしれない場所だ。 アキは厳しい顔つきで見上げる。吹き抜けの中を、縦横に走るケーブルの束。インヤンガイは、霊力エネルギーを使って構築される世界と聞く。壱番世界で言えば送電線だ。そのケーブルが、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。実際、それは蜘蛛の巣だった。 なぜなら、そこかしこに、ぐるぐる巻にされた死骸があって、無残に吊るされていたからだ! その蜘蛛の巣の中央に、アキの眼光が突き刺さる。ボロをまとった人のように見えるもの……。だがその布地を突き破って、金属の脚がいくつも生えたかと思うと、まさしく蜘蛛のようなうごきでケーブルのうえを這いまわる。 振動が伝わって、吊り下げられている犠牲者たちの骸がゆらゆらと揺れた。 すると、どうやら幾人か、まだ生きているものがいたと見え、あちこちでうめき声があがった。 「野郎」 思わず、罵りの言葉が出た。 アキは跳躍すると、壁を蹴ってさらなる高みへ――ケーブルの一本を掴むや、まるでサーカスのような身軽さでそのうえにくるりと乗っかる。 暴霊が、アキに気づいて猛然と近寄ってくるのへ、ナイフを構えて臨んだ。 (戦うつもりか) 突如、頭の中で声が響いた。 「……当然だ」 常人ならそれだけでパニックになっていたかもしれない。アキには、暴霊の、テレパシーのようなものだとわかる。その『声』には恐ろしいほどの、怨嗟と憎悪の感情がこもっていることも、同時に感じていた。 (何故だ……) アキは、それには応えず、ケーブルからジャンプして、突進してきた暴霊を避けた。 ケーブルからケーブルへ。 「大丈夫か!」 生きているらしい人間に近づく。 「すぐに助けてやるからな」 目をこらし、真理数をたよりに救助すべき人間を数えていた、そのときだった。 「……!?」 アキがはっと目を見開いた。 次の瞬間、暴霊の鉄の脚が死角からアキを襲った。 「っ!」 ごくわずかに反応が遅れ、二の腕の肉をもっていかれた。 噴出す血しぶきの尾をひいて、アキの身体が落下していく。 すんでのところで、切れて垂れ下がっていたケーブルの一本を片手で掴んだ。 大きな振り子のように、アキの身体が闇の中で弧を描く。呼応するように、吊り下がった死骸たちがゆれた。 (何故、戦う) 殷々と響く『声』。 (お前は何故戦う) アキの目は、暴霊には構わず、その一点だけを見つめていた。 吊り下げられた犠牲者のひとり――銀の髪の、青年の姿。ぐったりと意識がないが、アキの目はかすかな呼吸の動作をみとめていた。まさか、そんなはずが、と思った。だが、見間違えるはずもなかった。さらには、彼のうえには真理数を読み取ることができない。 「ロストナンバー……なんてことだ。どういう運命だよ、これは」 どくどくと、やられた傷から血があふれるが、アキがそれに頓着する様子はない。 (お前は何故戦う) (何故――) そのあいだも、『声』は問い続ける。 気持ちをざわざわと波立たせるような不愉快な『声』だ。 アキは、低い声で、きっぱりと言った。 「教えてやろう。――生きているからだ!」 刹那、『声』は止んだ。 まるで予期せん返答に、絶句するかのようだった。暴霊が、気迫に怯むなどということがあるのかはわからないが……。 アキはブランコの要領で、自身をたくすケーブルに体重をかけ、その振幅を大きくしていく。 そのまま、手を離せば、彼の身体は宙空へと放り出されるが、軌道の先は暴霊の居場所であった。敵が、応戦のために四肢を広げようとしたが、『静止』の力がそれを阻んだ。そのときにはもう、間合いに飛び込んでいたアキが、ナイフの一撃を繰り出している。 予想したとおり、ボロ布の中に身体はなかったが、一体の、ちいさな神像のようなものを、彼のナイフは正確にとらえていた。曲刀を携えた異教的な神像は――それがいかなる経緯で暴霊の核となったのかはわからないが――ぴしりと、ひびわれ、そして粉々に砕け散ったのだった。 (何故――だ……) 風にさらわれる砂のように、残留思念がかすれてゆく。 「知るか」 吐き捨てるように、アキは言った。 「そんなことより、こいつは返してもらうぞ」 ケーブルをたぐりよせ、彼を――ハルカを抱き起こす。 「こんなところで死なせるわけにはいかない。こいつは、もっと幸せになっていい奴なんだ」 * 目を開けて、身体を起こすと、ベッドがぎしりと音を立てる。 ハルカはすばやく状況を確認する。それは兵士の常だ。 周囲の状況。狭い部屋だ。ベッドと簡素な家具しかない。簡易の宿泊施設のようなところだろう。まず、目に見える危険はない――OK。 自分の状態。負傷しているが、手当されている。手当の仕方は適切。活動は可能――OK。 現在までの経緯。たしか…… 「気がついたのか」 ドアが開いた。 湯気の立つ容器を乗せたトレイを手に、そこに立っていたのは。 「……」 「……おい、俺を忘れちまったわけじゃないよな?」 眉が八の字を描いた。 「まさか」 「俺のほうこそ驚いたさ」 トレイを置き、ベッドに腰をおろした。 大きな手のひらが、ハルカの髪にそっとふれた。 「よく、生きていた」 「アキ……! 死んだとばかり!」 アキが今度は両手でハルカの頭をつかんで、短い髪をぐしゃぐしゃとかき回した。 「悪かったな。心配させて」 こつん、と額同士がかるくぶつかる。 ああ――、不思議な安堵感が、ハルカを満たした。 「本当に、アキだ」 だって、彼の匂いがするから。 訥々と、ハルカは語った。 アキがもってきてくれたスープが冷めるのも構わず――だからアキが、合間をみて、いいから食えよ、と匙で掬ってやらなくてはならなかった――、覚醒して、ターミナルに着いてからのことを一息に語った。 もっとも、語るべきことがさほどあったわけではなかった。 なぜなら、ハルカは戦うことしかしてこなかったからだ。 世界司書がもたらす仕事の斡旋を受けて、その依頼をこなすのがロストナンバーの職務だと、最初に聞いたことに、ハルカは忠実すぎた。 ただひたすらに、闇雲に、幾多の世界群に赴き、その力をふるい続けてきたのだ。 ESP能力の使いすぎによる過労にも頓着せず、戦い続けた。ほかにすべきことを思いつかなかったのである。 「それで……海のある世界に、行ったんだ」 「ブルーインブルー」 「そう。勘違いしていて……任務じゃなくて、司書の休暇だって」 アリッサが新館長に就任してすぐのころ、世界司書の慰安旅行が行われたのだった。 ハルカが経験した、はじめての、戦いではない異世界旅行。ブルーインブルーの、下町を歩いた。現地の、貧しい家の家族の姿を見て、自分の家族のことを思い出した。 「でも」 ハルカの声がふるえる。 「思い出せなかった」 「……」 「家族がいたこと――貧しい家だったこと……それくらいはぼんやりとわかる。でも名前も、顔も……両親は揃っていたのか、きょうだいはいたのかどうか、いたとしたら……年上の兄姉か、年下の弟妹か……そんなことが、ぜんぜん――わからなかったんだ」 「……」 「俺……ずっと、家族のために戦ってきたはずだったのに……。暴霊(アイツ)に、『おまえには家族なんかいない』って言われて」 「それはまやかしだ。あれは心の隙をついて、相手の捕らえる、ただの怪物だ。怪物の言うことに意味なんかない」 「でも! 顔も名前も思い出せないんじゃ、実際、いたのかいないのかさえ――」 「そんなことはない!」 アキの手が、がっしりと、ハルカの肩を掴んで、自分のほうを向かせた。 「おまえはこれまで家族のために戦ってきた。それがおまえだ。今のおまえがある限り、家族がいなかったなんてそんなことはありはしないんだ。……その記憶の混濁を、どうすればいいのかは俺にもわからん。だが……考え続けるしかないんじゃないのか。生きている限り」 「……」 「おまえは今、生きてる。それは確かなことだろ。なら、まずそこから始めればいいじゃないか」 「……アキ」 長い、沈黙。そして、ハルカは静かに頷く。 「わかった。……考えるよ。せっかく生き延びたんだから」 「……ああ。今日は寝ろ。明日になったら」 こんな夜が、前にもあった気がする。けれど、いつだって、今日を生き残ることができても、眠って起きれば、次の日はまた戦場だった。 「明日になったら、一緒に帰ろうぜ、ターミナルへ」 アキはそっと微笑った。 それが今は――これからは違うのだ。 戦うことのない明日がくることがある――その事実に、ハルカは身震いするような、驚きとも、嬉しさともつかない、心の昂ぶりを感じて、ただただ、頷くしかできないでいる。 アキがその様子をやさしく見守り、そんなふたりを、インヤンガイの安宿の、裸電球だけがぼんやりと照らし出していた。 (了)
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