窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
ロストレイルのボックス席から、鹿毛ヒナタは目の前の景色に想いを馳せる。 窓の向こうに広がるのは無限の虚無であり、同時にありとあらゆる物質で満たされていると考えられる空間だ。 負エネルギーの詰まった真空をディラックの海というらしい。 ではこの空には一体何が詰まっているのだろうか。 可視と不可視の境界に、果たして見出すべき答えは存在しているのか。 そして《見る》ということは、すなわち視覚情報として認識するということだ。 視神経から伝わる情報が脳で解析され、認識へと繋がる。 けれど、自分の視界は決して他者とのソレを比較することは出来ないのだ。 すべては脳の中で起こる。 そうして、《認識》できなければ無と同じ。 今自分の隣に座っている男――今回の依頼で一緒になった彼は、のっぺらぼうと呼ぶにふさわしく『顔』がない。等身大のデッサン人形を彷彿とさせる姿形だ。 つまり、いわゆる『人間』と同じ視覚器官は有していないということだ。 なのに、彼は『視』えている。 以前聞いた話によれば、先天的に視覚を持たないモノは視覚を有しているモノとは別の色彩で世界が構築されているのだという。 本来、絵を見ることが出来ない彼は、別の感覚で以て絵を認識はするだろう。 でも、そうして作り上げられた認識を、やはり自分は共有することが出来ず、仮に彼の頭の中を覗く能力を自分が持っていたとしても、覗いた時点でやはり自分の視界に置き換わってしまう。 たとえば、セクタン。 この生物をどれほど写実的に描いたとしても、《カタチ》を認識するのは自分の脳であり、同時に《絵》を認識できないモノにとっては実存しないモノでもある。 当然、他者の観測内容を自身が観測した時点でソレは自身のモノとなり、ソレを置き換えようと試みたところでシュレディンガーの猫が笑うだけだ。 カタチ。 色。 デザイン。 絵画。 観測者が認識不可能となれば、紙面に描かれた一切は《不在》となり……それはまるで、ロストナンバーの存在の不確定性をも思わせる。 更に、数多の視覚情報の中でも《色》の認識ほど不確かなモノはないのかもしれない。 その証拠に―― 「ちょっといっか?」 思いつくまま、目の前に座る少女へ、先程ロストレイルのワゴン販売で買ったモフトピア産の飲み物を見せる。 「え、なに?」 「なあ、コレなんだけど、何色に見える? 表現に迷ってんだけどさ」 「ん~……ピンク、かな?」 「どーも」 自分がココア色だと認識している色を、ピンクと表現するこの少女の視界は、自分とは確実に異なっている。 こんなにも簡単に、ヒトによって色は変わるのだ。 色彩――それは儚く、意味を為さず、理解が難しく、遠い存在。 「……なのに、どうして色を求めるんだ」 視覚情報に頼り、氾濫する色たちを、一体誰が正確に捉えているのだろう。 氾濫する色と言えば――今回の依頼だ。 ヴォロスのあの《追憶の森》で見た巨大壁画。 心ないモノによって汚され、削り取られ、さらなる破壊活動が執り行われる直前に、自分たちはソレを止めることが出来た。 だが、いざ壁画を復元させようとしたところで、かなり大きな壁にぶち当たったのだ。 壁画を構成していたあらゆる色が褪せ、削げ落ち、意味を為さないモノと成り果てていた。 もしもソレが色ではなく、彫刻で以てすべてが描き出されていたとしたら、あれほどの難解さは生まれなかったのではないだろうか。 それでも、修復はした。 赤が青に重なり、緑は黄色と混ざり合い、ありとあらゆる色が互いに干渉し合ったその《画》を、守人たちの前に取り戻しはした。 《あの人は、こんな色で世界を見ていたんですね》 《色のひとつひとつに、あの日いた人々の心と名と歴史が刻まれていたなんて》 《……すごい、ホントにすごい》 そう呟く守人の呟きや、同行者たちの感嘆の溜息に、自分もまた無言で頷きを返した。 一度には視界に入りきらない巨大壁画の、圧倒的存在感――その片鱗に触れて、美術の世界に足を踏み入れた人間として震えが来た。 息を呑んだ。 しかし、それでもまだ足りないとは思った。 あの日あの時あの瞬間にここに描き出されたのは、もっと凄まじいパワーを持っていたと思えてしまう。 どれほど尽力しようとも、あの壁画が生まれた瞬間の、その時その場所で見えていたものとはまるで違う色となるのだ。 その瞬間に世界を満たしていた光そのものが、きっと現在(いま)とは違うのだから。 いや、そもそも壱番世界の人間が認識できる色と、別世界の別種族が認識できる色にも大きな差が出るとも考えられる。 遺伝子レベル、進化の過程における根本的な『認識力』の個別性は相当高い。 だとすれば、ソレは復元と呼べる行為だったのか? そういえば、復元された壁画を、カオナシの彼も当然のごとく『視』ていた。彼は彼独自の知覚でもって平面図であるはずの絵画修復の手伝いにも問題なく参加していたのだ。 ここでまた考える。 彼にとって、自分がいま視ている世界はどのような認識で埋められているのか、と。 再び溜息が落ちた。 誰も本当の《色》など理解できない。 誰も描いた本人とすべてを共有はできない。 「それで? さっきから妙に物憂げだけど、何の意味があるわけ?」 こちらの内側を覗き込むような少女の瞳が自分をまっすぐに捉えていた。 「意味?」 「だって、あなたの頭の中って別のことでいっぱいだもん。なのに神妙な顔してさ、変だよ?」 「…………」 いや、事実思い切り覗き込んでいるんじゃないだろうか。 『あれ、逃げてるんですか、ヒナタさん?』 デザイン人形な彼まで会話に入ってきた。 「……逃げてるみたいよ、全力で」 『ほほう? 逃避行ですか?』 「ああ、そうだ! 現実逃避だよ! 課題提出が明後日に迫ってんだよ、もう48時間切ってんじゃん! すんげえ目の前に迫ってるよ!?」 「じゃあなんて依頼受けたの?」 「『色相環全12色を使ったグラフィックデザインの提案』とか詰むに決まってんだろ! バーカバーカ!」 その罵倒は少女に向かっているのではない。自分と、そしてこんなとんでもない課題を思いついた講師にぶつけられたものだ。 「俺の残念っぷりを思い知れ、こんちくしょうっ!」 泣きたい。 泣き伏したい。 泣き伏して、さらなる遠い地へと全力で逃避したい。 「あらら。強く生きてね」 『ええと……頑張ってくださいね?』 「心を強く持って」 「ファイト!」 愛らしい少女から、デッサン人形めいた青年から、それ以外にもなぜか席の近くや通り掛かった者たちにまで暖かく応援され、肩を叩かれ。 「うわあ……っ!」 たまらず頭を抱えて蹲った。 どんなに拒否し、逃避したところで、現実問題として提出期限は迫っている。 その事実は、これから課題提出の瞬間まで一睡も出来ないだろうという、神経をすり減らす色彩地獄の始まりをも意味しているのだ。 そう。 壁画の護衛と修復など、戦いと呼ぶにはあまりにも生ぬるい。 俺の、本当の戦いはこれから、だ…… 後日。 追い詰められたヒナタは、写真かと見紛うほどに精密な渓谷をモチーフとした線画に色相環をそのまま貼り付けたモノを提出することになる。 そこに至るまでに血と汗と涙と友情の物語が熱く展開され、提出後にも波乱の一幕が繰り広げられるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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