オープニング

 代理の文字が取れた現館長ことアリッサ・ベイフルックは、ここに来て多忙を極めている。
 ヴァネッサの求めに応じ、『エメラルド・キャッスル』へと赴いた彼女だったが、帰還して早々、今度は別件に取りかからなければならなかった。
 エイドリアン・エルトダウンのチェンバー『ネモの湖畔』への訪問である。
 同時期にあったロバート卿からの申し出にはレディカリスが対応してくれているのだが、それでも忙しいことに変わりはない。
 そうして、出向いたアリッサの前に差し出されたのが、
「ヴォロスに棲まう楽園の小鳥たちの《歌》が、できることなら《幻影の歌》と呼ばれる旋律が欲しいんだが……可能かね?」
 この問いかけである。
 静寂を愛する音楽家は、自身の創作意欲を刺激するような《異世界の音楽》や《音》そのものへの蒐集を好む。
 これまでにも彼は様々な蒐集活動を行ってきたはずだが、こうして世界図書館を通すのは初めてかもしれない。
 長く世界図書館の運営から遠のいていた氏がこのようなことを思いついたのは、やはり、先の祝宴のなせる業なのか。
 あるいは、カリスが後見人に就くことで得た変化と言うべきか。
 アリッサは僅かに逡巡した後、ゆっくりと頷きを返した。
「わかりました。では司書に調べさせます、エイドリアンおじさま」

 *

「……ということで、今回のヴォロスへの旅は、エイドリアン・エルトダウン氏からの依頼となります」
 赤いクマのぬいぐるみこと世界司書ヴァン・A・ルルーは、手のひらに収まる小さな箱を掲げてみせた。
 瑠璃色が映える螺鈿細工のソレは、蓋らしきモノも窺えず、ただ美しいだけの立方体にしか見えない。
「この《蓄音機》に、《楽園の小鳥》のさえずり、できるなら《幻影の歌》と呼ばれるモノを蒐集してきてほしいそうですよ」
 思いがけないクマ司書からの言葉に、図書館ホールにいた者たちは誰もが意外そうに目をしばたいた。
 ロストナンバーたちの間で《ファミリー》の存在が広く知られるようになったのは、おそらく前館長を巡る出来事がキッカケだろう。
 アリッサ・ベイフルックの館長就任祝いを兼ねた赤の城での祝宴で、その存在を初めて目にしたモノも少なくない。
 そうした中で、作曲家エイドリアン・エルトダウンから直々に館長であるアリッサへと《依頼》が持ち込まれたというのが驚きだった。
 しかも、調査依頼というよりはむしろ《お遣い》と呼ぶにふさわしい案件でもある。
「なんでも、この小鳥たちというのは、食べたものや環境、その場にいる者たちの心によって《歌》を紡ぐのだとか」
 美しいモノには美しい歌を。
 切ないモノには切ない歌を。
 触れたモノ次第では、この世ならざる旋律で魅せるとも言われている。
 では、《幻影の歌》は何によって紡がれるのだろうか。
「小鳥はそこに居るモノの心というか《思い出》に最も反応するらしいのですが、楽しげな一芸や小鳥たちが気に入りそうな差し入れを試してみるのも一案だと思いますよ」
 美しい景色の中、小鳥たちとともにティーパーティというのもいいかもしれない。
 ピクニックのように大きなシートを広げて、色とりどりのお菓子や香りの良い紅茶を並べ、そうして、これまでの冒険譚や昔の出来事を語りあうのも悪くない。
 そこで聴く《さえずり》は一体どんな音色なのか、考えるだけで心が浮き立ってくる。
「ああ、ただしひとつだけ注意を」
 鋭い爪を一本だけ立てて、ルルーは小さく首を傾げた。
「小鳥の棲まう《楽園》は、《嘆きの森》や《追悼の泉》、《決別の谷》を経て辿り着くんです。楽園に辿り着くことはそう困難ではありませんが、しかし……現地の方は、小鳥たちの楽園を《向こう側》と、そう呼んでいるのだとか」
 ふわふわとした明るい雰囲気の中に、ちらりと不穏な影が落とされる。
「《向こう側》に行ったまま、戻ってこない方も少なくないとか。彼らはなぜ戻ってこないのか、彼らを捕らえるモノは何であるのか、何が彼らをそうさせるのか、その謎の一端に触れてしまうかもしれません……」
 引き摺られないように気をつけて――と、そう告げたクマ司書の黒い瞳は、《楽園》が含む痛みをも見据えているかのようだった。
 小鳥の歌を蒐集するという、どこかお伽噺のような依頼。
 けれど、お伽噺であるからには、なにかしらの《毒》や《悲哀》が忍ばされていたりもするのだろうか。
「さて、いかがです? この依頼、引き受けていただけますか?」

品目シナリオ 管理番号1338
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメント初めまして、こんにちは、高槻ひかるです。
今回はファミリーの一員である《音楽家》エイドリアン・エルトダウンからの依頼をご案内いたします。
氏は、《楽園の小鳥》の《歌》を所望しております。
蓄音機となる小箱を持ち、美しい歌を蒐集しに行ってくださいませ。
楽園までは容易にたどり着けます。
そこで、小鳥たちのさえずりを得るために、ひたすら楽しさを追求するもよし。
美しい、あるいは懐かしい思い出に浸るもよし。
ただし、お気をつけください。
命の危険はありませんが、楽園に魅入られ、そこから抜け出せなくなるモノも多いのです。
帰ってこない者たちはなぜ帰ろうとしないのか、その謎を追究してみるのもまた一興ではあるかもしれません。
あるいはあえて取り込まれることで、幻想の旋律を引き出してみるのもありかもしれません。
なお、《幻影の歌》がどんな《心》から生み出されるのかは、そこに辿り着く道程などにヒントがございます。

それでは、楽園での小鳥たちとの邂逅に想いを馳せつつ、皆様をお待ちしております。

参加者
東野 楽園(cwbw1545)コンダクター 女 14歳 夢守(神託の都メイムの夢守)
ハルカ・ロータス(cvmu4394)ツーリスト 男 26歳 強化兵士
ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)コンダクター 男 35歳 ミュージシャン
神埼 玲菜(cuuh1075)コンダクター 女 27歳 キャビンアテンダント

ノベル

 嘆きの森に足を踏み入れた瞬間から、人はその心の中に喪失の棘を宿した茨を育て始める。



「迷うことはないと思うが、念のためだな。ザウエル、頼む」
 珊瑚色の髪を軽く掻き撫で、ムジカ・アンジェロはドングリフォームのセクタンに声を掛ける。
 その指示に、ザウエルはきょときょとと周囲の緑を眺めていった。
 愛らしいセクタン戸丸で同調するかのように、ハルカ・ロータスもまた、周囲に視線と意識を巡らせていく。
「戻ってこない人が居るというのは本当なんだろうか。彼らは戻ってこれないのか、戻ってこないのか」
 ここには、しっとりと冷えた空気が満ちている。
 足下に、あるいは木々の合間に、薄く霧がまとわりつき、流れ、ふとした瞬間に景色を視界から隠してしまう静謐さが広がっている。
「そうまでして求める歌とは一体、どんなモノなのか」
「あら、エイドリアンおじさまからの依頼なんですもの。それだけで受ける価値があるんじゃなくって?」
 幼さと艶やかさを漆黒のドレスで包んだ少女――東野楽園がクスリと小さく笑って、ハルカを見上げた。
「おじさまの琴線に触れたのなら、それはとても素晴らしいものに違いないわ」
「芸術的領域で言うのなら、俺たちが辿る道もずいぶんと詩的なタイトルばかりじゃないか?それに、目にするすべてが絵画的で」
 ミュージシャンたるムジカの琴線に触れるのは、意図的に繋がっていく《楽園》への道筋に与えられた名であるらしい。
「まるで」
「まるで物語みたい、ね?」
 呼応するかのように、楽園が台詞の後を引き継ぐ。
「小鳥たちの歌もお伽噺めいていて、おじさまの“お願い”が可愛らしく感じてしまうわ」
「お伽噺の世界に入り込むだなんて、なんだかワクワクしちゃいますね」
 ふわふわと嬉しそうに笑う神埼玲菜は、その足取りも軽く、煌めくような眩しい期待に溢れていた。
 キャビンアテンダントとしてかつては世界中を旅し、いまは異世界を旅する彼女にとって、今回の依頼はひどく心踊るものであるという。
「キレイな小箱を持って、キレイな小鳥たちの歌を楽園まで蒐集しに行く。とってもステキですよね。幻影の歌を早く聞いてみたいですもん」
「ああ、まったくだよ」
 玲菜の隣で同意を返すムジカは、ルルーに渡されてからずっと、気づけば手の中で瑠璃色の小箱を転がしていた。
「《幻影の歌》が一体どんな旋律なのかはもちろん気になるが、こっちの興味も尽きないな。これは何処で音を捉まえて、何処から音が出るんだろうってな」
「……音」
 言われて、ハルカも迷彩服のポケットから託された小箱を取り出してみた。
 蓄音機のようなものだと言われはしたが、操作盤は見当たらず、データを蓄積するための機械が内蔵されているようにも見えない。
 ただの瑠璃色の立方体のようでしかなく、ささやかな謎を解明する手掛かりは掴めないのだ。音を蓄えることはもちろん、蓄えた音をどうすれば取り出せるのかも分からなかった。
「魔法系だとは思うんだが、案外、れっきとしたカラクリなのかもしれないが」
 珍しいオモチャを与えられた子供のように興味を示すムジカの世界には、寄木細工の秘密箱と呼ばれる代物があるのだという。
 そして、かつて彼の弟は、そんな秘密箱に大切な【顔料】なるモノを閉じ込めてしまったのだとも語り。
 ふ…っと、その瞬間ハルカの赤い瞳が左右にぶれた。
「ああ……」
 胸の奥から沸き上がってきたのは、数年前でありながら数十年以上も昔のようにも思える、近くて遠い自身の記憶だった。
 大切な父親に訪れた、唐突な死。
 これまではずっと霞が掛かったようにおぼろげだったのに、あの日の、あの時の自分と家族の姿が、鮮明に蘇る。
 事故で命を落とした父は、身体のほとんどを失った状態で棺に納められていた――あの時の感触。そこへ縋り付く母、弟、妹。黙って見つめていた兄の悲愴な顔。
 匣の中に詰め込まれた記憶。
 すべてがいやに生々しくハルカを襲った。
 戦争が繰り返され、荒廃したあの世界で、母と子供だった自分たちが送る生活などたかが知れている。
 突きつけられたのは貧困だった。
 これまでの日常、これまでの日々から転落していく不安、不穏、恐怖じみた焦燥感。
 家族を護らなくてはいけない。
 自分が家族を。
 そうだ、自分たちを護ると言ってくれた兄もまた、血を吐いて倒れたのだ。
 だから、兄との約束を《男》として果たすために、自分は――

「えっ」

 ハルカの意識を引き戻したのは、玲菜の小さな驚きの声だった。
「どうかした?」
「……はい、なんだかちょっと……いるはずのない人の姿を見たような……」
 玲菜の視線が、木々の合間をさまよっていく。
「霧の向こうに何があるのかしらね。見えないモノが見えてくる、そんな気配を感じるの」
 夢見るように楽園は笑い、
「詩的なタイトルにふさわしい《幻想》を紡いでいるんだ。おそらくな」
 ムジカもまた小さく笑い、そしてそれぞれが霧の向こうの視線を移していった。
 彼らはそこに何を見るのだろうか。
 自分はいま、何を見たのだろうか。
「……過ぎた日々だ、すべて、過ぎた……取り戻せない、日常」
 小さく呟くハルカの中には、ただ、諦観にも似た想いだけが残っていた。



 嘆きの声に、心は引き摺られる。



 不意に、霧がゆらゆらと漂う緑が途切れ、頭上高くに空が広がり、視界が開けた。
「これが《追悼の泉》……まるで鏡みたいですね」
 思わず発せられたらしい玲菜の声に、ムジカはふと顔を上げ、目を細める。
 さらりとした波紋すらも起こらず停止し続ける静謐の泉は、確かに鏡を思わせた。重なり合う木々の合間から差し込んでくる太陽の光すらも、そこに届く時にはもう、きらめきを失っているようだ。
「水底がみえる。……でも、何か棲んでいる感じがしないんですね」
「キレイすぎる水に生物は棲めない、というのを知っていて?」
 膝を折り、地に手をつき、泉を覗き込む玲菜の隣に立って、戯れるように楽園が彼女の耳元へ囁きかける。
「“水清ければ魚棲まず”という故事ですよね? でも、どうしてなんでしょう?」
「透明すぎるくらい透明ってことは、何にも棲んでいないということ。ねえ、何にも食べるモノがないのに、どうして生きていけるの?」
「……寄せ付けない、んですね?」
「そう、寄せ付けない」
「それじゃあ、キレイすぎるヒトは自身も生きるのが大変なのかもしれないですよね」
 ぽつりと何気なく、玲菜は言う。そこに何かを映し見て、どこかに、あるいは誰かに想いを馳せて目を伏せた。
「キレイすぎるヒト、か」
 ムジカは口の中で彼女たちの言葉を繰り返し、転がす。
 この依頼の話を聞いた時から、自分にとって《楽園》に至る道と呼応する記憶はたったひとりしかいなかった。
 なぞり始めれば、記憶は割れたガラスのように、その切っ先でムジカを傷つける。
 それでも、望んで《鏡》に弟の姿を幻視する。

 線が細くて色素の薄い、儚い人形のような弟は、その存在だけですべてを凌駕し、すべてを超越し、すべてから掛け離れた場所に居た。
 呼吸をするように生み出されていく、神の領域。
 絵筆に、鉛筆に、木炭に、パステルに、命を吹き込み、命を削り、魂を移し込むように世界を描き続けていった弟の眼差しは、常に真実の姿を求めているようでもあった。
 形あるモノの表面をなぞるのではなく、隠された内側を、誰も知らない真実の姿を、見据えてキャンパスに移す異能。
 生きるために描き、描くために生きた弟の視界を、自分は最後まで共有することができなかった。
 ――燃やして……
 病に蝕まれた弟が、最後まで向かい続け、追い求め続けていた《白面の向こうに存在する世界》は、自分の目の前で未完成のまま途切れて、終わった。
 痩せ衰えて、腕すらもろくに上がらず、起き上がる力も無くし、それでも筆を握ろうと足掻き続けた愛おしい弟。
 ――燃やしてほしいんです……全部、全部、ひとつ残らず……
 震える指先。熱に浮かされ潤んだ瞳。縋り付くように繰り返された切ない願いと、失われていく生命の灯。
 ――燃やして、兄さん……
 圧倒的な才能を前に、絵を描き続けることは止めた。
 この弟の前で自分が絵筆を握るなど、芸術への冒涜だとしか思えなかった。それほどまでに深く深くどこまでも深く、弟を、そして弟の絵を、愛していた――だから、彼の最後の願いを聞き届けられるのは自分しかいないと信じた。

「……《現実》を生きていくのは、辛かったか……?」
 ムジカの問いかけは、誰の耳にも届かない。
 誰もそれに答えることはできない。
 そっと目を細め、泉を経て続く道の向こうを見やる。
 緑の道は続く。
 細く、長く、泉からこぼれるように咲き乱れた花々がその芳香で鼻先をくすぐるその道の先には、本当に《楽園》が待っているのだろうか。



 失われたモノへ馳せた想いが昇華されるのに、果たしてどれだけの時間を有するのだろうか。



「泉から先は花が導いてくれるんだな。ある意味、面白い趣向なのかもしれない」
 ムジカの言葉に、玲菜は顔を上げる。
「……あ」
 渓谷が眼前に広がっていた。
 目眩がするような、吸い込まれてしまいそうな、新緑色の木々で溢れた谷を流れるその清流は見るモノを引きつける深い《蒼》を宿していた。
 ほんの少し前に進み出て、ほんの少し強めに地を蹴れば、すべてから《決別》できてしまうだろう誘惑の色。
 哀しみの色。
 玲菜の胸の奥を貫くのは、締め付けられる痛みだ。
 玲菜はそっと自分の胸を掻き掴む。
 青みがかった銀の髪、白い肌、青い瞳、見惚れるほどに整った横顔に落ちる物寂しげな影を、あの日からずっと探し続けていた。
 どうして、出会ったあの日、あの瞬間に、あの人を追いかけなかったのだろう。
 どうして、あの時、あの人に手を伸ばさなかったのだろう。
 自分とあの人をつなぐ、あの人がくれたあの人の世界のコインが、この胸にある。
 ブルーインブルーで、彼の名を知った。彼に似たヒトに彼を重ねるのではなく、現地の子供たちから彼と自分をつなぐ物語の一端を受け取った。
 けれどまだ、彼に追いつけない。
 追いかけて、追いかけて、追いかけて、それでも追いつけない想い人との距離を思い知る。
 こんな想いもまた、あの清流に流してしまえたら――
「気をつけた方がいい……危ない、から」
「あっ、ありがとうございます」
 ハルカに腕を掴まれ、ハッと我に返る。
 気づけば、玲菜はあともう数歩で谷へと転落しただろうところまで近づいていた。
 例えそんな願望を欠片も意識していなかったとしても、ハルカが止めてくれなければ、ふらりと吸い寄せられるように身を投げてしまったかもしれない。
「透き通る“蒼”の流れが、あそこで誰かが来てくれるのを待っているかのよう」
「え、楽園さん?」
「決別の谷というけれど、別れを告げるのは、過去にかしら、自分にかしら、世界そのものにかしら?」
 歌うように問いをつなぐ楽園は、手を後ろで組み、ステップでも踏んでいるかのように軽やかな足取りで危うげなく崖の端まで歩き、下を覗き込む。
 彼女の長い黒髪とドレスの裾が風になびいて踊り、まるで羽根のように見えた。黒い天使がそこにいる。
「……もしかすると」
 玲菜は視線を落とし、そろりと口にする。
「ここは、すでに失ってしまった大切な方への想いを、掻き立てるようになっているのかもしれませんね」
 依頼を受けた時も、森に足を踏み入れた時も、自分はあんなにも小鳥の歌や小箱の存在に心が浮き立っていたのに、いまはもう、あの人のことしか考えられない。
「会いたくて、会えなくて、だけどやっぱりどうしようもなく会いたくなって、届かないと知りながら手を伸ばしてしまうんですから……」
「……もう帰らない人には勝てない……生きている人間は、命あるものは、誰も、……誰も、勝てないんだ……」
 永遠に失われていくのを見てきたと、ハルカは言う。
 彼の眼差しは、ゆらゆらと微かに揺れているが、それを自覚はしていないかのように淡々としていた。
「だからこその、《楽園》なんだろうな」
 ムジカは苦く笑いながら、小さく呟く。
 玲菜は何も言えなくなる。
 けれど楽園は、するりと子猫のようにハルカの前まで近づき、見上げ、小首を傾げて、問う。
「あなたは一緒に行きたい? 帰らない人たちの後を追いたい? あなたは決別を後悔しているのかしら?」
 金色に閃く少女の瞳を、ハルカは見つめ返し、そうして視線を伏せる。
「俺に、後悔することは赦されてない……ただ、もう戻れないのだと言うだけで、それ以上でもそれ以下でもない」
 そう告げる彼の瞳からは雫が溢れ、こぼれ、頬に一筋の軌跡を描きながら地へ落ちた。
 彼の流す無意識の涙を、玲菜は静かに見つめる。



 小鳥たちがさえずる《向こう側》には、永遠の幸福があるという――



 そこは、花に導かれた来訪者を新緑の腕でもって迎え入れる。

 無数の枝木が伸び、入り組み、巨大な鳥籠のようにも、緑の浸食された神殿のようにも見える姿でもって、《楽園》は姿を現した。
 葉を透かして落ちる影は、ステンドグラスを通したかのごとく神々しい緑をしていて、まるでエメラルドグリーンの海底を思わせる。
 どこか遠くから届く水音や鼻先をくすぐる甘い花の香りに癒やされ、これまでの道程のすべてが報われる《光》がそこには溢れていた。
 だが。
 だが、なによりも圧倒されるのは、光を浴びて煌めく無数の小鳥たちの色彩と羽ばたきとさえずりだった。
 誰もが瞬きを忘れ、その光景に息を呑んだ。
 慟哭に喉を枯らし、孤独と絶望に苛まれて果てた者であっても、ここへ辿り着いた瞬間にすべてが癒やされるのだと知らされる。
「……そう、ここがエイドリアンおじさまの望んだ場所ね?」
 楽園の口元に笑みが浮かんだ。
 小鳥が歌う。
 歌っている。
 それと知らせるために、誘いと導きの旋律で旅人を包み込む。
 ここが、《向こう側》。
 帰ることを拒ませる、長きと追悼と決別を超えた先にある《楽園》なのだろう。
「私も昔、《楽園》に住んでいたのよ」
 フフ、と懐かしげに微笑み、
「とてもステキな箱庭で、お父さんとお母さんにとてもとても大事にされていたわ」
 楽園は、絵画のごとき光差す景色へとするりと入っていった。
そうして、狂おしく愛おしい己の過去の記憶を小鳥たちのためになぞり始める。

 鮮赤で染まる、島で唯一の医院の中に紡がれたひとつの物語。
 命を奪うことが目的ではなくて、ただ、傍にいて欲しかった、友達になって欲しかった、話し相手でいて欲しかった。
 紅茶を飲んで、苦痛に顔を歪ませながら崩れ落ちた少女の、最後にその瞳に映るのが自分だったことが嬉しかったことも思い出す。
 そして、どうしようもなく強く望んだ他者との接触と同時に、耐えがたい衝動もまた自分の心を占める。
 柔らかな皮膚の内側に隠れる、《生命》を切り裂いて、切り刻んで、どこまでもどこまでも追い求めたかった。
 恐怖に見開かれた目を、覚えている。
 こんな結末を迎えるだなんて夢にも思っていない同い年の少女へと振りかざしたナイフは、臓腑を抉り、動脈を傷つけた。
 吹き出す鮮赤。
 散らばり、視界を染める赤。
 全身に浴びた生暖かくべっとりとした液体を、戯れに掻き混ぜ、辺りに塗り込め、変わりゆく色に目を細めた。
 切り裂くのは、他者でなくてもいい。自分でも良かった。止められない、止まらない、突き上げてくる欲求。
 看護師や医師たちの自分に向ける嫌悪の視線は棘となって突き刺さるけれど、破滅願望にも似た行為を求め続けた。
 呪われた忌み子。
 憎悪の対象。
 閉ざされた世界で、あの嵐の夜、世界のすべてから拒絶された。
 血塗られた、あの日の記憶。
 嵐の惨劇。
「いまでも想うの。どうして私はあの時、一緒に逝けなかったんだろう……一緒に逝けていたら、そうしたら、私は本当の《楽園》に辿り着けたかもしれないのに」
 幾度となく繰り返した問いを、口にする。
「……私は生まれてはいけなかったのかしら?」
 小鳥たちへ、向けて問いかける。
 小鳥は歌う。
 柔らかく、哀しく、旋律を紡いでいく。
 闇の中で伝い落ちる、暗赤色の流れのように、どうしようもなく甘美で蠱惑的で切なく愛おしい歌を紡ぐ。
 そして。
『大丈夫……大丈夫だ、怖くない……お前はとても大切な、とても愛おしい存在なんだから』
 不意に、抱き寄せられた。
「お父…さん?」
『あなたを愛しているわ。あなたの幸せを、あなたのすべてを、わたし達は護り続けるのよ』
「……お母さん」
 あの日、あの夜、ぼたりと自分の頬に落ちてきたのは、温かな血液だった。
 けれどいま自分の頬が受けるのは、あたたかな両親の涙の雫であり、愛の言葉の数々だ。
「……そうね、私は愛されていたの。いまも、愛されている。……ねえ、聞かせてあげるわ」
 母の胸に抱かれ、父に寄り添いながら、楽園はすぅっと大きく息を吸い込む。
 そして、歌う。
 四ツ隅の天使を。
 マザーグースの子守歌は、良く母親が自分のために口ずさんでくれたもの。
 小鳥たちもまた、楽園の歌声に重ね、やがてその旋律を引き継ぎながらもゆるやかに変えていき、柔らかく、優しく、まどろみに似た歌へと変わる。
 けれどその主旋律には、色がつく。
 密やかな罪の色。
 鮮赤に輝く羽根、煌めく金色の羽根、漆黒の羽根、舞い踊り、取り囲み、楽園を彩る《楽園》の小鳥たちが、あの嵐の夜を楽曲に変える。
『エデン、愛している』『愛しているわ』『愛しい娘』『あなたは私達の生きた証』『結晶だ』
 両親は楽園の頬を撫で、髪を梳き、額に口づける。胸を締める甘美な痛みを伴う囁きが、さえずりとともに溢れていく。


「小鳥がついばむのは、人の心か、記憶か……」
 トラベルギアである六弦ギター《リボルバー》をつま弾き、ムジカは歌う。
 詩に込めるのは、道中に刻んだ幽玄の景色、つまびらかにされていく記憶の痛ましさ、喪失の棘、傷、それから、自身が抱く哀切と憧憬と不安といとおしさ。
 すべての才能を音楽のみに注ぎ込んだムジカ・アンジェロの生み出された音弾は桜の花びらとなり、舞い上がり、舞い落ち、薄紅の花吹雪と化す。
 それはとても美しい、幻想への彩り。
「俺の記憶なら、いくらついばんで構わない……だから、聞かせてくれ、歌を……旋律を……この世ならざる調べだというのなら、その紡ぎを……」
 楽園が、ハルカが、玲菜が、その花吹雪に目を奪われる。
 小鳥たちのさえずりに歓喜の色が混ざる。
 音色に華やかさが増し、高らかに、伸びやかに、そして穏やかに、胸のうちに棲まう感情すべてに共鳴しながら、旋律は無限に広がっていく。
 気づけば、花びらをまといながら、小鳥を引き連れ、自分に寄り添うものがいる。
 歌が途切れることはなかった。
 けれど、心臓を掴まれる感覚に、軽く目を見開く。
 痩せて儚さを増した自分の神が、失われた存在が、まるで当然であるかのように自分の隣で自分の曲に耳を傾けている。
 聞かせたかった、捧げたかった、できることなら愛して欲しかった、見て欲しかった、愛おしい――弟。
『……哀しい曲だね。でも、不思議とあたたかい』
 声に出さなくとも、伝わる。
 忘却の恐怖が初めて遠のいた、気がした。
 スケッチブックを抱えて、木炭を手に、弟の静かな眼差しが小鳥と自分に注がれる。
 華奢な指先が、なめらかに紙面を滑っていく。
 決して自分では到達し得ない、弟が描き出す美しい世界が、自分の傍らで新たに創作されていく喜びを――幸福感を、一体どんな曲で表せばいいのか。


 ハルカはさえずりに満ちた緑の中を見回し、網膜に焼き付けるように視線を移し、そして、木陰にそっと腰を下ろした。
 故郷にはもう、こんな景色は残っていない。
 手を伸ばす。
 伸ばした手の先に見えるのは、血塗られた過去。
 発火能力はたやすく対象を消し炭に変える。念動力はたやすく対象を握りつぶす。この手は、自分と同じ人間の命を容赦なく奪った。
 断末魔を初めて耳にした時の、あの圧倒的な恐怖と絶望が、ベッタリとまとわりついている。
 見える、幻視する、罪の記憶。
「あ」
 血塗られたこの指先に、肩に、頭に、腕に、白い小鳥たちが止まっていく。
 綿菓子のように頼りなく柔らかな存在に囲まれて、小さなくちばしから奏でられるのは静かに内側へと染みいるような《音》だった。
 ムジカが花びらと共に生み出す旋律、楽園が紡ぐマザーグース、それらと重なりあいながら、小鳥もまた歌う。
 歌う。
 頬にすり寄る、羽毛の心地よい肌触りは、まどろみを誘う。
 ふわふわと、楽園の名を冠したこの場所で、小鳥の歌に包まれる。
「あぁ……」
 おぼろげな、ボロボロで欠陥だらけの自分の記憶の中にいる家族の姿が、遠くに見える。
 霞がかっていたはずの、思い出そうにもぼやけて仕方なかったはずの、家族の姿が小鳥たちの群れの向こう側に見える。
 ひとりも欠けることなく、笑って、手を伸ばしてくれる。
「……俺は、このために……」
 つられて、彼らへと手を伸ばす。
 伸ばした手を、最初に掴んでくれたのは父親だった。
「……帰れないのか、帰りたくないのか……その両方、なのか……父さん、俺は」
 幼い妹と弟の手が、優しい兄の手が、やわらかな母の手が、自分の血塗れの手に重ねられていく。
 笑っている、笑っている、笑っている、大切な人たちの幸福に満ちた笑みに、小鳥のさえずりが――


「……ハルカさん、天使みたいです」
 白い小鳥たちによって、まるで翼を背負っているかのように見えるハルカを、玲菜は微笑ましげに眺める。
 こわばり続けた彼の表情がいまは幸せそうにほころんでいるのを見、密やかな安堵すら覚えた。
 切なく甘やかな音楽は、ここに辿り着くまでに傷ついた心をも癒やしてくれるかのようだ。
 羽根が舞い、花びらが踊り、まどろみに満ちた時間をなぞりながら、玲菜はエメラルドの《楽園》に棲まう小鳥たちをゆっくりと眺め、
「あ」
 目を見張る。
 白い小鳥に笑いかける、その姿には見覚えがあった。
 嘆きの森で見かけ、追悼の泉で思い出し、決別の谷で追いかけなかったことを心から後悔した相手を、見間違えるはずがなかった。
「……まさか……」
 驚きと、不安と、混乱と、戸惑いで、玲菜の足はすくむ。
 ロストレイルに乗っているのだと、人づてに聞いた。
 ロストナンバーなのだと、知った。
 だとしたら、あそこにいるのは――
「……まさか」
 会いたくて、会いたくて会いたくて会いたくて、どうしようもなく会いたくて、すべてを捨ててもいいから会いたいと願ってしまった、追いかけてしまった、自分を『覚醒』させたヒト。
 彼が、振り返る。
 物憂げな眼差しはそのままに、けれど確かに彼は自分を見た。
 彼もここに来ていたのだろうか、別の依頼で、別の旅で、彼もまたここに足を踏み入れ、そうしてこの瞬間に、自分は彼と再会を果たせたと言うことなのか。
「……覚えて、いますか? 私、あなたを追いかけていたんです、ずっと、あなたに会いたくて、あなたのことが忘れられなくて、あなたに、私はずっと……」
 もらったコインを握りしめ、一歩、二歩、と、戸惑いながらも彼に近づき、その手をそっと開いてみせれば、
『……覚えている』
 頷き、答える彼の手の中にも、同じコインが煌めいていた。
 小鳥がさえずる。
玲菜と彼とを取り巻きながら、祝福の歌を、これまでふたりの間に横たわっていた時の流れを昇華するかのように、会えずにいた時間を取り戻す幸福を賛美する。


 小鳥たちは一層高らかに、歌う、歌う、歌う、楽園のマザーグースを、ムジカの詩を、ハルカの想いを、玲菜の切なさを、取り巻き、取り込み、喪失の棘を包み込んで――

「いつまでもここにいられたら……」
「お前がそこで笑ってくれるのなら」
「とっくに失くしたと思っていたけど、みんながいてくれるのなら」
「あなたの傍にいられるのなら」

 このまま、ここに留まりたい。
 その願いを救いあげ、記憶をついばみながら、小鳥は紡ぐ。
 失われたものへの思慕を孕んで、追いかければ逃げる幻すらも、こちらが強く望みさえすれば寄り添い続けてくれるのだと告げる。
 それは、幻影の旋律。
 鳥籠を模して形作られた緑の《楽園》は、まるで柔らかな記憶の檻だ。
 暖かく、優しく、密やかな幸福を約束し、そこに望んで囚われる者たちをさらなる幸福感で絡め取る。
 けれど。
 でも。
 これは幻影の歌。
 自身の内側に形作られていくけれど、けして前に進むことはできない、偽りの優しさ。
 それを、楽園は、ハルカは、ムジカは、玲菜は、幻影の中でありながらも気付き、悟り、そして――選ぶ。

「帰らなくちゃ。だって、私の帰りを待っていてくれる人がいるんですもの。こんなところで立ち止まっていられないわ」
 抱きしめてくれる両親の腕を、楽園はゆるりとほどく。
「俺には、すべてを捨てて安寧に身をゆだねることは許されてないから……知るのは怖い、生きるのは痛い、でも……進まなくちゃ……」
 自分を囲んでくれる家族の輪から、ハルカはそっとひとり抜ける。
「あなたを見つけるって、決めましたから……あなた自身を、知りたい……あなたの心に寄り添いたいんです」
 記憶以上のことはなにも話さない、望んだ言葉だけをくれる彼から、玲菜はそっと背を向け距離を置く。
「……ここにもお前はいない。お前はどこにもいない。なら、ここにいる意味もないんだよな」
 かつて自分が燃やしたスケッチと同じ絵を描く弟の頭をひと撫でし、ムジカはギターの演奏を止めて立ち上がる。
「ステキな歌をありがとう、小鳥さん。でも、行かなくちゃ」
 感謝を込めて、そう楽園が告げれば――

 途端。

 自分の傍に寄り添っていた『大切な存在』が、すぐ傍で言葉を交わしていた存在が、ザアァ…っと音を立てて花弁となって崩れ落ちた。
 手を伸ばしても掴めない、空に溶ける幻想たち。
 喪失の嘆きに身を浸し、追悼をもって失われた時間をなぞり、忘却という名の決別に怯えながら、寄り添い、触れて、抱きしめていた《喪失の記憶》がカタチを失っていく。
 そして、彼女たちは花吹雪の中に見る。
 花に埋もれたエメラルドの水底に、植物と同化した人々の姿を。
 ここは《楽園》、向こう側と呼ばれる場所、そして、喪失の茨から逃れて夢見る者たちの棺でもあるのだと、知らされる。
「小鳥たちがさえずるのは、喪失の記憶に捧げるレクイエムなのかもしれないな」
「あら」
 いつの間にか、手にしていた小箱は瑠璃から深く透明度の高いブルーサファイアへと色味を変えていた。
 楽園は、そっと小箱に耳を押し当てる。
 ただそれだけで、閉じ込められた《旋律》が内側から自分に囁きかけてくるようだった。
「エイドリアンおじさまが、この旋律を気に入ってくれるといいのだけど」
 歪で美しく哀しい《音》を得て、4人は《楽園》から踏み出す。優しい夢に別れを告げて、自らの進むべき道、戻るべき場所を目指して。


 ザウエルが指し示すままに谷を越え、泉を渡り、森を抜けるその最中、行きには目にしなかった白亜の遺跡へ迷い込み、そこで幼い有翼の少年とある捜し物をすることになるのだが。
 それはまた別のお話。



END

クリエイターコメント東野 楽園さま
ハルカ・ロータス様
ムジカ・アンジェロ様
神埼 玲菜さま

はじめまして、あるいは二度目まして、こんにちは。
このたびは、『幻影の歌』を求めるエイドリアンの願いを聞き届けてくださり、誠に有難うございます。
皆様の想いは《歌》となり、小箱に収められました。
《楽園》へと至る過程は喪失の記憶をなぞる旅でもあったのですが、小鳥たちと戯れるひとときと共に、この旅もまたひとつの想い出として昇華されることを祈っております。


それはまた、別の列車の旅で皆様と再び相まみえることができますように。
公開日時2011-07-24(日) 21:50

 

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