「あ」 「む」 0世界の街の一郭、角を折れたところですれ違いざまに顔を合わせ、ふたりは同時に足を止めた。 片や小柄な、一見すれば少年のようにも見えなくもない少女。片や枝のように細く痩せた直垂姿の男。身丈の違う男の顔を仰ぎ見て、少女――ナウラは男の名を思い出し手を打った。 「業塵さんだ」 「左様」 名を呼ばれ首肯した業塵は、うっそりと窪んだ眼で眼前の少女をしばし眺める。 「ランズウィックさんのお弟子さんだよな」 何かもの言いたげな顔で自分の顔を見据えている業塵に、ナウラはさらに言葉を継げた。が、業塵はうなずかない。ランズウィックが同居しているアルウィンの事であるのは間違いがない。アルウィンが日ごろ自分を弟子呼ばわりしているのも承知だ。が、他者からそう呼ばわれる筋合いもない。ゆえに首肯も拒絶も見せぬまま。 つかの間無言で互いの顔を見合わせる。――初の対面はアルウィンとナウラが同じ依頼をこなし、ターミナルに帰還した日の事だった。車中で眠りについたアルウィン、それを迎えに来たのが業塵だった。むろん、ナウラと業塵はその時点では互いの顔も名も素性も知り合わないまったくの他人。むっつりと押し黙ったまま、眠るアルウィンを抱え立ち去ろうとした業塵を誘拐犯だと誤解してしまったのがそれだったのだ。 ――相変わらずの悪人顔だ。業塵の顔を仰ぎ見ながらナウラは「むう」と息を吐く。対峙する業塵はまるで置物のように身じろぐ事もなく、ただ虚ろにナウラと視線を合わせていた。もしかするとナウラの事を覚えていないのかもしれない。 「あ、あの時は悪かったな」 黙したままの業塵に声をかけた。業塵はようやくわずかに目を瞬かせ、それから静かに頭を傾ぐ。――そもそも、ナウラの事を覚えているのかどうかも分からない。ナウラは再び、腹の中で「むう」と呟いた。 それから再び、わずかな間を置き。変わらずナウラの顔を見据えている業塵の顔を見上げ、ナウラは思い出した。 「そういえば貴方、甘いものが好きだったよね」 「……うむ」 目を瞬いた業塵に、ナウラはしてやったりな顔をする。 「この間のお詫びにお菓子を買ってやろう」 そう言ってわずかに胸を張る。はからずも誘拐犯呼ばわりしてしまった、その詫びとしては安いかもしれないが、放置したままというのも気が引ける。もっとも、業塵本人がくだんの事を覚えているかどうかも、その表情からはまるで読み取る事は出来そうにないが。 が、菓子を奢ると言われた業塵の顔には、ようやくわずかな変調が浮かんだ。とは言え、それは笑みと言うにも幾分躊躇するような、見ようによっては害意すら感じられるようなものだったが。 「ほう」 応えた業塵の低い声に、ナウラがわずかに後ずさったのは気のせいだっただろうか。 「た、高いのはダメだ」 断りを入れておくべきだと、ナウラの頭のどこかが警鐘を打った。 駄菓子屋で駄菓子と飲み物を買い、手近にあった小さな公園のベンチに腰を落とす。0世界を覆う空は晴れ。青く塗りつけた良く出来た絵画をそのまま貼り付けてでもいるかのようだ。 缶コーヒーを口に運びつつ、ナウラは横目に業塵を見る。業塵はどこを見るともなく、ただ黙々と、駄菓子を詰めた紙袋の中に手を突っ込んでは食していた。 沈黙が続く。ナウラは手持ち無沙汰に足をぶらぶらとさせ、しばらくの間ただ公園を行き交う人影を見るともなしに見ていた。そうしてやがて缶コーヒーの残りが底に近くなったころ、ふと、業塵に目を向けた。業塵もまた紙袋がからっぽになったのか、潰した袋を片手に持ったまま、ぼうやりとどこかを見つめている。 ――つくづくと、得体の知れない男だと思う。 掴みどころもなく、およそ感情というものを窺い見ることも出来そうにない。けれどアルウィンはこの男を自分の子分なのだと主張する。そうして業塵もその言葉を否定するでもなく、それどころか受け入れているようにさえ見えるのだ。――少なくとも悪人ではないのだろう。そんな、奇妙な確信めいたものも浮かぶ。 「業塵さんはさ、ランズウィックさんと親しいんだよね」 声をかけてみた。と、業塵の窪んだ眼光がぎょろりと動き、横に座るナウラの顔を捉えた。それからわずかに目を動かして、再びナウラの顔を捉えて首肯する。 「それならきっと貴方も良いひとなのだろうな」 「……」 続けて放たれたナウラの言葉は、業塵には今ひとつ理解出来ない。けれど首をかしげるでもなく、ただ茫としたままナウラを見つめる。 アルウィンと親しくしている、それだけの理由で悪人ではないと判じてしまう。その観念が分からない。けれど、少なくとも眼前にいるこの、少女とも見紛うような見目をした少年は、きっと純朴で真っ直ぐな心の持ち主なのだろう。 ――ならば、さぞかしからかいがいのある相手であるのだろうな。 思い至り、業塵はふと口角を歪みあげた。駄菓子を奢ってもらったのも心情的にはとても良いものだった。とどのつまり、業塵は機嫌を良くしているのだ。だが浮かべたそれはやはり、どこか害意を含んだ邪悪めいたものにも見えるものだった。 「そういえば業塵さんは帰属を考えたりしてるのか?」 ナウラが問う。業塵はうっそりとした目許を瞬かせ、わずかに首を縦に動かしたようだ。 「そうか。――私もきっと帰ると思う……だが、実は少し迷う」 「ほう」 初めて業塵の相槌が挟まれた。ナウラは小さく笑う。 「どうしたものかな」 笑みを浮かべたまま、独り言と共に視線を落とす。業塵はナウラの言葉に問いかけを投げない。沈黙が訪れた。 「そういえば、業塵さんは妖怪を信じるかな」 「……さて」 「私の郷里に言い伝わる昔話があるんだ」 「ほう」 ナウラは郷里に伝わる古い伝説について語りだす。 業塵は静かに耳を寄せていた。 ナウラの郷里は大日本皇国という国だ。 大きな街は至るところにビルヂングの建設が進められ、路面には行き交う車や自転車に混ざり、チンチン電車と呼ばれるものが走行している。 大きな戦争が終わった後のことだ。物資の蓄えは未だ豊かになったとは言い難く、路地をひとつふたつ折れれば、そこには日雇い労働に従事する男たちや、仕事にあぶれて安酒をあおる男たちがたむろしているのが窺える。 加えて、皇国を悩ませるのは戦後復興に関連するものばかりではない。 海底や地底に住まう人外たちによる襲来、宇宙や異次元からも侵略者は訪れる。悪の秘密結社は国家転覆を掲げ独自の科学で戦艦を作り、時には怪獣が現れて街を壊すのだ。そういった数知れない問題に向けた対応もせねばならないのだ。 むろん、悪が街を襲えばそれに対抗するべくして現れる正義のヒーローもいる。彼らがどこから現れるのかは知るよしもない話だが、けれど少なくとも、安全のすべてを彼らに託し任せるわけにもいかないのが実情だ。 ゆえに、世界には世界義勇連盟(WBL)と呼ばれる組織があり、正義の味方を束ね方向性を同一にするべく働きかけていたりもする。 さて、その皇国にも昔話というものはある。柏木を打ちながら広場にやってくる紙芝居屋は子どもたちが楽しみにしているもののひとつだし、紙芝居屋や年寄りたちが語り聞かせる物語もまた、ヒーロー譚と並ぶほどの有名なものとなっているものだ。 昔、まだ侍の時代だったころ、皇国を荒らす夜刀神が現れた。身体は蛇、頭には恐ろしい角を携えたアヤカシだ。夜刀神は瞬く間に力をつけて、大日本皇国にはびこる妖怪たちの中でも強力で恐ろしいものとなってしまう。 けれど、悪が現れれば正義もまた現れる、それはどの時代においても歪むことのない定理のひとつ。 夜刀神を倒すべくして立ち上がったのは、国中の妖怪たちを束ねて率いる大蛇、妖狐、百足の三大妖。そしてそれに続けと勇気を奮い立ち上がった人間たちだ。神仏の加護を信じておもいおもいの得物を手に、人と妖怪とを合わせた連合軍が出来たのだ。 そうして厳しく戦いの後、連合軍はついに夜刀神を打ち負かす。人と妖怪は互いに向け害ある干渉を行わないことを約定しあい、共闘の成果を互いの讃えあい祝宴をあげた後、それぞれの暮らしに戻っていったのだという。 語り終え、ナウラは残りのコーヒーを一息に干した。話し続けて乾いていた喉が潤っていく。息をつき、業塵の顔を見やった。 「……ナウラと申したか」 「はい」 「おまえの郷里の名は」 「大日本皇国、私は皇都東城の出です」 「……ほう」 そう首肯したきり、業塵は再び沈黙に沈む。 ――ナウラが語った昔語り。いわば稚児に向ける寝物語とも言うべきその内容を、業塵は知っている。ただし、業塵の記憶の中にある世界の名は大日本皇国などというものではない。魑魅魍魎が跋扈して人を襲い、ときには喰らう。人の間でも争乱が絶えることはなく、人同士互いに殺しあう世界だ。が、怪獣や宇宙人といったものの出入りまでは耳にしたことがない。 けれど、夜刀神という名は、業塵の脳裏に今なお色濃く刻まれている記憶の中にあるものだ。そうしてそれを斃すべく腰を持ち上げた大蛇、妖狐、百足。 ――なるほどと、頭のどこかで合点する。わずかな笑みを浮かべ、懐から扇を取り出して広げ、口許を覆った。 何れ遠からず、日ノ本は夜刀神の力に倒れ滅ぶだろう。 鞍沢の地、業塵を訪ね来た大臣姿の男と太夫姿の女は顔を合わせるなり、挨拶もそこそこに口を開けた。 ――我らだけでは流石に荷が重い。 言ったのは大臣だった。続き、太夫が口を開く。 ――この鞍沢の地を守りたいというのがそなたの本分であろう。 鞍沢を守りたいのであれば我らに力を貸せ、と。業塵の前に座した二大妖怪は射抜くような眼で業塵を見た。そこには否と反す隙などわずかほどにも用意されてなどいない。 対する業塵は深々と息を吐く。 己は未だ齢千にも届かぬ若輩、二大妖怪と肩を並べるには程遠い身。まして性根も腑抜け、稚児の如き戯れに興じるより他に能も持たぬ役立たずであれば、何の力になれようか。 ――我らに力は貸さぬと申すか 片眉を吊り上げた大臣に、業塵はわずかな間を置いた後に首肯した。 何れ総てが滅ぶのならば鞍沢ひとつ守った処でどうになるわけもない。総てが滅ぶのであれば、なるようにしかならぬであろう。 返したそれは諦念と言うにも遠い応え。大臣は浅い息を吐いてかぶりを振った。しかし太夫は整った美しい顔に満面の笑みを咲かせる。 ――否、百足の御大将よ。そなたの性根を叩き直すための算段ならば、とうについている。 言って笑った狐の大妖に続き、大蛇の大妖が目をすがめた。 ――今ひとたび、性根を正す旅路を巡って来るがよかろう 告げられた言葉の意味を解せぬまま、業塵は不快を隠すでもなしに顔をしかめる。何を申しておるのか、と。告げようとした、その瞬間だった。 業塵の背の後ろでしゃらりしゃらりと鈴の音に似た軽やかな音が響いたのだ。それと共に畳の床を棒で突く音がする。 肩ごしに振り向き、その音の元を確かめた。 そこにあったのは目も眩むほどの光。しかしそれは視界を潰すような強く攻撃的なものではなく、やわらかく包み込むような温もりを顕現したかのようなものだった。 その光の中、仏の姿がある。背には曼荼羅が広がり、その中にも無数の仏がいるのが見えた。宝冠、瓔珞。豪奢な装身具で身を包んだその風体は王者の如く。そうしてその手には法界定印を結んでいた。 驚く間もなかった。文字通りの一瞬だった。 仏の口が真言を唱えるのと同時、業塵は視界を覆う光の眩さに思わず目を瞑り、――そうして次の瞬間には鞍沢の城とはまったく逸した場所に立っていたのだった。 「業塵さん?」 ナウラが呼ぶ声がして、業塵は顔を持ち上げる。そこは鞍沢の地でもなく、仏の導きにより覚醒を迎え迷い込んだ地とも異なる場所――0世界の一郭だ。 「大事ない」 顔を覗き込むナウラに応えを述べて、業塵は腹の底で息を吐く。 あの日、業塵を訪ね来た二大妖怪は、腑抜けた応えしか述べることが出来なかった腑抜けた百足の性根を鍛え直すための算段を整えていると言っていた。それは己の力を遥かに凌駕するものがもたらし寄越した絶対的な試練であったのだろう。 そうしてそれが真理数を奪われ、郷里から放逐されて旅人となり、あらゆる世界を巡り歩いて様々な事象に触れるという流れを指していたのであろうことも、今となっては明確だ。 確かにあらゆる世界を巡り、あらゆる事象を見聞した。様々な人々との出会いを迎え、暮らし、城の中で腑抜けているだけではおよそ知ることもなかったであろうものを学び重ねてきた。今では己のためだけでなく、他者のために揮う力もあるのだということも知っている。 「……して、おまえは妖怪などというものの存在を信じておるのか?」 問うてみた。ナウラが業塵が延べた言葉に小さく首を傾げ、しばし思案したような顔を浮かべた後に首肯した。 「怪獣や宇宙人がいるのだから、妖怪も当然存在するのだろう。そもそも0世界では、皇国で目にしてきたものたちを遥かに超えるものたちを目にする機会も多くある」 返されたナウラの言葉は淀みもなく、真っ直ぐだ。 「それもそうだな」 応え、くつくつと喉を鳴らして笑う。 「いずれ郷里に還るつもりだと申していたな」 「ああ」 「左様か」 小さくうなずき、笑みを浮かべた業塵を不思議そうに見ていたナウラだったが、トラベラーズノートがメールの到来を報せるといそいそと開いて確認を始めた。 「すまない、急ぎの用事が出来てしまったから、これで失礼する」 言いながらベンチを立ったナウラを見上げ、業塵は窪んだ眼を瞬いてみせる。 「ランズウィックさんにもよろしく。また会おう」 ナウラは業塵に向けて満面の笑みを浮かべ、すぐにきびすを返し走っていった。その背を送り、業塵はひとり首肯する。 ナウラの郷里である大日本皇国という場所は、ナウラが生まれるよりもずっと昔、日ノ本と呼ばれる場所だった。時代こそ違えど、生まれた大地は同じものなのだろう。 ナウラはいずれ郷里に帰属する心積もりだと言っていた。そうしてナウラはアルウィンの大事な友のひとり。 もしも己が日ノ本への帰属を果たさず、襲い来る夜刀神を打ち倒さねば、ナウラが生まれる時代はそもそも存在し得ぬものになってしまうのかもしれない。大事な友がひとりでも減れば、あの童女は果たしてどれほどに泣き喚き悲しむことだろう。 ――なる程、これもまた仏の計らいか 思い至れば笑いが浮かぶ。仏や大蛇や狐がしたり顔で笑っているのが想像出来た。 また会おう。 ナウラが去っていった方に視線を向ける。そこにはもうナウラの姿はなかったが、業塵は広げていた扇をたたみ、膝を打ちつけながら低く短い応えを述べた。 「いずれまた逢うであろうよ」 それがいつになるのかは分からない。あるいは途方もなく遠い未来の先になるのかもしれない。それでも恐らくは必ず、きっと。 呟くように述べた後、業塵は公園で遊ぶ人影を見つめながら懐かしい友の名を呼んだ。 ――のう、守久よ 目に見えぬ流れの中にも仏の導きがあるのであれば、いずれまた。
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