とても美しい森だった。 白と銀と琥珀で出来た森だ。 純白の幹に銀の枝、琥珀の葉。幹には雲母状のきらきらとした輝き。 植物という意味での樹木にはありえない、これが本当に生命であるのかさえ疑わしい――しかしなぜか、確かに生きていることが感覚的に理解出来る――、繊細で高価なオブジェのような木々がどこまでもそびえ立つ森は、穏やかな漆黒に満ちた想彼幻森(オモカゲもり)とは違って、まぶしいほどに明るい純白と静謐によって覆われている。 時おり風が枝葉を揺らし、鉱石が触れ合うような涼しげな音――どうやら小鳥の囀りらしい――が聞こえてくる。 およそ現実とは思えない、どこまでも静かで、幻想的で、美しい光景だった。 踏み出すと、足元がさくさくと小気味よい音を立てる。 見下ろせば、折れたり枯れたりして落ちた銀の枝や琥珀の葉が分厚く降り積もっているのだった。人間には永遠にも均しい時間を、この枝葉は降り積もり続けているのだろうか。 不意に、森の奥を誰かが横切ったような気がして、さくさくと音を立てながら踏み込む。――しかし、そこには誰もいない。「おや」 と、不意に声をかけられた。 振り向けば、そこには、漆黒の武装に身を包んだ人物が立っている。 身体のあちこちに金属片やプラスチックのように見える様々な部品が埋め込まれ、あちこちにコードやケーブルがからみつき、あちこちからプラグやソケットのようなものが顔を覗かせるその姿を見れば、誰もが、なんだ巡回だか警邏にきたのか、と納得しただろう。「こんなところにまで」 やけに楽しげに言って、それが目を細める。 円形ではなく、楔に若葉を組み合わせたかのような不思議な形状の瞳孔を持つ眼、光の加減なのか銀の光を孕んでいるようにも見えるその虹彩に、微細な文字――何語なのか、何という意味なのかは判らない――の連なりが刻まれているさまからは、どうにも無機質な印象を受ける。 事実、ソレは有機物から発祥した生命ではないのだ。「そっちこそ」 返せば、それは静かに笑んだ。 額の中央と顎に埋め込まれた漆黒の金属片と、同じ材質で出来ていると思しき両の腕。――最初からこんな姿だったか? と疑問には思えど、この【箱庭】を護る夢守たちは、常にヴァージョンアップが続けられているとも言うから、おかしなことではないのかもしれない。「そういう領域だからな」 確かにここは、黒羊プールガートーリウムの支配する場所だ。 黒の夢守がいて、何らおかしなことはない。「ここは?」 尋ねれば、「皈織見(カヘリミ)の森だ」 端的に答えが返った。「皈織見?」「巡り、回帰し、繰り返し、何度でも出会う場所だ」「……それは、いったい?」「ヒトは、時おり、過去を顧みると聞いた。『あの時、ああしていれば』と、過ぎ去った選択肢を思うとも」「まあ……そうだな」「そういう『自分』と出会うことがある。ほかにも、自分であって自分ではない誰かと逢うこともあると聞くし、他の誰かの、『もしかしたらこうなっていたかもしれない、別の世界ではこんな姿かもしれない』存在と出会うこともあるそうだ」 愉しげな物言いに興味をそそられる。「ドッペルゲンガーのような?」「さて、どうだろう」 小首を傾げる姿はやけに人間臭い。「もうひとりの自分、か……」 ロストナンバーたちは、異世界が無数に存在し、可能性が無限に広がっていることを知っている。そのどこかに、『別世界で生きるもうひとりの自分』がいると想像することは難しくない。――実感が伴うかどうかはさておき。「どんな気持ちがするんだろう……何せ、まだ出会ったことがないから」 もうひとりの自分とも、もうひとりの『誰か』とも。「どう思う、一衛(イチエ)」「それは、私のことではないな」「え?」 何を言っているのかと眉をひそめたとたん、ざああああああッと強い風が吹いた。くるくると渦巻く風によって銀の枝、琥珀の枯葉が巻き上げられ、視界が遮られる。 螺旋を描く枯葉に取り囲まれて、今のこの場所には、自分と黒い守護者しかいない。 それと同時に、自分が進んできた方向から、名前を呼ぶ声がする。「そこにいるのか。幻迷嵐(マドイアラシ)が吹くぞ」 その淡々とした声は、間違いなく、黒羊の領域を守護する夢守のものだ。「あれは危険だ、早く戻れ。――いや、いい、迎えに行くからそこにいろ。下手に動くと危ない」 感情の少ない声に、わずかな焦りのようなものがにじむ。 それは、最近、ロストナンバーたちとの触れ合いを通じて心や情動というものを獲得しつつある、黒の夢守に相違なかった。 しかし。「あれ、じゃあ……」 ならば、今、自分の目の前にいるこれは、誰なのか。 瞠目し、見つめた先で、それはくすりと笑った。 細められた銀眼の中で、楔と若葉の瞳孔が奇妙に歪む。「私は壱衛、鉄塊都市を護る最古の廃鬼師。――お前たちの世界の私は、働き者のようだな」 それとも、お前たちのことが心配なだけかな。 私たちは、双方、人間のお陰で和らげられ救われているようだ。 そう、囁くように言ったきり、それは、風の中に掻き消えた。 あとにはただ、風の哭く音が響くのみ。 あれが現実か幻か、あかしだてるすべは、ない。 ざああああああああッ。 幻迷嵐。 魂や精神に通じた黒羊の領域で、そういうものをかき乱し、肥大させ、時に吹き飛ばしてひどく狂わせる嵐だ。幻迷嵐が吹くと、皈織見の森はひどく『混雑』するという。 その風の中、渦巻く木の葉に囲まれて、旅人は立ちすくむ。 ざあざあと音を立てる森の中、視界の隅を、誰かが横切ったような気がした。
不思議と懐かしい場所だ、と、ヴェンニフ 隆樹は森を見上げた。 白と銀と琥珀で出来た木々は、おそろしく現実味がないのに、なぜか確かに生きていることが判る。永遠にも均しい時間を降り積もり続けている落ち葉を踏んで歩けば、それは、さくさく、さくさくと心地よい音を立てた。 「別の自分、か」 別世界の夢守が言った言葉を思い起こしつつ森を歩く。 幻迷嵐なる風も、今は収まって、森には静謐が落ちている。 「……そもそも、僕はいったい、『誰』なんだろうな?」 この肉体は、『大川隆樹』という人間のものだ。 故郷では平凡な学生だった彼は、召喚されて異世界に転移し、光の英雄となって戦った。そして強大な魔との戦いで相討ちになり、結果、0世界へと流れ着いた。 隆樹が0世界に籍を置くに至ったのは、そういう経過だった。少なくとも、彼自身はそう認識している。 しかし、未だ不可解な部分も多い。 『大川隆樹』の精神はヴェンニフという魔物に喰われて消滅したはずなのだ。魂が消滅し、肉体は侵蝕され、今の彼はすでに人間ではない。 ならば、今、ものを考えている隆樹とはいったい何なのか? 偶然訪れたこの森で、先ほどの説明を聞き、隆樹がまっさきに考えたのはそのことだった。 「もうひとりの僕に出会えれば、その答えも見えてくるんだろうか」 覚醒せず、故郷を離れることもなかった、平行世界の自分。 それは、いったい、どんな姿をした『何』なのだろう。 さくさくと音を立てる落ち葉を踏みしめて森を進む。 ふと、木々の向こう側に黒い影を見た。 夢守が迎えにきたのかと思い、覗き込んだ先で、巨大な漆黒の鱗が目に入った。奇妙な嫌悪感が背筋を這い上がる。それが同属嫌悪だと気づくのに時間はかからなかった。 大きな影が横切っていく。 それは、巨大な竜だった。 ずいぶん距離があるのに大きいと判る。 ずいぶん距離があるのに、向こう側を横切っていく竜の赤い双眸、そして眉間に輝く紫の宝玉と目が合った。それが確かに理解できた。彼らは、お互いに気づき合っていた。 隆樹は、それが『何』で『誰』であるか、知っている。 「――――ヴェンニフ」 なぜなら、彼は、『隆樹』は、それを殺したのだ。命を賭けて。 竜は、その眼に侮蔑の色彩を載せて隆樹を見ている。 貴様はいったいなにをしている、軟弱ものめ。 そんな声が聞こえたような気がして、隆樹は眉をひそめた。 そのころには、もう、竜は消えている。 「……あれは、もうひとりのお前か、ヴェンニフ。貫録があるのはどこの世界でも同じだな」 軽口を叩きつつ、隆樹は『そうではない』ことに気づいていた。 奇妙な確信が、実感を伴って隆樹の中に落ちつつある。 「『願えば必ず会える』という性格の森じゃないことはなんとなく判る。だから、たとえ、僕が『覚醒しなかった自分』を思ったとして、必ず『もうひとり』と出会えるわけじゃない。――だけど」 彼らは驚くほど惹かれた。 そして、その姿を当然のように受け取った。 むしろ、あそこに、『覚醒しなかった大川隆樹』が現れていたら、隆樹は奇妙な、居心地の悪い違和感にさいなまれていただろう。 ヴェンニフがひそやかに笑う。 じわりとにじむ喜悦に、見出された真実の色を見る。 《……あなたなら、貴様なら理解できるだろう。お前がその事実を受け入れるだけ。そうすれば――》 己を侵蝕するように伝わるそれは、隆樹に確信を抱かせるに充分すぎた。 目を落とし、手のひらを見つめる。 何の変哲もない、人間の少年の手だ。 しかし、もはや『そう』ではないことが、隆樹にはわかった。 「やっぱり、か」 ぽつりとつぶやく。 「おかしいと思っていたんだ」 あのとき、『大川隆樹』が生き延びられたはずはなかった。 彼らはほぼ相討ちに近かった。 光の英雄に肉体を滅ぼされた闇の魔物は、精神だけの存在となって彼の魂を喰らい、乗っ取って、その力を暴走させた。最愛の友を助けるため、止めるため、遺された仲間たちは命を賭け、――結果、隆樹はあの世界から放逐されたのだ。 つまるところ、 「僕のこの意識は、まぎれもなくお前だ。そういうことだろう、ヴェンニフ?」 隆樹の出した結論が、それだった。 影が嗤う。 『やはり、ナンとなくリカイしていたか』 「ほかに該当する奴がいない。――いても困る。彼女の、ルカの最期の魔法……アレの追加効果か、もしくは飛ばされたショックで、『お前に喰われた大川隆樹の意識』が出たんだろう。多重人格、に近いか?」 『イカにも。ワタシとキサマはつまるところ、セイシンテキにドウイツソンザイ』 ずしりと重い事実がのしかかる。 半ば予測していたこととはいえ、それは隆樹に大いなる衝撃を与えた。 では、彼は殺したのだ。 自分が『そう』だと思っていた、かの少年を。 隆樹の記憶と意識を持ちながら、隆樹を殺し彼の愛するもの護りたかったものを滅ぼしたのも自分自身なのだ。 「……けどな」 しかし、自分が魔物であったとして、この意識を棄ててしまえるわけもない。 「僕は僕だ……たとえ、僕がヴェンニフでも」 それは、最後に残された、『大川隆樹』の存在したあかしだ。 彼が思い、悩み、決意し、選んだ、そのすべてを隆樹は持っている。 彼を愛し、信じ、生きてほしいと願った仲間たちの願いを隆樹は知っている。 そして、隆樹は、今でもそれを愛している。 「だから僕は『世界』を護る。僕が喰らい喪わせた『大川隆樹』が愛し、生きた世界を含めて」 拳を握り締める。 それを、ヴェンニフが嗤う。 魔物の影響力が増したことは認めざるを得ない。 《だが、その思いは我がもらう。貴様は自身を我と認めた……それこそが好機。主導権を、意識を返してもらうぞ》 黒い影が伸縮する。 それは大きなあぎとを開き、牙を剥いて隆樹を飲み込もうとする。 自我――あえてそう表記する――の揺らぎを突かれ、侵蝕を許しそうになった時、 「却下だ。もめごとはよそでやれ」 とてつもなく淡々とした声とともに黒い何かが飛来し、影を打ち据えた。 ばちん、という衝撃があって、ヴェンニフが声にならない叫びを上げて黙る。どうやら、目を回したか、押し込められたらしい。 「……ええと?」 隆樹が見やった先には、黒の領域を預かる夢守がたたずみ、くったりとなった影をじっと見下ろしている。眼が銀ではなく黒だから、平行世界の廃鬼師とやらではなく、当人のようだ。 「僕を助けた――のか? いや、どうなんだろうな、この場合はどう表現すべきなのか……どちらにしても僕なわけだから」 「何にしても私の預かる領域でのもめごとはごめんこうむる。痴情のもつれとかいうものも遠慮したい」 「言っておくが、今の僕たちのやりとりは『痴情のもつれ』とかいうものじゃないからな。そもそもその言葉はどこで覚えてきたんだ……?」 鉱物派生の静謐すぎる世界には存在しそうもない言葉が出てきて、旅人の誰かが教えたのだろうと結論づけるが、妙な脱力を覚えたのも事実だ。 おかしなことを言ったとは気づいていないらしい夢守は、小首を傾げて隆樹を見やる。 そのころには、ヴェンニフは目覚め自由を取り戻していたが、この領域でことを荒立てる行動は得策ではないと思ったのか、沈黙を保ったまま夢守の様子を観察しているようだった。 「隆樹といったか。お前は何をどうしたい?」 「護りたい。出来るかぎり、たくさんの在りかたを、世界を」 「それはなぜ」 「僕は滅ぼしてしまった。僕を――僕のもととなった存在を受け入れ、必要とし、護ってくれた世界を。その償いというべきなのか、それとも、僕自身が、これ以上不幸になる世界を見たくないからなのかは判らないけど」 朴訥に答える。 彼は確かに、自分をヴェンニフの一部だと理解したが、その心は未だ、隆樹のそれだった。彼の心は、真実に触れてもなお、人間だ。 問われ、答えて自覚した。 それでもなお、自分は隆樹でいたいのだと。 半身たるヴェンニフが『食べて』しまった『大川隆樹』の代わりに、彼が愛したであろうものを護りたいのだと。 「結局のところ僕は魔物の一部で、自分が護りたいと望むこと自体がおこがましいのかもしれない、と思いはするが」 「我々夢守とて、始まりは、生ける鉱物の塊に宿された思惟と自我の欠片にすぎない。私たちは、永い時間をかけて『私』というものになる。それは、ヒトも夢守も同じであるはずだ。根源に魔があるとして、心がヒトならそれはヒトだ。私はそう思う。――そう思うようになった」 隆樹の想いが朴訥であるように、夢守の応えも朴訥だ。 「……そうだな。やっぱり、僕は僕だ。何が真実であっても、誰が何といおうと僕は隆樹で、どちらにせよ僕とヴェンニフは表裏一体だ。なら……うまくつきあっていくしかないよな」 言葉にしてみたら、それはすとんと自分の中に落ちた。 これからもヴェンニフは主導権を狙ってくるだろうし、いつしか隆樹が疲弊して、魔物に完全に乗っ取られてしまうこともあるかもしれない。いつまで隆樹の意識が表に出ていられるかも判らない。 しかし、隆樹は隆樹であることを諦めたくないのだ。 彼は護りたいものを知ったし、持った。 己の中に残る、この、ヒトとしての心を保ちたいと思っている。己の中に遺された、『大川隆樹』の記憶を慈しみたいと思っている。 ならば、今は、今の己を貫くしかないだろう。 「これも縁だし、流れだ。僕は僕をまっとうしよう、最後の瞬間まで。そのあとのことは、また『流れ』がやるだろう」 結論づけたら、少し心が軽くなった。 ヴェンニフは、いつでもお前を取り込んで主導権を奪い返してやる、それまで隆樹の意識を愉しむがいい……とばかりに嗤ったが、少なくとも、それは『今』ではなかった。
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