窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
規則正しい揺れを感じながら、サシャ・エルガシャはロストレイルの窓からディラックの空を見やる。 「楽しい時間になって良かったな」 呟きと共に窓に映すのは、つい先程まで過ごしていたモフトピアでの想い出だ。 終わらないかくれんぼはない。 その想いの通りに、アニモフたちの神隠しに端を発した《事件》は、賑やかなティーパーティで幕を下ろした。 皆が『よかったね』と笑いあって旅を終えられて、心はずっとふわりとした心地よさの中にある。 「それに……あのお屋敷、懐かしかった」 知らず、口元がほころぶ。 幼い頃から慣れ親しんだマザーグースとの再会や、かつて屋敷で使いこんだ掃除用具の発見、肌に馴染んだ建築様式。 無人の浮島に佇む館は、現在という時の中にありながら、同時にサシャの中の《過去》をも刺激した。 「本当に、とても懐かしくて……」 旦那様ならあの屋敷をどう思うだろうとか、と、そう考えてしまうほどに、あそこに閉じ込められていた《空気》はかつて自分が触れていたモノと同じ肌ざわりとニオイがした。 伯爵家に仕えていた日々はもう随分と遠い。 しかし、あの賑やかで優しい日々は今なお色褪せず自分の中にある。 「そうだ」 あの《時間》にもう一度触れたくなって、サシャは革製トランクに詰めこんだティーセットを四人掛けのボックス席に広げた。 茶葉をティーポットに落とし、用意したカップ共々に水差しから湯を注ぐ、その流れに無駄な動きや迷いはない。 そうしながら、サシャは向かいの席に向けて言葉を紡ぐ。 「ねえ、旦那様。あのお屋敷には隠し部屋まであったんです。旦那様にもそんな《秘密》があったりしたんでしょうか?」 大勢の使用人に囲まれ、いくつかの事業に携わり、日々を優雅に、けれど忙しく過ごされていたあの方にとって、プライベートなひとりの時間など皆無だっただろう。 だとしたら、隠し部屋のひとつくらいはあっても不思議ではないはずだ。 「あ、でも、そんなお部屋に閉じこもってしまわれたら、みんなで大騒ぎすることになるかもしれませんね」 屋敷中の使用人が総出で主人を捜索する光景が目に浮かぶ。 隠し部屋探しなんてしていたら間違いなくメイド長に叱られるだろうけど、でもきっと彼女だって厳しく言いつけながらも、こっそり執事に相談しちゃうかもしれない。 「もしも旦那様の隠れ家を見つけても、サシャはちゃんと秘密にしますよ」 砂時計の砂が落ち切った。 ソレを確認し、ふたつのティーカップにそっと紅茶を注ぎ、その中へ小さなはちみつ色の花を落とした。 カップの中で、花びらがふわりと溶けて散る。 「本日は、ダージリンにモフトピア産のハニーフラワーを使用したミルクティでございます」 恭しく、向かいの席にティーカップのひとつを置いた。 「さあ、召し上がれ」 にっこりと笑って、語りかける。 「サシャ、紅茶を淹れるのがうまくなったでしょう? うんと頑張って練習したんですよ。旦那様に、美味しいよって、頑張ったねって、褒めてほしくて……」 アニモフやロストナンバーの仲間に紅茶を振る舞い、喜んでもらえたのは何よりも嬉しい出来事だったかもしれない。 まるであの頃に戻ったみたいに、マザーグースを謳いながら過ごした時間は、切ないくらいに愛おしく懐かしかった。 目を閉じれば、いつだってあの頃の、大切な人々のやわらかな笑顔と声が思い出せる。 恋に恋をして夢見るようにおしゃべりを楽しんだ仲良しのメイドたち。 わずかな埃も許さず、礼儀作法にとても厳しかった老年のメイド長。 見事な薔薇園を管理する庭師に、屋敷のすべてを把握し動く老執事。 そうして穏やかで優しくて静かな眼差しで読書とティータイムを楽しまれていた旦那様。 なのに。 ひとたび目を開けてしまえば、そこには誰もいない。 皆、もうどこにもいない。 メイド仲間も、メイド長も、庭師も、コックも、執事も、大好きな旦那様も、もう誰もいない。 いない。 いないのだ。 「あれ?」 ぽたりと、何かが紅茶の中に落ちた。 「な、に?」 声が震える。 楽しかったモフトピアでの思い出を話しているのに、懐かしかった屋敷での思い出に浸っていただけなのに。 見れば、ガラス窓に映る自分は泣いていた。 「変なの……ワタシ、泣いてる?」 サシャは笑おうとする。 笑おうとして、失敗した。 いつでもどんな時でも、背筋を伸ばし、前を向いて歩くと決めたのに、笑えない。 「……おかしいな」 カップを置き、エプロンの裾を握りしめてギュっと目頭に押し当てる。 ちゃんと笑うために、涙を全部吸いこませてしまうつもりで顔を埋めた。 なのに、 「……旦那様……」 こぼれた呟きはくぐもり、揺らぐ。 「……お屋敷を守れなくて……ごめんなさい」 堰を切ってあふれだす想いは、たったひとりに向けた言葉達。 「旦那様の愛した本も、旦那様の愛した家具も、旦那様の愛した薔薇園も、旦那様の愛した美術品も、……サシャは何ひとつ残すことができませんでした……」 親戚たちが揃って屋敷の売却を決めた時、あらゆるものがサシャの目の前から消えた。 何ひとつ、守ることができなかった。 何ひとつ、取り返すこともできなかった。 一介の使用人にできることなど、本当に、本当に、ごくわずかにも存在してはいなかった。 「……養子にならないかと、そう言ってくださったのに……どうしてワタシは迷ってしまったんでしょう」 そうすれば守れたものがあったかもしれないのに。 帰りたいと願ってももう帰れない。 会いたいと願っても、もう会えない。 そうして、自分はずっと『迷子』のままで、0世界から様々な異世界へと旅立ちながら、ふとした瞬間にあの日の面影を追いかけているんだと気づくのだ。 エプロンに、また新たな涙が吸い込まれていった。 胸が、喉が、目の奥が、痛い。 楽しければ楽しいほど、懐かしければ懐かしいほど、失ってしまったモノへの想いは大きく自分に跳ね返ってくるのだと思い知る。 「……」 けれど、そんなサシャの頭を、やわらかく優しくなでる手があった。 『サシャ、幸せになりなさい』 私はただそれだけを望んでいるのだと言う、穏やかで優しい声が耳元を掠める。 「え」 驚いて、顔を上げる。 上げたそこにあるのは、カラの席に置かれた形見のティーカップのみ。 けれど、ゆらりと揺れる湯気の向こうに、微笑む《旦那様》の姿を見た気がした。 「旦那様……」 呼びかけて。 今度こそしっかりと涙をぬぐって、前を向き、 「旦那様、ワタシ、楽しいことを見つけるのが得意なんです。だから……大丈夫です」 大丈夫。 大丈夫だと繰り返し、笑う。 何があっても、どんな時でも、自分はちゃんと幸せになるから。 「見守っていてくださいね、旦那様」 さあ、お茶の時間の続きをしましょう。 微笑み、ティーカップをそっと持ち上げ、口づける。 ふんわりと広がる優しい香りとその甘やかなぬくもりに、心がそっと満たされていく。 ロストレイルは規則正しくディラックの空を進む。 やがて、紅茶の香りに誘われやってきたロストナンバーにも同じ紅茶を振る舞おうとして、うっかりハニーフラワーの小瓶を落とし。 その衝撃でたちまち大増殖してしまった花々が車両を埋め尽くして、ターミナル到着前に全車両を巻き込んだ大救出劇が展開することになるのだが。 それはまた別のお話。 END
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