『――虚構の舞台で、紅茶と謎をともに、机上の空論を楽しみませんか?』 * 画廊街に佇む小さな劇場の前で、彼は推理小説のペーパーバッグを模した導きの書を手に待っていた。 招待状を掲げて見せれば、「ようこそ、箱庭のお茶会へ」 赤いクマのぬいぐるみこと世界司書ヴァン・A・ルルーは、いつになく嬉しそうに声を弾ませる。「さあ、ご案内いたしましょう。舞台は」 劇場へと足を踏み入れた扉の向こう――狭く薄暗い通路を抜け、客席を経て、そこに広がるのは円形舞台の上に作り込まれたヴィクトリア朝を思わせるティーサロンの一室だった。 目の前のテーブルの上には、ガラスのティーカップに注がれたハーブティの美しい色彩に、更に置かれたトランプをモチーフにしたクッキー、マフィン、スコーン。 そして中央には、美しく積まれて《塔》と化した空っぽのタルト皿が数十枚ほど。 ルルーはゆるりと舞台の上を歩き、「犯行現場は、この女王の部屋です。事件当初、この部屋が無人となったのはわずか十分ほど。タルトを作った女王は、茶会に王を招くため、外に見張り番を置いてこの場を離れたとのことです」 出入り口はあそこだと、べニア板で作られた扉を指し示す。「しかし、女王が王と共に戻ってきた時、タルト皿だけがすべて空になっていました。見張り番は、女王が不在の際に不審なモノは誰もここを通らなかったと言ってますが、盗まれたことは確かです」 ちなみに、と、彼はひらりと一枚のトランプカードをこちらに提示する。「空になったタルト皿の一番上には、このカードが残されていました。ご覧ください」 誘われるままに視線を巡らせれば、ハートのジャックが描かれたカードには流れるような字体で“タルトはすべて頂きました”と綴られている。 随分と大胆な犯行声明だ。「女王はジャックを呼び出し、彼を罰しようとしています。けれど、彼は、自分にタルトを盗むことなど不可能だと告げ、動機も不明である以上、その謎が解けない限り、罰を受けないと言っています」 現場にはジャックのカードが残されていた。 タルトは消えた。 けれど、見張り番のいるこの部屋に侵入し、相手に気づかれずにわずか十分で数十個のタルトを盗むことなどできるのだろうか。「さて、ティータイムのこのひと時に、現場検証を交え、ディスカッションと行きましょう。議論、推論、暴論、空論、なんでしたら実演していただいても結構ですよ……どんな形であろうとも、最後にモノを言うのは“探偵が持つ説得力”なのですから」 事件の経過を話し終えたルルーは、ティーセットの置かれたテーブルに着くと、 「ジャックはいかにしてハートの女王からタルトを盗んだのか」 もっふりとした両手を組み、微笑んだ。「さあ、紅茶を飲みながら、ミステリ談義を始めましょう」
赤い封蝋の招待状を受け取り、赤いクマのぬいぐるみに勧められるまま円形舞台の茶会の場に上がったのは4人の《探偵》――エドガー・ウォレス、相沢優、流鏑馬明日、佐藤壱だった。 ルルーは上機嫌で彼らに席を勧める。 「たとえ虚構だろうとなんだろうと、お菓子を盗むなんて許されることじゃないよ! オレは絶対にこの謎を解いてみせる……!」 拳を握りしめ宣言する壱に、優はふわっと笑う。 食べること、そして甘いものをこよなく愛する友人の、実に“らしい”言動がほほえましく、なぜかちょっと安心してしまったくらいだ。 「そうだ。壱のために、スモモのタルトを作ってきたんだ」 「え、ホントっ!?」 優のその一言で眉間に寄ったしわが消え、壱の表情がパァッと分かりやすく輝いた。 「好きなやつに美味いっていって食べてもらえるのがやっぱり一番嬉しいからさ」 「あなた、料理ができるの?」 「そうか、俺も何か用意してくれば良かったよ。すごいなぁ」 「他にも色々用意してきたんです。クリスマスにもらったクッキングブックのレシピを試すのが楽しくなってしまって」 明日とエドガーから感嘆の溜息が送られ、優はほんの少しはにかみ、それからルルーへと意味ありげに声を掛ける。 「クッキーやスコーンと一緒に、“ここへ”置いても構いませんか?」 「現場の保存という意味で許可を求めているんですね? ええ、もちろん結構ですよ。テーブル上にあるモノで意味を持つのはこの空のタルト皿の塔だけですから」 「では」 美しく詰まれた空のタルト皿を避けるように、優は持参したスモモのタルトを広げ、別に籐編みのボックスを開ける。 ローストチキンに、スモークサーモン、モッツァレラチーズとトマト、ゆでエビとアボガドといった豪華なラインナップで一口サイズのサンドイッチが顔を出した。 「ほう、すごいね。君のおかげでテーブルが更に華やかになったよ」 「優、コレ全部食べていいの!?」 「食べてもらうために作ってきたんだしね。お口に合えば幸いです、なんてね」 「素敵だわ」 紅一点たる明日は壱のように分かりやすい表情の変化はないが、見るモノが見ればとても楽しげにリラックスしているのが分かるだろう。 虚構世界の虚構事件。故に彼女は純然たるミステリファンとしてこの舞台に上がり、純然たる探偵役として謎の解明を楽しむ事ができる。 「あなたも相変わらずモフ怖良いわ、ヴァン」 席に着いたルルーの手を取り、真顔のままギュムギュムと握る。 「その“モフ怖良い”って言うのはどういう意味なんだい、明日?」 「モフモフしていて、どことなく怖い雰囲気もあるけども可愛い、の略よ。エドガー」 「ああ、なるほど」 手を握ったまま話さない明日の妙な説得力に頷きつつ、エドガーもまた赤いクマの手を握る。 「まるで上等なカールモヘアのようだね」 「あ、俺もいい?」 「オレも触らせてほしい!」 「ええ、どうぞ。空いているところがあればご自由に」 優や壱も参加して、頭だの腕だの耳だのとひとしきり気の済むまで撫で回し、その不思議に心地よい手触りを存分に堪能する。 「さあ皆さん、お茶が冷めないうちにどうぞ。茶会を始めましょう」 招待主であるルルーのその台詞によって、ようやく《現場》であり《茶会の席》でもある円卓を囲んだ。 それぞれの皿にタルトやサンドイッチ、クッキーなどを乗せていくその姿にスポットライトが当たる。 浮かび上がる五人の登場人物。 役者はそろい、物語は“解決”にむけて動き出す―― 「さて、それじゃあまずは何から論じようか?」 この中で最も年長者であるエドガーが議論の口火を切った。 「密室で起きた“犯行の不可能性”についてかい? それとも、ルルーがわざわざ限定した、この“空のタルト皿の塔”についてかな?」 「気になるところから順にチェックしていくと……」 優はそろりとタルト皿の塔を指先で触れ、告げる。 「タルトの山をどうやって消したか、に焦点を当てたくなります」 「消失トリックからの考察ね?」 「ふむ……俺はね、タルトは持ち出されていないんじゃないかなって思うんだよ。その推理の前提として、この部屋の出入り口はあのベニア板の扉しかないと仮定するんだけど、持ち出さずにこの部屋のどこかに隠していたというのもアリじゃないかな?」 「だけど、エドガーさん……タルトそのものをどこかにやるのは不可能じゃないとしても、これほどの量を別の場所によけて、更にここまでキレイに積み上げるなんて時間的に無理があると思うんです」 「犯行時間を《十分》として、袋か何かに入れて、空になったモノから順に積み上げていけば……ああ、なるほど」 席を立ち、一番上に乗っているタルト皿を取り上げ、元へ戻そうと試みて、エドガーは優の言わんとしている事を悟る。 「結構滑るし安定が悪いんです。コレをここまで美しく積み上げるのは至難の業じゃないかなって」 「数十枚が整然と積まれたこの“塔”がネックになってくるわけだね」 改めて、ふむ…とエドガーはテーブル中央にそびえる塔を上から下まで視線でなぞる。 「ジャックがタルトを消した方法としてのみ論じるなら、タルトは持ち出されず、犯人はここから出ていない。故に密室は不完全であると、そう考えるだけなら単純なんだけどね」 「密室の構成という観点でみるなら、そうね、“不審なモノは誰も通らなかった”という証言だっていくらでも解釈のしようがあるもの」 ルルーの隣でハーブティを飲み、部屋の内部を観察していた明日の視線は、ベニア板の扉の前で止まっていた。 「見張り番の事情聴取ができればいいのだけれど……それはできそうにないわね、ヴァン?」 「ええ。この場の捜査は存分にしていただいて結構ですが、コレは虚構の物語ですから、新たな証言を得るといった事はできませんね。どちらかというと、皆さんには安楽椅子探偵を気取っていただきたいとも思っています」 代わりにあらゆる可能性を検討して構わないとも、ルルーは言う。 「だったら“不審な者”とわざわざ限定し、“誰ひとり通らなかった”とは言っていない、その見張りの証言に焦点を当てるとして」 優は軽やかな足取りで舞台を横切り、ベニア板の扉前までするりと近付き、ドアノブに手を掛けて、 「ジャックは密室の内部にずっといて、犯行後、戻ってきた女王の死角となるように扉の影に隠れてやりすごした、とかどう?」 その扉を引き寄せ、そこへ身を隠しながら問いかける。 「そうすれば、誰も通らなかったという見張り番の言葉に嘘はなくなるし、逃げるだけの時間稼ぎも不要だ」 まあ、暴論だけどね、と笑って再び扉の影から姿を現す優に、エドガーは王道だが面白いと笑い返す。 「しかし、そうなると今度は、“部屋が無人になったのは十分”だという、その前提条件を偽りとしなければならないんじゃないかな?」 「ええ……まあ、何を前提条件とするか、ってことですね」 「あなたは《部屋が無人だった》という情況そのものを、見せかけだと判断したのよね?」 「ミステリにおける“密室”は、そう見せかけているだけだから、こんなこともアリかなって」 不可能犯罪を作り出す、《密室》の幻想。 それは見張り番の証言を疑う、あるいは観測者の錯覚というカタチで、容易に崩れる者ではあるのだと彼らは証明する。 しかし、以前、十分でタルトを消しさり、空のタルトの塔を築くという《物理的な問題》の解決には至っていないのだ。 「それじゃあ、ちょっと視点を変えてみたらどう?」 壱はフォークを片手に、真顔でエドガーたちを見る。 彼の皿の上ではすでにスモモ・タルトふた切れが消費され、三切れ目としてアップルパイが乗せられていた。 「《女王が部屋を出て行った時間》と、《部屋の中が無人になった時間》とは、イコールじゃないっていう可能性」 「おや、面白い着眼点ですね」 ルルーが彼のために、空になったカップへ紅茶を注ぎながら感心する。 「壱、続けて」 優に視線を送り、頷きを返されて、壱は再び語り出す。 「女王が出て行った時点で部屋が無人になったとは明言されていない。つまり、彼女が出て行ったあとにも部屋には手伝いの人間たちがいて、彼らのすべてがいなくなったのを《十分》だと仮定すればいいんだ」 「つまり《犯行時間の錯誤》ということか」 「女王が出て行ってから、ジャックを含む残った者たちでよってたかってタルトを移動させ、塔を積み上げていったと考えるわけだね?」 優とエドガーの言葉に、壱はにっこりと笑う。 「作中の人物ではなく、それを観測する《読者》側に仕掛けられたワナの可能性だって考慮しておかないといけないから。犯人は部屋に入ったんじゃない、部屋に残っていて、そうして出て行った人物なんだ」 「……そうね。錯誤の可能性を考えるなら、もうひとつ、お菓子を作った場所と、お茶会をセッティングされたこの場所とが別だった、というはどうかしら」 「明日は、この部屋にタルトはなかったと言いたいのかな?」 「そうよ……はじめから空の皿を積み上げていただけだと、そんな風に考えてみたの」 壱による時間の錯誤説の後を受け、提示された明日の仮説は『タルトという存在そのものの否定』だった。 「本当の事件なら、指紋や足跡、それからそこら中に落ちているタルトの屑や繊維から色々な分析ができるけど……タルトの不在証明は難しいかしらね」 明日はキレイに詰まれたタルト皿の一番上のモノをそっと取り上げる。 それはとてもキレイで、舞台の小道具故にキレイなままなのか、それとも実際に使われていない事を示すモノであるのかの判断には迷うが、分からないのなら発想は自由だ。 「たとえばどこかで失敗したんじゃないかしら? 生地を焦がすか、あるいは落としてしまったか。完成間近であればあるほど、逆算すれば数十枚のタルトを作り直す時間なんかないわ」 いいながら、明日は自身の席から離れ、マントルピースの付近までゆっくりと歩き出す。 暖炉の上には薔薇籠と銀の置き時計が飾られ、掲げられた鏡が壁に取り付けられたシャンデリアを映し出している。 その横のアンティークの飾り棚には茶葉を入れた小さな缶が、オルゴールや人形と共に並ぶ。 けれど、ここでタルトを作った痕跡はなく、タルトを作る器具の一切も見受けられなかった。 「はじめから、ここにタルトはなかったんじゃないかしら?」 「それに近いことは俺も考えました。タルトは実際数十枚も用意されてはいなかった、何らかの理由で女王はタルトを用意できなかったんだ、って」 優が明日の隣に立ち、タルトの塔がそびえるテーブル席へと視線を向けた。 「数十枚なら無理だけど、数枚程度なら簡単に消してしまえる。でも、ここにたった数枚、もしくは全くタルトが存在していなかったって事実を悟られるわけにはいかなかったんだ」 「だから、ジャックの手を借りたということね?」 「はい」 明日と優の掛け合いは、ジャックの人物像に及ぶ。 「アリスの話じゃ、彼は早々に罰を受ける事が決まっていた。マザーグーズでは罰を受けてもうしないと誓いまでしている。でも、このジャックは犯行声明を出しながらも、なお、自信に溢れている」 罰せられると分かっていてなお、カードを残したりするだろうか。 「犯人としての彼を考えてみたわ。でも、不自然なのは確かね。見張り役の証言も合わせて、彼の人物像はとても大胆不敵だわ。愉快犯だとしても、自分の生死に係わってくるにしては堂々としすぎている」 「気になりますね。彼はとても弱い立場のはずなのに、まるで自分が罰せられないって分かっているみたいだ」 「あと、ひとつ」 明日はマントルピースからテーブルを横切り、ベニア板の扉へ向かった。 そこに手を掛け、壱たちを振り返った。 「私たちはまだ、密室の構築やタルトをいかに消したかといった事は論じても、犯行時刻、彼が本当にここを出入りしていなかった場合を検討していないと思ったのよ」 タルトは盗まれる前からごく少量か、あるいははじめから存在していなかった説。 無人になったのは十分だが、女王が部屋を出た時点ではまだ人が残っていた説。 不審な人物の出入りはないが、不審ではない、つまりは招待された者や手伝いの者が出入りしていないとは言っていないことから派生する、密室の不十分性説。 これらをもとに話を進めるのだとしたら、もうひとつ、検討しなければならない視点があるのだと明日は思う。 「彼が罪をなすりつけられているのだとしたら?」 「明日さんは彼の無罪を?」 「ええ。犯人が女王である可能性よ。被害者を装った加害者、というパターンね」 優に頷き、そして明日は自分の席へと戻り、もう一度タルト皿の塔を見やる。 「見張り役は本当に見張る事だけしかしていなかったのかしら? 彼の役割を疑う事だって必要だわ」 「カードを残したのは誤認させるためかい? 俺は、あたかもこの部屋からタルトが盗み出されたと思わせるための小道具だとしか思っていなかったんだけど。あるいは、解ける者なら解いてみろという不敵な挑戦状かな」 エドガーはトランプ型のクッキーをつまみ、そこに《ジャック》の姿を重ね見る。 「ああ、犯行声明のカードを置いた犯人を、実はジャックも捜している最中だったりするかな? それが見張り番じゃないかとジャックは疑っている、とかね」 「そのジャックなんだけど」 ルルーにスコーン用のクロテッドクリームとイチゴのコンフィチュールを取ってもらいながら、壱は小さく首を傾げた。 「でも、そもそもジャックは“誰”なんだろう」 ぽつりとこぼれたその呟きに、 「ジャックは兵士じゃないのかしら? 家来という表現する方がいいかもしれないけれど」 明日が応え、 「大胆不敵な人物ではあるだろうけど、ただの家来だとしたら、結構肝が据わっているというか、不自然なくらいにふてぶてしいな」 優がそれに続き、 「《不思議の国のアリス》でもモチーフにしたシーンがあったけど、その時のジャックはただの家来だった。そして物語の中での彼はもう裁判の真っ最中。言い逃れなんか勿論できていない」 「でも、この事件のジャックは、《自分の犯罪を証明しなければ罰は受けない》って言っているんじゃなかったかな? 周りはさぞ驚いただろうね。大騒ぎになっているはずだよ」 エドガーがその後を引き継ぎ、視線を壱に向ける。 「そうなんです。だからこそ、ジャックがタルトを消した《謎》と同じくらい、彼の正体が気になって」 なんとしてもタルト消失事件の謎を解明したいと意気込む壱にとって、この犯人像の解釈もまた重要なポイントだった。 「しかも、ジャックは自分の無実を訴えているわけでも、命乞いをしているわけでもなくって。タルトを盗んだと糾弾する女王に対して、ある意味、すごく強気なんだもん」 「なるほど、犯人かどうかという以前に、彼に与えられた《役割》というか、地位が気になっているんだね。ジャックという存在の《背景》を探るのは大事かもしれない」 エドガーは壱の気付きになるほど、と唸る。 「我々は“ジャック”の犯行の不可能性について議論しているけれど、彼のスタンスについては、それぞれ思い描いているとしても認識の共有はしていなかったね」 自分のイメージと他者のイメージに相違があれば、展開すべき話の内容に、微妙な、あるいは決定的な齟齬が出てしまうだろう。 推理対象者に関する前提条件の共有、思考の共有、認識の共有は、重要なテーマとしてあげられる。 「ああ、“ジャック”が何者であるのかという考察は、この事件の印象どころか《有り様》すらも変えるかもしれませんね」 ルルーはスモモのタルトの最後のヒトカケをクチに放り込み、そうして黒い目を細めて笑った。 「たとえば、同僚の世界司書であるアドは、ジャックを《クイーンの影》だと定義していましたよ。ミステリだと言っているのに、その枠を越えた解釈で挑まれました」 茶会の準備をする中で、ルルーはそうして同僚にも話を振っていたらしい。 「彼は女王の影であるが故に彼を捕らえられるモノはなく、また女王の後ろについて回るが故に彼女の目に触れることなくタルトを食べることができる、とね」 「でも、コレはミステリだよね? ……ところで大前提として確認するのをやめていたけど、ルルーさん、今回の事件に《超常現象》の類いは一切ナシと考えていい? ええと、この場合の超常現象は《壱番世界》に準じるんだけど」 壱の問いに、クマは頷き、応える。 「ええ、そうですね。瞬間移動ができるとか、時間を操れるとか、実はジャックは幽霊だとか、そういう心霊現象によるオカルティックな事件ではないと、定義をしておきましょう」 「お化けや幽霊なんているはずがないでしょう? すべてはトリックね。種があるから手品というのよ。種がなかったら謎として提示する意味がなくなるわ」 「おや、明日はオバケが苦手なのかい?」 「あら、いるはずのないものをどうやって苦手になればいいのか分からないわ、エドガー」 「なるほど」 真顔で明日に返され、それ以上突っ込まない大人の嗜みを見せると、エドガーは空になったティーカップを置いた。 そうして指を一本だけ立て、口にしたのは、今しがたまで俎上に載せられていた《ジャックの正体》についての一考察だ。 「女王に強気で発言でき、堂々と振る舞うこのジャックという人物が、クイーンとキングの子供――《王子》だというのはどうだい?」 それは誰も考えなかった回答だ。 全員の目がぱちりと瞬きし、揃ってエドガーを凝視する。 「ジャックと言えば本来はナイトのイメージに繋がるけれど、トランプでもダイヤだけは《トロイの王子》をモチーフにしている。だとしたら、キング、クイーンときて、その下にいるのは“プリンス”という回答にしたって間違いじゃないってね」 明言されていない以上は、一考の価値がある。その理論で行くなら、このエドガーの解釈もまた充分に成立するという事だ。 「どうかな? 家族間のやりとりだって考えると、タルトを盗んだという一連の事件もイタズラめいた印象になりはしないかな?」 どんな内容であろうとも、説得さえできるならそれがすべてだ。 「なるほど、実に興味深い解釈ですね」 構築されていくロジックを眺めていたルルーから、驚嘆の声が上がった。 「ジャックが王子なら、この不敵さにも納得がいくわね」 「女王と親子関係なら、あっさりと首を刎ねられる事もないというわけだ」 「不審人物でもないし、キングを呼びに行ったクイーンにとって、ジャックは信頼できる共犯者にもなり得るってことだし」 「エドガーさんの《ジャック=プリンス》という解釈で事件を見直して……うん、ちょっと印象が分かってくるな」 優は唇をなぞり、整理していく。 「見張り番による証言、“不審者は誰も通っていない”というのは、すでに、関係者であれば不審者とは言わない、という事できるだろうし」 「犯行時間とおぼしき《十分》の壁も、壱くんが言うように、《女王が部屋を出た時間》と《部屋が無人となった時間》がイコールじゃないってことで片が付けていいと思うわ」 「消えたタルトも、食べたり片付けたりといった時間を考慮するよりは、はじめから存在していなかったとすれば、隠し場所や運び出しの手間も省け、目撃証言も共犯者も広範囲にならずにすむんじゃないかい?」 「それに、アレだよね、ミステリには、犯人ははじめから物語に登場していなければいけない、使用人を犯人にしてはいけない、といった戒律もあったはずだよね?」 明日、エドガー、壱が続き、優の隣に立つ。 互いの視線が行き来し、互いの思考が共有されていく。 彼らの言葉に後押しされるように、優は、辿り着いた答えの、その最初の一歩を踏み出した。 「断言しよう。ジャックは無実だ、だから彼は罰せられない」 再構築されていくロジックの、それが着地点だった。 「すべては虚構。事件も虚構。もっと言うならば、コレは狂言。不可能犯罪という枠に放り込み、本来の《出来事》を隠してしまうための事件――クイーンの息子たる王子・ジャックが、母親のために荷担した、ただそれだけの話なんだ」 誰もタルトなんて盗んでいない。 タルトは存在せず、故に、成立する不可能性の可能性。 「数十枚のタルトを焼いていながら、明確にクイーンに招待されたのがキングだけだというのも、コレで解決できるわね」 「キングの他にも招待客がたくさんいたという拡大解釈よりは、こっちの方がしっくりくるんじゃないかい?」 「色々考えたんだけど、うん……そうすればいろんな矛盾と疑問と謎がキレイに収まると思う。それに、わざわざ悲劇的な結末にしなくたっていいんだし」 それが優の、そして議論を通じて明日とエドガーと壱が辿り着いた結論であり、模範解答のない虚構舞台に提示する答えだった。 「では、動機を伺いましょうか。なぜ、この事件は起きたのか、を」 ルルーはこの探偵たちの結論に、最後の難問を投げかける。 「ここでキングの存在に焦点を当ててみるのはどうかしら? まだ最後の登場人物たる彼について語られていないのだもの、解釈の一要因にできるはずよ」 受けて立つ、明日の視線に揺らぎはない。 「つまり、キングを驚かすためって言うのはどうだい? 招待客はキングとジャックだけだったとして、こんなとんでもない事件が起こった《謎》を、キングに楽しんでもらいたかった、なんてね」 エドガーが軽くウィンクをしてそれを受ける。 「それで、謎を解くためにキングを囲んでお茶会が開かれたりすんだとしたら、おいしくて幸せな時間になるよね」 ハッピーエンドに向けた壱の台詞に、優が続く。 「以上、退屈すぎて眠りこけたキングを目覚めさせるため、クイーンとジャックが用意した架空の事件――それがこのタルト消失事件の真相と考えます」 アリスをなぞるその台詞を締めくくりとして、茶会の席の探偵たちは、ただ一人いまだテーブルに着くヴァン・A・ルルーを見つめた。 黒いつぶらな瞳が彼らを見返す。 彼はほんのわずかの間沈黙し―― 「すばらしいです」 ぽふんぽふんと不思議な音ではあったけれど、ルルーは確かに賞賛の拍手を探偵たちに送った。 同時に、舞台上の探偵たちへ、惜しみない拍手が一斉に贈られる。 降り注ぐ、拍手喝采。 驚き、思わず優たちは揃ってあたりをきょろきょろと見回るが、拍手する者の姿は舞台の外ゆえに見る事ができない。 「それにしても」 突然の拍手に対する驚きの余韻を引きずりながら、それでもふと、優はそれを口にしていた。 「密室と見せかけて密室じゃない。事件と見せかけて事件じゃない。犯人と言われていた人物が犯人じゃない。女王とジャックは共犯関係にあって、架空の事件をでっち上げたんだとして……なんだかコレって……」 「どうしたのさ、優?」 「何か気になることがあるのかしら?」 「どうかしたのかい、優?」 「あ、いや……うん」 優の中でずっとチリリと反応していたものを告げるつもりになって、一度言葉を飲み込み、一拍おいてから、顔を上げた。 「ん、うん……ささやかな事なんだ、すごくささやかで、なんていうかただの印象というか、そんな話なんだけど」 ルルーからこの『架空の事件』の概要を聞いた時に連想してしまった配役が、実はずっと頭の片隅に居座っている。 「女王って聞くとね、どうしてもカリスさんを連想しちゃって。キングがヘンリーさん、そしてジャックは前館長、なんてね」 茶会の席でこうして議論をしながら、その実、ジャックに《前館長》を重ね、彼の無実を証明したいと考えてしまっている自分がいるのだと分析できてしまう。 それはおそらく、あの嵐の壱番世界にいた明日にも共感できる思いだろう。 「優さんはそのように虚構世界を読み解かれるのですね」 ルルーは黒い目を細め、もっふりとした手を組み、その上にアゴを乗せて笑う。 「まるでメタミステリだわ。でも、そうね、そういう解釈は……できるのかもしれない」 密室で行われた犯行。 けれど、本当は起きていないのかもしれない事件。 だとしたら、そこでは実際には何が起こっているのかと、そう思いたくなるような、それを知りたいと願い、追いかけたくなるような、そういう、二重写しの茶会の席だったのだと考える事もできるのだ。 「あるいはコレは、アンチ・ミステリーでもあるのかしら?」 「明日さんはミステリがお好きなんですね?」 「ええ。昔とても面白い小説を紹介してもらって、それ以来……ヴァン、あなたもかなりのものじゃないの?」 「私ですか? いえ、まだまだ足りないという自覚はしてますよ」 ただ、と、彼は目の前の四人に向けて言葉を紡ぐ。 「そこにある謎のすべてを解かずにはいられない、真実を追究せずにはいられない、それが探偵なのかもしれません」 推理小説をこよなく愛する世界司書は、そうして虚構舞台を見回し、探偵たちに視線を戻し、 「たとえば、刑事であったり、外科医であったり、大学生であったりと、職業としての肩書きは多岐に渡るでしょう。しかし、自身の中にどうしようもなく《真実への欲求》があるとしたら、そう名乗らなくとも探偵なんです」 もう一度拍手する。 すばらしい推理の、美しいロジックの構築に惜しみない拍手を。 そして。 「そして、あらゆるモノが賭けの対象になる。ギャンブラーとはそういう生き物かもしれませんね」 「ルルーさん?」 どういうことかと問いかけるように、壱は首を傾げる。 「今日の茶会のお土産として用意いたしました」 その言葉を合図にして、舞台袖からベニア板の扉を経て、トランプの兵士を模した衣装の人物が銀の小さなワゴンを押して登場する。 上に乗っているのは銀の皿に置かれた、赤い果実のタルトだ。 まるで宝石のように艶やかな、イチゴやクランベリー、ブルーベリーにフランボワーズ、それからチェリーがたっぷりと敷き詰められた極上の一品。 滴るような色彩と溢れる甘い香りに視線が釘付けとなる。 「クリスタル・パレス謹製、《レッド・クイーンズタルト》です。が、コレを持ち帰っていただけるのはひとりだけ」 「「「「え?」」」」 「本当は最も美しいロジックを組まれた方に、と思ったのですが、皆さん全員がとても面白く、私としてはひとりに絞る事ができませんでしたから」 開いた鋭い爪と爪の間に、トランプの束が現れた。 「ですから、私はギャンブラーとして、こういった方法にしようと思うんです」 これ以上ないくらいに楽しげに、嬉しげに、ミステリ談義を目的として茶会を開いた主催者は、四人に向けて問いかける。 「さあ、ご自身の運に賭けますか?」 壱のカオの輝きが変わり、優は驚きに数度まばたきし、エドガーは興味深げに目を細め、明日は半ば苦笑まじりに嘆息し。 ほぼ同時にルルーへ向けて手を伸ばした。 その後、茶会の席は一転――円形舞台にて、己の洞察力と推理力とギャンブル運とを存分に発揮した一大心理バトルが繰り広げられる事になるのだが。 それはまた別のお話。 END
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