イラスト/新田みのる(iawe2981)
「由良さん、あんたに今度のアルバムのジャケットを頼みたいんだけど、どうかな?」 「曲は?」 「デモはここに持ってきているんだ」 「……、……ほう」 「どうだろう、響く?」 「……あぁ、これは……いい。むしろこちらから願い出たいくらいだ」 ――ムジカ・アンジェロの依頼は、そうしてひとつの物語の発端となる。 廃墟とは、朽ちていくだけの存在だ。 ヒトの手を離れ、誰に顧みられることもなく、過去を抱えたままに壊れていくだけの存在。 剥がれた壁紙、砕けた天井、割れた窓ガラス、剥き出しになった梁や緩衝材、コンクリート、鉄骨――灰色に染まった過去の遺物。 由良久秀は、フィルム性の一眼レフカメラを手に、時間を閉じ込めた世界に足を踏み入れる。 広大な森林公園の一角にひっそりと佇む劇場は、一部が欠けた扉を不器用に広げ、砕けたステンドグラスの破片と雨水に晒され色褪せた赤い絨毯でもって、エントランスに久秀を迎えた。 植物の蔦が建物内にまで侵入してきている。 ぴしゃん…と、遠く水音が耳を打った。 ロビーから大ホールまで続く通路はかつて、磨りガラスのシャンデリアが等間隔に並び、蔓薔薇の刺繍が美しい壁紙が取り巻き、繊細な調度品が目を楽しませてくれていたのだろう。 こうして足下に転がる木片ですら繊細な植物らしきレリーフが施され、水に濡れてなお高貴な趣で魅せている。 かつての栄光がそこにあった。 遠い日の面影だけがやんわりと、ファインダー越しの視界へ映り込んでくる。 シャッターを切る。 薄暗い廃墟の中で、断続的に破裂する光と音。 またしても、どこかで水音がした。 久秀は誘われるかのごとく、ホールに向けてゆっくりと足を進めた。 * 時間を閉じ込めたこの舞台で、君の終焉を演出しよう―― * 廃墟が終わったモノの象徴だとしたら、0世界のターミナルは永遠の停滞の象徴だろう。 時間は停止しているが、廃墟とは呼べない。 ここには『生活』があり、『日常』が紡がれているのだから。 ヒトの営みがある限り朽ちていくことはなく、ヒトの手から離れた途端に崩壊は始まる、そういうふうにできているのだ。 久秀は、煉瓦調の非常にレトロな雰囲気を醸し出す喫茶店の扉を押し開いた。 店員の案内を片手で制し、久秀は自分を待つ相手を見つけ、大きめの封筒を抱えて席に近づく。 「待たせたか」 「いや、こっちも今きたところだから大丈夫」 軽く挨拶を交わして、久秀はムジカの正面の席に着き、早々にウェイトレスへ注文を告げると、封筒を示した。 「実はあんたに見てもらいたいモノがあってな」 言いながらテーブルの上に広げたのは、白と黒のコントラストが映えた廃墟の写真たちだ。 崩れ、砕け、その身を植物に蝕まれてなお、豪奢で繊細な美を誇る建物。 色彩ではなく濃淡のみで表される世界は、その類い稀なる造形ゆえに見るモノの心を引きつけるだろう。 「ここは?」 「壱番世界で撮ってきた劇場の廃墟だ。かつては音楽ホールとしても人気が高かったらしい」 「あの曲からここを?」 「あの曲だからこそ、あえてここを選んだ。それで、な、……ここまでは俺が撮った写真なんだが」 そして、と、新たに封筒から別の写真を取り出し、同じアングルでありながら不可解なほどに黒や白の斑点が目立つ写真を指で差し示す。 「これが、廃墟で見つけたフィルムを現像したものだ」 「見つけた?」 緑がかった灰色の瞳を瞬かせ、ムジカの視線は久秀と写真の間を数回行き来する。 「見つけた……ということは、落ちていたか隠されていたということだろうとは思うんだけど」 「劇場内、それも二階の機材室で見つけた。うっかり落としたんだとしたら、辺りは水浸しだったんだ、もっとひどいことになっていただろうな」 日光はもちろん、カビにも弱いフィルムにとって高温多湿は厳禁だ。それが撮影済みとなると、たとえ乾燥した冷暗所に保管していようとも化学変化で更に劣化は進む。 「これは、それを分かっているモノがわざわざ雨水の浸食を受けないよう、機材室の操作盤近くの棚にプラスチックケースに入れ置いたと考えていいだろう」 誰かに見せるために、いつか来る誰かに託したのだと思いたくなる場所にこれはあったのだ。ああしてわざわざ隠され保管されてたことに、特別な意味を見出したくもなるだろう。 「一体誰があんな場所にフィルムを残したのか、気にならないか?」 「ちょっとしたミステリといったところだね」 ムジカはテーブルに並べられた写真を指先でなぞりながら、ぽつりと呟く。 「誰が、なんのために、か」 「そう、誰が何故、だ」 並べられた灰色の写真群。 そこにあるのは、久秀と同じ劇場を映した写真であり、ほぼ同じアングルから撮影されたモノと判断もできた。 しかし、完全なる同一とはなり得ない。 単純に撮影時間の違いとは思えない、光の加減とは言い切れない《影》らしきものが、斑なカビの合間に映り込んでいる。 それはなんであるのか判然としないが、天井近くに何かが打ち付けられでもしていたのだろうか。 何とも言えない違和感に首を傾げるふたりの前に、ケーキセットが運ばれてきた。 みずみずしい果実をふんだんに使った桃のタルトがムジカの前に、目の覚めるような赤い色彩が美しいベリータルトが久秀の前に、そうして砂時計と共に紅茶が入ったポットと2客のティーカップがそれぞれの前に用意される。 広いテーブルは瞬く間に、彩り鮮やかな茶会の席へと姿を変えた。 ケーキと紅茶に挟まれて、見知らぬ誰かから手渡された劇場の廃墟写真は一種異様な雰囲気を醸し出し始める。 「そういえば、この劇場はなぜ廃墟となってしまったんだろう」 素朴な疑問が、ムジカの口からこぼれた。 「由良さん、あんたはなんでここを選んだのか教えてもらえないかな?」 「アンテナに引っかかった、というべきか。以前知り合いのロストナンバーに廃墟巡りを趣味にしているのがいて、そこで名があがった場所だ」 廃墟を被写体に選ぶことの多い自分に、あの男は子供のようにキラキラと目を輝かせ退廃的魅力とはどこにあるのかを語り、そして、あの場所を告げたのだ。 ――君好みの物件があるんだけど、どうかな? 「数十年も前に、管理者が劇場の維持が叶わず手を引いたと言うことだ。客足も減っていたという話だが、曰くならばいくらでもあるだろう」 「だとしたら、事件の可能性も考えられると言うことだね?」 「壱番世界でもオペラ座の幽霊騒ぎは有名だろ?」 「……幽霊騒ぎもあったのか」 「出演者のひとりが稽古中に行方不明になることもあれば、理由の分からない事故や怪我が相次ぎもしたと聞いた。となれば、必然だろう」 もちろん今も不吉な噂は後を絶たない。 しかし、廃墟好きのあのロストナンバーは、そこに惹かれて止まないのだと告げていた。 「……そういうことか。だとしたら……」 そこで何かを思いついたらしい、ムジカの口元がふっと引き結ばれ、瞳に無邪気とも取れるきらめきが宿る。 「もし、この写真を撮った人がすでに殺されているとしたら?」 「殺された?」 「そして廃墟にこのフィルムだけが残された……そういう《物語》が紡げるんじゃないか?」 まるで音楽に耳を傾けているかのような顔つきで、彼はゆるやかな思考の海に漂い始める。 「消える出演者、続く事故、幽霊の噂、遠のく客足……そうして捨て置かれた廃墟に《犯罪》が隠されているとしたら」 「……“としたら”?」 「ここに《惨劇》を見たりはしない?」 「ああ、なるほど」 感性が、振れた。 久秀の胸の奥に潜む《なにか》が、ムジカの旋律めいた言葉の端々に反応している。 「ムジカ、あんたはヒトがヒトを殺す理由をどう考える?」 久秀は口元に微かな笑みを浮かべ、相手を下から見上げるように視線を手元のケーキから向けた。 「殺す理由……それは、ミステリ的な意味か、それともロマンと美学を排除した現実的な話か、どっち?」 「語るなら前者だとは思うが、本当の動機など本人にすら分からないものじゃないか?」 冷静に考えれば、殺人など労力の割に見返りがなく、かつ面倒この上ないのだ。 その手段をあえて選ぶ理由、ヒトがヒトを殺した瞬間の精神状態に、どんな解釈をつけようと本当の答えなど出ないだろう。 そもそも、これまで自分が数多遭遇した事件事故の中にも《死》は溢れていたが、明確な回答を得られた試しなどない。 そう考えたところで、ムジカと視線が合った。 彼はすぅっと目を細め、形の良い唇をゆっくりと動かす。 「怨恨、衝動、快楽、仕事、金銭、事故、あるいは口封じや承認欲求の充足、利害関係の不一致……殺害動機ならいくらでも挙げられるけれど」 そこで一度言葉を切り、 「ミステリなら、愛情表現、もしくは、そう……芸術のためというのを一番に挙げたいところだね」 くつりと、ムジカの唇が笑みのカタチに吊り上がった。 その瞬間、廃墟を巡る考察は急速に現実性を失い、様式美と外連味を携えた虚構の舞台へと成り代わる。 そういえば、聞いていたのだ。音楽以外のことには非常に淡泊である彼が、唯一趣味とするのが読書であり、かつ好むジャンルがミステリであることを。 「芸術のための殺人……つまりは、この舞台にふさわしい《作品》を自ら作り上げることを目的とするわけだ」 ゆえに、そこへ呼応するがごとく、久秀もまた虚構世界へ足を踏みいれる。 「演者たちが集う劇場、生と死が繰り返し語られるそこに最も映えるモノは何か、突き詰めた先に得た答え、だな」 冷めていく紅茶で喉を潤し、甘やかなタルトで味覚を刺激し、広げられた写真をふたりの指先でなぞっていく。 構築されるのは、幻影。 語られるのは、幻想。 「この写真……舞台から扇状に客席が並んでいる写真」 ムジカは、最も華やかな写真を指し示した。 「中心部分がすでに陥没しかけているんだけど、ここ、ここに由良さんの写真にはないモノが写り込んでいる」 言われ、赤みの強く出ている劣化写真に目を凝らせば、確かに客席のくぼみに影が落ちている。 「これは……花、か? 弔いの花というには、置き方が不自然だな。この沈んだ客席に装飾を施していると考えていい」 「この劇場で過去にシャンデリアが落ちたことは?」 「音楽ホールとして機能していた間に事件は起きていない。だが、俺が行った時、天井にはすでに下がっていなかったな」 砕けたガラスならば、そこら中に散らばっていた。 おそらくはスワロフスキーと思われるクリスタルガラスが、二階席近くの崩れた壁から差し込む陽の光を反射して僅かなきらめきを見せていたことも思い出す。 「アレは、閉館前に取り外されたという感じではなかったな」 「だとしたら……欠けているからこそ美しさが際立つということなら、いっそ完成された造形美から奪い取ることも考えるかもしれない」 「自分で落としたか」 「あるいは」 「老朽化して落ちたシャンデリアの破片の中に、《死》の演出しようと思いついた、というのもあり得るか」 危険は伴うが、既に長く放置された廃屋ならば見咎められることもないだろう。 「朽ちていく美に彩りを……」 目の前に浮かぶ情景―― 褪せて壊れた赤い座席に落ちたシャンデリア。 そこに大量の薔薇の花を散らし、蜘蛛の巣のごとく絡め取られるひとりの女性がいる。 崩れた天井から注ぐ陽の光が砕けたガラスで乱反射を繰り返し、彼女を飾るのだ。 それはひとつの絵画。 描き出される、死の装飾。 「当然ソレは一度じゃ終わらない、だろうな」 「一度で終わるわけにはいかないだろうね。だから、続ける。納得のいく作品を構築し続けるために、素材を集めて……」 写真を並べ、辿る。 エントランスを望みながら二階へ。 その先の客席ロビーを抜けてカフェテリアへと向かう途中には、ステンドグラスが並び、更に上階へと続く階段の手すりと天井には緻密な彫刻が花を象っていた。 赤い絨毯を敷き詰められた、階段に注ぐガラスの色と影。 「ここでも、ね」 「水浸しなのは同じだが、この写真には不自然な色が滲んでいるようだな。まるで」 まるで、ここで大量の血が流れたかのように。 「赤い階段、差し込む光、花の飾り階段、崩れた破片、上階から流れてくる水を素材にして、ここへ横たえる……“オフィーリア”か」 「……ハムレットにオマージュを捧げた?」 「そのつもりはなかったかもしれないがな」 おそらくは、髪の長い女性をここに飾ったはずだ。 壱番世界にも同じ戯曲があると聞いたが、気の触れた少女の最期とは似て非なる世界観を構築するのにこの場所は最適なシチュエーションだろう。 目に浮かぶ。 思考が辿れる。 ほんの数枚の褪せた写真と、久秀が映し続けた大量の写真たちの狭間で、違和感をなぞっていけば見えてくる。 このフィルムの持ち主も、おそらくは自分と同じ道を歩き、シャッターを押したはずだ。 エントランスから一階ホール、階段から二階ロビー、そこから三階へ上り、照明が置かれた機材室、ガラス越しに見下ろす劇場―― 「一度、二度、ときたら、三度、四度と続くだろう? 芸術は一度や二度じゃ完成しない。より完成度の高いモノを求め続けるようになる」 「……完成しない絵をこの劇場に描き続けるのか」 小さく呟くムジカの瞳が、ふと揺らいだ。 だが、まるでソレが見間違いであったのかと思えるほど一瞬で、彼はすぐに自らの思いつきを打ち消すように首を横に振った。 「絵画じゃない、ここは劇場なんだから、おそらく演出家気取りなんだよ。脚本も自分、衣装もすべて用意し、演者を配置して、自分だけの舞台を作る。そうじゃないと、繋がらない」 美意識が繋がらない、と彼は言う。 「舞台なら、誰かに見てもらいたくなるだろうな」 「評価を求めたかもしれないね」 「演劇は生ものらしい。舞台に構築したせっかくの“芸術”を留めるにはどうするか」 「最も簡単な方法は、映像に残すことだろうけど。フライヤーやパンフレットも、その上演の記憶を呼び覚ます存在となるしね」 そこで互いの視線が重なる。 「ああ。もしかすると、犯人は、理解者を求め、賞賛されることを望んで」 「……招待した、か」 写真家は、呼ばれたのかもしれない。 誰かの痕跡が残る廃墟を歩き、シャッターを切り、生々しい赤い流れをそこに見つけ、首を傾げながら階段を進み、その先の機材室から下を覗き込み―― 「ここで、目撃する」 シャンデリアの落ちた客席に横たわる死者を、俯瞰する。 そこで、シャッターを切ったのか。 あるいは、悲鳴を上げたのか。 その場に崩れ落ちたのか。 「俺なら迷わず撮るが」 「でもここに死者は写っていないんだよ」 「だとしたら、作品をひとつ作り上げる度、完成度を確認するように眺め、その直後に気に入らなくて壊してしまうタイプかもしれないな」 「……ああ、だから、この写真には“犯行の痕跡”だけが映り込んでいるのかな」 何かがひらりと脳裏を掠める。 「禁じられた遊び、禁忌の美、それに取り憑かれた人間が生み出す芸術の領域に、誘われ、踏み込んでしまったんだね」 そうして…… 「ところで、この写真を撮った人間は《男》だと思うか?」 「女性……かもしれない。女性であれば、演出家はこの劇場で己の美学にそった作品を夢見ることができるからね」 「そして、彼女もまた舞台の一部に、か」 「そして、いまも《鮮赤の舞台》は公演を続けている……」 「俺が訪れたあの瞬間にも、舞台は進行していたのかもしれないな」 水音が、久秀の耳に蘇る。 あれは、誰かの血がしたたり落ちる音ではなかったのか。 アレは、いまだ消えない廃墟の《噂》に誘われ踏み行った久秀を歓迎する、開演のベルではなかったのか―― 「……なんて、ね」 「なんてな」 虚構世界に描く惨劇の夢想からカオを挙げ、ふたりはヒトカケのみ食べてそのままにされていたケーキに手を伸ばす。 うっとりととろけるような甘みが口に広がる。 それをゆっくりと堪能し、ふと目が合ったムジカと共に、ほんの微かに笑いあった。 証拠はどこにもない。 例え《罪》が犯されていたとしても、すべては闇の中。真実はいまだあの崩れた匣の中に閉じ込められている。 「それでだいぶ話は逸れたんで仕事の話に戻るんだがな、……あんたはどれを使いたい?」 久秀は改めて、ムジカの前に写真を示す。 「そうだな、それじゃあ……」 珊瑚の髪を描き上げて、瞳をすっと細めて、彼は二枚を指さした。 「これを見た誰かが、いつか真実を暴き出してくれるかもしれないだろう?」 くつりと笑った彼が選んだのは、久秀と見知らぬ写真家が映した、客席から舞台を望む最も華やかな写真だった―― 後日。 由良久秀がジャケットを手掛けたムジカ・アンジェロのCDは、ひとつの《噂》を紡ぎ出すこととなる。 曰く――この曲を聴いたモノは、薔薇の花びらを幻視する。 数百の紅い薔薇が、シャンデリアの見下ろす劇場に舞い散る。 赤い、紅い、鮮赤の花びら、散りゆく無数の薔薇の花びらたちが、灰色の廃墟を埋め尽くし。 そして。 そう、そして。 赤い花吹雪の中、黒ずくめの女性がひとり、古いカメラを抱え佇んでいる姿をみるのだと。 その噂を耳にしたふたりは再びカフェで落ち合うことになるのだが、それはまた別のお話。 END
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