「そういうことだから、ごめんね、虚空」 「……いえ」 蓮見沢と同格といわれる旧名家の当主に背というよりは腰を抱き寄せられながら、蓮見沢理比古は、相手の意向を汲むために虚空へと退室を命じた。 にこやかなその表情には、動揺も嫌悪も諦観すら微塵もない。 自身に関する危機管理意識というものが存在し得ないのではないかと不安になるほどに事も無げで、どこか無邪気ですらある。 しかし、どんな思いに駆られようとも、従僕たる虚空には主の言葉にただ頷くほかはない。 代わりに、やり手かつ好色そうな…という表現がこれほど似合う男はそういないのではなかろうかと思わせる会合相手へと黙って視線を送る。 優男と評される割に腹の内がまるで見えてこない相手に向けて、うちの主人に手を出したら、真っ平らに伸ばして刻んで貴船川で流しそうめんにしてやるという想いをありったけ込めて。 けれど、物理的な重みが生まれそうな脅迫的視線は、いとも容易く《襖》に遮断されてしまった。 こちらを完全に無視して話し始めた男と理比古を部屋に残し、ギリリと音がしそうなほど威圧的な空気を全身で発散しながら、虚空は静かに退室した。 名家と呼ばれ、いまだ絶大なる力を持つ男が所有する中庭は、さすがに趣向が凝らされ、隅々まで手入れが行き届いている。 緑あふれる中に設えた池では、錦鯉たちが優雅なその背を見せびらかしながら泳いでいる。 エサらしいものは何もないが、水面に落ちる人の影で寄ってくるようだ。 僅かな水音に耳を傾け、さらりと撫でていく風を頬で受けながら、落とす虚空の溜息は深く果てしなく悩ましい。 一体、あの日本家屋の密室とも言えない密室でどんな会話が交わされているのだろうか。 一体、理比古の貴重な時間がどれだけ浪費されてしまうのだろうか。 交渉ごとにおいて、表だって行動することが許されないがゆえに、密やかな懊悩は続く。 一体どれだけの間、自分は―― そう繰り返し考え続けた虚空だったが、思った以上に早く、いや、むしろ想像をはるかに超える短時間で主の帰還を目の当たりにすることになる。 たった小一時間。 たったそれだけの時間で。 「お待たせ、虚空」 「ああ、……あ、あ……っ?」 多分、こういうのをどん引きする、というのだ。 虚空は己の目を疑った。 大学生くらいにしか見えない青年に心酔し、身も心も捧げますとばかりに絶対服従を誓う四十路の男の姿が、これほどの破壊力を持つとは思わなかった。 気むずかしいと言われる男が、滅多なことでは交渉に応じない男が、応じたとしてもかなり困難な条件を提示し、相手を飼い犬同然の扱いに貶めるのだと言わしめた男が。 ――蓮見沢理比古の言い分をすべて呑んだのだという。 ものすごい質量の愛情と崇拝の眼差しで見送られながら、虚空は我が主の恐ろしさに心臓が止まりかけていた。 「なんなの、アヤ、何したの!?」 口調まで変わったとしても、誰も自分を責められはしない。 「なんであんなことになってんの? 気難しくて滅多なことじゃ首を縦に振らないどころか、交渉によっては相手をヒトとも思わないような条件を提示してくる悪辣だって話を聞いてたんだけど!?」 「え? よく分かんないけど、きちんと真面目にお話しはしたよ。そうしたらこうなったっていうか」 「……」 かつて、真の悪魔とは見目美しい天使の姿で現れると言ったのは、果たして誰だったのか。 にこにこと可憐に笑う目の前の青年を見つめ、しばし沈黙し、そうして虚空はそっと嘆息した。 深く考えるのはやめにするのが賢明だ。 追及することで得られた真実は、『知らない方がよかった』類いのモノである可能性が高いのだから。 気を取り直し、ふと浮かんだ案を振ってみる。 「まあ、でもこれで一日がかりのはずの取り決めが小一時間ですんだワケだ。せっかくだし、どこか行くか?」 「あ、それじゃあデパートに行きたいかな」 「分かった」 今日の会合は終わった。 待たせている車でそのまま蓮見沢家に向かってしまうのは少々もったいない。 屋敷で共に暮らす《血の繋がらない家族》へのお土産も買いたいという主の意向は当然のごとく汲むべきだろう。 かつて病気を患っていた友人の研究者、拾った傭兵、拾った海賊、スカウトした元鍛冶師……と、大切な家族たる彼らの名を優しい笑みで指折りあげていく理比古に、虚空は愛おしげな視線を向ける。 さあ、どこへ行こうか。 壱番世界の日本は、暦上は立秋を過ぎていても、いまだ堂々と緩む気配のない熱気を孕んで夏のカオを続けている。 そのためか、デパートには涼を求めて来る客も多いのだろう。 ひやりとした店内には、平日にもかかわらず、多くの人出があった。 それぞれに目的を持ってここに来ているのだろうが、その視線が一瞬ぶれる。 その理由は明白だ。 そもそも生粋のドイツ人たる虚空の風貌は、それだけで壱番世界の日本国内においては抜きんでた存在感を示してしまう。 忍びでありながら注目を集めるというのもどうかと思うのだが、しかし、自分が従う青年は、そんな虚空よりもずっと多くの視線を引きつけるのだ。 純然たる日本人でありながら、やわらかな美を内面から滲ませ、不思議と手を伸ばしたくなる花の密のような色香をまとい、歩くのだから、これはもう宿命なのだとしか言いようがない。 凛とした静謐さと華やかさが、白を基調としながらも色で溢れたデパート内を《蓮見沢理比古》という存在で彩っていく。 空気が変わる。 空間の質感が変わる。 何気ない所作ひとつとっても、老若男女を問わず誰もが振り返る。 これはもう仕方のないこと、一種の現象、日常的光景として処理されるべきものだ。 しかも、当の理比古とはと言えば、例えどんな力や意味を持とうとも、圧倒的物量の視線すべてが僅かな影響すら与えないらしい。 主は、家族への土産選びにご執心なのだ。 「虚空、ここ、ここ!」 キラキラと子供のように無邪気に声を弾ませながら、目指すのは煌びやかな装飾品の店を抜けた上階、カフェとスイーツ、生活雑貨を取り扱うフロアだった。 「よかった、間に合った!」 「なんのことだ?」 「来れるかどうか分からなかったからさ、どうかなって思っていたんだけど。実は期間限定のスイーツ&フルーツフェアをやっていたんだよね」 誰かに買い物を頼むことは考えなかったらしい。 とにかく自分で足を運びたかったのだと、とても蓮見沢家現当主とは思えない甘やかな笑みを振りまいて虚空を見やった。 「とにかくフェア中のデパートは《戦場》だって聞いていたけど、思ったより人が少なくて安心したよ」 期間限定の出店情報をどこで掴んできたのだろうかと思わなくもないが、おそらく甘味を愛するもの同士の何かしらのネットワークが構築されているのだろう。 「まあ……それじゃ、攻略と行くか」 「端から端までぜんぶ堪能しなくっちゃね。完全攻略目指して頑張ろう、虚空?」 「……は?」 今、何か恐ろしい台詞を聞いた気がしたが、おそらく聞き間違いだろう。 たっぷりの甘い香りとたっぷりの甘い色彩に囲まれながら、半ば理比古に手を引かれるようにして、虚空はその戦場へ足を踏み入れた。 ――端から端まで、ぜんぶ。 その言葉通りに、理比古はショーケースやひな壇に置かれたショコラやケーキ、焼き菓子、フルーツゼリーをあますところなく、直接試食しては吟味し、コレは彼に、アレはあの子に、と選んでいく。 流れるようなその足が、ふとある店の前で止まった。 「ねえ、虚空。これ、どうかな? この間、ここの柘榴シロップが美味しいってオススメされたんだ」 「ふむ?」 珍しく意見を求められ、主を見つめ続けていた虚空は、まじまじと理比古の指し示す小瓶へと視線を移す。 鮮やかな赤が閉じ込められた小瓶は、パッションフルーツやマンゴー、オレンジ、キウイフルーツといった色とりどりの並びの中でもひときわ目を引いた。 とろりとした質感も気になる。 「グレナデンシロップなら簡単に作れるが、……ここの味をみたいんだな?」 「アイスに掛けたら美味しいって聞いたんだよね」 「……了解、作ればいいんだな」 理比古は、さらに笑みを深めた。 「ヨーグルトと、それからフロマージュ・ブランもあるとすごく嬉しいな。パフェっぽくしてもきっとキレイだよね」 「あいつらも食うし、どうせなら他にも色々用意するか? フルーツ・コンポートもつけた方がいいだろうし……柑橘類も入手しておかないといけないか」 「コンポートは桃とイチジクとさくらんぼがいいな」 「ん。馴染みの店がいいのを仕入れているはずだ。声をかけておく」 「あとは……やっぱりショコラ系かな? 蜂蜜も欠かせないし……」 「ジンジャーシロップはいいのか?」 「それは虚空が作ってくれた自家製の方が好きだから。色々試してみたけど、虚空のが一番美味しいって思ったから、買わないでおく」 さらっと告げられた言葉が、虚空の胸を射貫く。 満面の笑みが自分だけに向けられる。 「分かった。それも帰ったら仕込んでおく」 「ありがとう」 理比古が笑ってくれるなら、このひと時のためならば、この瞬間のためならば、自分はどんなことでもできてしまうのだろう。 理比古の願いを叶える、望みを完璧に叶え尽くす、その幸福感は、たぶん誰にも譲れない。 子供のようにはしゃぐ彼に連れられながら、虚空の頬が緩む。 ゆるりと日が傾きかけた頃―― 熟考を要した『家族への土産』の山を抱え、買い物を満足行くまで堪能した理比古は、今度は茶館へいこうと告げた。 とある知り合い――甘味をこよなく愛し、壱番世界はもとより、ありとあらゆる異世界へと旅立ってはカフェなどを開拓しつつづけているツーリストから情報提供された場所、らしい。 曰く。 点心をはじめとする飲茶も楽しめるそこでは、最高級の紅茶もまた絶品であり、アジアンスイーツの数々も非常に美味かつ芸術的。 目で楽しみ、香りで楽しみ、舌で楽しみ、心が満たされる場所。 矜持を持って提供されるそれらを一度は堪能すべきだと強く薦められたと言うのだから、相当なのだろう。 「ちゃんとね、住所も聞いているんだよ」 ここまでよろしく。 そう告げた場所は、車であっても容易に辿り着けるものではなかった。少なくとも、十数分走った程度で済む場所ではない。 それでも、運転手はにこやかに、かつ速やかに、プロの仕事をやり遂げた。 その茶館は、伸びやかでありながら繊細さを併せ持つ竹林に囲まれ、夕日の赤に染め上げられて、ひっそりと佇んでいた。 意匠を凝らした両開きの扉から、中へ、そうして店長自ら奥の個室へと通された理比古の足が、席に着く前にぴたりと止まった。 「どうした?」 「……すごい」 まるで一種の豪奢な城ではないかと思わせるほど緻密に組まれ、細工を施された、赤みがかった木製の鳥籠が目を引く。 竹細工の鳥籠ならば時折目にするが、一抱えを越えた、置物然としたモノを見るのは虚空も初めてだった。 しかも、螺鈿の絵付けが美しいアンティークのサイドテーブルに乗せられた籠の内部には、緑の箱庭が形成されている。 植物の世界は、目を凝らすほどに細やかな造形美を見せつけてきた。 「……へえ、ステキだね」 さらに、理比古につられるように軽く視線を巡らせていけば、至る所に小鳥と木々をモチーフとしたレリーフが施されているのが分かる。 天井から下がる木目の美しい漆塗りの円卓にも唐草モチーフの細工が見て取れて、ただ、スゴイと呟くしかない。 いわゆる《実用性》を排除し、徹底して《装飾性》のみを追及すればここに辿り着くのだろう。 視覚をこれほどに意識し、場と調和し、見る者に威圧感ではなく安らぎを与える内装は滅多に見られるモノではない。 「どれにしようかな」 席について早々、嬉しそうに甘味が羅列されたメニューを目で追いながら、理比古の声が弾む。 「ねえ、虚空、どれにしようか?」 「アヤが食べたいモノを俺も一緒に……というか、まあ、自重せずにどうぞとしか言えないんだがな」 「うん、ありがとう。それじゃあ遠慮なく行っちゃおうかな?」 花がほころぶように、あるいは、可憐な花が咲き乱れるように、理比古は笑う。 どれにしようかと嬉しそうに悩む主の傍で、虚空はふと車内で聞き、気になっていたことを口にする。 「そういえば、ここでお薦めの紅茶があると聞いたんだが」 そう切り出せば、店主の表情がきりりと引き締まった。それでいてとても幸せそうに、彼は蕩々と語り出す。 中国茶は様々で、大まかにわけても、緑茶、黒茶、白茶、青茶、黄茶…と連なっていき、さらに等級も含めて細分化が進んでいく。 その道は果てしなく、よく『茶に嵌まれば破産する』とも言われるが、確かにその通りの奥深さなのだろう。 茶の道に嵌まり込み、その道を突き進んでいる店主が、中でも甘い茶を好む理比古に絶対の自信を持ってすすめたのが《金駿眉》だった。 声をかければ、迷わずそれを頼む。 時間は余り掛からなかった。 運ばれてきた紅茶は透かし彫りの細工が施されたガラスの茶器に注がれ、同じ細工の小さな茶杯と並べてみれば、なるほど、見た目の演出まで凝っている。 一杯目は、店主自らが淹れてくれる。 「……あ、甘い……」 茶杯を傾けた理比古の目が、嬉しそうに輝いた。 「イメージしていたものと全然違う……なんだろう?」 首を傾げながらももう一口…と飲む彼につられて、虚空も口にしてみれば、とろりとした密のような甘みが口の中に広がった。 この想像を超えた深い味わいに驚く。 独特な香りもクセになりそうだ。 「中国茶における紅茶の始まりは、正山小種からとも言われているんですよ」 そう言って挙げられていく名前の中で、以前、ラプサンスーチョンを『なんかお腹痛い時に飲む丸薬のニオイそっくり』と言い放った輩の言葉を思い出す。 彼もコレを口にすれば、きっと大きく印象を違えるだろう。 「スイーツともきっとすごく合うだろうな」 うっとりと微笑む理比古は、そうして店主に向けて、メニュー表を指でゆっくりとなぞっていった。 上から、下まで。 端から端まで。 あのデパートで示した行動をもう一度披露して見せた。 定番の揚げたて黒胡麻湯団子。 この店特製のオリジナルココナッツ団子。 ふっくらと愛らしく蒸し上がった寿桃。 なめらかな杏仁豆腐。 果肉をたっぷり使ったマンゴープリン。 塔のごとく皿に積み上げられた卵のタルト。 ガラスの器に、たっぷりとフルーツと共に盛られた愛玉子。 蒸したてワンホール状態のマーライカオ。 見た目が美しい、球状の寒天に閉じ込められた色とりどりのフルーツ、九龍球。 八角の風味が効いたお汁粉。 木桶に入った豆腐花は、特性の金木犀シロップと小豆シロップが付いてくる。 円卓に並ぶ、色彩。 技巧を凝らしたガラスの器から溢れる、甘やかな誘惑たち。 あり得ないほど大量の理比古が愛するもので埋め尽くされた光景に、虚空は青ざめる。 だが、蓮見沢理比古にとって、これは《日常》のワンシーンだ。 ひとつひとつ、技巧を凝らしたアジアンスイーツを、満面の笑みで、本当に美味しそうに次々と消化していく様はいっそ気持ちがいい。 これ以上ないほどの至福の時を、主は自分の目の前で過ごしているのだ。 一体その身体のどこに収まる場所があるのかなど、疑問に思う方が間違いだろう。 「そうだ、虚空」 「ん?」 「はい、あーん」 無邪気に口元へと差し出された匙の上には、マンゴーを閉じ込めた美しい九龍球がひとつ乗っていた。 「あー……」 迷いも衒いも躊躇いもなく口を開ければ、ころりと甘味が放り込まれる。 芸術的な一品を、ゆるりと味わい、咀嚼する。 飲み込んだところで、ふと、半分にすれば良かったかと思うが、理比古は構わず、今度は八角の汁粉を掬って口元へ運んできた。 「この味も覚えてくれるかな?」 「……了解」 答えながら、味の分析を始める。 美味いものを食べれば、美味いと思う。 食物に、与えられた命に、感謝する。 同時に、この味は何によって作られるのか、どうすれば作られるのかと考えてしまうのは、もう理比古の傍にいる中での習い性にもなっていた。 「虚空、いいところを教えてもらえたよね」 愛おしい者が、手を伸ばせば抱きしめられる距離にいる幸福。 笑顔を見、声を聞き、触れて、伝わる温度に安堵する幸福。 穏やかな日常に、優しい日常に、大切な者が嬉しそうにはしゃぐ日常に、虚空はひっそりと笑みを浮かべた。 思いがけず手にした優しい一日が、ゆるやかに終わりを告げようとしている―― 後日。 デパートでの《スイーツ&フルーツフェア》戦利品を元に、蓮見沢家で虚空手製の菓子と祁門紅茶による家族のためのティーパーティが開かれた。 広いテーブルに所狭しと置かれたアイスクリームやヨーグルト、フロマージュなどの乳製品の白と、柘榴やジンジャー、チョコレートのシロップにフルーツコンポートの数々といった色彩が、鮮やかに対比して映える。 そこで、『理比古に手ずから食べさせてもらえる権』を巡り、ちょっと派手で騒がしく微笑ましい戦いが蓮見沢家で巻き起こることになるのだが、それはまた別のお話。 END
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