「ヴォロスの廃墟に行ってくれる人ー。募集中ですよう」 左手を真っ直ぐ上げて、ろくな話もしないうちから旅人を募るのは、世界司書のガラである。 数秒後、説明していないことに気付いて「あらま、あらま」と繰り返し、やっと語り始めた。「霧の谷から南へ何日か歩くと、荒れ荒れでからからの土地があってですね」 植物が育つのは稀なほどに水気の無い、不毛の大地。廃墟は、そこにあるという。 かつては、小さな宿場町だった。旅人や商人で賑わう、活気付いた町だ。 ところが、ある年、この辺り一帯が酷い干ばつに見舞われた。 枯れた大地は人々を飢えに追い込んだ。更に、病が逃げ場の無い人々を追いたてた。 そのうち商人達も近寄らなくなり、誰もが死と滅亡を予感した頃。 ひとりの若者が、町を訪れた。 若者は、水を無限に生み出す、不思議な首飾りを身に着けていた。 無限と言えど洪水を起こすようなものではなく、例えば、せいぜい蛇口の流水程度。 だが、小さな町ひとつ分の飲み水くらいは用意できる。 若者は町の惨状に胸を痛め、皆に水を施すべく家々を回った。 人々は感謝した。若者の慈悲に。 そして、羨んでもいた。その首飾りを。 心の底では、妬んでさえいた。飢えと渇きに縁遠い存在全てを。 ある者が首飾りを譲って欲しいと哀願したが、若者が拒むと、逆上した。 怒りはその場にいた人々に広がり、俄かに凶暴な略奪者の集団を仕立て上げた。 止める者も居たが、その声は「生きる為だ」という悲鳴に掻き消された。 やがて、我に返った人々の目の前にあったのは、無残に変わり果てた若者の骸だった。 「こうして町の人々は首飾りを手に入れましたとさ。これにて一巻の終りでございまーす……なんてことは、やっぱりなくて」 首飾りの力で、町の人々は救われるはずだった。 ところが、他ならぬ町の住人であるひとりの娘が、首飾りを持ち出してしまったのだ。 果たして、宿場町はとうとう誰も彼もが死に絶えて、無人の廃墟となったのである。「さてさてきみ達お気付きですか? この首飾り、竜の鱗を頂いてます」 すなわち、竜刻。「今回は、この竜刻を見つけて、是非とも世界図書館に届けて欲しいんです。是非とも!」「持ち出されたのなら、もう町に無いのでは?」 それまで話に耳を傾けていた一人が首を傾げるのを見て、ガラは殊更にっこりしてみせた。「ずっと、町にあったみたい。誰も居なくなるまで。誰も居なくなった今も、ずっと」 失われたはずなのに未だ町に在り、止め処無く水を流し続けているという。 場所は、町の地下に位置する、小さな空間。「ここに、ぽつんとお墓があってですね。首飾りが巻きつけられてて」 竜刻から出でる水は、卒塔婆のような板切れの粗末な墓を伝って流れ、一面水浸しだ。 墓から竜刻を外せば、水は止まる。「でも、このお墓に通じる入口の場所とか奥の様子とか、いまいち判らないんですよう。だから」 先ずは入口を探し出すこと。そして、その向こうが見えないのなら――、「危険な生き物とかは勿論、人っ子ひとり居やしません。だけど、気を付けてくださいね」「ところで」 ぱたんと書を閉じたガラが、徐に疑問を口にした。「なーんか、このお話、変。結局、竜刻は町にあったのに、誰にも見付からなかったのかな?」 問いかけとも独り言ともつかぬ呟きの後、もっともらしく顎に手を当てて考え込む。「……まあ、いいや。ガラのお話はお仕舞いです。そんなわけで、募集中ですよう」 本当に考えていたのかどうかも怪しいが、とにかく何も思い浮かばなかったガラは再び左手を真っ直ぐ上げて、改めて旅人を募るのだった。
霧の谷よりこの地へと近付くにつれ、日毎の渇きは募るばかり。 熱く、湿り気の無い風が縦横に吹き、髪を、衣服を舞い躍らせては空に散る。 ここ数日で特に陽射しが強い、そんな朝のこと。 今、旅人達の眼下に広がるのは、石材を主とした数々の建物。半壊、あるいは、まるで原形を留めぬ瓦礫などが遠目に認められたが、しかし、多くの棟は砂埃に覆われながらも、嘗ての姿が保たれていた。 眼下、と言ったのは、町が大きな窪地を埋めるように造られていた為だ。 この廃墟の地下に、竜刻は眠る。 「…………」 ヴィヴァーシュ・ソレイユは、滅亡の直接の引き金となった娘について思いを巡らせていた。 何故、首飾りを持ち出した? 誰かに施す為? 人々の所業を嘆き、禍根の元を断つ気だった? それとも―― 次の推測が出かかる頃、ヴィヴァーシュにとっても等しく気掛かりな、もうひとつの疑問に関わる話題が挙がる。 「しっかし、まんずわがんねな」 スタッガー・リーは難解な発音で、皆へ問うた。同時に、自問でもある。訛ったのは、考え事をしていて気が回らなかったせい。 「なして首飾りっコ残ってだのに滅びでまったんだべ。全滅するまで、そのオナゴが隠し通したってのがい?」 「ふっ。首飾りが他の町人達の手に戻らなかった理由など、明白ではないか」 この問いに、自信に満ち満ちた確固たる意思で応じたのはアインスだ。答えと言うよりは、宣言と著わすのが相応しい。 「ほう。何故だい?」 ルゼ・ハーベルソンが興味深げに先を促す。 「つまり、例の娘とやらは異常にフットワークが軽かったのだ! 首飾りを奪われそうになる度に、その足捌きで逃げ回っていたに違いない。なんと素晴らしい仮説だ! 自分の賢さに惚れ惚れする」 「なんだってー!?」 素で驚いたのは、勿論スタッガー一人だ。 (真に受けている……!?) アインスの突飛な発想以上に、スタッガーのある種純粋な反応は、ヴィヴァーシュを少なからず驚かせる。 隣ではミレーヌ・シャロンが口元を隠して尚堪えきれず、くすくすと肩を揺らしていた。 「俺は、むしろ自分達のしでかしたことを後悔した町の人達が隠したんじゃないかと思うなぁ」 惚れ惚れのくだりはとりあえず流して、相沢優が自身の考えを述べたのは、気心の知れた者ならではといったところか。 「ならば証拠を探してみるか? 恐らくは当時の文献に少女の健脚ぶりを讃える記述があるだろう」 「そりゃ……文献とか当たってみるのは賛成だけど」 アインスの思考回路に、やっぱり優は引け腰だった。提案はともかく。 「まあまあ、そろそろ行こうじゃないか。そいつを確かめる為にも――な?」 気さくに笑いながら、ルゼが二人の肩を叩いた。 旅人達は、広場に来ていた。 町らしい外観を遺す家々。荷車や籠、農工具や壺などが方々で目に付き、未だ生活の匂いすら感じられる。にも拘らず、矛盾するようだが、長きに渡り人の手が加えられていないことも、堆積した砂埃とあらゆる物の風化が物語る。 廃墟とは、そういうものなのだろう。 広場に到る道を通るだけで、以後の様子が目に浮かぶようだ。 「俺には絵心が無いから判らんが、こう言うのも何かを掻き立てられるものかね」 他ならぬ自身の胸中を持て余して、スタッガーは不器用な言葉に代えた。 ただ打ち捨てられただけならば、こうはなるまい。 「なんとも、やりきれない話だ」 「本当に」 ミレーヌが頷く。 「住む世界が変わろうと、人の業は変わらないのかもしれませんね。それに因って、身を滅ぼすということも……」 砂塵に細めた目に映る、業に委ねて滅んだ町。 助けてはいけなかったのか。奪ってはいけなかったのか。誰が悪いのか。 「その場に居れば、俺だってどうしていたか」 町の人ばかりを責める事は、どうやら自分には出来そうにない。 こみ上げてきたスタッガーは、帽子を前倒しに抑えて目元を隠した。 セクタンのプラムが、慰めているつもりなのか肩をぽんぽん叩いてくれる。 「なあ、皆。提案があるんだけど。いいかな?」 場所柄、重苦しくなりがちな雰囲気に気を遣ったのか、優が努めて明るい声で言った。 「小さい町ではあるけど、結構入り組んでるしさ。手分けして探索した方がいいと思うんだ」 効率的且つ確実性も向上する。異を唱える者は居なかった。 「それと、もし必要ならセクタンで真上から全体を見てみようか?」 「是非、お願いします」 これには無口なヴィヴァーシュが、珍しく真っ先に答えた。 探索する上で、かねてより、劣化著しい建物や各種施設の位置といった構造の把握は不可欠と感じていた為だ。 やがて、優の口より語られた廃墟の様子を認めると、一行は着目点の近い者同士でペアを組み、三手に分かれて探索を開始した。 優とアインスは、二人が特に気にしていた、竜刻を巡る問題の真相を探るべく、廃屋を一軒ずつ調べ歩いた。 昔、人々に水を施す為、若者が家々を訪ねて回ったように。 その幾つ目か。 比較的大きな――宿屋のように見える――建物に踏み込んだ折のこと。 屋内には陶器の破片やテーブルに椅子の残骸に混じって、そこかしこに人骨が散乱しており、優を怯ませたものだ。 「なんだ。だらしのない」 「う、うるせ」 せせら笑うアインスに咳払いで誤魔化しつつ、優はセクタンを先行させる。 幾つかの部屋は扉が閉じたままで、偵察できなかったが、誘うように開け放たれた、とある一室で、ついに本棚に収まる蔵書群を発見した。 二人は早速部屋に赴き、手当たり次第に書物を手にとった。 しかし、多くはすっかり朽ちており、一見形を留めていても触れた途端崩れて散った時など、二人を落胆させることも屡あった。 広げては塵芥。 不毛とも思える作業の果て、幾度目かにアインスが手に取った書物が、ようやく本来の機能を今に残したまま、保たれていた。 「これは……日記か?」 アインスが紐解いた書物を、優も覗き込む。 どうやら宿屋の者が記した日誌らしく、途中までは、客足の推移や前月との比較といった業務日誌としての側面が強い。が、ある日付を境に、町の様子と、著者自身についてのみ語られるようになっている。 それは断片的でありながら、陰惨で凄惨で、悲惨な光景が目に浮かぶようだった。 大まかには、次のような内容だ。 外部からの来訪が途絶え、助けを呼びたくとも旅支度に足る備えも無い。 飢えと渇きの果てに、人々が先ず実践したのは。 「共食い、か」 「…………」 始めは、死後間もない遺体を貪り、更には衰弱が酷い者を、要は生贄にした。 だが、これが病を流行らせる原因となり、滅亡に駆け足で向かう結果となった。 件の若者を殺めた理由は、水の竜刻の確保に加え、病魔に冒されていない『新鮮な食料』を得る為とある。 町の住人は、もうずっと前から、人ではなくなっていたのだ。 ミレーヌは、『白の書』に顕れたこの地の歴史を読み解いて、眉を寄せた。 丁度、アインスと優が日誌に目を通していたのと同刻。 ミレーヌとペアを組むヴィヴァーシュが、その能力で水源を辿り、地上に僅かながら草が生えている場所を見つけた。このことを、ヴィヴァーシュがエアメールで他のメンバーに伝えている最中のことである。 「失礼、煙草を吸っても?」 トラベラーズノートを閉じたヴィヴァーシュに声を掛けられ、溜め息吐きかけたミレーヌは、少しだけ慌てた。 「あ……ええ。勿論構いませんよ、ムッシュ――」 「ヴィヴァーシュ。ヴィヴァーシュ・ソレイユです。呼び難ければ、ヴィーとでも」 改めて名乗る目の前の男は、息があがっているように見えた。そういえば、すっかり日も高くなって暑い上、、朝から歩き詰めである。 「では、ヴィーさん。少し休憩にしましょう」 「痛み入ります」 ミレーヌの気遣いに短い礼を言って、ヴィヴァーシュは転がっている木箱に腰を降ろして煙草に火を点けた。 廃墟を眺めていると、彼に倣い、同じく腰を降ろしたミレーヌが「なんとなく」と徐に語散た。 「お墓は、首飾りを持っていた青年のものではないかと思うのですが」 「同感です」 ミレーヌの考えは、ヴィヴァーシュや、この場に居ない仲間達の予想とも一致する。 「そして、首飾りがそこにあるのは」 「恐らく、例の娘さんが供えた……返したと、言うべきでしょうか」 つまり、ヴィヴァーシュは、娘が首飾りを持ち出してから地下に逃げ込んだと見立てている。 この考えは、ミレーヌの推測で不足していた箇所を補い、彼女が先程知った不幸な歴史の顛末に微かな救いを見出すことに繋がった。 所詮は希望的観測でしかないことをミレーヌ自身認めながら、それでも、人の優しさを信じたい。 「…………?」 会話が途切れたところで、何とは無しに再びトラベラーズノートを開いたヴィヴァーシュは、メールが届いていることに気付いた。 先程の返事だろうかと軽い気持ちで目を通し――素早く立ち上がった。 「どうされました?」 ミレーヌが怪訝そうに尋ねると、眼帯をしている方を微かに向けて、厳かに非常事態を告げた。 「救援要請です。行きましょう」 ルゼの考えは、ひとまず正しかった。 地下墓地の可能性を指摘していたスタッガーを率いて、ルゼは各所に点在する井戸を調べることにしたのだ。 そのうちのひとつに、底の方から縁にかけて苔が生えており、水源となる地下に通ずる証を見つけたことに、二人は歓喜した。 そこまではいい。 問題は、直後にルゼがとった行動が引き金となって、今現在スタッガーと共に軽く危機的状況に陥っていることである。 二人は、今、井戸の底に居る。登る術も無いまま。 そして、その様子をはるか高みから何とも言えぬ表情で見下ろす、四人の姿があった。 「いや、面目ない。ちょっとばかり先を見て来ようと思ってね」 優のロープで地上に戻ったルゼは事も無げに、順を追って説明した。 「案の定暗くて、急ごしらえの松明を点けはしたんだが、なにしろ」 「く、くらいよー! せまいよー! こわいよー!」 「彼があの通りで、進むに進めなくてさ」 困ったような笑みを浮かべたルゼは、未だ井戸の底で喚いている噂の彼ことスタッガーを見下ろした。 「たたたすけてー!」 暗所絡みで心的外傷でもあるのだろうかと思わせる取り乱し様だ。 勿論、そのような事実は今のところ、多分無い。少なくともスタッガーは言ってない。 「じゃ、戻るかって振り向いたら、俺としたことがロープの支度してなかったんだな」 はっはっは、と陽気に笑うルゼに暫し絶句する一同。 例えばスタッガーが地上に残っていたら、今少し違っていたのだろう。しかし、なにしろ気取り屋の割にちっとも垢抜けないシャバ僧とは言い過ぎかも知れないが、とにかくスタッガーのこと。ひとりが心細くてルゼの後を追ったのは、想像に難くない。 「はやくたすけてー!」 とりあえず悲鳴は無視して、皆に呆れる間を与えずにルゼが本題を切り出した。 「ま、何にしても皆揃ったんだ。改めて、行ってみるかい?」 曰く、井戸の底には横穴を確かめることができたとのこと。 進まぬ理由はない。 結局、スタッガーが救助(?)されることは無かった。 とは言え、ヴィヴァーシュが真っ先に降りて、得意の魔法で強い光を齎したので、事無きを得た。ヴィヴァーシュも闇は苦手なので、あるいはスタッガーに同情して早めに降りたのかもしれない。 次にルゼが再び降りて、ミレーヌが続こうとしたところに、アインスが声を掛けた。 「手を貸そう。足元に注意して」 けれど、ミレーヌは柔和な笑顔で首を振る。 「お気持ちだけで。こう見えても、結構慣れてるんですよ」 歴史学者は実地調査、つまり、脚が資本ということらしい。 「では、お先に失礼致します。アインスさんも、お気を付けて」 ミレーヌは優雅に一礼をするなり、実に鮮やかな身のこなしで滑り降りてみせた。 「侮れんな」 ひとしきり感心したアインスが危なげなく底についた後、優がロープの繋ぎ目を確かめてから、殿を努める運びとなった。 互いに得た情報を交換しながら、旅人達は歩く。 地下道は狭く、緩やかな下り坂だった。 元来人為的に掘られたものでは無いらしく、各所に奈落が点在する。避けて通れる程度の小さなものだが、太陽光に近い灯りに照らされても底が窺えないのだから、落ちたら助かる見込みは少ない。 井戸の地上側、縁まで続いていた苔は、なるほど奥に向かえば向かうほど群生しており、ともすれば当然、地下道全域が湿り気を帯びている。 「地上はひび割れるぐらい、渇いてるのに」 優が呟いて余所見をした拍子に、ぱきっ、と何か踏み砕いた。 「おわっ!?」 枯れ枝にも似た音をたてたのは、苔生した、骨。 「はひい!」 「これは……!」 夥しい数の人骨だった。苔と比例して、奥に進むにつれ数も増す。 多くはこの場で事切れたものだろう。 「ヴィー。草が生えてた場所って、今向かってる方角と重なるのか?」 「間違いありません。進むにつれ、水の反応も強くなる」 「何か、生物も居るようだ。この意識――鼠か?」 ヴィヴァーシュの回答に、テレパスでもあるアインスが何者かの意識を感知した旨を付け加えた。 二人の言葉に「ふむ」と頷き、ルゼは思案する。 途中、町人や娘の足跡があればと考えていた矢先の人骨である。 この先に竜刻があるのなら、町の者は、その在り処に気付いていた線が濃厚だ。 不気味なのは、奥を目指して力尽きたような遺体に混じり、全身の骨がばらばらに散らばっているものも多くあること。 特に後者には、歯型のような痕も見られる。 人食い――地下――墓。違う。墓と言うより、これは。 (なるほどね。枯れ井戸の底はゴミ捨て場ってわけか) 軍医として遺体など見慣れている。だが、命を救う生業のルゼにとって、死の背景に気持ちの良い話などひとつも無い。これまでの情報を総合すると、今回は最悪の部類と言っていい。例え、遥か昔の出来事であってもだ。 「まあいいや」と、ルゼが自身の考えに辟易した頃、優が「あっ」と声を上げた。 先行しているセクタンの目を通して、優の頭に水場のイメージが飛び込んだのだ。 「水辺を見つけたのか?」 「うん。でも、ちょっと待って」 ミネルヴァの目に映るのは、広さこそ無いが天井の高い、岩肌の空間。 中央が堆く隆起しており、水は、頂上から流れ落ちて一面を水溜りと為している。 丘の上まで羽ばたけば、立てかけられた板切れと、淡く煌く首飾り。 「あれが竜刻? すごく綺麗だ……」 傍らには、寄り添うように亡骸がひとつ、横たわっていた。 水音が、虚ろに響く。 光に照らされた水溜りの中は、敷き詰めんばかりの人骨。 そして、無造作に転がる梯子。下敷きになっているのは、やはり、骨。 見たくも無い、この場で起きた一部始終を物語る。 「……上、だな」 丘の側面に手足を掛けられるような凹凸は無く、身ひとつで登るのは難しい。 手近なもので使えそうなのは、梯子である。 端が水に浸かり一部腐りかけてはいたものの、辛うじて本来の用途には堪えられそうだ。 男手で梯子を丘に立てかけ、身軽な者からひとりずつ、慎重に登る。 世界司書の言葉通りの光景。 何事かが刻まれた墓には、首飾りが龍の如く巻きついて、その頂きには青白く光る、大きな鱗。 鱗の表裏から湧き出る水は止め処無く、ひたすら流れ落ちている。 ヴィヴァーシュが、墓に刻まれた文字を指でなぞった。 ――最愛の君、愚者どもの糧として殺される。 ――誰にも渡すものか。私の糧。私の中に、いつまでも。 ――水よ、無為に。人を殺めて人を辞めた人、滅びよ。 呪詛に満ちた言葉で締め括られながら、最後はどこか弱々しい文字で、後から付け足したようにも見える。 刻んだのは傍らの骸、恐らくは件の娘だろう。 「…………」 娘は、ここで水のみを頼みに生きたのだと思っていた。だが、真実は。 ヴィヴァーシュには最早語ることも無く、ただ痛ましくて、目を伏せた。 「娘は逃げた訳じゃなく……待っていたのか?」 同じく墓を覗き込んでいたスタッガーは、戦慄した。 娘は、本当に町を滅ぼす為に、首飾りを持ち出したのだ。 犯した罪に向き合わぬ故の滅び。 そんな言葉が、脳裏に浮かぶ。 「なんぼひでえ話だば! どんだんず!」 苦しみの果てに救いは無く、希望は血塗れの手を、水のようにすり抜けた。 皆、暫し黙り込んだ。 他に、どうしようもなかった。 どこかでちゅう、と、声がした。 苔でも食べて、生き長らえているのだろうか。 水音だけが優しく、けれど娘の願い通り、無為に響いていた。 幾許かの時を経て、やがて優が墓の前に進み出た。 「正直、複雑だけど……貰って行くよ」 静かに丁寧に首飾りの継ぎ目を外す。 両手を広げて墓から持ち上げると、竜刻の水は、ぴたりと止んだ。 既に日は傾いていた。 昼間より暑く感じられるのは、地下の水辺が涼しかったせい。 風は、相変わらず強くて乱暴だ。 旅人達は、来た時と同様、眼下に廃墟を望んでいた。 「そう言えば、アインスの仮説はどうなった?」 スタッガーがぼんやりと朝のことを思い出す。 「ああ、娘のフットワークが云々ってあれ。 別に、それらしいものって、出てこなかったよなあ?」 優が一日を振り返り、少し意地悪く言う。 「何を言うかと思えば。あんなもの、ジョークに決まっているではないか」 尤もらしい語気に確たる面持ちで答えるアインスは、しかし頬に一筋汗が窺えた。 愉快な遣り取りに、ミレーヌはくすりと笑う。 辛い真実ばかりで沈んだ心が、幾分軽くなった気がした。 振り向けば、実に見事な夕焼け。何故だか、敬愛する恩師のことが思い出される。 (師よ、私は新たな地に旅立ちます。貴方も旅をしておられるのなら、いつか再びお会いできる日の訪れを、心より……お祈りいたしております) ミレーヌが、そっと祈った夕日は美しかった。 が、同時に渇きをも促す。 「優、竜刻は預かるよ。ほら、俺、最年長だしさ。やっぱり監督者として、きちんと持ち帰る責任があるのさ」 ルゼの言い分は凄まじく怪しいが、「試したいこともある」と半ば押し切られる形で、優は渋々首飾りを渡した。 事実、ルゼはただ単に竜刻を持ってみたいだけだった。 ヴィヴァーシュも、二人の様子を興味深げに見守る。 装飾品に敏いからか、試したいことが気になるのか。或いは、両方。 竜刻は、水が止まった今も淡い輝きを放ち、ひんやりと結露している。 何故、墓から首飾りを外しただけで水が止まるのか。 水が出る条件とは。 そもそも、飲める水なのか。 ついでに喉も渇いたことだし。 ルゼは意を決して、先ずは水が出るよう念じてみる。 すると、竜鱗はやや光が強まり、しとしとと水が湧き出てきた。 「なんだ、意外と簡単だな」 やや拍子抜けしたが、これで使い方は判った。 次に、首飾りを高く掲げ、滴り落ちる水を口で受け、喉を鳴らす。 陽光が、竜鱗と流れ落ちる水を、きらきらと彩った。 皆、注目している。 「…………」 「如何です」 今度は「水よ止まれ」と念じてから口を拭い、ルゼはにやりと笑う。 「どんな上等のラム酒よりも美味い。今なら、ね」
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