「コスプレとしては完璧だよねー」 その日ターミナルの一室に足を踏み入れたロストナンバー達は、世界司書の紫上緋穂の言葉にびくり、と身体を震わせた。 突然かけられた言葉が先ほどのアレである。そしてロストナンバー達を上から下まで舐め回すように見て、満足気に親指を立てた。「えーと……どういう意味、かな?」「うん。壱番世界に転移したロストナンバーを保護して欲しいんだ」 困惑したロストナンバーが尋ねたが、その返答は返答になっていない。「……」「転移してきたのはキララさんっていう美人さん。和服美人。だけど、頭に猫耳、お尻にながーいしっぽがついてるよ」 困惑したロストナンバーを無視するようにして、緋穂はシャープペンを動かしてさらさらと紙に絵を描く。 程なくして出来上がったその絵には、20代前半くらいの和服ネコミミ女性が描かれていた。「髪の毛は明るい茶色だけど瞳がグリーンで、顔だちも手伝ってか、外国のコスプレイヤーに見えるよ」「だから、なんでさっきからコスプレとか?」 不審感というか嫌な予感をいだいて問うロストナンバーに、緋穂は満面の笑みで答える。「キララさんが飛ばされた場所って、同人誌即売会の会場なんだって!」「……」「……」 同人誌即売会なるものを知るロストナンバー達はこぞって沈黙。知らぬ者達は、「え、なに?」ときょとんとしている。「神奈川県横浜市の、大きな施設で行われるオールジャンルの同人誌即売会――イベントだよ。3階分のフロアを貸しきって、1200スペースものサークル参加があるんだって。勿論コスプレ可。だからその場にいる人はみんなキララさんのことコスプレ美女だと思っているし、言葉が通じなくても外人さんなら仕方ないよね、とか思っちゃう」「そりゃ……また特殊な場所に飛ばされたなぁ……」「おあつらえ向きに、レイヤーさん達もたくさんいるイベントだから、ツーリストのみんなの姿もすごい上手なコスプレだって思ってもらえるはずだよ。あ、無理にコスプレしなくても一般参加者を装えば入れるけどね」 レイヤー……コスプレイヤーのこと。 一般参加者……即売会に売り手(サークル)として参加するのではなく、買い手として参加する側の人達。((この子はどこで同人誌即売会に関する知識を手に入れたんだろう……)) その場にいるロストナンバー達に、なんだか別の意味で不安がよぎる。だが緋穂はそれに気がついていないようだ。「キララさんはおとなしい女性で、写真撮影攻めとか差し入れを貰ったりして困惑しているみたい。でも自分以外の異形(※コスプレイヤー)が平然といるから、あまり危険な場所じゃないんだろうなぁって認識みたい。ただ、人ごみにはちょっと辟易しているけど」 確かに盛況なイベントのあの混雑は、慣れぬ者から見たら異様である。「じゃあ、イベント会場に入って、彼女を見つければいいわけだな?」「うん。だけど注意してほしいことがあるんだ。彼女に似た格好をしている人は何人かいると思うし、彼女が1つの階に留まり続けるとは限らないよ。それにみんなも、コスプレが上手だったら写真撮影をお願いされたり、差し入れもらったり、引き止められて話に付き合わされたりすると思う。だから、対処法を考えておいたほうがいいかもしれないね」 各階には小さな屋台も何軒か出ていて、軽食や飲み物を購入できるらしい。差し入れの出所はだいたいここだろう。いくら普通とは違う空間とはいえ、その中で目立つ行動を取れば人々の目を惹いてしまうということだ。「なんとか見付け出して、連れてくるよ」 なんか面白そうな本があったら買ってきて~なんていう緋穂の言葉をスルーしながら、話が終わったと解釈し、チケットに手を伸ばすロストナンバー達。「あっ!!」 と、緋穂が突然大きな声を上げたものだから、伸ばされた手がびくっと宙で止まる。「なるべく急いで欲しいんだけど」「ああ、彼女、混乱しているだろうしな」「うん、それもあるんだけど」「不埒な一般人にいたずらされると大変だしな」「まあ、そうなんだけど」「……」「……」「つーか、何かあるならはっきり言ってくれ!」 焦れたロストナンバーに詰め寄られた緋穂は、てへ、と笑って。「みんながついてしばらくすると、会場の天井が、一部崩落するんだよね~」「……は?」「それで会場は混乱に陥って、安全確認のためにみんな外に出されるんだけど」「……」「キララさんは言葉がわからないし、どうしたらいいのかわからなくてその場に残っちゃうみたい。怯えて物陰に隠れたりしちゃうかもね」「ってそれって命の危険じゃね!?」「うん」 早く言えよ、というツッコミに緋穂は上目使いで皆を見つめた。「実は~もうひとつあるんだけど……怒らない?」「もう、何を聞いても驚かねーよ。怒らねーって」 ロストナンバーの言葉に、ほっと胸をなで下ろして緋穂は口を開く。「これは不確定な未来なんだけどね、キララさんに近づく三人組が見えたの。10代後半くらいの女の子と、双子の少年。女の子がリーダーで、キララさんを攫おうとしているみたいなんだ」「――!?」「あんまりもたもたしてると、キララさん攫われちゃうから注意――」「ちょっと待った」 緋穂の言葉を遮って、ロストナンバーが当たってほしくない推測を口にする。「それって、旅団の奴らの仕業か?」「……うん、多分」「だったらもっと早く言えよー!!」 怒らないって言ったのに。「だからごめんなさいってばー。ちゃんと教えたんだから良いじゃんー!」 今日の格言『大切なことは、一番最初に伝えよう』 *-*-*「わ、すごい可愛いっ。お姫様みたいですねー。何のキャラですか? 歴史物? オリジナルかな?」「ふふ、褒めてくれて有難う」「あ、これ一冊ください。立ち読みさせてもらったけど、面白そうだし」「じゃああとで俺にも読ませてくれよ」 男性二人連れの言葉に、少女は営業スマイルを浮かべながら薄い本――同人誌を差し出す。「600円になります。1000円お預かりしましたので、400円のお返しです」「有難うございましたー」 売り子なのだろうか、執事服に犬耳をつけた10代前半のの双子の少年が接客を手伝っていた。こちらもコスプレだろうか。「面白いんだけどさー、これみたいにイベント中に天井が落ちてきたらたまんねーよなー」「確かになー」 スペース前から離れ行く男性二人の言葉を聞いて、ニヤリ、と口元に浮かべるは笑み。「姫様ー、こんなところで本売ってていいんですかー?」「目的の人物を探しませんとー」 くいくいとドレスの裾を引っ張る二人に、姫と呼ばれた少女はパイプ椅子に腰をかけて売り物の本を一冊手に取る。「勿論探すわよ。でもコレも重要なお仕事でしょう?」「そうなんですけどー」「世界図書館の奴らに先をこされたらまずいですよー」「その場合は、殺してしまうだけよ」 少女の物騒な言葉は、辺りを覆う喧騒に掻き消されて、他の人間には聞こえることがなかった。
●常から切り取られた異空間にて 同人誌即売会というのは一般的な展示即売会とはまた違った、独特の雰囲気を持っているものだ。情熱というか、気合というか、ぶっちゃけ萌えというか、そういったものが半端無く渦を巻いているからである。いい方向の気持ちだけが渦巻いているならばまだいいのかもしれないが、カップリング論争やマナー違反などの負の感情もあるものだから質が悪い。加えてイベントのために修羅場を乗り越えたり徹夜だったりしっかり朝飯を食べてこなかったりすれば、常とは異なったテンションに飲み込まれやすいもの。 今、ロストナンバー達の目の前にあるのもそうした光景だった。 十階建て以上の大きなビル。うち3階分がイベントスペースに充てられているのだが、一階のホワイエやエレベーターホールからしてその異様な空気の片鱗が見えていた。地下が更衣室となっているものだから、一階で開いたエレベーターの扉の奥には鮮やかなコスプレ衣装に身を包んだレイヤーが沢山で、ここは本当に壱番世界の日本なのだろうかと目を疑ってしまうほどだ。 「これがどーじん、そくばいかい……? な、なんか異様な熱気と人混みだな、こんなトコに飛んできたら俺でもビビるぜ」 8階のエレベーターホールから会場を覗くようにして、オルグ・ラルヴァローグが呟く。肌にまとわりつくような異様な熱気が離れてても感じられて、少し近づくのが躊躇われた。だがすでに自分が遠巻きに注目されている事にだけは気がついていた。感心と羨望の入り混じった視線を毛皮越しに感じる。 (わ……人いっぱい……) 同じく雰囲気に圧倒されているのはツィル。引っ込み思案の彼女には、この人混みはきついものがある。元々タレ気味の犬耳は更にしょぼんとしており、身を竦めて怯えた表情を浮かべている。できるだけ人の少ない場所を探したかったのだが、この会場を見るかぎり人が少ないといえる場所は見当たらない。あえて言えば非常階段だろうか。 「おお、凄い人出じゃのう……楽しそうじゃ」 三人の中で一番乗り気なのはネモ伯爵である。5歳の子供姿だ、受付の人も誰かの子供だと思ったのだろう、入場料をおまけしてくれる。 「……俺達も行くか」 潔いほどに堂々と物怖じせず人混みに消えていったネモ伯爵を見て、オルグは隣にいたはずのツィルを見たが……耐えられなかったのだろうか、彼女はすでにどこかへと消えていた。 「……」 (まあ、行くか……) 本来ならば旅団を警戒して単独行動は避けたかったが、相当広い会場だ、手分けしたほうがいいだろう――そう思うことにして、オルグは踏み出す。 (……あー、そういや俺も『れいやー』のフリした方がいいのか。流石に……俺みたいな種族は『着グルミダヨ』って言うしかねぇ……よな) 「本格的な着ぐるみですね!」 「!?」 早速受付に声を掛けられた。 *-*-* 九階も、雰囲気としては似たりよったりだ。きちんと地下の更衣室で衣装に着替えて上がってきたマルチェロ・キルシュ――ロキは受付を通り、ある意味異空間の会場へと足を踏み入れる。 「この衣装をまた着ることになるとはな」 ロキが纏っているのは異世界横断運動会の天空演武会で着用した衣装だ。純白のフリルタイ、葡萄酒色のジャケット、紺のタイトパンツにブーツという中世ヨーロッパの貴族といういでたちに髪は太めの三つ編み。まるで小説やゲームからそのまま抜けだしたようなその容貌に、ざわっとロキの近くの空気が揺れる。 「きゃー! あの人かっこいいっ!」 「外人さんがああいう格好すると、凄いハマってるよねー」 「あれってさ、ジョージ王子かな?」 「違うってば、ヘスター公爵じゃない?」 テンションの上がった売り子達のお喋りはヒソヒソレベルを超えていて、ロキの耳にも入ってきた。口々にキャラクターの名前を挙げているが、まあ、何のコスプレかは内緒だ。この衣装は元々彼の女友達が趣味で作ったもので、ロキの素体としての素晴らしさに惚れ込んで作られたものである。相手が女性だからして断りきれずに保管してあったものが、こうして役に立つとは。 (しかしこれを製作者に見られたら……) ついに目覚めたのかとでも誤解されてしまいそうである。ロキは小さくため息を付いたがそれを気持ちを入れ替えるスイッチとして、ゆっくりと自分の事を見ていた二人の売り子へと近寄る。 「聞きたいことがあるんだが」 「あ、はい……日本語、お上手ですねっ」 突然注目していた人に話しかけられて、売り子はあわあわと緊張を露わにしている。それに気づかないふりをしてロキは続けた。 「この会場の天井が崩落するかもしれないって噂を聞いたんだけど、本当だと思うか?」 「えっ……」 売り子達は何を聞かれたのかわからないというような驚きの表情を浮かべた。不自然にならないようにと質問の形をとったが、ロキの目的は天井崩落の噂を流すこと。その噂が広がることで人々も警戒するだろうし、何らかの付加情報も得られるかもしれないからだ。 だから一箇所で望んだ返事が返ってこないのは当たり前で、別段気にすることもなくキララを探しながら次のターゲットを探そうとしたのだが。 「すいません、写真取らせてもらえないでしょうかっ」 レイヤーの女性とカメラを持った女性数人に捕まってしまった。相手は女性数人――無下に断るわけにも行かない。 同じく九階の会場から探し始めた緋夏は目深に帽子をかぶっていた。髪の色こそ燃えるような赤だが、それ以外はパッと見、壱番世界の人間と変わらない。 そんな緋夏が最初に向かったのは会場隅の屋台。ホットドックにフランクフルト、タイヤキやフライドポテトなど持ち歩きができる軽食が売られている。大きな換気扇の近くに屋台は設けられているものの、その食欲をそそる匂いは遠慮を知らずにフロアにも漂い始めている。 「とりあえず、これとこれとこれを1つずつ頂戴」 (足りなかったらまた買いに来ればいいよね) 両手に軽食を持って、もぐもぐと腹を満たしながら辺りの様子を伺う。さすがに主に紙モノを扱うだけあって、食べ歩き禁止の張り紙が沢山だ。売り子だったらスペースに戻って食べるのだろうが、緋夏はほかの一般参加者と同じように屋台側の空きスペースでホットドックを頬張る。 ちらっと辺りを見回すが、なにせ人が多い。大柄だったり頭に大きな装飾をつけている者も多く、会場すべてを見渡すことはできそうになかった。普通の女性くらいの身長であろうキララは、人混みに紛れて遠くから見えないのではないかと思われた。 「ねえねえ」 ごくん、ホットドックの最後の一口を喉に押し込んで、緋夏は近くにいた二人連れの女性へと声をかけることにした。 「あのね、人を探してるんだけど。猫耳とねこしっぽをつけた、和服の外人さんコスプレイヤー見なかった?」 「和服の外人さん?」 二人は互いに顔を見合わせるようにして、首をかしげている。そして申し訳なさそうに緋夏を見つめる。 「ごめんなさい、私達本を買うのに精一杯で……あまりコスプレは見ていなくて」 なるほど、ここに来る目的としてはサークルの売り物目的の人とコスプレイヤー目当ての人といるわけだ、緋夏は心の中にメモをする。 「あっちにコスプレの人達が集まるスペースがあるから、あっちで聞いてみた方がわかると思います」 丁寧に教えてくれた女性に礼を言って、唐揚げ串を押し付ける。タイヤキは自分の口に思い切り押し込んで。だって食べながら歩く訳にはいかないみたいだから。 (キララ、助けてあげるからね) 心の中で、強く強く思う。そうすれば、きっと叶う。 *-*-* くすくす……ふふふ……。 10階の会場へ入ったリーリスは笑いが止まらなかった。だってここには、凄いものがある。 「凄ーい。陰陽街並みに欲望渦巻いちゃってるぅ……こんな場所もあるんだぁ。お腹減ってたからうれしいな」 リーリスには、世界がカラフルに色づいて見えた。色づいて見えるそれは、人間の欲望。 彼女にとっては感情もオヤツ程度にはなる。……こういう遊びも悪くはない。 「そうだ、緋穂にお土産買わなきゃ」 他の参加者に倣うようにして、リーリスはゆっくりとスペースを見てまわる。 (緋穂ってどんな本が好みなのかしら?) そういえば聞いてくるのを忘れてしまった。リーリスが今いる10階にはBL系、創作系、そしてゲームとマンガに当てはまらないジャンルが集まっている。さてどれにしようか。 (とりあえず、いろいろな種類があったほうが楽しいわよね) 『オヤツ』をつまみつつ、目についた本を購入していく。本を渡される時、お釣りを渡される時に売り子と指が触れればすかさずに吸精。一瞬のことだしイベントのテンションだから相手はすぐには気が付かないだろう。気がついてもちょっとフラっとする程度。 (結構楽しいかも~) 可愛い絵柄の紙袋を貰ったのでそれに購入した本を入れて、片手に下げる。人混みは便利だ。うっかり身体や手が触れても混んでいるから仕方ないで済まされる。 「ふふふ……」 笑みが漏れた。しかし長机に並べられる本がどう見ても創作的内容のものだと判断できるようになった時、リーリスは目をすっと細めた。 買い物を楽しんでいるように見えて、彼女にはしっかりとチェックしているものがあった。 真理数。 売り子も客も、壱番世界の人間であれば真理数があるはず。真理数がなければ、ここでは仲間かキララか――旅団だ。 数メートル先のスペースに、お姫様のコスプレ(?)姿の少女と、犬耳をつけた執事服の少年二人が見えた。その三人に、真理数がない。 (みぃつけたっ) ニヤリと口の端を歪めたリーリス。その瞬間、少女がこちらを向いた。 視線がぶつかり合う――先に笑んだのは少女だった。リーリスも同じように笑顔を貼り付けて、ゆっくりと人並みを避けて彼女のスペースへと近づく。 「真理数がなくて3人……旅団ね、お姉さんたち。旅団がどんな本描くか興味あるなぁ。1冊買うね」 「あら、興味を持ってくれて有難う。試し読みはしなくて良いのかしら?」 「うん。後でみんなでゆっくり読ませてもらうから大丈夫。つまらなくても別に損したなんて言わないよ。あ、お釣りはあげる♪」 千円札を差し出して、リーリスは本を手に取る。どうやら最後の一冊だったようで、在庫を補充する様子もない。 じっ、とリーリスと少女は見つめ合った。いや、一触即発というのが正しいだろうか? 少女の隣で双子があわあわどうしようと惑っている。 ピンクがかった紫色の髪は胸元までの長さで、毛先に軽くクセが付いている。頭に小さなティアラを載せているのは、コスプレに合わせてだろうか? 顔立ちは、かなりの美形だと言ってよいだろう。整ったそれは、まるで人形か絵画のようで。若干顔色が悪いように見えるが、それがまた美貌を引き立てている。 「じゃ、行くね。一応探さなきゃいけない人がいるから」 少女の観察を終えたリーリスはくるりと踵を返す。後少し行けば再び10階の入り口に戻ることになる。今まで通ってきた中にキララらしき姿はなかった。この階にはいないのかもしれない。すれ違っていなければ。 そういえば会場に入ってからどのくらい時間が経っただろうか。30分くらい経つと天井が――緋穂はそう言っていた。 「姫様ー、そろそろ僕達も……」 「クローディア姫様、このままじゃ世界図書館に先をこされてしまいますー」 「二人共、スペース撤収の準備をして」 そんな声が雑踏に紛れて聞こえた。リーリスは階移動を試みる。 もう一度、彼女達とは出逢えるはずだ。 ●TIME LIMITまで残り7分 「これはコスプレではない! 吸血鬼の正装じゃ!」 「かわいい~♪」 ネモ伯爵は至極ご機嫌であった。彼にとっては普段着のその格好が、日本人にはコスプレに映る。加えて姿が小さな少年ときた。お姉様達は可愛いの大合唱だ。 最初はそれはそれは気分よく写真撮影に応じていた。かっこいいポーズを色々と決めて、フラッシュを浴びる。まるでアイドルになったようなこの気分は、彼の自尊心を満足させた。だが後一枚、こっちもこっちもとひっきりなしに写真を取られ続けてはいい加減嫌気がさすという物。 だがちょっと機嫌が悪い表情を見せると、「疲れちゃったよね、ゴメンね」とお姉様達は口々に謝り、そして屋台で買ったお菓子類を沢山ネモ伯爵に持たせてくれたのである。だからご機嫌なのだった。 しかしご機嫌でばかりいるわけにはいかない。人から注視されぬ隅っこで蝙蝠化したネモ伯爵は、天井付近を飛んでキララを探すことにした。熱気を逃す為か空調は強めに設定されており、そのため少し高度を下げねばならなかったが、下ばかり気にしている参加者達に気づかれることはないだろう。 (ん……?) パサリパサリと飛行しながら8階を飛び回るネモ伯爵の目についたのは、怯える人影。 (キララかっ!?) ツーっと速度を上げて近づいてみたが、そこにいたのはツィルだった。 (……何で、周り、人、集まってくるの?) 非常階段を探してキララを見つけられなかったツィルは意を決して会場に足を踏み入れたのだが。 「あの子可愛いぞ」 「写真取らせてもらおうぜ?」 主にカメラを持ったお兄さん達にじわじわと包囲されつつあった。 (人混み、苦手……) だから、人の少ない所を目指して移動していたはずなのだが。 通路はあまり広くは取られておらず、買い物をしようとする人々でごった返している。だから比較的歩く余裕があるのはコスプレイヤー達が集まり、写真撮影が解禁されているそのスペースだった。彼女は勿論そんな事情など知る由もなかったのだが、その場にいて犬耳犬尻尾をつけていればコスプレとみなされても仕方が無いのだ。 「あの……」 びくうっ!? なんだか、怖い。 何がと問われれば答えられないのだが、あえて言葉にすれば本能が告げている、というべきだろうか。 「写真お願……」 びくびくうっ! 「……萌え」 誰かが呟いた。だがツィルにはその単語の意味すらわからない。怯える姿が更に興味を誘っている事にも気がついていない。 さすがに本人の許可無く撮影をすることは禁止されているし、マナー違反だ。それを犯す者がいないだけ良かったのだが、このままでは言いくるめられて頷かされるのも時間の問題だろう――そう感じたネモ伯爵は、ツィルとお兄さん達の間で変身を解いた。 「怖がっているのがわからぬか! 写真撮影も嫌がっておるのじゃ!」 「えっ!? どこからっ!?」 お兄さん達は突然現れたネモ伯爵に目を丸くしたが、子供が足元をすり抜けてきたのだろうと自然に納得して。 「すいません。怖がらせるつもりはなかったんですけど」 「落ち着いたら、写真、検討してみてください」 そう言って去っていった。 「大丈夫かのう?」 ボーイソプラノに似合わぬ言葉遣いのネモ伯爵に見上げられて、ツィルはこくこくと何度も頷いてみせた。 *-*-* 「ちょ、待てストップ! 毛皮いきなり引っ張るのはヤメロ! 尻尾もだ!」 「少しくらい触らせてくださいー。あー、もふもふ♪」 「いや、だからな……」 「凄い、この着ぐるみ本格的ですね!」 「だから引っ張るなって!」 そんなやり取りを繰り返したオルグはだいぶ疲弊していた。最初こそ遠巻きに見られていたものの、一人がオルグと接触すると我も我もと人が集まってきて。身体中あちこち触りまくられた。相手は着ぐるみだと思っているからなのだが、遠慮なしに触ってくるから、始末におえない。 (……あんな所まで触られるとは) はぁぁぁぁぁ……深いため息をついたオルグは当初の目的をあまり果たせていないことに気がつく。 (旅団の連中と単騎で遭遇したらヤバいしな、出来れば単独行動は避けたかったが……) ネモ伯爵もツィルも見失ったままである。さてどうするか。 「困ったわ……」 (ん……?) 雑踏の中で聞こえてきたその声には、微かではあるが壱番世界のものとは違う匂いが混ざっていて。オルグは辺りを見回した。 彼がいるのは会場の壁際で、余った机へ椅子やらが積まれている。背景に畳んだ机や椅子が映るとよくないからか、あまりレイヤーはいなかった。 「これからどうしたらいいのかしら……」 異世界の匂いを辿ると、また声が聞こえた。だがそこにあるのは畳んだまま横長に立てて置かれた長机。 (まさか……) オルグは上から長机の向こうを覗き込んで。 「キララか?」 果たしてそこにいたのは、差し入れを山ほど抱えたまま座り込んだ、和服の女性。オルグの声に驚いて上げられた瞳は、緑色をしていた。 ●悪夢が舞い降りて (イベント会場で天井が崩落するという内容の本を見かけたって……? どういうことだ。旅団員の能力と関係あるのか?) 9階で噂を流していたロキは、そんな情報を手に入れていた。旅団員の能力と関係があるのだろうか。それとも一般人の書いた内容が偶然合致してしまったのだろうか。 そのサークルを確かめに行くか? だが、時間が―― きゃぁぁぁぁっ!! ガッ……ドスッ……!! ロキの思考は悲鳴に中断させられる。その悲鳴はレイヤー達が集まるスペースの方で聞こえていた。 三十分は長いようで短い。誰も、しっかりと時間を意識してはいなかった。会場入りした後三十分ほどで天井の崩落が始まると言われていたのに。 場が混乱し始める。主催者がマイクを使って取り急ぎ避難するようにと呼びかける。 押さないで、走らないで――叫ばれるその声はパニックには無力だ。 エレベーターに人が募る。だが一度に乗れる人数は限られていて。降りてくるエレベーターは満員でこの階を通過する。運良く乗れたとしても2.3人が乗ればブザーが鳴るほどだ。非常階段に流れる者もいるようだが、慌てすぎてけが人が出なければいいのだが。 「キララはっ……!?」 と、人混みを避けてロキに近づいたのは緋夏。同じフロアを探していた彼女もキララを見つけられなかったようだ。ロキは軽く首を振る。 「どこかですれ違ったんだろう、他の階だと思……う……?」 と、彼らの側をパサパサと飛び回った蝙蝠が姿を変えた。ネモ伯爵だ。 「8階でオルグがキララを発見したのじゃ。今、オルグとツィルが保護しておるぞ」 ネモ伯爵はオルグに頼まれて9階へと伝言に来たのだ。伝令の真似事は嫌だと渋るネモ伯爵に、場が混乱している今スムーズに情報を伝えられるのは宙を飛べるネモ伯爵だと説かれ、自分にしかできない事という響きに惹かれて引き受けたのである。 「リーリスは?」 「階段で見つけたのでな、伝えたぞ」 「あたしたちも行こう」 「ああ」 ネモ伯爵は再び姿を蝙蝠に変えて。ロキと緋夏は人混みに乗るようにして非常階段へと向かう。エレベーターホールよりは空いていたが、人混みをかき分けるわけにも行かずもどかしい思いだ。 間に合えばいいのだが――。 *-*-* 「心配するな。俺達はコレも織り込み済みだ」 崩落する天井。床に落ちたコンクリートの塊を見てオルグがキララに告げる。取り急ぎ言葉が通じる事情、彼女の身に起きた事情をかいつまんで伝えたが、これからどうするかを伝える暇はなさそうだ。 参加者もスタッフも会場を出てしまい、後に残されたのは川のように並んだ机と椅子。主張するPOPが寂しく見えた。そんな中、正面から接近してくる人影が3つ。入り口からまっすぐ奥に進んだ位置からこちらへ向かってきていることから、彼らはこのフロアに到着していたもののキララを見つけるまでには至っていなかったのだと想像できた。 「天井崩落よりあっちのほうがタチが悪い。そこから動くな」 ツィルがキララを庇うように前に立つ。捕縛まで行ければいいのだが、あまり時間は掛けられない。相手の力も未知数な上に、こちらは保護対象と一般人も守らなければ。 「その女性を渡してちょうだい?」 適度に距離を保った所で三人は立ち止まり、姫姿の少女――クローディアと呼ばれた彼女が口を開いた。勿論、はいわかりましたとオルグ達が答えないのは予想済みだろう。 「渡すわけにはいかないぜ」 当たり前だとばかりに吐き捨てるオルグに、両手を広げてキララを護ろうとするツィル。 「そう言うと思った……じゃあ、敵を増やすくらいなら殺しちゃうわ」 にっこり――大層可愛らしい笑いだった。その桃色の唇から紡がれた言葉は似つかわしくない程に。 「また会ったね、本のお姫様と王子様達……うふふ」 入り口から一番手前の通路を使って次に現れたのは、リーリスだった。片手にイラストのついた紙袋を下げている。9階を回ろうとしていた所で天井崩落の事件を聞き、非常階段の側でネモ伯爵に出会ったのだ。 椅子と机が川のように並んでいるからして、遮蔽物となるそれを突っ切って近づくのは難しい。それに不意打ちする気もなかったから、リーリスはゆっくりと歩いてオルグ達と合流。 続いて合流したのは蝙蝠姿のネモ伯爵だ。到着するとすぐに姿を戻し、今にも彼女達を挑発しそうなリーリスの前に出る。 「して、おぬしらどちらが受けで攻めじゃ?」 「「「……、……」」」 その場でその言葉の意味をわかったのは何人だろうか。穏便に事を進めたいというネモ伯爵の心から出た言葉だったが、場が一瞬静まる。 「あら……私がノーマルもBLもどっちもいけるってよくわかった、わね」 なんだろう、クローディアの呼吸が荒くなっている。 「カロとヒロは基本はカロ×ヒロだけど、リバ可なのよ!!」 ぐはっ!! 「「「!?」」」 クローディアの叫びと共に勢い余って吐き出されたのは血。真紅の血。 血は床を染め上げたがドレスには飛び散っていない。吐血慣れていると見た。 「誰か何かしたか?」 オルグが仲間達を見るが、彼らは一様に頭を振って。 「おい、大丈夫かっ!」 「追いついたーっ!」 非常階段を抜けて漸く自由に動けるようになったロキと緋夏が駆けてくる。だが血溜まりとクローディアの口元に目をやって。 「……何があった?」 「あ、ご心配なくー。これ、クローディア姫様の特技みたいなものですから」 「いくら吐いても貧血にならない体質なのですよー」 双子――どちらがカロでどちらがヒロかわからない――が白いハンカチを渡すと、クローディアは貴婦人が食事の時ナプキンでするように丁寧に口元の血を拭いて。 何事もなかったかのように。 「その女性を渡してちょうだい!」 「姫様ー、そのくだりはもうやりましたー」 「あら、じゃあ力づくでもその命、奪ってみせるから」 ばっ!! 「!!??」 その時双子に何がしかの指示を出そうとしたクローディアの前に広げられたのは、ネモ伯爵の持つスケッチブックだった。それを見たクローディアの瞳が見開かれる。 「うちの司書の傑作じゃ。ぬしの同人誌より断然上手じゃろう? やーい、悔しいか?」 そのスケッチブックは予め緋穂に描かせておいたもので、色々なタイプのイラストが何枚にも渡って描かれていた。 「おぬしには絵心がある。わしは芸術にうるさい。より優れている方がキララの身柄を貰い受ける、というのはどうじゃ? 戦う前から怖気付いて敗けを認めるならそれでも良いが」 「なんですって?」 ネモ伯爵の宣戦布告とも取れる発言に、クローディアはすっと目を細める。伯爵の提案は、キララが欲しければ画力対決をしろというもの。審査員を世界樹旅団と世界図書館が2名ずつ出して~と説明するネモ伯爵の話を、クローディアは毛先をいじりながら聞いている。 「ロキ」 その隙にオルグが小さな声で呼び、親指でくい、とキララを指した。ロキは心得たとばかりに頷き座り込んだままのキララへ近づき、膝をつく。 「キララ……だよな? 俺はオルグ達の仲間だ。安心して欲しい。今から先にあんたをここから連れだす。俺に身を任せてくれるか?」 「私……ここにいると足手まといになるのですね」 ちら、と旅団の三人を見て、キララは呟いた。状況は大体理解しているらしい。 「キララ、安心して。あたしも、キララを守るからね」 ロキの後ろから覗き込んだ緋夏にも笑みを向けられ、キララはこくん、と首を縦に振った。 「よし、後はタイミングを図るだけだ……失礼」 紳士らしく断りを入れて、ロキはキララの帯の辺りに手を回す。ほっそりした胴回りに回されたロキの手に力が入る。 反対の手には『シギュン』。一度強く目を閉じるようにして、想う。するとナイフは人知れず鞭へと姿を変えていた。 (……よし、目標確認) 天井付近に目を走らせ、確認。大丈夫、あの距離なら何とか。後はタイミングだけ。 「どうじゃ? 勝負をせずに負けを認めるか?」 ネモ伯爵の提案は時間稼ぎだ。煽って煽って意識を自分に向けさせ、その間にキララを保護してもらおうとする作戦。だから、返ってきた答えは意外なものだった。 「そんな馬鹿げた勝負、しないわ」 「何じゃと……?」 「確かにその絵はお上手だけれど」 クローディアはスケッチブックを指して。 「私は絵の巧拙に拘るつもりはあまりないからよ。そこまで絵の技量を誇るつもりもないし、必要もないの」 「それはどういう――」 「それじゃあ、真っ向から勝負する?」 淡々と言い放ったクローディアの言葉にネモ伯爵がなにか言いたげに言葉を紡ぐ。だがそれを遮ったのはリーリスだ。彼女は空いたパイプ椅子に腰をかけ、まるで観戦するかのように笑顔を浮かべて。 「勝ちたかったら、3人がお互い同士で針を打ち込み合えばいいんじゃないかな♪ そうでもしなきゃ……勝てないよ、お姉さんたち? 天井落ちる程度じゃね?」 「「!」」 「「!?」」 その言葉の与えた衝撃は敵のみならず、味方にもだ。だが、この隙を逃す手はなかった。本当はリーリスにその言葉の真意について詰め寄りたかったが、このチャンスを逃すわけには行かなくて。 「行くぞ」 ロキは小さく告げてキララの腰を抱く手に力を入れる。緋夏が一足先に入口側の通路へと走り出る。クローディア達からは机を何本も挟む通路だ。気が付かれてもすぐに駆け寄ってはこれまい。 「はっ!!」 掛け声をかけて、ロキは背後の窓際から助走をつけて、クローディア達より少し奥の天井にあった出っ張りへと鞭を放つ。鞭はロキの意思どおりに出っ張りに巻き付いて。そしてその一連の動きの勢いを利用して思い切り―― ――跳んだ。 「きゃっ……」 いきなりの出来事にキララが身を固くして声を上げた。目を閉じているのだろう、顔は下を向いている。 ぐぅんっ……鞭のしなりに合わせてロキ達の身体がクローディア達を超えた。そしてそのまま向こう側に傾いた時に絡めた鞭を離す。 どさっ……。 着地をしたものの、人を一人抱えての動きだ、膝をついて衝撃を逃がす。 「カロ、追って!」 クローディアの甲高い命令が背後に聞こえる。足音が、聞こえてきた。 ガタガタガタッ!! だが緋夏のほうが動きが早かった。障害物となっていた長机の上に乗り、ジャンプでそれらを飛び越えて横切る。そして、膝をついたロキ達を庇うようにして立ちはだかった。 「邪魔するな。あっちいけ、アホー!!」 ぐわっ――!! 辺りの空気が歪んだ。熱風源でもある炎が、威嚇するようにカロに向かう。 「うわあっ!」 少年は緋夏の口から吹き出された火に驚いたのか、頭を抱えて立ち止まってしまった。その隙にロキは立ち上がり、キララをも立たせる。 「走れるか?」 「その……」 返事は芳しくない。身体は大丈夫なようだが――そこまで考えて、ロキは気がついた。キララは和服だ。走ることに向いていない服装なのは言うまでもない。 「わかった。少しだけ我慢してくれ」 言うが早いかロキはキララを抱き上げ、そして出口へと走った。迷っている暇などない。迷っていたら、負けだ。 (エレベーターはダメだ。階段で行こう) 背後の空気が熱っぽいのは、緋夏が炎を吐いてカロを足止めしてくれているからだろうか。 そのまま振り返らずに、ロキは非常階段へと向かう。 振り返らないのは仲間を信頼しているから。自分の役目をきちんと理解しているからだ。 *-*-* 「ほら、お姉さんたちの負け」 ふふ、とリーリスは余裕の笑みを浮かべる。カロは緋夏の炎に押されるようにして、だんだんとクローディアの近くによってきていた。ヒロはクローディアの様子を上目遣いで伺うようにしながら、側に控えている。 「カロ、後でお仕置きよ」 ぼそり、呟かれた言葉に少年は身体を震わせる。それを見て、リーリスもまた笑った。 「保護終わった? なら帰るわ、私。お姉さんたちも帰ればいいんじゃない? 弱い人には興味ないもの。アハハハハ」 笑いながら、彼女は出口へと向かおうとする。ギアを構えたオルグが言葉を続けた。 「やりあうつもりなら、相手をするぜ。さあ、どうする?」 言葉ではそう言っているが、実際、そうはならないだろうと感じていた。クローディアの纏う雰囲気が、冷めたものに変わっているからだ。 「興が冷めたわ。逃げたいならば逃げればいいわ」 「あんた達はそれで怒られないの?」 背後から掛けられる緋夏の言葉に、顔を半分向けるクローディア。キララを保護、または殺害するという面ではクローディア達の作戦は失敗している。失敗したままあっさりと引き下がるというのか。 「別に……今更、ねぇ……」 その言葉は何を指しているのだろう。正しい解釈はわからないが、軽やかな笑みと共に浮かべられていることからして、他に目的があったようにも見受けられる。 リーリスはつまらなそうに、紙袋を手にそのまま会場から出た。 「念のために……じゃ。……腐っておるなら哀しき性で喰い付くはずじゃ。その隙に退散じゃ! カロ、ヒロ!」 「!?」 ネモ伯爵に呼ばれた双子達は、咄嗟にネモ伯爵の方を向いてしまった。ネモ伯爵の目を見てしまった。 『お主らは互いが愛しくて、欲しくて欲しくてたまらなくなる~。受け攻めはとりあえずどっちでも良い』 ふら~り。ネモ伯爵の思惑通り催眠術にかかってしまった双子は、互いに距離を詰め、見つめ合う。 「全く。二人共未熟なんだか……ら?」 ため息をつきかけたクローディアの動きが止まる。カロがヒロの顎に手をかけて、それを潤んだ瞳でヒロは見つめている。 「あら? あらら……?」 なんとなくまた、クローディアの息遣いが怪しくなってきた。 今のうちじゃ、とネモ伯爵はオルグとツィルを促す。 「……大丈夫なのか?」 「たぶん大丈夫じゃろう」 不安そうなオルグにネモ伯爵はさらっと答えて足をすすめる。 (……念の、為……) そっと、ツィルはギアを開いて。白紙の魔道書の一ページを利用して魔法を起動させる。 ――Op nu rep oiranoizats 小さな声で唱えられた詠唱は誰の耳にも入らない。だが効力はしっかりとしたもので、クローディアの動きを封じる。 (……気付かない、かも) しかしクローディア自身は双子の動きに注目していて、動く様子はなかった。だから自身が魔法にかけられたことに気がついているかも怪しいのだが。 (……念の、為……) 誰も傷つかないほうがいい、そう願うツィルの心からの願い。自分達が逃げる時間くらいは動けないでいるだろう。 ツィルは小さく走りだす。先に歩いていった二人との距離を縮めるように。 数時間後、危険確認の為にフロアに入った作業員達が見つけたのは、いくつかの血溜まり。 怪我人が出たのかと心配されたが、いくら捜索しても怪我人の姿は見つからなかったという。 ●ロストレイルは通常運行 「なんであんな危ないことを言った?」 キララを含めて七人で乗り込んだロストレイル車内にて。ロキはリーリスに厳しい表情を向けていた。以前同じ依頼に行ったことがあるが、その時から持っていたなんとも言えない不信感のような違和感のようなものは先程の彼女の言動で更に増している。 『さぁ? 勝ちたかったら、3人がお互い同士で針を打ち込み合えばいいんじゃないかな♪ そうでもしなきゃ…勝てないよ、お姉さんたち? 天井落ちる程度じゃね?』 あの三人もそんな愚かではないとは思うが、万が一本当にリーリスの言葉通りになっていたら――考えるのも恐ろしい。 「だってぇ、旅団がどの程度簡単に針を持ち出すのか、使うのか興味あったんだもん。旅団同士で使ってくれる分には敵が減っていいじゃない」 悪びれた様子はなく、けろっと言い放つリーリス。ロキはぐっと拳を握りしめた。 「そういう問題じゃないだろう」 「大丈夫、危ないマンファージなら絶対図書館から応援くるよ。私みんなを信じてるもん♪」 にっこり。浮かべられた笑みは誠のものか。その心の裏は――。 「ねえねえ、私、旅団が描いてた同人誌買ったんだけど、見て見て」 何事もなかったかのようにリーリスは紙袋から一冊の本を取り出した。そしてあるページを開いてみせる。 それはマンガの1ページで、同人誌即売会で天井が崩落するという内容が描かれていた。 「この本はBLではないようじゃな」 「ふーん。これがクローディアの描いた同人誌かぁ」 ネモ伯爵が隣から覗き込み、緋夏はキララの尻尾を触らせてもらいながら、ちらっと覗いただけだ。尻尾、かなりさわり心地がいいらしい。 (偶然、一致……?) ツィルは心の中で疑問を持ち上げ、首を傾げる。ロキは強制的に変えられてしまった話題に軽くため息を付いて。 「俺もその本の噂は聞いていたよ。偶然一般人が売ってるならば何の関係もないだろうと思ったけれど」 それを売っていたのはクローディア達。リーリスがその目で確かめて、最後の一冊を購入したのだから、間違いはない。 「あの女の能力ってまさか、描いたコトを現実に起こすモンか?」 オルグの言葉に一同に沈黙が走る。まさか、と思うがそんなまさかを起こせる者がいてもおかしくないのだ。彼の推測が当たっているとも外れているとも、今の時点では断定できない。情報が足りないのだ。 「キララを逃しても平気みたいだったな。他の目的がメインなのかな?」 さわさわさわ……尻尾を撫でると時折キララがひゃん、と声を上げた。緋夏はその可愛さにもはまってしまい、尻尾を撫で続ける。 (キララ、保護……できた、よかった……) ツィルがほっとしたように、無事なキララを眺めて微笑んだ。そんな彼女の心を読んだかのようにネモ伯爵が。 「奴らの真の目的はここで議論してもわからないじゃろう。今は、キララが無事に我々の仲間になってくれるということに歓迎の意を示すのじゃ」 「ああ、そうだな。キララ、これからは俺達の仲間だぜ」 「色々不安もあると思うけど、ターミナルには良い人が沢山いるから安心するといい」 オルグとロキに優しく声を掛けられ、キララは頷いた後深く頭を下げた。 これから詳しく事情を説明され、悲しみの淵に落とされることもあるだろう。けれども新しい人生を進んでくれると、思わずにはいられない。 「しかしなんというか……普段の依頼とは違う疲れ方をしたぜ」 「ああいった場所は特殊だからな……」 「わしは楽しかったぞ! 途中で鬱陶しくなったがの」 (人、多くて、怖かった……) 「あー、もっと屋台で腹ごしらえしたかった」 皆、慣れぬ特殊空間で変な疲労を背負い込んできたようだった。キララについては言うまでもない。 元気でご機嫌なのは、こっそり吸精を重ねることができたリーリスだけのようだ。 後日、事件の顛末の報告と共に、紫上緋穂の元に沢山の同人誌が届けられたらしい。 旅団ツーリスト、クローディアが執筆した同人誌は、一応資料として厳重に保管されているとか何とか。 【了】
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