「皆さん、明日から春休みとなりますが、くれぐれも気を緩めることのないようにお願い致します」 夕食の席で、寄宿舎の監査指導員のシスターヘカテの言葉が続く。 「日暮れの後に出歩くことはけっしてしないように。そして、大切なわたくし達の仲間であるミス・ポージィとミス・ボーデンの無事を皆さんで祈りましょう」 誰もが声を揃えて返事をする中、窓際の席で頬杖を付きながらスープを眺めていたメアリベルだけは返事をしなかった。 この学園で生徒がふたり、姿を消した。 7年生のミス・ポージィ、9年生のミス・ボーデン、ふたりは《真夜中のお茶会》に誘われて、そのまま月の使者にさらわれた――というのがもっぱらの噂だ。 けれど、真実は分からない。 「ホントのところはどうなのかな?」 ふと、うんと年上の、けれどこの学園の誰よりも仲良しの顔が浮かぶ。 「そうだ、ミス舞原を誘ってみよっと」 小さく小さく自分の思いつきを口にして、ひとりくすくすとメアリベルは楽しく笑う。 * 5歳から18歳までの子供たちが賑やかに生活する寄宿舎も、明日からはその半数以上が帰省してしまう。 寮母が用意してくれた夕食を終えてしまえば、あとはもう就寝までほとんど部屋から出ることもない。 仔羊のように従順な子供たちはみな言いつけを守って自室でルームメイトとおしゃべりしながら帰り支度をしているのだろう。 けれど、メアリベルは気にしない。 ひとり軽やかな足取りで、寄宿舎の幼年組のエリアから年長組のエリアへと続く長い渡り廊下を進む。 ぽつりぽつりと灯るランプの明かりを頼りに、右にひとつ、左にふたり曲がって、薔薇園が右手に見えたところで道を外れて少し進めば、絵奈がルームメイトたちと過ごす暖炉の部屋に辿り着く。 コツコツコツ。 こっそりと窓を叩く。 たったそれだけで、窓際でひとり静かに本を読んでいた絵奈がハッと顔を上げる。 ――メアリベルさん! 目を丸く見開いて、唇だけではっきりと自分の名を呼ぶ。 あたふたしながら慌てて窓を開けにかかる絵奈の姿に、メアリベルは嬉しくなってしまう。 この驚いた顔を見られただけで、来た甲斐があったというモノだ。 「こんな時間にどうしたんですか?」 他の誰にも気づかれないようにひそひそと、窓から身を乗り出した絵奈は、小声でメアリベルに話しかけてくる。 「ミス舞原、一緒におでかけしましょ?」 「でも、日が暮れたら外に出てはいけないって、シスターヘカテが言ってましたよ?」 「だから行くんだよ。規則は破るためにあるんだもの。ミス舞原の好きな冒険小説だって、たいていは言いつけを破るところからはじまるはずだよ?」 それに、と続ける。 ナイショ話をするように、口元に手を添え、窓から身を乗り出した彼女の耳元へ囁きかける。 「ねえ、実は何が起きているのか、知りたいって思わない? だってこーんな場所で人がいなくなっちゃうなんておかしいもん」 立派な淑女になることが、この学園の生徒が目指す大事な大事な大事な役目。 大事に大事に大事に匣の中に入れられて、外を知らされずに純粋培養で育てられるのだ。 そんな仔羊たちが、自分の意思で迷子になるなんてあり得ない。 「お外に出られない牢獄だよ、ここは。窮屈すぎてお外に出たくなっちゃうのはメアリも分かるけど、でも出て行ったところでなぁんにもできないのも事実だよ」 馬車がなければ家に帰ることも町に出ることも叶わない、森に囲まれ丘に佇む学園で、いったい何が起きるというのか。 「だから探しに行こう、ミス舞原? きっと素敵な冒険になるんだから」 絵奈はほんの少し戸惑うような表情になり、けれどそれはすぐに決意めいた顔つきに変わる。その奥で好奇心の光が閃くのも見逃さない。 「いま部屋を出ますから、そのまま待っていてください、メアリベルさん」 この寄宿舎で一緒に過ごしてきた仲間が消えてしまった事を、絵奈はとても重く受け止めている。 「みんな心配してるんです。私、見つけられるなら見つけたいですから」 くるりと踵を返して、彼女はルームメイトたちの間をすり抜けて部屋を出て行く。 それを窓越しに眺めながら、メアリベルは楽しげに目を細めてクスリと笑った。 * あなたはわたしを見てくれるのね? * メアリベルの手を握り、絵奈は小さな友人と並んで歩く。 「なんだかこうして歩くだけでドキドキしてしまいますね」 「これもりっぱな冒険でしょ?」 「はい」 彼女の弾んだ声と笑顔を眩しげに見ながら、絵奈はしっかりと頷きを返す。 「ねえ、ミス舞原は月の使者を知っている? 真夜中のお茶会が開かれているんだって」 「真夜中のお茶会って聞くと、なんだか少しワクワクしてしまいます。でも、ワクワクしてはいけないんですよね?」 「ワクワクしてもいいけど、ワクワクだけしてちゃダメなんだよ」 幼い少女は自分に笑いかけてくれる。 くるくると愛らしく変わる表情に見とれかけながら、それでもふと沸く疑問を口にせずにはいられない。 「でも、一体どこでそんなことができるのでしょう?」 夜はシスターが見回りをしているはずだ。 外出が許されるとは思えない。 けれど、絵奈の問いに、メアリベルはあっさりと応えを返す。 「ここでね、やってるんだよ。許されちゃうの、許しちゃう人がいるから」 そう言って足を止めたのは、月の満ち欠けをイメージしたシャンデリアがいくつも下がるダンスフロア《セレーネ》だった。 すっかり落ちた照明と天井からの垂れ幕のせいで、至る所に死角ができている。 手元のランプが放つ頼りない光で照らされて見る光景は、生徒たちであふれかえる昼間とは打って変わって、何か不吉な予感を覚えた。 「知っていて、ミス舞原? ミス・ポージィはここがお気に入りだったんだよ」 「ここが?」 「そう」 しんと静まりかえったダンスフロアの一体どこに、茶会の場所などあるというのか。 分からないままにとにかく後を追う絵奈に対し、ランプを持つメアリベルの歩き方には迷いがない。 ステップを踏むように、軽やかに垂れ幕に触れ、掻き分け時に潜り込みながら、進んで進んで進んでいって―― 「ごきげんよう」 メアリベルはあっという間に辿り着いてしまった。 「メアリ!」 暗幕の奥の奥、埋もれるようにして隠れていたのは、年少組の少女ふたりだった。 ピクニックのようにシートを引いて、そこにクッキーやマドレーヌ、それから小さなティーセットを広げて、ランプの明かりの中で彼女たちは向かい合って座っていた。 制服のバッジが、7年生であると告げている。 「どうして?」 「どうしてここが分かったのかって聞いているのならね、すっごくカンタンなことなんだけど、でもその前に教えてほしいことがあるんだ」 ミス・ポージィの話を聞かせて、とメアリベルは言う。 「あの子は、お料理がとっても好きだったの」 「土曜日の午後には特別に、シスターに教えてもらったりしてね、あたしたちのためにお菓子を焼いてくれたりして」 「あの子、ときどき夜にお出かけしていたことがあったから」 「ナイショにしてね、って」 けれど彼女はいなくなってしまったから、ルームメイトの少女たちは教えてもらったこの場所に友達を探しに来たのだという。 ここで待っていたら逢えるかもしれないと、淡い期待を抱いてもいたのだろう。 「メアリ、あのね」 「いいよ、メアリは知らないふりをしてあげる。だからかわりに教えて? ミス・ポージィは もしかして、学校を変わることになったんじゃない?」 「……どうして?」 ふたりは目を丸くする。 今度の『どうして』は、『どうしてソレを知っているの』、という意味らしい。 絵奈にはこれまでのメアリベルのやりとりが一体どういう意味になるのかまったく繋がらないけれど、彼女にはちゃんとすべての道筋が見えているのだろう。 「さあ、次に行くよ、ミス舞原。お茶会巡りはまだ続くんだから」 * あなたはわたしをどう想ってくれているのかしら? * 「メアリベルさん、ここは」 「そう、ここがふたつめのお茶会の場所だよ」 次に目的地へと定めたのは、寮と学園の間に広がる果樹園《ルーナ》だった。 広大な敷地に対してやや小規模なこの場所で取れるオレンジやレモンは、寮での食事に使われることもあれば、ジャムやママレード、パウンドケーキにカタチを変えることもある。 園内には、陶器でできたウサギがぽつんぽつんと目印のように置かれていた。 「ミス・ボーデンはここで姿を消したんじゃないかしら?」 「どうして……」 「ねえ、ミス・ボーデンはここでいつも何をしていたと思う? 彼女が消えた日はここでなにをしてたのかな?」 「彼女は園芸部員でした。学園内だけでなく、寮の庭園やこの果樹園の管理も頑張っていたと聞いてます。彼女がいなくなった夜は雨が降っていたから、もしかすると花たちの様子が気になって」 「残念、たぶんソレは違うよ、ミス舞原。模範解答になるかもしれないけどね、だってここはお茶会の場所なんだから」 それじゃあね、とメアリベルは質問を続ける。 「この学園には一体どれだけの秘密の場所が存在しているのか、知ってる?」 「え?」 仔羊たちは群れで管理されながら、十年以上をここで過ごす。 仔羊たちは基本的には囲いの中に入って大人しくしている。 けれど、誰も彼もが真っ白で従順とは限らないし、誰も彼もがいいつけを守り続けるとも限らない。 窮屈な規則に縛られながら、それでも十年以上を過ごさなければならないから、ふとした瞬間に自分の秘密の居場所を探してしまうものだってもちろんいるのだ。 「たとえば、ね、ミス舞原が図書館の秘密の場所でメアリを見つけたように、ここにも秘密を占める記号がちゃんとあるんだよ」 「……私がメアリベルさんを見つけたように……」 ふ、と記憶に蘇るのは2年前の、あの夏休み直前の光景だった。 帰る場所がなくなり、待ってくれる家族がいなくなり、けれど長い休みに入れば学園内にはいられない、そんな時。 苦しくて切なくてどうしようもなくて、絵奈はひとりきりでふらふらと図書館の中を歩き続けていた。 誰にも見つからない場所、自分を優しくかくまってくれる場所、そういう場所を求めて図書館の奥の奥の奥へと歩いていって。 そこで、メアリベルに出会ったのだ。 無数の本に囲まれたスペース、ステンドグラスの光が差し込む棚と棚で作られたわずかな日だまりの下で、両足を投げ出し、座り、真っ赤に染まったハンプティ・ダンプティのぬいぐるみを傍らに抱く少女と、自分は目が合った。 ――ごきげんよう、ミス ――これからミスタ・ハンプをこんなにした犯人を捕まえるんだけど、いっしょにくる? 「メアリを見つけたミス舞原なら、分かっちゃうかな」 「あ」 あの時自分は、半ば無意識に、ずらりと並んだ分厚い本のうち、なぜかぽつんぽつんと点在する鮮やかな赤い本の背表紙の、そこに打たれた番号を辿っていたのだ。 番号を追いかけて、追いかけて、そうして。 「ということは」 「そういうことだよ。ね、気づいちゃったらとってもカンタン。さっきのダンスフロアだって照明の形を追いかけるだけなんだから」 陶器のウサギの置き方には、ひとつの法則が存在している。 彼らの視線が示す方向へと順に辿っていけば、果樹園の中にひっそりと隠された秘密の場所まで辿り着くことだってできてしまう。 「こんなところに」 思わず呟く絵奈に、メアリベルはにっこり笑う。 「ミス・ボーデンはここできっと誰かと会っていたんだよ。でも今夜はだあれも来てないみたい。きっとミス・ボーデンは誰にもここを教えなかったのね」 「あ」 絵奈はランプの光を反射して閃くモノを、草むらに中に発見した。 「メアリベルさん、これ」 「学年バッチ、9年生のモノだね」 百合を模したバッチの裏には、消えた少女の名前が刻印されていた。 彼女は確かにここで姿を消したのだ。 「さあ、ソレじゃあ次だよ」 * あなたはどうしてここにいてくれないの? * メアリベルが3つめに選んだ場所は、うかつに触れたら棘にやられてしまう、美しいけれど危険な薔薇園《カリストー》だった。 ここにも、秘密の場所は存在している。 めったなことでは人が立ち入らない、茨の向こうの秘密の場所を見つけ、足を踏み入れたその瞬間、 「メアリベルさん!」 とっさに絵奈の身体が反応した。 全身が粟立つような、明確な殺意と悪意が東屋の向こう側からはっきりと発せられる。 一気に警戒態勢に入った絵奈に対し、メアリベルはゆっくりと唇を吊り上げる。 「ねえ、メアリたちは追いついちゃったみたいだよ」 メアリベルは絵奈の手を引き、東屋へと一気に駆け寄る。 知らず知らず心が弾む。 これから見る光景に、胸が弾む。 「ほら!」 東屋には、テーブルと椅子が置かれ、クリームティの準備が整えられたそのテーブルの傍らには、ブロンドの長い髪を散らして横たわる少女の姿があった。 彼女は目を閉じている。 絵奈はその首筋に手を当て、口先に頬を寄せた。 「……よかった……まだ息が……」 心底ホッとする絵奈に対し、メアリベルは相手が助かったことに興味を示さず、 「ミス・マフェット、メアリたちが来たから、あなたは途中で放り出されちゃったんだね」 彼女の学年バッチが13年生であること、そして刻印された名前を確認すると、あっさりと視線を逸らした。 何かの気配を探るように、彼女はじっと闇色の空を見つめ続ける。 そのとき、ふ、と絵奈の耳にも、茂みを掻き分ける葉擦れの音と、そうして教会の鐘の音が聞こえてきた気がした。 「ミス舞原、追いかけるならいまだよ」 「はい、参りましょう!」 絵奈は横たわるマフェットに自分の上着を掛けると、笑うメアリベルを抱き上げて、夜の庭園から西に佇む礼拝堂へ向かって走り出した。 「すごい、すごい早いね、ミス舞原!」 「じつは鍛えてますから」 応えながら、問いかける。 「どうして犯人はこんなことをするんでしょう? 私には分かりません。私、哀しいカオは見たくないです……みんなが笑っていてほしいんです。毎日毎日、とても楽しいって笑いながら過ごしてほしいです」 いなくなったり、悲しんだり、苦しんだりなんか、してほしくない。 笑顔のままに毎日を過ごしてほしい。 「だけど、みんなそんな毎日を過ごしても、大人になったらきっと忘れてしまうと思うの」 「……え」 「ねえ、ミス舞原、あなたがいままで過ごした時間で一番強く心を占める記憶はなあに?」 全力疾走できていたはずの足が徐々に重くなり、 「あなたが覚えている中で一番記憶に残っている相手はだあれ?」 スピードが落ちていき、 「あなたの中のその記憶って、本当に楽しいこと?」 ついには礼拝堂を前にして、絵奈の足はぴたりと止まってしまった。 教えて、とメアリベルは問う。 嵐が訪れる直前の、あの何とも言えない、引き込まれてしまいそうな灰色の瞳に問いかけられながら、絵奈の記憶は巻き戻しを始めていた。 一番古い記憶、一番心に残っている相手の記憶、一番強く感じている記憶、それがなんなのかを自分の中に探っていく。 探っていく。 「……」 いや、探るまでもないのだ。 覚えているのは、姉のことだ。 大好きだった、大切だった、愛おしかった姉の、最後の姿が目に焼き付いている。 燃えさかる炎の渦のなかで、自分の手を引き、必死に外へ逃げようとしてくれていた大切な姉。 崩れ落ちてくる天井。 視界を覆う黒煙。 肌を焼く熱。 その中でただひたすら姉の掌から伝わるぬくもりにしがみつきながら、もうすぐこの苦しさからふたり一緒に解放されると思い込んでいた。 けれど。 でも。 外に出られたと思ったその時、姉は自分を引き寄せ、ギュッときつくきつく抱き締めた。 その次の瞬間、とてつもない衝撃を姉の身体越しに受け、そのまま意識は失われて―― 涙は流れない。 ただ胸がどうしようもなくギリギリと軋んだ音を立てて痛むから、腕の中のメアリベルを抱き締めることでやりすごす。 「ねえ、ミス舞原、人は嬉しかったり楽しかったりする記憶よりも、哀しかったり辛かったりする記憶の方が、ずっとずっと残るんじゃないかな?」 自分を見上げる幼い少女は、無邪気に笑う。 「だからね、彼女たちの魂は神様の元に、彼女たちの身体は月の女神のもとに、送られてしまうのかもしれないよ」 「そのふたつがどう繋がるのか私には分かりませんが……」 「犯人はね、置いて行かれることがコワイの。忘れられちゃうのがコワイの。ミス・ポージィも、ミス・ボーデンも、それからミス・マフェットも、こんなにも大好きな自分のことをきっと忘れるって思われちゃったんだよ、きっとね」 「……もしかして」 「いないはずがないのに空気みたいな人だけど、ミス舞原だってちゃんと知ってるんだよ」 分かって当然だというメアリベルの言葉に、絵奈はグルグルと思考を巡らせていく。 礼拝堂の扉を開ければ、そこには犯人が居る。 直接対峙する前に、メアリベルは問いかける。 絵奈は考える。 この学園の中にいる、犯人は一体誰なのか? 「さあ、犯人はだあれ?」 Thinking time Start!
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