読み終えた本を閉じて息をつく。途中何度も休みながらゆっくり読んできたはずなのに、一冊を読み終えるとやはり少し息が乱れる。 手の熱で温もった表紙を撫でながら目を落とす私に、ニコが沸かした紅茶を差し伸べてきた。 顔をあげる。目が合う。ニコはいつものようにふわふわと笑っていた。月のひかりによく似た両目が私を見つめている。私は思わず目をそらす。 「ありがとう」 お礼を言ってカップを受け取った。指先がニコの指に触れる。思わず飛び上がりそうになるのをがまんした。 「面白い話だったね。それで、その女の子はそれからどうしたんだろう。続きはあるの?」 ニコのやわらかな声が落ちてくる。私はカップの中の紅茶を口に運びながら、上目にニコの顔を盗み見た。 ニコの沸かした紅茶。ミルクとハチミツが多めに入った、甘くて優しい味がする。カップからのぼる湯気に目を細めて、私はなるべくニコと目を合わさないようにしながら、こっそりと彼の顔を見る。 私たちのものとは違う縦長の瞳。炎のように真赤な髪。村の男たちよりも高めの身長。いつも穏やかに笑っている。いつだって私の話をまっすぐに聞いてくれる。 紅茶を数口飲んだ後、私は返す。 「流行ってるのよ、この本。山向こうの街から来る移動図書室を待たないと、続きは読めないわ」 「山の向こうか。そういえばあの街には大きな図書館があったね。気になるなあ」 「気になるなら自分で行って借りてきたらいいでしょ。あんたなら山のひとつふたつ、あっという間に飛べちゃうんだから」 「君に読んでほしいんだよ、レノア。約束したじゃないか」 そう言って、ニコはふわりと笑う。私はあわててカップを口に運んだ。 ――そうね、約束だもの。 村の近くにある山の奥で竜が見つかった。慌てて山を下りてきた猟師がそれを伝えたとき、村のみんなはそれを疑った。竜なんかがいるわけがない。竜は神様の眷属なのだから、こんな辺鄙な山の中に住んでいるはずがない。そう言って笑った。 でも猟師は親子で揃って訴えた。本当に見たんだ、と。とても大きな竜だった、と。 みんな少しずつそれを信じるようになっていった。彼らは嘘をついたことなんかなかったし、第一、竜がいるなんて嘘をついたって、誰が得をするわけでもないんだから。 それから、村の年よりたちが集まって、何時間も話をしてた。さて、じゃあどうしたものか。きっとそんなことを話していたに違いない。 言い伝えによれば、竜っていうのは神様の御使いであって、でも別の言い伝えでは神様に牙を剥く魔王の手先だともいう。なんにしたって、人間なんかが勝てる相手じゃない。今はまだ村にも悪さをしてこないけど、突然明日にも村を襲ってくるかもしれない。 じゃあ、どうしたらいいか。 何時間も話し合ったあと、年よりたちは私を呼んでこう言った。 レノア、おまえが竜をなだめておいで。 私は当然断ったわ。冗談じゃない、そんな恐ろしいこと、出来るはずがない。だいたい、なんで私なの。 おまえには家族がいないじゃないか、レノア。 年よりたちはそう言って笑った。それで、私は涙ながらに山に送られた。 でも、山の中で会った竜は、あんな年よりたちなんかよりもずっと優しくて、無害で、――なにより、 ニコの顔を盗み見ていた私の視線に気がついたのか、ニコが私の顔を覗きこんできて首をかしげた。 ずっと遠くの街から時々巡行にくる役者なんかよりももっとずっと整った顔。落ち着いていて、透き通った水みたいな声。聞いているとするすると気持ちが解かれていく。 私はニコの顔を見つめて、紅茶の熱と一緒に浅い息を吐きだした。 「あんたはあの頃からなんにも変わらないのね」 出会ったとき、ニコは私よりも年上ぐらいの姿をしていた。でも今は、私のほうがニコよりも年上に見える。 十数年。ニコと出会ってそれだけの時間が経った。私は年をとり、ニコは出会ったときのまま。 カップを持つ自分の指先に目を落とす。もう若くない。 「君だってなんにも変わってないよ、レノア。あの頃のまま、ずっとかわいいまんまだ」 ニコが笑う。その手が私の髪を撫でた。おひさまに抱かれて気持ち良く眠る猫の気持ちがとてもわかる。私は目を閉じてニコの手のぬくもりを楽しんだ。 「その本ね」 「うん」 「女の子はその後、竜に会うんだって」 「へえ。どんな竜なんだろう」 「それはまだ分からないわ。私だってまだ読んでないんだもの」 「そりゃそうだね。続きが楽しみだなあ。サーカスっていうのも見てみたい」 「火のついた棒を上に投げてくるくるまわして、落ちてきた棒をキャッチしたりするのよ」 「危ないなー。やけどするじゃないか」 「あんたがそんな事言うなんて、なんかおかしいわね」 「あれ? そうかな」 不思議そうに首をひねるニコに、私は思わず声をだして笑った。 炎を吐く竜がやけどするから危ない、なんて。――ニコらしいわ。 「ねえ、君が知ってる竜の話を聞かせてよ」 紅茶を自分のカップに入れながらニコが言った。 「竜の話?」 「うん、そう。考えてみたらさ、僕、他の竜って見た事ないんだよね。君が読んでくれる本に時々出てくるじゃないか。いいやつだったり、悪いやつだったり」 「私も本で読んだぐらいのことしか知らないわ」 「このあいだ読んでくれた本には二匹の竜が出てきたね」 「白い竜と赤い竜の話?」 「うん。泉の中から出てきた石の箱の話。あれはどっちが悪いとかじゃなく、ただ戦ってるだけだったけど」 「あれはお話っていうか、伝説みたいなものよね」 「伝説かー」 言って、ニコはほおづえをして窓の外を見る。 ニコが私のために用意してくれた家。もともとは猟師が山の奥にまで来たときに使ってたものみたいだって、ニコは言っていた。でももうしばらく見てないから、もういらないんじゃないかって思って。のんびりと言いながら通してくれたその家は、私の目にはひどく古いものでもあった。 ――ニコにとってはきっと”ほんの少しの間”でも、私にはきっと”途方もなく長い間”。 ニコの横顔を見つめる。いつだって楽しそうに、幸せそうに笑っている彼の顔を見ていると、こっちまで幸せな気持ちになれる。 でも、私は絶対に言わない。きっと死ぬまで言わない。 私が人間である以上。そしてニコが人間とはちがう存在である以上。私たちの間にある時間はきっと違う速さで流れている。 私をニコのもとに遣わした年よりたちはみんなもう死んだ。人間は年をとって、そしていつか必ず死ぬものなのよ、ニコ。 ――だから、私はきっと言わない。死んだって言わないの。 「僕もいつか伝説になったりして」 そう言いながらこっちを向いて笑ったニコに、私もつられて笑った。 「あんたもいつか戦ったりするのかしら」 「どうだろう。けっこう強いかもしれないよ」 「どうかしら」 ニコが戦う姿なんか見たくない。あんたはいつだってそうやってのんびりかまえていればいいんだわ。誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたり。そんなの、ニコには似合わない。 ああ、でも、そうね。 私は空になったカップを手の中でいじりながら、いろいろな物語の中で描かれている竜のことを考えた。 人間のお姫様を護るために力をふるう、心の優しい竜の話。そういえばそんなのもあったはず。ニコがとても気に入って、何度も何度も読まされたのだわ。 ぼんやり思い出して、ニコが知らない誰かを護る、その姿を想像する。――胸が少しだけ痛んだ。 ねえ、ニコ。あんたは、もしも私が物語のお姫様になったなら、助けに来てくれるのかしら。 ニコは立ち上がって私に手を伸べる。 「もう一杯入れるよ。紅茶いれるのうまくなっただろ?」 おひさまのようにあたたかな。 「まあまあね。今の私にはもう少し甘すぎるわ」 「えー」 やわらかな月のひかりに、とてもよく似たこのぬくもりに、私はきっとあの瞬間からずっと惹かれているの。 ニコが紅茶を沸かしに椅子を立つ。その背中を見つめながら、私はかたちになる事のない言葉を紡ぐ。 「レノア、君は本当にかわいいね」 ニコが振り向いて笑う。私はわざとそっぽを向いた。 ――ううん、たぶんきっと。 あんたはきっと、私だけじゃなく誰のためにも平等に、その大きな翼を広げていくんだわ、どこまでも。 だから私は死んだって言わないの。 ずっとずっと、あんたにだけは秘密にするわ。
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