営舎の中に与えられた小さな部屋は薄暗く、光があまり差し込まない。必要最低限のものしか置いておらず殺風景だが、寝に帰るだけの部屋だ、不自由はない。 意識が薄らでいた間に運ばれたのだろう。右腕以外の四肢と羽の大部分を失った碧には自力で移動するすべがなかったとはいえ、奴に抱かれて運ばれたのだと考えると屈辱的だった。 固い寝台の上、疲労からくる睡魔。眠りの淵にいる碧は今にも引き込まれそうで、だが全身を襲う疼痛が辛うじて意識を繋ぎ止めていた――否、眠りに落ちて楽になることを許さなかった。 微睡みが記憶から引き出すのは父の声。 『あれに似てくれて、良かった』 母に似てよかったという父の声を覚えている。けれどもやっぱり、父に似たかった。強靭な皮膜の翼と鱗に覆われた竜の身体を持って生まれたかった――そうすれば、皆と誇りを持って戦って死ねたのに。 ヒトに飼われる碧は『戦士』だ。『父』でも『母』でもない。『父』や『母』のように『遺す』ことのできぬ碧ができることは少ない。ヒトに飼われることを余儀なくされている碧に出来るのは、『戦う』こと。『戦う』ことで己の誇りを守り、父との約束を守り続けている。 だから、身体が傷つくことなど瑣末なことだった。並外れた回復力を持つ『戦士』であれば、たいていの怪我はすぐに治る。 だが、四肢が落ちるとさすがに回復の速度は下がる。今回は右腕しか残らなかった。 寝台の傍に奴の気配を感じ、「5日は掛かる」とぶっきらぼうに告げたら、その日から奴はなぜかずっと碧の側にいた。羽の大部分を根こそぎ持って行かれた上、半身が使いものにならない以上、碧はおとなしくするしかなかった。だが奴までもが碧に付き合う必要はないのだ。碧が動けない以上、監視は必要ない。それでも奴は、碧のそばにいた。 「肉体の暴走は、死よりもおぞましい忌避すべき事態だ」 眠りの世界と現実世界、記憶の世界を行ったり来たりしながら碧がそれを口に出したのは、混濁する意識の中で昔見たものに出会ったからかもしれなかった。 『俺を糧とせよ、碧』 そう言い残してあの年嵩の『戦士』は姿を変えた。 節くれ立った羽、赤紫の水泡で膨れ上がった腕、赤い瘤が脈打つ皮膜、彼の身を苛む鱗。自我のない獣と成り果てた姿――。 忘れられない、否、忘れてはならない記憶。 あのままヒト共が現れなければ、碧もいつか彼のように、年若い『戦士』の糧となる道を歩んだのかもしれない。 それは、長じた者が若き者を育てる、いわば自然な流れ。 だが、その流れは鉛の船から現れたヒト共によって無残にも壊された。 碧たちは羽の付け根に独自の器官を持つ。身体の形状がヒトに近ければ近いほど、肉体は殻を破るように変質してしまう。隙あれば、変質しようとする。それを抑える物質を分泌する部位に施す薬を、ヒトは作り出した。『父』達が唱える、異形化を抑える呪の代わりになる薬。『父』達の呪に比べれば効力は微々たるものであるため、定期的にその器官に薬を差し入れる必要があった。 特に戦いの後。高揚した気持ちが変質を促さないために。 そして怪我をした時。肉体の変質が脳に及ぶ影響を抑えるために。 今回の碧のように大幅な欠損があった場合、大量の投薬が必要だった。 肉体と脳の変質は連動する。とっくにその徴候は現れていた。 朦朧とする意識に感情がかき乱されるような感覚。 「なぜそばにいる。監視などせずとも逃げられぬのは見て分かるだろう?」 奴は答えない。ただ、そばにいるだけ。 『父』のような、それこそ『竜』と呼ばれるに相応しい威容。そこに達して初めて、私達は種として正しい、そういうことだろう。 想い、渦巻く。何もかもが入り混じり、狂ったように碧のなかを渦巻き、かき乱していく。 自分が狂いそうになっているのがわかるから、けれどもどうしようもないのがもどかしくて。唯一残った右手で、身体にかけられた毛羽立った毛布を剥いで投げ捨てることしか出来ない。子どもじみた行動だ。けれどもそうして、黄ばんだシーツを握りしめて皺を残すことくらいしか出来ない自分が悲しい。 「私は出来損ないだ」 絞りだすように告げる。 今にも狂いそうな意識と感情の間で、気がつけばそう零していた。自由に身動きの取れない今、動かせるのは口くらいだったからかもしれない。 「私は『父』のように雄々しくもなければ威厳もない。『母』のように覚悟を持って命を遺すこともできない」 ずっと、『戦士』としての誇りを持つことで抑えてきた、コンプレックスを帯びた感情がうねりとなって言葉に姿を変える。 ヒトが碧の住む世界を壊さなければ、こんな思いを抱くことはなかっただろうか? 親を盾にされてヒトに従わざるをえない状況にならなければ、こんな風に思うことはなかっただろうか? 屈辱的な扱いを受けてもヒトに従わざるをえない状況でなければ、碧は『戦士』としての誇りだけを胸に生きてゆけただろうか? 「薬がなければ変質を抑えることも出来ず、こうして無様な姿をおまえ達『ヒト』の前に晒すことしか出来ない」 目と鼻の奥が厚い。何かがせり上がってこようとしている。『それ』を奴の前で外にだすことはできない、それが碧の挟持。 「おまえらにいいように使われるしか出来ない。勝手に修復するていの良い道具だ。おまえらは『リュウ』の個を認めない。お前らにとってはただの道具でしかないのだろう。この言葉はこういう時に使うのだろう、『人でなし』!」 せり上がってくるものを無理やり抑えこもうとしながら、感情渦巻くままに言葉を吐き捨てる。罵る。 これではやっていることが『ヒト』と同じではないか――そんな冷静な気持ちもあった気がしたけれど、狂う寸前の碧にはそれを認識する余裕はなかった。 「私は出来損ないだ。そして貴様等ヒトは――その出来損ないにも劣るゴミだ」 狂うまいと理性が抗う。けれどもその奔流は碧のなけなしの理性すらも飲み込もうとしている。 (ヒトは父らと私達を引き離し、変質を抑える術を暴き立て、私たちの幽かな尊厳を盾にする) 感情に任せて拳を寝台に叩きつける。無事な右腕を下にするようにして横になっていたからさほど力は入らなかったが、安物の寝台は隣り合っていた小机に振動を伝え、ころころといつからか置きっぱなしのゆでたまごを寝台の上へと落とした。丁度、右手の届く位置だった。 「――ッ!」 黙ってそばにいる奴は一言も発しない。碧の言葉を聞いているのか――それとも碧の言葉は自分が思っているようにきちんと発せられているのかがわからなかった。苛立ちを紛らわすために掴んだゆでたまごを奴に向かって投げつけた。 身体の下にある右腕にはそれほど力が入らない。だが奴とは数メートルも離れていなかった。 ガッ 鈍い音を立てて殻にヒビを入れたゆでたまごが木の床に落ちる。奴は避けなかった。避けようと思えば簡単に避けられたのに。それが、更に碧の癇に障った。 だが、奴は、碧の側にいることはやめようとしなかった。 *-*-* 寝台の上にうつ伏せで寝かされた。奴の手に頼らなければならないという屈辱が、碧を陥りかけた狂気から引き戻す。出来損ない以下のゴミだと己が称した種である男に、どうしてこんな無防備な姿を晒せるのか、自分でもわからない。 自分で動くことが出来ないから仕方なく? 生き残るための本能が従ってる? それこそ言い訳じゃないのか、ぐるぐると思考が渦を巻いて自分を納得させる答えを得ようともがいている。 キュポッ 静かな部屋に甲高い音。 続いて碧が認識したのは、羽の付け根に冷たい感触。声はかろうじて抑えたが、身体が少し動いてしまった。 とろりとろりと『器官』に差し入れられていく琥珀色の液体。ひんやりとしてややとろっとしたものが身体から熱を奪う。 「っはぁ……」 思わず息を、つく。 先ほど熱を奪っていった液体はすぐさま奪っていった以上の熱をもって碧を刺激する。背を這い上がるような熱は脳まで達すると、感覚をあやふやにしていく。 「っ……」 けれども続けて差し入れられる琥珀色の液体は、最初は冷たい。冷たさと熱さの間で、碧は翻弄される。 欠損が多い分、投薬の量は増す。変質を防ぐためだ。硝子の小瓶一本分の量では、今の状態の碧には到底足りないのだ。 「くっ……」 右手の指でシーツを握りしめる。 カラン……倒れた小瓶が床を転がる音が聞こえた。 力任せに握りしめたシーツは、めちゃくちゃに指に絡んでいる。けれども強く締め付けられている指だけが、正気を保っているような気がしてそのままにしていた。 何本分の琥珀色の液体を差し入れられたのだろうか。途中までは数えていた気がするが、そのうちわからなくなった。熱が全身を蝕み、意識を曇らせる。 サラ……サラ……。 かすかな音が自分の髪の立てる音だとようやく気づいて、そして投薬が終わったのだと知った。 髪を撫でるのは奴の……緋温の指先、緋温の掌。 いたわるように、気遣うように碧の銀色の髪を滑っていくその手。そう感じるのは碧の思い込みだろうか。 (……相変わらず、変わった奴だ……) うつ伏せのまま首を巡らせても緋温の顔ははっきりとは見えなくて。代わりに支給のジャケットを脱いだ下、袖なしのシャツから覗く健康的に焼いた、筋肉質の腕だけが見えた。 緋温は他のヒトのように碧を『リュウ』と呼ばない。『リュウ』を個体で認識し、『碧』と名を呼ぶ。 だからだ、きっと。ヒトに優しくされているなどと感じるのは。 (どうしてあんなことを話してしまったのか……) 自分の裡に思いを馳せて、答えを得ようとする。だが薬が回ってきたのだろう、考えがまとまらない。 サラリ、サラリと緋温が髪を撫でる音とその感触だけに、意識が支配されていく。 それまで感じていた疼痛はいつの間にか消えていた。薬が効いてきたのだろう。 こうなると、意識を刈り取ろうとする睡魔に弱った身体が逆らうすべはなくなる。 「ひ……」 自分が何を言おうとしたのかわからなかった。 それがちゃんと言葉になっているという確証もなかった。 意識が混濁して、朦朧として、まもなく刈り取られるだろうことが分かる。 そうなる前に……碧は精一杯首を巡らせて、視線を上げた。 緋温の赤い瞳は、初めて逢った時よりも少し優しい色をしているように見えた。 「――――――」 何か、小さな呟きが聞こえた気がした。 けれどもそれは、碧の耳には届いたが脳が認識するには至らなかった。 いつの間にか鉛のようになった瞼はおりていて、すう……と何かに引きこまれていく感覚。 髪を撫でるその一定のリズムが、眠りへと引きこむ魔の手を助けていた。 次に起きたら、今度こそ貴様の手を借りず、もっと上手くやってみせる。 かろうじてそう思ったことは覚えている。けれどもそれを言葉に出来たかどうかは碧にもわからない。 確かめるすべも、確かめる気力も、もう、なかったから。 全ては眠りの淵に沈む。 眠りは回復を促すために必要だ。 けれども碧が意識を手放した後も彼女の髪を撫でる手は止まらなかった。 それになんの意味があるのか、碧は、知らない――。 【了】
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