割れるような歓声と怒号が、一二千志の鼓膜を震わす。 空気には汗と血の混じった匂いがじっとりと溶け込んでおり、ひどく暑い。 階段状の観客席には群衆がひしめくようにしていた。0世界の常としてその姿はさまざまだが、皆一様に血の気が多いと見える。熱狂に声を張り上げ、拳を振り上げているものばかりだからだ。 かれらが注目しているのは言うまでもなく会場の中心――ざらつく照明のすべてが集中している場所だ。 鉄の檻で隔てられた四角い空間に、ふたりの人間がいた。 千志はその片方へ目を凝らす。 人狼公リオードル。 気取ったフロックコートもクラバットもなく、汗と埃にまみれた肉体を晒して、男はそこに立っている。 彼が挑発するような振る舞いを見せ、試合相手らしい巨漢――なめし革のような皮膚に、ごつごつした棘や角をもつ大鬼(オウガ)のようなツーリストだ――が襲い掛かってくる。 両者がぶつかりあう音が千志のいる最後列まで聞こえてきた。遠目にも、リオードルが不敵な笑みを浮かべているのがわかる。 オウガは体格に勝り、見るからに怪力だったが、重鈍だった。リオードルは岩のような拳に殴られ、切り傷をつくって激しく流血したが、傷口はすぐさま治癒するため、鍛えられた肉体を紅く飾ったに過ぎない。 しだいにリオードルが圧してゆき、たて続けに突きと蹴りとが決まって、巨漢が沈む。 わっと会場が沸いた。 鎖が軋む音がして、檻が天井へ吊り上げられてゆく。 担架がきたが巨漢をどう運ぼうか係りが苦心している傍らで、リオードルは諸手をあげて歓声に応えた。 誰かが差し入れた酒瓶を受け取り、牙でコルクを抜く。 ふと、視線が合った。 リオードルは千志に気付いたようだ。喇叭呑みに口をつける前に、ボトルをわずかに掲げて見せたから。 *「お待たせしました、一二千志さま」 千志が人狼公の城を訪れたとき、珍しくもロック・ラカンは留守であった。 やがて別の使用人があらわれて城主もまた不在だと告げる。 ならば、と辞そうとしたとき、一通の封筒を渡された。「もしいらしたらお渡しするようにと」 まるで来るのを予期していたようだ。千志は目をしばたきながら、それを受け取る。中には地図と道順が入っていた。 先般―― 世界樹調査隊で、千志はリオードルに乞われその傍にいた。 だが内心の目的は、リオードルを止めることだったのだ。 人狼公の称号で呼ばれるこの男が、非常な野心家であることは論を待たない。当座の目的がナラゴニアの支配であることを隠そうともしないリオードルを巡って、暫定政権のユリエスとの間では対立があり、それがナラゴニアの政情不安へと繋がっている。 だがこの男の望みの先はそれにとどまらないだろうという予測が千志にはあった。 ナラゴニアのみならず、ターミナル含む0世界すべてが、そのための争いに巻き込まれるおそれがある。だから、リオードルが世界樹の力を得るのは避けなければならないと考えたのだ。 結果、世界樹内部の奥地で、ふたりはやりあうことになったのだが……。 考えは変わらないとして、あの場でのふるまい、やり方については、謝るべきではないか――千志はそう思っていた。 やがて、導かれた先はナラゴニアの下層。 門番に、じろりとねめつけられながら、開かれた扉をのぞきこむと、地下へ下る階段の先から歓声が漏れてきている。 *「俺に賭けたか?」 リオードルは訊ねた。「あ、いや――」「なんだ、勝てたのに。つまらんやつだな」 そこは、あの地下闘技場に近い酒場だった。 低い天井に吊るされたランタンの灯りはひどく暗い。それもそのはず、店を切り盛りしているのは黒眼鏡で目を保護したモグラの獣人たちだった。 リオードルと千志はカウンターに並んでかけたが、天井は低いしスツールは小さいしで、ほとんど屈むような格好になった。 石壁に貼られたメニューは、ひどく庶民的なものだ。テーブルを埋めているのも、闘技場の客と同様、裕福な身なりにはとても見えない連中ばかりだ。目にしみるほどの煙草の煙が充満している。「こういうところへも来るのか」「なかなかうまいぞ。天井が低いことには閉口するが」 リオードルの前に七厘が置かれた。 網の上で、正体不明の内臓肉がじゅうじゅうと脂をしたたらせながら炭火で焼かれていた。「……で」「……。その――。このまえのことなんだが。謝りたい。やり方がよくなかった」「そうか。許す。……俺も謝るべきだな。俺のやり方はいつもよくないからな。まあ、それは知っててやっているわけだが」 とぷとぷとぷ、と濁った酒を手酌で注ぎながら、リオードルは言った。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>一二 千志(chtc5161)=========
「体調は大丈夫なのか」 千志が訊ねる。 七厘のうえで焼けてゆく肉の脂肪がもうもうと立てる煙の向こうで、リオードルはぐい、と杯を呷った。 「問題はないようだな。今のところは」 「……不安だな。あんたに何かあれば困るやつが沢山いるだろうと」 「それはそうだろうな。呑まんのか?」 銚子を差し出す。 千志は杯でそれを受けはしたが、 「あまり強くない」 と付け加えた。 酒はカッと喉を灼く。風味は良いが調子に乗って飲みすぎると危険そうな味だった。 「そうか。じゃあ何か食うか」 そう言ってリオードルは店のものを呼ぶ。 茹でた腸詰に、山わさびを添えた薄切りのローストビーフ。こんがりと良い色に焼いた骨つきターキー。そして肉刺し。肉類ばかりが狭いカウンターに並んだ。 「ひとつ聞きたい」 まずは肉刺し。霜降りの良い肉はくさみもなく、口に運べばやわらかに溶けた。 「ナラゴニアを完全に支配したとして」 「うむ」 「その後はどうする」 「そうだな」 リオードルはみしり、とターキーを齧った。 「まだ決めてはいない」 「……」 金の瞳が、じろり、と千志を見た。 「おまえの考えていることはわかるぞ。ターミナルを支配しようとするのではないか――そう思っているな」 「……違うのか」 「さァて、どうしたものか。それも選択肢のひとつであることは事実だな。……そう怖い顔をするな」 気色ばんだ千志をなだめるように笑った。 「だが一筋縄でいかないこともわかっているぞ。世界樹の力をもってしても、ターミナルを落とすことはできなかったのだ。俺もそこまで馬鹿ではない。かといって絡め手は苦手だからな。図書館の女たちは手ごわい」 「何故なんだ。何のためにそこまで権力をもとめる」 「それは少し違うぞ。……そうだな、二人の人間がいると思え。一人は木登りが得意だ。もう一人は釣竿をもっており釣りが得意だ。二人とも腹が減っていて、目の前に果物のなっている木と魚のいる川がある。どうすればいい?」 「木登りができるやつが果物をとり、釣竿を持っているほうが魚を釣る?」 「そのとおりだ。無理して逆の役割を担うことはなかろう。俺は釣竿を持っているから魚を釣ろうとしているに過ぎん。俺は王族に生まれた。おまえの世界に王はいたか?」 「王とか貴族といったものがいる世界ではなかった。だが人間は平等じゃなかった」 われ知らず、拳を握り込んでしまう。 「俺の――俺たちのような、他と違うものたちは、虐げられていた……」 「戦ったか?」 「戦える力を持たないものもいた。力あるものの争いに巻き込まれ、底辺で隠れるように暮らすしかなかったんだ」 「ふむ」 「隠れていればいいなんてものでもなかった。あたりまえの幸福さえ、奪われていたんだから――」 つい、声が荒くなる。 救急車のサイレン――焦りを含んだ、救命士の無線。まだ小さい千志に、詳細は理解できなかったが、必死に握り締めた両親の手から命が零れて落ちていこうとすることだけは、残酷なほどまざまざと伝わってきたのだ。 それは千志が、自分たちはこの社会に厳然として拒絶されているという冷たい事実を突きつけられた日。 両親の命日となった日のことだ。 あの世界のありようが、もう少し違っていたら。 せめてターミナルのようであったなら、両親は生きていた。いつかメイムで見た夢のように、違う未来へ歩むことができていたはずだ。そうであったなら、彼ともまた、あのような出会い方と別れ方をすることもなかっただろう。 とっ、とっ、とっ――、と。気づけば酒を注がれている。 「俺は、もう……」 断ろうとしたが、何も言わないリオードルに気圧されでもしたように、千志は杯に口をつけていた。 呑んでみれば、酒はたしかに、千志を慰めてくれるような気がした。 熱燗が、じわりと胸に沁みてゆく。 「ターミナルが理想の世界だとはとても言えない。けど、力のないものも平穏に暮らすことができる。俺はそれが……それだけは守りたい。だから誰がどんな理由であれ、ターミナルを戦乱に巻き込むなら許してはおけない」 「俺は釣竿を持っているから魚を釣るのだと言ったな。釣りが好きだということは否定はせん。だが腹が減っていなければ魚を釣る必要はない。なるほど、おまえの言うように、ターミナルがその民にとって良い国であるなら、俺はむやみにぶんどろうとはせぬよ。0世界では領地がなければ餓えるというものでもないからな。俺がナラゴニアの王たらんとするのはそうすることが今よりもナラゴニアの民にとって幸福な国にできると思うからだ」 「だがそれを武力によってなしとげようとしている。刃向かうものにも容赦はしないだろう」 世界樹の聖域で、ユリエスたちに一片の慈悲もみせず排除しようとしたことを、千志は思い起こした。 「手厳しいな。俺にとってそれがいちばん手っ取り早いからだな。信じぬかもしれんが、俺は誰かれ構わず傷つけるつもりはないのだぞ。しかしユリエスやノラにナラゴニアを任せることはできん。それなのに、ユリエスは言っても聞かん男だ。力でしか解決できないことも時にはあるのだ」 「それは……っ」 続く言葉がうまく出てこなくて、千志はがしがしと頭を掻いた。 リオードルの言っていることはわかる。0世界にはさまざまな世界群からやってきた、まったく異なるものたちが共存している。それをまとめていくことがいかに大変なことか。 だが……それはそれとして、どうしても千志はリオードルの言動に危うさを感じてしまう。 そのもやもやを、うまく言葉にできない。 苛立ちをぶつけるように、ガッ、と腸詰をフォークで刺し、頬張った。 燻製された肉が絶妙な風合いで、旨い。料理は旨いが、言いたいことを言えない気持ちはつのる。 煮込みのボウルが運ばれてきた。 リオードルはうまそうに掻き込んでいる。いったいこの男は野菜は食べないのだろうか。 「ほかの――」 千志は言った。 「ほかのやり方だって、あるはずだ」 「あるだろうな」 ローストビーフを、何切れもまとめて、がっつりと口へ運びながら、リオードルは応えた。 「だが俺にはこの方法が性に合っているのだ」 「でも!」 それは駄目だ。……そんな言葉が喉元までせりあがったが、リオードルと目が合って、思わず口を閉じる。なのに、なぜだか言わなかった言葉を聞かれた気がした。リオードルが、なぜ駄目なのだ、と問うているようだ。 なぜ駄目なのか。それは…… 「いつか……」 「うん?」 「いつか、それじゃ……そんなやり方だと……必ず、きっと……駄目だ、いつか……」 「……。おい。おまえ」 リオードルは言った。 「酔っているのか?」 「違――……っ!!」 勢いよく立ち上がった。 すると思いっきり、低い天井に吊られているランプで頭を打った。目の前に星が散る。 ぐわんぐわんとランプが揺れて、店中に影法師が踊る中、千志は痛む頭を抱えてしゃがみこんでいた。 リオードルが大声で笑った。 「気をつけろ。大丈夫か?」 がっし、と、千志の右手が、リオードルの膝を掴む。 次に左手が、ベルトを掴む。 今度は右手がベストに手をかけた。 「あんたが……」 地底から這い上がってくるようにして、千志は身を起こし、ゆらり、と顔をあげた。 上目づかいに、リオードルを見遣る。 「心配だ。力あるものが暴走したら……いつか、自分自身を滅ぼすものだから……」 あのとき―― 容赦なく千志に向かって光弾を放ってきた、かつての親友の眼差しを、千志は忘れない。あれは力に憑かれたものの目だった。なまじ戦う力を持っていたから、彼はそれを振るうことに決めた。最初は理想のために振るわれていた力は、いつしかそれ自体が目的化していったのだろう。敵とみなしたものに、問答無用でぶつけられる破壊衝動になっていったのだ。だから、千志は、彼を――。 みずからが手にかけた友の身体を、抱きとめた重さ。 流れる血の熱さと――やがて冷えていった体温のこと。幼い千志が握り締めていた両親の手のように。 (ああ、そうか) ぐるぐると、天井が回っていた。 リオードルが千志のぞきこんでいる。 彼は幻視した。 それは酩酊の見せた夢か。あるいはいつかありえるかもしれない未来の記憶か。 くすぶる黒煙がそこかしこから立ち上るターミナル。がれきの中に立つ千志と――リオードル。 (俺は、それを畏れているのか……?) いつかこの男と戦わざるを得なくなるかもしれないことを。 コロッセオの試合などとは違い、血まみれの死闘。その先にどちらかの最期しかない殺し合いを。 戦うこと、それ自体が怖いのではない。 (俺は、厭なんだ) 力なく倒れた元の身体を抱きとめた。 血に濡れたその顔が、夢の中ではリオードルのそれにかわった。 「友達、だったんだ……」 「ほら、水だ。飲め」 冷水が流し込まれたが、ほとんど口の端から零れて流れ落ちる。 「あいつは……友達だった。それなのに……」 「そうか」 「……もう、喪いたくない」 「そうか。わかった」 ぐんにゃりと倒れた千志の背を、リオードルの大きな手が撫ぜていた。 * 「……!」 飛び起きた。 自室ではない。異常にふかふかしたベッドだ。豪華な調度の部屋。 「まさか」 痛む頭のなかに、昨晩の記憶が断片的に甦る。 ベッドサイドに、メモ書きを見つけた。 気分はどうだ? そんなに弱いと知っていたら呑ませなかった。すまん。 所用があるので出掛けるが、朝飯でも食って行ってくれ。 ロックに言えば用意してくれるだろう。 それから。 今日から「人狼公におんぶをさせた男」と名乗ってもいいぞ。 ――リオードル 「~~~~~」 声にならない呻きを、千志はあげるのだった。 (了)
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