雨水が涙を洗い流す。 インヤンガイの空は澄み渡り晴れていた。じきに風が吹かれて舞い上がるであろう埃と煙は、まだ蒼穹を汚していない。 たっぷりと日光を浴びて、コケは大きく息を吸った。「インヤンガイ、こんなにきれい。空」 彼女の戦いはこれからだ。 プラットホームにでると一人の探偵が待っていた。名をメイと名乗った。「あんたネ。死に損ないのお嫁サンとやらは」 コケはこくりうなずいた。「……フェイ。ひどいことに。だから」「そう、あなたは良かったじゃない。モゥは死んだヨ」 コケの反応を待たずにメイは勝手に歩き出した。扇子を広げ、日差しから顔を守る。「うっとうしい太陽ネ」 メイが案内した先は、薄汚い集合住宅だった。壁には卑猥な落書きがある。目的地はここの地下だ。 ここは鳳凰連合のアジトの一つがあるという。 コケは不愉快な好奇の視線を感じた。 建物の入り口でたむろしていた孩子たちはメイにガンつけられるとすぐに道をあける。 中に入るとひんやりとしている。玄関から先程まで水たまりが広がっていて、まだ乾いていない。 回廊を曲がり、やたら音の響く階段を降り、鉄の扉を開ける。 冷気ともつかぬ悪寒が奥から這い出てきた。太陽の恩恵は届かず、湿気が流れ込んできていて寒い。 玄室の中は、ほのかに明るかった。 じじじとランプが揺らめく。 そして、粗末な寝台には、見間違えようがない人が横たわっていた。 フェイ。 コケの伴侶、フェイ。 かつて暗殺者で、探偵となって、 この世のものならざる麻薬に体を蝕まれ、黴に冒され、 暗殺者に戻り、そして、片目と心臓を失い、人間と呼ぶには厳しい。 しかし、もはや息をしなくともその呪われた命は尽きたわけでは無かった。 コケにはわかる。「辛気くさい部屋ネ。リョンさん。連れてきたヨ」「ご苦労さん。駄賃はずんでやるからいいもん食ってこい」 ふと気がつくとフェイの寝台の向こうの椅子には一人の老人が座っていた。「リョン?」 コケは警戒した。「おう、よく知っているな。こわーいマフィアだぜ。ついでにそこのフェイの飼い主をやってんたんだ」 リョンと名乗った老人は、鳳凰連合の幹部、相談役である。フェイがカルナバルの賞品となったとき、コケも鳳凰連合としてフェイのために戦った。リョンはその時に応援要請を世界図書館に出している。 そして、カルナバルが終わってからもフェイに強く関わっていた。「森間野・ロイ・コケ、な。なんでぇ、かわいいじゃねーか。それがこいつにはどうでも良くなったのかよねぇ。ったくよ」 リョンとフェイはフェイが探偵となる前からも縁があると知れた。 そして、当然のように使い潰された。 コケは頬は濡れそぼっていた。「違う、違う。こいつはとっくに潰れていたのさ。最初っから妹妹と半端モンだわ」 ここに来ても聞かされるのはキサのことばかり。「だがな、俺はな、ちったぁてめぇに期待したんだよ」「フェイ、かわいそう」「かわいそうか、ああ、そうだな、かわいそうな奴だ。インヤンガイはかわいそうな奴ばかりよ」 不愉快な笑い声だ。 今もなお黴はフェイの体を食い荒らし、今度こそ本当の死が訪れようとしている。「そういや。フェイはまだ死んでないんだったな」 リョンは懐から金属塊を取り出し、ごとりと寝台脇の机子の上に置いた。その装置には4つの穴が開いており、ぴったりとしたふたを開けると、中に2本の螺旋状のスクリューが互いにせめぎ合うように収まっていた。「これは?」「これはリショルム式人工心臓、シュクタン假手工業の新品だ。ハオ家の禁呪じゃねぇし、呪具ではない。これをフェイの欠損した胸に埋め込めば、失われた心臓の代わりに動き出す。これでどれだけ寿命を延ばせるかはわからなんがね、伸びたところで苦痛を長引かせるだけだろう」 キサを追いかけて力及ばず倒れた。 世界計の破片という流星がインヤンガイに降った日。世界図書館から連絡を受けたフェイはいてもたってもいられず飛び出し、黒耀重工の手にかかった。「わかっている。黒耀重工はコレを改造してフェイに使った。人ンちの者に手を出したんだやつらには落とし前をつけさせる。フェイは、鳳凰連合のためによく働いてくれたからな」 リョンは膝を払って立ち上がった。「だが、コレがフェイに適合するのも事実だ」 扉に手をかけ、振り返る。「正直を言うと俺にはフェイにはまだ次の輪廻に向かって欲しくない。業を抱えすぎだ。だからお前はフェイが死ぬまでそばにいてやってくれ。それともそれが使いたくなったら上がってこい」 コケは伴侶の口元に耳を寄せた。 ……キサは行ってしまった……しにたい…… コケの伴侶が執着していたキサは世界計とともに去って行った。いまここには、コケしかいない。 ……助けて、キサ……キサがいないとどうすればいいのかわからない、たすけて、たけすて、キサ、キサ 沉痛鬼――は狡猾 どこまで逃げても追いかけてくる。 销魂狼――は鼻が利く どこに隠れても見つけ出す。 寂寥狐――はあさましい あなたと共にいる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>森間野・ ロイ・コケ(cryt6100)
言いたいことだけ言い残すと、リョンは出て行ってしまった。 扉が閉まり、階段を上る足音が遠ざかっていく。 ――コケ、我侭ばかり……フェイの辛い事、きっと増えるのに、それでも生きてほしいと思ってる。 フェイの弱々しい息づかいが苦しそうで、コケはフェイの手を握った。 手は、焦げ目が付いてがさがさしていた。それなのにがさがさの一つ下はぬめっとしていて、かさぶたの割れ目から粘度の高い液体がしみ出ている。 その感触にぎょっとし手を離してしまいそうになったが、押さえ込んだ。 こんな姿になってもコケにとっては大切な人なのだ。一瞬の躊躇を見透かされたのではないのかと恐怖する。 両手で包み込むように手を握ると、樹の皮のような皮膚の奥からじんわりと熱が伝わってきた。 ――フェイ、初めは面白い男の人だと思った。 大昔に自らの炎で火傷したフェイの手を握ったことを思い出した。 ――妹思いな所が信頼出来た。 あの頃は、インヤンガイも……ここまで混沌とはしていなかった。フェイはまだ探偵で、下らない事件に巻き込まれ、そして、あの底抜けに明るいキサもまだ生きていた。 ――だから気になってた「デート」をしてもらって、 ――優しい面を知って好きになって、 ――脆い面も知ってもっと好きになった 橙のランプに照らされたフェイの寝顔は、影が深く苦悶に満ちている。夢を見ているのかもしれないが、コケにはうかがい知れなかった。 インヤンガイは甘い魂にやさしくない。 リョンはそう言うが、フェイに次から次へと襲いかかってきた厄災はどれも外の世界からもたらされたものだ。それに逃れようのない責任を感じる。 どれもこれもほんのわずかな期間に起きたことだ。会っていなかったのはほんの半年程度だ。しかし、それは運命を転げ落とすのに十分なだけの時間であった。 追想は蠅の羽音に中断させられた。 フェイにたからないように、はらう。 ――キサの事も過去も、深く触れるとまた傷つくかもって、 ――黙ってたせいで何もしてあげられなかった。 ――なのにキサの事、羨ましく思うことまであって……、 ――コケのせいで危険にも晒して、家族失格だと思った。 ――でも家族って迷惑かけたりかけられたり、喧嘩するのが普通、 ――コケ、自分で壁作ってた。 ……ごめん、フェイ 「フェイに生きていて欲しい。対価が必要なら、何でもあげる」 対価とは便利な言葉である。ときに支払いようがない負債を積まれた身の上では。 対価として誰でも持っている魂を指定してくれるほど、インヤンガイは親切ではない。 † 憂鬱な階段を登るとリョンが待っていた。 「リョン、コケの大切なフェイに心臓をください」 「そうか……医者を呼ぶ」 リョンは部下の者に指図をする。そして、コケの顔をじっと見つめた。老人は厳しくも愁いを帯びている。 何度も失敗する若者を見送った目だ。コケにも、この要求がリョンの本意に反していることはわかる。だが、わがままであったとしても通したい想いがあるのだ。 我慢比べはリョンが手短に終わらせた。視線を降ろし、小さくほほえむ。 「なにしてんだ。早くフェイのところに戻ってやれよ。あいつはどうしようもない寂しがり屋なんだ」 コケがフェイの手を握ったまま、手術は始まった。 それから虚ろな胸に人工心臓を埋め込むまでの手術が終わるまでは生きた心地がしなかった。劣悪な環境での施術。「手遅れでした」と言われる気がして、仕方が無かった。 しかし、コケの願いは皮肉にもこのインヤンガイの天に届いた。 起き上がったフェイにほっと息をつき、とっておきの優しい言葉をかけようとする。 「フェイ……帰ってきて良かった」 「私は……」 と、フェイの両手から静かに煙が立ちのぼり、やがて炎がついた。 とっさに手術中に漏れた薬液と体液の捨てられていたバケツをひっくり返して、火にかける。 薬を炊き込んだ嫌な臭いが部屋に立ちこめ、コケは服が濡れるままにだきついた。 「フェイ!」 「私は……」 フェイの顔は苦悶と後悔に満ちあふれていた。 苦痛が感染したか、コケの目から自然に涙が溢れてくる。 こうなる直前、フェイは転生したキサの脳髄を掘り起こして世界計のかけらに手を伸ばしたという。 フェイのひび割れた手にはその記憶が残っているはずだ。あまりに酷な報告書だった。 「コケいなかったの悪かった。ごめん。でも、大丈夫、キサは生きている」 キサは世界計のかけらを宿したまま逃亡した。図書館は放置しないだろうし、ひどいこともしないはずだ。コケはその事実の中から希望だけをより分けた。 激情が収まるとフェイは、目を半開きにしたまま貝のようになっていた。茫洋と壁を見つめる。 コケの頬には涙に混ざった血とタールがべったりとこびりついていた。 「……コケ、フェイを幸せにしたかった。汚い事、沢山してきたとしても生きてていいんだよ、って沢山許したかった。フェイが本当に望んでいる事かはわからない。でも、キサの代わりにはなれないけど、フェイに家族をあげたくて、家族になりたくて、家族と思ってほしかった。けど沢山迷惑かけた」 コケの耳元でかすれた声が響いた。 「……迷惑……じゃない」 † 生きながらえたフェイは廃人と言って良かった。 つらい現実に目を背け、内へとこもってしまっている。かつてのキサが生きていれば、フェイを叱責して立ち直らせることができたのかも知れないが、その彼女はもういない。 転生だという赤子も、定かならぬ運命の渦のままにフェイの前から去ってしまった。 今、フェイに残されているのは枯れ木のような体と、赤い忌み目だけだ。 だが、その枯れ木は溜まった淀みのために、燃え上がることすらできない。 進行する腐敗。 それから、コケとフェイは奇妙な暮らしをすることになった。 リョンの用意したヤサは、ごろつき達が占有実績を作るためにたむろっている集合住宅の一角で、死体然としたフェイを運び込んだのは地上げの一環であった。 食事をとることができないフェイには点滴をつなげて肉体に無理やりに栄養を与える処置がリョンによってとられた。 鳳凰連合はそうして死んだことになっているフェイを利用しているが、そういった裏事情はコケにとっては何ら関係のないことであった。 一方のコケは食事をする暇すら惜しんで断食をしている。日光が当たっているのでさほどつらくない。むしろ、一人で味のしない食事をとる方が堪える。 最初のうちは、暇をもてあましたごろつき達が買い出しついでに差し入れをくれていたが、コケが手をつけないところを見るとやがてかまわなくなった。 そして、コケはずっとフェイのそばで時を過ごすことができた。 最初のうちは車いすを押して散歩もしたが、フェイを恨んでいる者もいるであろうことに思い立ってからは自粛している。 かわりにコケは花を咲かせては部屋に飾った。 日にちは数えていない。 ただ、ときおり、ごろつき達の面子が代わったりもしてそれなりの日々が過ぎたのはわかった。 日の良く差す窓際にフェイのベッドを動かした。 ある日、コケは暗殺に思い至った。 そうしたらより深くフェイを理解することができると考えたからだ。そのために毒を作り出すことも身につけている。 フェイの抜けた穴を埋められるかはわからないが、リョンに連絡すれば手頃な標的を教えてくれるだろう。 部屋の電話を取ろうとしたら、フェイが起き上がっていた。 「なにをしているの?」 「コケ、暗殺する。フェイのかわりに!」 「……あなたがそんなことをして誰が喜ぶの?」 「フェイの汚いところも……全部受け止めるために成長する」 「まだ、そんなことを……あなたはあなたを大切に思う人たちのことを考えたほうがいい。そんなことをしても私は少しも嬉しくない」 「コケの大切な人はフェイ。フェイ、コケに迷惑かけてほしい。怒ってほしい。頼ってほしい。互いに、そうしながら生きていきたい」 フェイは虚ろな目をコケに向ける。赤い瞳は、濁っていた。 「……生きてほしい。辛い時は、コケを恨んでいいよ」 「どうしてあなたを恨むの?」 「死ぬまで一緒じゃなくて、今度は一緒に生きるために、一秒一秒過ごしたい。でもフェイはそれがいや。コケのわがまま」 強い日差しが床に反射する。 「私は、キサを殺した。母も殺して、父も……いつも間違えるから失う。自分で自分の大切なものを破壊してしまった……だからあなたに感謝している。だって、あの子が感じた痛みはこんなものではなかったから、こうしているのは罰だから……今までいろんなものを奪ってきた。この眼のためだと言い訳して自分のしてきたことから目を逸らし続けてきた、だからこうして死ねて、幸せ」 「フェイ。コケ、フェイのためならなんでもするから。生きて」 「私のために何でもするなら、このまま死なせて……欲しい」 コケが頑迷さを見せると、フェイはかぶりを振って床に戻った。 「それがあなたの答えなら、あなたがしたいようにすればいい」 そして、拗ねるように体ごと顔を背けた。 「本当にありがとう。こうして死なせてくれて……おかげで少しだけわかったことがある。他を信じるのも期待するのもすべて無意味、けど一番無意味なのは私自身だ」 「そんなこと」 「あなたが、私に教えてくれたことじゃないか。大切だといいながらあなたは何も言わずに離れてしまって、私は死ぬことに恐怖と一緒に私なんて価値がないのだと理解した。心残りだったキサには、会え……あの子を抱っこしたとき嬉しかったのに私の手はあの子を殺そうとした。今まで、今までそうして壊してきたのだと見せつけられたようだった……私の炎の眼は涙も零せない」 「コケが代わりに泣いてあげる。それじゃダメ……なの……?」 沈黙が二人を包み込んだ。 † 腐敗が進行すると悪臭が鼻につくようになった。それはずっと一緒にいるコケでも感じるほどで、世話してくれるごろつき達を遠ざけた。 周辺の住民もいつの間にか姿を見なくなった。 二人ぼっち。 本人が生を求めなければいくら仮初の命を与えたところで、迫りくる死を止められるはずもなかった。 ほとんどベッドで眠り続けるしかなくなったフェイの身体は腐敗だけが生き物のように広がっていった。とうとう、唯一残った赤い瞳も黒く溶かし、頬に零れ落としたのは出来悪い黒い水。 べったりした黒い液体からぽっと紅蓮が生み出されフェイを包み込む。水をかけても無駄だった。忌み目は持ち主を食らう。 コケはフェイが灰に変わるまで何もできなかった。あんなにもひどい炎だったのに燃えたのはフェイだけで、ベッドや家具は無事で、コケも火傷ひとつ負ってはいなかった。 コケは黒灰を手のなかに掬う。 灰となったフェイはコケよりもずっと小さく……軽い。 衝動的にどうにかしようとしたが身体は冷たい氷の中に入ったように凍てついて動かずにいた。数時間後にやってきたリョンの手に肩を揺さぶられて我に返った。 「帰りな。お前さんの本来いるべきところに」 「コケは」 「あんたは、この世界の人間じゃない。ここで死んだところで無意味だろう?」 リョンの言葉は鞭打つようにコケに現実を突きつけた。 フェイはインヤンガイの定めに従って転生に旅立ったが、この世のものならぬコケにはその輪に入ることはできない。 よろよろとした足取りでコケはロストレイルに向かった。手にはバケツ一杯の灰。 たどり着いた駅では車掌がコケを止めようとした。生き物を運ぶことは許されないのだ。 「これは、生き物じゃない。ただの灰」 持ち込みは許可された。 バケツを抱え込んで赤い座席に腰をかける。灰は良い肥料になるだろう。 そして、ロストレイルが動き出したところでトラベラーズノートに通信が入っていたことに気がついた。 ――キサが、欠片を抱えたままロストナンバーとなって図書館に保護された。
このライターへメールを送る