この世に神など存在しない。その証拠に世界から戦争はなくならない。 だけど、この世に悪魔は存在する。 何故なら、僕が、その悪魔だから。 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 ◇ 「殺されちゃったのぉ?」 小洒落たオープンカフェには不釣り合いな言葉を、スイートは膝まである鮮やかなピンクのツインテールを揺らしながらのんびりとオウム返した。シュガーポットを手元に引き寄せ蓋を開いていっぱい入っているのを確認すると、何事もなかったようにコーヒーカップの上で逆さまにする。スプーンでぐるぐるぐる。 「うっ……」 コーヒーとほぼ同量の砂糖が入り殆どゲル化したそれを平然と喉の奥へ流し込むスイートに、リエは思わず口元を押さえて金色の双眸を通りへ投げていた。他人の嗜好をとやかく言うつもりはないが、いつ見ても慣れるものではないらしい。視線の先、あれもこれも全部ごちゃ混ぜにしてばらまいたような乱雑な街並みに少しだけ安堵するのは、懐かしさを感じるせいだろうか。 その背で。 「それ絶対、入れすぎ、入れすぎ」 伸びた前髪を掻き上げカリシアがにししと笑った。それからハッとしたように大慌てで自分のグラスに手で蓋をする。「じゃぁ、カリシアちゃんも」なんて大量のシロップを投入されてはたまったものではないからだ。威嚇するカリシアの隙をスイートが伺う。どこまで本気なのやら。見た目より子供っぽいところのある2人は何だかんだと意気投合しているようだ。 リエは小さく息を吐いて2人に視線を戻した。 「約束の時間に待ち合わせの場所に行ってみたら既にな」 その後に続く言葉を飲み込む。 「れいの、殺人鬼?」 ストローから口を離し声を潜めてカリシアが尋ねた。 「たぶんな」 そういう現場だった。一思いではなく何度もいたぶり、真綿でくるむようにじわりじわりと殺されていたのだ。 3人がインヤンガイのツァンレイ地区に訪れたのは3日前のことだった。連続殺人。どうやら犯人は超能力を有する快楽殺人鬼であり、ロストナンバーであるらしい。既にインヤンガイでも何人もの犠牲者が出ていた。犯行を止めさせ、場合によってはロストナンバーとして保護するというのが3人の目的だ。 しかし情報提供者である探偵も、その犠牲者に名を連ねてしまったらしい。 スイートは哀しそうに俯いた。 カリシアは小さく切り取られた空を見上げる。 「これで手詰まりってことぉ?」 早く止めてあげたい、それは増え続ける犠牲者を思ってか、それとも殺人鬼を思ってのことか、スイートの呟きにリエは困ったように首を傾げて、ポケットから紙切れを取り出した。 「手がかりになればいいんだが」 テーブルに広げられたそれには走り書きで地図が描かれていた。探偵が書いたものだろうか。探偵の殺害現場で、リエのセクタン――楊貴妃が見つけてきたものだ。 「この場所は?」スイートの問い。 「ここに来る前に見てきた。歓楽街みたいだ」リエの答えに。 「ここに、現れる、現れる?」カリシアが身を乗り出した。 3日、何も出来ず、無為に犠牲者を増やしてきただけなのだ。気持ちが急く。 だが焦りは禁物とばかりにリエは殊更意識してゆっくり首を横に振った。 「わからない。もう少し日が落ちたら、そこで聞き込みをしてみようと思うんだが」 探偵を失った今、自分たちで動くしかないのだった。 ◇ “彼”はその歓楽街に何の前触れもなく現れた。どこからきたのか、ただ唐突に、いつの間にか、気が付いたら、そこにいた。 通りを歩いていた者たちが思わず振り返るほどの美貌。ハニーブロンドの柔らかそうなくるくるの巻き毛。どこか幼さの残る色白で彫りの深い顔立ち。目尻を下げ、口角を上げ、人なつっこそうな笑みを浮かべているが、口ほどに語ると言う碧い瞳はまるでガラス玉のように冷たく無機質。黒のケープに身を包み悠然と歩く。 「そこのお兄さん」 呼び込みの女が店の前で甘ったるい声をかけた。肉欲をそそる豊満な肢体を包む無駄に露出の高い深紅の派手なドレスと、濁った瞳によく合う下品なルージュ。 「遊んでいかないかい?」 連続殺人事件が起こっているというのに女はまるで無防備だった。彼女にとってそれはあくまで遠いところの話なのか。“彼”の着ている上質のケープは、見かけない顔よりも重要であったらしい。 “彼”は困ったように首を傾げて女を見返した。まるで品定めでもするかのように。 「もっと、楽しい場所がありますよ」 “彼”が言った。 「楽しい場所?」 女が訝しむ。 「ええ」 “彼”は笑みを返して女を促した。すると女はどこかふわふわした足取りで“彼”と歩き出す。 2人が路地を曲がろうとした時、通りの角から飛び出してきた少女に“彼”がぶつかった。 少女はもんどりうつ。地面に引きずるドピンクのツインテール。思わず目がいくマイクロミニの下に覗く足。キャミソールの肩紐が右側だけ転んだ拍子に落ちていた。 「すみません、大丈夫ですか?」 慌てて助け起こそうと手を伸ばす“彼”を少女はストロベリーソーダの色をした潤んだ瞳で見上げて「ありがとう」と言った。肩紐をなおして一人立ち上がる。 それから。 「ねぇ、スイートと遊ばない?」 「スイート? ……ああ、いいよ」 スイートの誘いに“彼”はあっさり頷いた。一緒にいた女がヒステリックな声をあげる。 「私の方が先よ!」 “彼”は振り返って女に詫びた。 「すみません」 そこにどんな魔法が使われたのか、女はあっさり引き下がって自分の店へと戻っていく。店に帰っていく女の背を見送って、スイートは“彼”を見上げた。 「スイートね、あなたに見せたい場所があるの」 「そうなんだ?」 「うん。案内するねぇ」 そうして軽やかに歩き出すスイートに“彼”は何の躊躇いもなく付き従った。 スイートの先導。“彼”の方を見るでもなく。 「スイートね、あなたのこと知りたいなぁ」 「僕の?」 「うん」 「友達になりたいの。だから教えてくれる?」 「何を?」 首を傾げる“彼”に、スイートは足を止めて振り返ると“彼”の顔を覗き込む。庇護欲を煽る瞳で、甘える子犬の顔で。 「どうして人を殺すの?」 「さぁ、どうしてだろう?」 “彼”は笑みを返しただけだった。否定もせずに。 スイートは顔を俯け踵を返すと再び歩き出した。スイートの後ろを歩いていた“彼”が、今はスイートの隣に並ぶ。 2人の会話を聞いている者がいたとしたら、それは異様な光景だったに違いない。殺人犯と知った者も、知られた者も逃げるでもなく並んで歩いているのだから。 「スイートの体液ね、毒なの。スイートと仲良くするとみんな死んじゃうの」 スイートがぽつりと言った。殺したいわけじゃない。それでも殺してしまう。そんな秘密を打ち明けたのは、本気で友達になりたいと思ったからだ。生まれながらの殺人鬼なんていない。きっと殺す理由があるのだ。自分がママを愛していたように。どうしようもない理由が。 「寂しい?」 “彼”の優しい声。一瞬、スイートは足が止まりそうになった。この先でリエとカリシアが待っている。“彼”を捕らえるために。だけど、きっと話せばわかる。 「大丈夫」 スイートは笑みを返し、その路地裏へ入った。“彼”をその中央へ誘いこめば、リエの結界が発動し“彼”を捕らえることが出来る。 その前に確認しなくては。 「スイートの友達になってくれる?」 「いいよ」 “彼”の即答にスイートが足を止めると、影が走った。 「スイート!」 カリシアが驚いて飛び出してきたのだ。 「お友達?」“彼”が尋ねる。 「うん」と頷くスイート。 「そうなんだ」 “彼”はカリシアに向けて優雅に一礼してみせた。友達の友達に、よろしく、とばかりに。 飛び出したカリシアにやれやれと頭を掻いてリエも姿を現す。 「我々と一緒に来てほしい」 「どうしようかなぁ」 “彼”は大仰に腕を組み、考えるように天を仰いだ。 どこに、とは聞かなかった。そういうことだ。リエはハッとして身構える。獲物を見つけたような猛獣の眼差しで“彼”を射た。 「殺したくて殺してるわけじゃないんだよねぇ?」スイートの問い。 「あら? そうじゃなかったら、どんな理由があるの?」 その声は、別の方からした。路地裏の空き地の隅に置かれた土管の上に座った少女が膝の上に頬杖をつききょとんと3人を見つめている。赤いゴスロリにふわふわの金髪を2つにまとめた10歳くらいの女の子だった。 「え?」 「ごめんなさい。面白い話をしてるから」 ころころと、鈴を転がしたようなとはどんなものだろう、こんな風に涼やかな笑いなのか。少女が笑う。リエは少女を睨み付けた。 「てめぇ……一体?」 「さぁ?」 臆した風もなく笑って少女はふわりと土管の上から飛び降りると、軽やかなステップを踏んでスイートに近づいた。 「可愛いわね。そんなにママが好き?」 「え?」 彼女の指がスイートの額に触れる。 スイートの目から涙がこぼれ落ちた。カリシアが驚いたようにスイートを呼び、少女に食ってかかる。 「スイートに何をした!?」 「素敵な夢を見せてあげただけ。あなたにも見せてあげる」 「なっ!?」 カリシアの顔が驚愕に歪む。少女は楽しそうに嗤った。 「そういう顔、見るの大好き」 そしてリエを振り返る。 「あなたも、見せてくれるかしら?」 ▼ 「殺すの…やだなぁ……」 思わず口をついて出た言葉にハッとしてスイートは辺りを見渡した。胸がドキドキするのは極度の緊張。聞かれてしまってはいないだろうか。震えそうになる体を自分で抱く。 あの日も震えて小さくうずくまっていたっけ。そんな自分にママは優しく手を伸ばしてくれた。もう一人じゃないと思えた。ママ、ママ、ママ。追いかけて、ぎゅっとしてもらうのが大好きだった。だけどそれは最初の内だけだった。 「殺してきな」 ママは優しく命令した。言われたとおりにしてみせたら、ママは「いい子だ」と自分の頭を撫でて褒めてくれた。それが嬉しくて、嬉しくて、ただそれだけだった。いつからだろう、ママが喜んでくれるのはこんなにも嬉しいのに、それを嫌うようになったのは。 また、昔みたいにぎゅっと抱きしめてくれるかな? スイートがもっと上手にそれを出来たら、ママは昔みたいにぎゅっと抱きしめてくれるかな? でも、それはないのだ。自分の体液は人を殺す。きっとママも殺してしまう。 手のひらに滲んだ汗をぎゅっと自分で握りしめた。もう、この体をぎゅっと抱きしめてくれる腕はない。 どうして? どうして? どうして? ママ? ママ? ママ! 「殺したくないよぉ……」 呟いて、ハッとしたようにスイートは顔をあげた。そこに、大好きなママの顔があった。 「ママ!!」 「この役立たずがっ!」 スイートは目を見開く。何が起こったのか一瞬わからなかった。ただ、左の頬が焼けるように熱くて、口の中で鉄の味がした。 殴られたのだ。ママの手ではないもので。 「お前みたいな役立たずはもう、いらないよ」 もう、触れることさえ厭うほどに嫌われている。 「ママ……」 「どこへなりとお行き!」 「ママ、捨てないで! スイートを捨てないで!!」 涙を溜めて哀願した。得意の泣き落としなどではない。本気の涙で。 「ママ! ママ! ママ!!」 ――ママ!! ▼ 強い光が瞼を叩くのに目を開けて、すぐに閉じた。瞼に光の残像が点滅する。その向こうから悪魔どもの声。 「実に面白い素材だ」 ぬるりと自分の内蔵を掴まれる感触に、ああ、腹を裂かれているのだと感じた。だけど不思議なことに痛みはなかった。ただ引きずり出される感触があるだけだ。ずるずるずる。 「もう少し、強くしてみろ」 誰かが言った。何を強くするというのか。 「了解」 少し離れたところから声がする。 刹那、声にもならない絶叫をあげてカリシアは仰け反った。 地獄の業火で内蔵を焼かれるような、胸をかきむしりたくなるような、自分を壊したくなるような、殺したくなるような苦悶が襲う。 「あああああああああああああああああっ!!」 だけど気を失うことさえ出来なかった。 誰か、と縋る相手はこの世に存在するのか。 何度も繰り返される責苦。いっそ死ねたら楽だろう。異界との融合に成功した新人類といえば聞こえはいいかもしれないが、ただの突然変異はモルモットでしかない。 壊れにくい玩具。それがカリシアのここでの肩書きだ。 次に目を開けるとそこは真っ暗闇だった。光は一切ない。横たわる体を感じて手を動かすと何かにあたった。すぐそばに壁がある。左右に、頭の上にも。目の前にも。そうして自分は狭い箱に入れられているのだと知れた。 「どうして」 言葉にしてみる。 今度は悪魔どもはどんな実験をしようとしているのだろう。そう思うと体が震えだした。ガタガタと。今度は何をする気だ。やめてくれ。頼むから、何でもするから、この責め苦から、誰か解放してくれ。暗所も狭所も彼女の不安を煽るだけのものだ。 誰か、誰か、誰か。 不安に息を吸う。何度も、何度も。繰り返す内に呼吸の仕方がわからなくなった。過呼吸なんて言葉をカリシアは知らなかった。それの止め方もわからなかった。ただ、必死で息を吸い込むのに、どんどん苦しくなる。苦しくなってうずくまる。 うずくまっていると、程なくして呼吸が楽になってきた。彼女のいる密閉された箱の中の酸素濃度が下がったからだとはわからない。ただ、何かから自分を守るように小さく膝を抱えて、自分を襲う得体の知れないものに耐えることしか出来なかった。 その後自分がどうなったのかなんて覚えていない。思い出したくもない。 途切れ途切れの記憶を抉られカリシアは涙を流した。 ――誰か助けて! ▼ 「はぁはぁはぁ……」 リエは荒い息を吐きながら走っていた。全速力で走っていた。何もこんな時にと思いながら、どうしてこんな時にと思いながら。 その日はツキがなかったのだ。いろんな事が裏目に出た。選んで履いてきたお気に入りの靴の紐が切れたとか、最初はそんなつまらない事から。 愚連隊の仲間を率いてかっぱらいをした。狙った相手は裕福そうで平和ぼけしてそうな土地勘のない観光客。まさかSSが付くようなお偉いさんだったなんて。いつものように一人が肩をぶつけジュースをこぼす。慌てる相手に謝りながらかけてしまったジュースを拭く。その隙に別の仲間が相手の持ち物を奪う。周囲に気付かれないように壁役の仲間も配置して。いつも通りだった。 後は、公園で合流するだけだと思っていた。相手の荷物を持った仲間の腕を黒服の男が掴んだ。 「やべっ……」 仲間を見捨てるわけにはいかない。リエは足下の石を黒服の男に力一杯投げつけた。怯んだ一瞬の隙をついて、仲間は荷物を置いて遁走する。 もちろんリエも逃げるべく走った。街にはすぐに非常線が張られたが、もとより官憲を撒くのは朝飯前のことだ。捕まえられるなら捕まえてみやがれ。 仲間の隠れ家に戻った時、仲間の一人に腕を捕まれた。 「お前のところの母さんが……」 「え?」 彼の言ってる言葉が全く理解出来なかった。わかっているのに、わからなかった。 弾かれたように走り出す。自分の家へ。 「はぁ、はぁ、はぁ」 荒い息を吐きながら。 「母さん!!」 真っ赤な床、真っ赤な母さんの空色のドレス、真っ赤なのは……。 世界が凍り付く。 「お前は!!」 男の声に我に返った。振り返った先に官憲の制服。殺された母の検死にでも来たのか。殺人事件だ。といっても、こんなスラム街で捜査も何もないだろうから形だけのものだろう。だけど間が悪かった。 リエは反射的に踵を返す。母を背にして走ることしか出来なくて。一度だけ振り返った。 その母の顔を自分は一生忘れることはないのだろう。 走って、走って、走って。死に目に会えなかったどころか、もう弔ってやることも出来ないのだろうか。 ――母さん!! ▼ 「やめろ……やめてくれ……」 繰り返される悪夢にリエはよろめいた。いつまで走り続ければ終わるのだろう。スイートは泣きじゃくり、カリシアは自分を抱きしめ震えている。 少女は子供らしい残酷さで無邪気に嗤った。 「悪夢から解放されたいなら、そうだわ!」 もっとワクワクするような事を思いついたように両手を打って弾んだ声で続ける。 「互いに解放しあえばいいのよ!」 それは、つまり――殺しあえばいいのよ。 まるで呪文のように。投げられた小石のように。湖面に広がる波紋の如く3人の中に広がると、最初に立ち上がったのはカリシアだった。 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 声をあげて右手を伸ばす。彼女のメタモルフォーゼ。右肘から先が鋭利な剣に変わると何の躊躇いもなくリエに斬りかかる。 彼女が見ているのはリエなのか悪魔なのか。 カリシアの雄叫びにハッとしたように走り出していたリエは紙一重でそれをかわす。 母さんを殺したのは誰だ。わかっている。ただの痴情のもつれ。だけど。母の形見を模した陰陽一対の勾玉のペンダントを握りしめる。真空刃が彼を中心に無尽に駆け抜けた。 ――母を看取れなかった後悔。 勢い余ったカリシアが目の前の壁を蹴る。その振動でリエの放ったかまいたちに斬り裂かれたコンクリートの壁が崩れた。落下地点でまだ泣きじゃくっていたスイートが顔をあげる。 「ママ……殺すから……言われた通り殺すから、スイートを捨てないで……」 降ってくるコンクリートの塊が彼女の頭上で木っ端微塵になる。手の中にはいつの間にかいくつもの飴玉。いや、飴玉ではない。 ――盲愛し続けたママへの思い。 小型爆弾のそれを放り投げる。 カリシアの足首から下がアイススケートの靴のような形にメタモルフォーゼ。彼女の滑った先が切りとられていく。スイートの周囲にドーナツのような弧を描いて。 投げられた爆弾が起爆するのと、カリシアが地面を蹴るのと、どちらが先だったか。 爆発は突然現れた壁を粉砕するに至らず。壁はスイートを覆いきれず。 二人の間を分かつように走る真空刃にカリシアは再び地面を蹴った。粉砕された瓦礫を持ち上げリエを襲わせる。 ――玩具のように自分を弄んだ悪魔への復讐。 リエは大量の真空刃で瓦礫を粉砕しながら弾きとばした。 無尽に走る、見えないやいばがスイートの腕を裂く。 流れる血。 赤。 リエの思考が停止する。足に痛みを感じてそちらに視線を落とすと楊貴妃がリエの足を噛んでいた。 目が覚める。文字通り目が覚める。過去の自分から。悪夢から。 「ありがとう」 楊貴妃に声をかけてリエはありったけの声を張り上げた。 「カリシア!!」 目を覚ませ、と呼ぶ声に、カリシアが反応する。リエを切り裂くはずだった右の剣が紙一重で止まった。 「スイート!!」 リエの目配せにカリシアが動く。いや、カリシアのPKが、既に“彼”を捕らえていた。 リエはペンダントを握りしめる。 「ママ……」 スイートがくずおれるように地面に膝をついた。 「血が、出てる」 少女が言った。あれほど無邪気に笑っていた少女が、今は心配そうにスイートを気遣った。 「あなたは悪くないよ」 スイートは少女に向けて伸ばしかけた手を慌てて引っ込めで少女を安心させるように「大丈夫」と笑った。 「あれぇ? どうしてわかった?」 地面に大の字に張り付けられながら“彼”はのんびりと尋ねた。 「わかるだろ。てめぇが嗤ってたんだからな」 デスマッチを楽しんでいるのは少女のようで、実は“彼”の方だった。少女が“彼”を操っているのなら、餌を運んできただけの“彼”がそれを嗤う理由が見つからない。それに、少女は“彼”を見ないが、“彼”はずっと少女を見ていた。 「あらら」 “彼”はぺろりと舌を出す。 少女を裏で操り、全部、彼女が仕組んだように見せていたのは“彼”だったという事だ。しかし何故、そんな回りくどいことをする? 「観念するんだな」 リエの蔑むような冷笑に、だが“彼”は動じた風もなかった。 “彼”は3人の過去を抉っている。当然リエの力にも気づいているだろう。結界による呪縛と炎上。結界により“彼”が操っていた少女の呪縛は解けている。もう“彼”の打つ手はないのではないか。にもかかわらずこの余裕はなんだ。“彼”の力の全貌が見えなくて、リエは背筋が寒くなるのを感じた。 「それは嫌だなぁ」 とぼけたように応え“彼”は視線をそちらへ向けた。“彼”の視線の先で少女の手が何かをそっと掴むように動く。 スイートが訝しげに首を傾げた。 「あ…いや……」 恐怖に顔を青ざめさせ震える少女の声。 おもむろに何かを握り潰すような仕草をしたかと思うと、少女は小さく仰け反り、血を吐きながらスイートに向かって倒れ込んだ。 「なっ!?」 スイートが咄嗟に抱き止める。少女は最早息をしていなかった。少女のウィッグが落ち、黒髪が露わに。少女はインヤンガイ出身の娘だったのか。 「何をしたぁ!?」 リエの怒号に“彼”は「ひゃっひゃっひゃっ」と嗤いだした。 「いらなくなったから捨てようと思ってさー」 「ふざけるな!」 カリシアが怒鳴る。 「新しい人形、見つけちゃったしー」 “彼”は辛辣な笑みをそちらへ向けた。 「なっ!?」 「スイート!?」 カリシアの声にスイートは少女を手放しユラリと立ち上がる。そして彼女は笑みを浮かべてこう言った。 「“彼”を離してあげてくれない?」 「何を……正気か?」 無意識に後退るリエにスイートはお願いと哀願してみせる。 「てめぇっ!!」 リエは憎々しげに今にも射殺しそうな鋭さで“彼”を睨み付けたが“彼”はリエには見向きもせずスイートに言った。 「いい子だ。純粋で人を疑うことをしない。だから、簡単に入り込める」 それから「君たち次第、かな」とリエとカリシアを嗤った。 「スイートを戻せ、戻せ!」 カリシアが喚く。今にも掴み掛からん勢いで。だがスイートという人質に手が出せない。 「なら、これを解いてくれ」 “彼”が言った。 「…………」 沈黙をどうとったのか“彼”は彼女に声をかける。 「スイート、僕たち友達だよね」 「うん」 スイートが笑顔で応えた。 ――!? 飴玉が一つ落ちて――後には何も残らなかった。 ■End or To be continued■
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