その店を訪ねるには、世界図書館から向かうのが恐らく一番判り易い。 不案内な者なども、いい加減な地図を頼りに右往左往と彷徨って、何処を歩いたとも知れぬうち、いつの間にやら着くという。 そんな胡乱な道の果てにある、これまた胡散臭い古びた日本家屋。 よくも名付けし『白騙』の屋号、その看板を認め、がらがらと木戸を開けた途端――薄明かりに照らされた怪しげな調度や人形、楽器に掛け軸、反物、面、梟の置物、武器と、仕舞いには使途さえ判然としない、得体の知れぬ古今東西種種雑多――床、壁、天井、果ては戸口の境すら曖昧に仕立て上げる骨董品の数々が、客の視界を一編に埋め尽くすことだろう。 ――其の日、遣り戸には『閑談日』と書かれた札が白白しくぶら下がっていた。 ※ 灰燕は和菓子と酒を手土産に、其の店を訪ねた。「骨董屋」 聲を掛けてみても、案の定と云うべきか、応えは無い。 いつもと同じ藪の如き瓦落多が鬱葱とした店内を歩き、いつもと同じ鬼気迫る程の筆致で表された『商売繁盛』の願掛け札を横切って帳場を抜け、座敷に引籠ってでもいるのかと――そう想い乍ら、母屋へ通ずる開きっ放しの襖を覘く。「骨董屋ァ。おらんか」「――はい?」 先程よりも一段と大きくした聲に応え、ゆらりと、其の男は暗がりから顔を見せた。 居間と廊下、光と闇の境目に立っている所為か、暗がりは男の顔半分を包み晦ます。――否、それは矢張り男の被る鬼面が黒く影めいて見えただけの事だった。相変わらずの妖相に、灰燕は「ふん」と溜息とも笑聲ともつかぬ気を吐く。「これは灰燕さん。如何されました?」「なァに、気が向いてのォ。――“白犬”はおるか」「成る程……。丁度蔵に用があった処です、連れて来ましょうか」 微笑む男が手を掲げれば、携えた旧く大きな鍵がぢゃらりと音を立て揺れる。寛いで待っていて下さい、と其の侭身を翻そうとする男に、灰燕は「おォ」と頷くなり無遠慮に上がりこんだ。「あんたの用とやらが済んだ後で構わんけェ」「いえ。御客人を退屈させる訳には」「来たんは俺の勝手じゃ。慌てんでええ」 早速無遠慮に胡坐をかいて煙管をふかし乍ら紡がれた言葉に、槐は面に覆われていない側の眼を暫し丸めて、細める。次いで僅かに口元を緩めた。「……そうですね。では、御言葉に甘えさせて戴きます」 横柄な配慮とでも云うべき申し出を断る理由が、彼には見当らなかった様だ。 ※ 縁側から薄ら寒い白光が居間を、二人の男を照らす。 館長か誰かの悪戯か、はたまた実は此の一画がチェンバーでそういった仕掛けがあるのか、然も無くば近所の者がまやかしの術でも掛けたか――何れ灰燕には如何でも善い事だったが――兎も角、今、此処から見上げる深くも澄んだ藍染の空に粋な満月が浮かんでいるのは、確かだった。「此方になります」 槐は稚児でも擁く手付きで、腕の中の蜀江文様柄の紫の布をすいと開く。 果して月下に露わとなったのは、先の仕事で灰燕達が持ち帰った三味線だった。「未だおるんか?」 此の三味線に宿り、菊絵の亡骸を動かしていた白犬――レタルセタ――の意識はあるのか。語り掛ければ、たどたどしく応えるのか。 盃に口をつけて、半鬼の、或は白犬の応えを待つ灰燕に応じたのは前者だった。「意識と云いますか、其の残滓とも謂うべき想念なら、懼らくは」「ほうか」 一息に飲乾して自身が持ち込んだ団子を無造作に頬張る。忽ち餅に酒気が滲み、辛味と苦味と――甘味が何倍にも益す。其の傍らには兔を象った上生菓子が多数控えており、灰燕の側にあるそれは既に二匹目の頭が殺ぎ落ちていた。とは云え、団子共共これだけあれば槐とて酒の肴に不都合は無かろう。 それはそれとして「訊いてみとォなってのォ」と灰燕は訪問の意図に触れた。「御訊きになりたい事、ですか」「何、そがァ大それた話じゃなか。ちぃと其奴の所以をな」 菊絵が嘗て愛用したとみられる三味線に滲み込んだ記憶と、憑いた物の起源――白、即ち九十九に到る迄の軌跡に、気紛れな刀匠はふと興味を擁いたのだった。 彼がそれを告げると、月影に照る三味線が仄か朱いものを漂わせた。骨董品屋は「ふむ」と、何方よりか撥を取り出す。「僕が喚び掛けても中中応じてくれませんでしたが……如何やら灰燕さんには心を開いている様です。今なら何らかの形で、応えてくれるのでは無いかと」 云うなり蜀江の布を膝に敷く様に落し、撥の先を黄色の絹の弦に合わせる。「出来るんか」 目聡く其の様を認めて灰燕が問えば、槐は何処か申し訳なさそうに笑った。「ほんの手慰みです。御耳汚しになるかも識れませんが」「構わん」 灰燕は「座興にゃ誂え向きじゃろ」と徳利を傾け、とくとく前奏を奏でる。「では、僭越乍ら――」 鬼面の主が、やや力強い所作で確かめる様に一度、弦を叩く。太く硬い音が青白い室内に充ちて、それが失せぬ内、続け様に階位を上下させ、なにやら楽曲らしき物が――屡滞りもしたが――次次と流れ出して溢れていく。「……ん」 灰燕の網膜――否、脳裏に、朱い雪に覆われた、見識らぬ山野が舞い込んだ。 曲調に合わせただけか、灰燕の心に応じた物なのか。 何れ三味線に残留した白犬の思念が齎している物には相違あるまいが――。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>灰燕(crzf2141)槐(cevw6154)=========
刀匠は意識下を染めたる朱の音色共共、酒を流し込む。 幻視の庭に立ち、其処で繰り広げられる出来事を、酒の肴とし――色味が褪せて見得るのは、獣の眼に記憶された物を下地としている所為か。 奥山。朱雪鎖す厭世に映える真白い狼ふたり。母娘の縁。 母が神なら娘も神かな。なれど暮せば獣に同じ。飢えて凍えて呪わし厳冬。 其処に現れし女、笑顔花咲かせ、母狼腹裂かせ、娘を里へ勾引かす――。 「――っ」 びいんっ。 レタルチャペが不在を咎めた乳母を殺し、破れかぶれの障子戸に赤い飛沫が描かれ、稚児の菊絵とレタルセタが触れ合う間際。奏者の手が、止まった。 徐に、情景は霧散する。 「止すか?」 「……いえ。御気遣い無く。失礼致しました」 再度弦が鳴り、先程よりか流暢な調べは灰燕の視線を三度三味へと導いた。 歳月を経て自然に妖気を蓄えた器物とは異なって見得る。如何やら白犬は元より神性を持つらしいが、それに因んだ九十九神か。そして、あれの菊絵に対する情に忠犬と同種の物を、灰燕は気取った。生前縁深き獣だったのでは、と。 想えば三味は尾を振る様に、次次新たな図を見せる。 娘と並び座す狼。母に虐げられれば庇い、傷を舐めて癒して遣り、何処へ往くにも付き添い、幼く危うい菊絵の世話を甲斐甲斐しく焼いた。 菊絵は神の娘。皆大切にしたが、所詮はレタルチャペを恐れていたに過ぎず。 故、菊絵の寄り処はレタルセタだけだった。 だが、或る日。 村の三味線弾きと接した菊絵が自分も弾きたい、三味線が欲しいと云い出した。それを聞いた母は二つ返事で了承するなり娘の眼の前で―― ――レタルセタを母狼と同じ目に遭わせた。 そして其の遺骸と臓物と、大泣きする菊絵の手を引き摺って職人の元へ向った。 「皮、か」 「御存知でしたか」 聴き手の乾いた呟きに、弾き手も撥を振るい乍ら無味に云った。 「まァ――な」 特有の音色を出す為に太い弦と、犬皮を不可欠とする三味線がある。 灰燕は、其の皮こそがレタルセタの意思が三味に宿る理由と見立てていた。そしてそれは凄惨な幻視に因って裏付けられた。 併し此の場の鬼共が眉を顰める筈も無く。淡淡と、弦は弾かれ。 娘は娘に宛がわれ、守護せと母に縛られた――と。 仕舞いに力無く三弦が撫でられて。余韻が青白い座敷に朱く融け、散った。 「……御粗末様でした」 撥を下ろして一礼する槐に、灰燕は「おォ」と徳利の口を向けた。 ※ ※ ※ 月の真正面に置かれた白い意思を挟んで、白い男達は向い合う。 藍染の朧な柄を蝋で抜き出した様な情景は仄かに肌寒く、中秋と呼ぶに足る美しさと、靜けさと、怖ろしさとで満たされていて、酷く――虚ろだ。 とく。とく。とく。 虚ろな月世界に、注ぐ音色は善く映える。 鬼同士の宴を呪う祝い酒は、何も彼も呑んで仕舞えと甘く邪に嗾す。 「戴きます」 灰燕の酌を受けるなり、槐は刀を下賜された武士に似た所作で盃を掲げ。相当きつい風味を妖気の如く漂わす、鬼をも殺す一杯を僅か一息で空にした。 「ほォ、ええ呑みっ振りじゃなァ骨董屋」 「畏れ入ります」 骨董品屋がいける口だと判じた刀匠はにやりと口際を歪め、今一度隣人の手元を満たさんと間も置かずに溢さんばかりの勢いで酒を注ぐ。 「既に御承知の事と想いますが」 徐に、槐が口を開いた。 「セタとは本来、犬を指す言葉です」 「おォ」 「併し、『彼女』の身は狼だった。単なる依代だったのか、或は――レタルチャペが御し易くする為に敢えて“犬として名付けた”のかも……知れません」 「はン。道理での」 槐の推測は、灰燕としても腑に落ちる話ではあった。 廃村の一件で灰燕がレタルチャペに放った言霊の呪縛は、丸ごと返された。 ――好かんな。 忌まわしき己が異能が。同じ力の主が。言霊と云う代物が、気に入らぬ。 「時に……何故『彼女』の事を?」 槐は灰燕の様子に構わず、素朴な疑問を投げ掛ける。 「これの芯が見とォなった。……そんだけじゃ」 灰燕は酌手を終えて縄をぞんざいに放り出し、欠伸でもする様に云った。 レタルセタの聡明にして無垢なる意思――誰も知らぬ侭消滅させて仕舞うには惜しいと、灰燕は想った。せめて一度でも見て遣る者が在れば、儚くとも。 喜色か、只の咆哮か、三味の周囲が薄紅色に明滅する。 続いて応ずる様に、かたんと灰燕の膝の横で、朱鞘が動く。槐が「おや」と首を傾げる。見れば鯉口と鍔の隙間からちろちろと白い火の粉が散っていた。 「『御主(おしゅう)に一言物申す』といった処でしょうか」 何事か察したのだろう槐がくっと笑いを噛み殺す。 「何じゃどがァした」 面倒臭そうに刀――熾皇を半ば引き抜けば、ぎらりと照り返す刀身よりも眩い白焔が紋様から顕現して、抗議でもするかの様につるりと主を取り巻いた。 「はッ――成る程のォ」 刀匠は「妬くな」と笑って宥め賺す。 白待歌は捻れた弧を描いて主の背に廻り込み、拗ねた遊女の様に袖を引いた。 ――遊女。 灰燕はふと想い出す。自ら鬼となった時の事を。焔が生じ焦土と化した華やかな檻――其の一郭の在りし日を。今宵限りの行きかぐれと善く似た出来事を。 もうひとつの、白の語りを――。 「此奴とは花街で知り遇うてな」 「花街、ですか」 ふうと短く吐息して、団子をひとつ咥え込み、串の先を槐に向ける。 「おォ。煤が生えて炭の枝に灰の花が咲いて散っとる――焦土の色街よ」 途端、槐の眼差しは灰燕のそれと同じ鈍い光と鋭い容を為す。 「伺いましょう」 そして胡乱な逸話に巡り会った時、彼が常にそうする様に居住いを正した。 ※ ※ ※ 廓と亭と閨が燃え。芸妓遊女に新造遣手女衒忘八と。通い商人客火消し、果ては火事場の見物人も残らず焼かれて呑み込まれ。当に火炎地獄也――。 灰燕が噂を耳にした折には、既に闌(たけなわ)を迎えていたらしい。 「色街ひとつ焼き尽くす程の大火と来れば、そうは熾らんけェ」 広がり昇る焔の色はさぞ美しかろう。先ずそう想ったと刀匠は笑う。 ならば見てみたいと云う情動が熾るも又、必定。 併し、稀代の刀匠を待っていたのは稀代の業火では無かった。 戦の後と見紛うばかりのそれは、一方で満開の桜の杜にも見得たし、或は、 「雪景色にも、善う似とったのォ」 それはそれで綺麗だったと、灰燕は語る。 識らぬ街では無かった。贔屓にしている店も在った。一応跡地を確かめはしたが、見る影も無い有様で、概ね此の辺りと見当がついただけだった。 「馴染みの店に口の利かん女郎がおってな」 ――黄雀(こうじゃく)。 確かそんな名だったが、灰燕は敢えて槐に告げなかった。 「耳か喉を御悪くされていたのでしょうか」 槐が訊けば灰燕は「喉じゃ」と一口ぐびりと呑んで。 「焼かれたとか新造が云うとったが、詳しい事は解らん」 併し、黄雀は其の境遇の割に卑屈な素振りを一度も見せなかった。時には舌切雀と揶揄されもしたが、何処吹く風とばかり気にも留めていない様だった。 「何にしろ……まァ、気さくで素朴な娘じゃった。何時も三味抱えとってな」 「成る程、話す代わりに」 「おォ」 彼女は得意の三味線を弾く事で簡単な意思表示をしていた。それを面白がられ、一風変わった評判を得て、界隈では誰もが黄雀の名を耳にする様になった。 「灰燕さんも懇意にされていたのですね」 「一杯遣るだけじゃ。団子は食うても花には手ェ付けとらん」 抱くでも口説くでも無く。 刀匠は、花見とばかり酒と団子を愉しむ為に、黄雀と時を共にした。 「廓女は何じゃァせせこましゅうてかなわん。呑みに来とうがに一滴すら好き勝手注がせちゃあくれんかったぞ?」 「其の割に此方が一息入れようとすると、矢鱈に呑ませたがるでしょう」 「ははッ、ほうじゃほうじゃ」 「ふふ――女郎との駆け引きとは実に難しい物です」 「それよ。女心とやらが俺には善う計り切らん。……じゃがな、彼奴は違うた」 何も押し付けず、求めず、只傍に寄り添って酌をして。 気紛れに聲を掛ければ、ぴんと張り乍らも優しげな三弦が応えるのみ。 娘が己を如何視ていたのかは識らぬが、灰燕としては、 「あれの靜けさが丁度好うてな」 少なくともそう、素直に想う事の出来る一間だった。 心地好い靜穏を乱さぬ娘其の物とも謂える調べ。今も耳に、脳裏に、此の身に。 ――焼きついとる、か。 彼女の喉と同じ様に。 だが、凡ては過ぎ去った事。 「では、其の女性も矢張り、」 「あァ。大火の後は話も聞かんようになった」 其処にはもう、何も遺されていなかった。あれ程焼き尽くされては生き延びた者等一人として居るまい。街の中央で燻り消えかけていた業火の残滓を除いては。 嘗て白燕なる刀匠が名を与え契りし焔妖――白待歌を除いては。 ※ ※ ※ 「ん」 語り終えた頃、三味線の明滅が不規則となった。光も何処か弱弱しい。 灰燕は片眉を吊り上げ、向いで僅か眉間を狭める槐と目を合わせた。 「あれから娘とは会わせたんか」 鋭く問われ槐は首を振る。 「如何やら拒んでいる様です」 共にレタルセタの末期を察したが故の応酬だった。 「一度、菊絵さんの傍に置こうとしたのですが、其の時も『隠して欲しい』と」 故、菊絵の側に残留思念の事は伝えられていないのだと謂う。 灰燕は「ほうか」と息を吐くと、ぬっと腕を伸ばして三味線――レタルセタを鷲掴みにし、其の侭己の膝の上に乗せて遣った。 「もうええんか」 菊絵の、幸薄き魂の安息を願っていた者の眼に、因果律に迄翻弄され生とも死ともつかぬ今の彼女は如何映った。惜別の念は持たぬのか。 「願は無いんか。あるんなら云うとけ」 灰燕が訊けば月光が弦をなぞり、何時かの女郎がそうした様に、けれどより太く重い幾つかの音階を自ら奏で――幼い菊絵と同じ聲が、何処からか響く。 あえば菊絵はつらいことを思いだす。 菊絵はほんとうは菊絵じゃない。でもこころは、まだ菊絵。 「……?」 「――!」 灰燕が首を傾げ顎に手を遣る。 槐は――彼にも聞こえるらしい、やや厳しい面持ちとなった。 どうなってもまもって、あげて。さみしくし、 いであげてほ い 次第に旋律はか細く、か弱く。滲んだ朱は月明りに溶けつつある。 「……それが望みか」 灰燕は薄れて刻む言の葉の、ひとつひとつを掬い取る。 叶えて遣れるか否かはさて置き、末期の聲を無下にはすまい。少なくとも。 「確かに聞いたぞ、白犬」 ――安らかに眠れ。 あ り と 本来ならば五つの階を踏むべき音色は二つばかりが欠けて。 一瞬――膝の上で三角の耳を下げた真っ白く美しい獣の像を成したかに見得た。 それが錯覚か幻かは判らぬ侭、像は朱と共にふわあと散る綿毛の如く広がり。 月世界には、只の白い三味線と、白髪の鬼と、白焔の怪と。灰銀の鬼と。 真っ白で美しい、死の静寂が遺された。 ――今にして想えば。 「あれも白待歌の中に融けたんじゃろうの」 灰燕は刃の眼を瞼の鞘にすうと納め、黄雀の顔を浮かべて笑う。 久し振りに三味線の音を聴いた為か、ふと想い出した。誰を重ねたのでも無く。 「そう、なのでしょうね――」 槐は灰燕の言葉を認め、其の後ろの白焔を見止め、三味線を視留めた。 其処に映るのは眼前のレタルセタか、彼方のレタルチャペか、それとも―― ――鬱陶しいな。 「そがァ時化た鬼面(おにづら)があるかよ」 鼻を鳴らす様に云い放った鬼に、半鬼は眼を瞬かせる。 「灰燕さん」 「此奴も『彼奴』も確かな意志の上で為した事じゃろ。じゃけェ、俺は止めんかった。まァ、そがァな気概やら甲斐性そもそも持ち合わせとらんがな」 冗談とも本気ともつかぬ灰燕の物云いに、槐は口元を綻ばせた。 とく。とく。とく。 二つの盃に、又月が浮かんで波打って。 最後の一雫を、ぴとり、落す。次いでごとんと――それ自体が相当な値打ちの骨董と思しき――大徳利を矢張りぞんざいに手放し、代わりに満潮を迎えた盃を何気無い所作で胸元へ持ち上げて向いの男に眼を遣れば、彼もそれに倣い。 共に言葉は無く、されど饒舌に、雄弁に、幽かな含みを滲ませて。 しゅうと冷たい夜気を焼き、焔が空へ舞い上がる。月を貫き火を散らせ、桜の如く庭に落ち。凪いでは薙いで、又散らせ、吹雪を為しても鬼焼かず。 果てた獣へ手向けと云わぬがせめて今宵に彩を。 送り酒を呑む二匹の鬼を焦がれしモノに寿ぎを――。
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