いつもの様に『麗蒼楼』の脇道を曲がると、真っ暗な裏路地に障子越しの蒼い仄明りが浮かぶ。二つ三つと目で追えば其の先に一際明るい丸窓があって、想わず口元が緩む。生を実感させてくれる、何よりも大切な窓辺。 とんと身を乗り出す。雨足の気配も無いのに隅にきらりと蜘蛛の糸が光ったので、一寸だけ勢いを殺して。それでも笑顔は殺がれなかった。 「揚羽ッ、」 「華月!」 娘達は互いの名を呼び合い、生き別れた姉妹が再会を喜ぶ様に手を取り合う。 「いたっ」 包帯を巻いた手を揚羽が想いの外強く握った為、華月は小さく聲をあげてしまった。揚羽は直ぐ様怪我に気付き、握り手を解いて包み込む形に変えた。 「御免なさい! 大丈夫?」 そして泣きそうな顔を近付け、もう一方の手で華月の頬を優しく撫でる。 「このくらいは訓練でも善くあるから」 揚羽に心配させまいと、華月は強がりを云った。本当は可也痛いし、幾ら異能使いの訓練が厳しくても後日に響く様な怪我をする事は稀なのだけれど。 ――いつからかしら。 麗蒼楼の様な人の欲望が渦巻く場所は特に妖に狙われ易く、故に師匠や華月の様な護り手が控えているのだが――近頃、襲撃が頓に多いのだ。必然的に仕事も増え、連日の様に駆り出されているのだから怪我も絶えない。まして華月は未だ半人前なのだ。師匠が居なければ、今頃は――。 「そういえば」 「――え?」 揚羽の明るい声で華月は我に返った。 「この間新しく来た娘、知ってる?」 云われ、直ぐに、邸内で見かけた、真っ黒な髪を複雑に結って頭全部で作った花に煌びやかな簪を幾つも刺した娘の、何とは無しに収縮して見得る華奢な背中を思い出した。 次いで浮かぶのは、華月と師匠が妖と切り結んでいる最中に度々感じられる視線。半開きの丸窓からじいと此方を――否、どうやら妖の姿を、食い入る様な眼で只管追い続ける、真っ黒な奈落の瞳。 ある時、師たる老婆が視線の主に注意を向ける華月を諭す様にこう云った物だ。 ――あの娘に関わるんじゃない。 何故そんな事を云うのか。量り兼ねる不肖の弟子に、彼女はこうも云った。 ――麗蒼楼が何を呼び込もうとも、私達は只護っていればそれで良い。 華月は諦観めいた師の云い付けに叛く訳にも逝かず、取り敢えず頷いておく事にした。だが、其の真意は一人で幾ら考えてみても、矢張り判らなかった。 確かふた月前に連れて来られた、名は―― 「ときわ――さんの事?」 「そうそう、常葉!」 華月が其の名を知っていた事が嬉しいのか、揚羽は明察を笑顔で祝う。 「話した事は無いけれど……凄い人気よね」 「本当びっくりよね。毎日引っ張り凧であっという間に太夫だもの」 麗蒼楼に於いて、今や常葉は揚羽と二分するほどの評判を集めており、此の健やかな心を持つ親友は其の事を素直に感心している様だった。かと想えば徐に「でもね」と愛らしい眼差しに影を落す。 「未だ此処に慣れていない所為かしら。中々打ち解けてくれなくて」 「そう、なの……」 「だから華月も。常葉を見掛けたら、声を掛けてあげてくれない?」 「うん……えっ。ええ!?」 「駄目?」 つい出してしまった大声を恥じて慌てて口を隠す華月を、揚羽は切なげな上目遣いで見る。ずるいと想った。揚羽にそんな顔をされたら異性でなくとも断るには相当な意志の強さが求められるに違いない。況して華月など……。 「う、ううん……」 華月は断る事も承諾する事も出来ず、中途半端に呻くしか無かった。 ※ ※ ※ 数日後、華月は主の部屋に呼び出された。何でも、常葉太夫付の振袖新造が熱を出して寝込んでしまったらしい。 「はあ。それで……あ、あの」 「鈍い奴だな。新造の代わりに御前が常葉の世話をするんだよ」 「で、でも私、」 「いいから行け! 只でさえ手が足りないんだ」 返事をする間も無く主に追い出された華月は、それよりも奇妙な巡り合せに困惑した。よりにもよって常葉のお付とは。併し、師の訓戒より主の命令が勝る以上、やらぬ訳にもいかなかった。何より揚羽の頼みもある。 「たっ太夫、失礼致します……!」 襖越しに声を掛けると「入って」と応えがあった。恐る恐る戸を横へ押し遣って三つ指をつく。面を上げれば鏡台の前にあの華奢な背中が見得た。肌襦袢を羽織るだけの後姿は心配になる程繊細で。鏡越しに向けられた瞳は深く、底知れない。 「御免なさいね。せめておぐしくらいひとりで出来れば良かったのだけど」 未だ慣れていなくてと振り向く常葉太夫の笑顔は、余りにも果敢なくて。華月とて人の事は言えないけれど、遊女としてやっていける様にも見得ない程だ。 「貴女とはお話してみたかったの」 「どうして……?」 「少し、似ていたから」 「誰に、ですか?」 「妹よ」 訊ね返す華月に、常葉は吸い込まれる様な微笑で応えた。揚羽とは異質な、けれど劣らぬ魅力に、つい俯きそうになるが「ねえ」と呼ばれ、はっとした。 「どうして妖を殺してしまうの?」 「どう、して……?」 難しい事を云われ――窓から妖を見詰めていたのと同じ、あの眼差しを向けられ。華月が返答に窮していると、常葉太夫は更に物憂げな言を添える。 「別にいいでしょう? 誰が死のうと、この見世が襲われようと」 小声なのに不思議と聞き取れる言の葉を、華月の思考が付いていけぬ速さで次々浴びせて来る。 「貴女だって、異能があるのだからこんな処逃げ出して一人で生きていけば善いのに。主は恩義に付け込んでいるだけ、本当は貴女を邪魔出来ない筈だわ。それともあの御婆さんが怖いの? 大丈夫よ、貴女が居なくなったら一人で麗蒼楼を護らなくてはならないんだもの。だから貴女を追う事はしないし、出来ない」 何れ弱気な華月を惑わせるのに充分過ぎ、一方で弱気であるが故に委ねる事も出来ないのが華月だった。何より――親友の笑顔が脳裏に浮かぶ。 「で、でも此処には揚羽が!」 華月は常盤に対し初めて語気を強めた。揚羽が居る限り、自分だけ逃げるなんて選択肢は無い。併し、常葉は「あげは?」と細い小首を傾げ、やがて得心したのかふと失笑気味に問う。 「あの娘が死ぬと困るの?」 「大切な……友達、だから」 貴女だって――そう云おうか云うまいか躊躇っていると、常葉は「友達、ね」と興が殺がれたとばかり背を向けて、襦袢をするりと脱いだ。 「なら――こんなところにいて、いいの?」 「えっ」 常葉の問いは、まるで喚水。刹那の意識下に硝子が叩き割られた心地が走る。 ――結界が……破られた! 次いで耳を劈く悲鳴、怒号、忙しなく楼閣を駆け巡る足音。眼の前で露わとなった常葉の背中にはじわじわと――投網の様な模様と、髪に隠れた中央からは禍々しい――八本の鋭い、毛むくじゃらの脚が浮かぶ。 「あ――あなたは一体」 「お行きなさい。さもないと皆食べられてしまうわよ。……大事な揚羽も」 「……!」 華月は息を呑む暇すら無く、部屋を飛び出した。 ※ ※ ※ 廊下を曲がった瞬間浴びせられた灼熱の揺らぎ。即座に袖を振り払い槍を返して火を散らす。これで幾度遭遇したか。 華月は我武者羅に奔走して揚羽の部屋を目指した。途中、人を襲う異形の蜘蛛を片っ端から貫いては、覚えたての小さな結界で火を封じ、消し止めた――そう、此度は蜘蛛の妖ばかりが顕れ、火炎の息を吹いては麗蒼楼の彼方此方を焼き、女郎と客を餌食にしようと蠢いている。何故蜘蛛なのかは判然としないが――。 ――今は目の前の事を! 火を吹き付けた蜘蛛の居場所は――揚羽の部屋の前! 襖で小火が黒煙を捲く。 異形の蜘蛛は大きさの割りに緩やかな軌道を描いて、華月へ跳びかかる。華月は果敢に槍を振るい、毛羽立つ丸い腹目掛け穂先を打ち込む。蜘蛛の身がばさっと爆ぜ、崩れた豆腐の様になった。 「華月!」 まるで見計らった様に襖戸が横へ滑ると、中から親友が美しい顔を覘かせた。 「揚羽――善かった……」 二人は相手の肩を抱いて俯き、互いの無事に暫し安堵した。だが、 「……常葉は? 無事なの?」 徐に揚羽が顔を上げる。 「!」 そうだ、常葉――華月も我に返った。揚羽を想う余り、失念していた。 常葉の見世入りと妖の襲撃の時期。 彼女の背中と麗蒼楼に顕れた蜘蛛。 二つの事象を掬ぶ妖しい糸を――。 鎖された襖は丸ごと燃え盛る。 「はあっ、はあっ、はあっ……!」 只でさえ煙の充満した邸内を大急ぎで引き返してきた華月は、過呼吸と濁った空気で意識が朦朧としていた、だが休む暇は無い。華月は槍を一閃し、炎の門を抉じ開けた。 「常葉!」 部屋中に太い白糸が張り巡らされている。奥では――常葉の背中の蜘蛛と対のものか――髑髏を背負った巨大な蜘蛛が、今まさに常葉に前脚を掛け……食べようとしている? 併し常葉は怯えもせず胡乱な眼差しで此方に一瞥を寄越すのみ。 ――何故そんな目をするの。 蜘蛛の糸と彼女とに拒まれた気がして、華月は立ち尽くしてしまった。 「呆けている場合か!」 太く、重く、鋭い斬撃が華月の真正面を切り開いた。師匠の技だ。同時に背中を叩かれ、華月は反射的に座敷へ踏み込む。大蜘蛛は無謀ともとれる若き守護者目掛け糸を吐いたが、 「させぬ!」 それは老婆の烈昂に伴い、突如華月の周囲に現れた五芒星によって散り散りとなる、華月は結界に任せ強引に前進を続け、遂に至らんとした時。妖は未だ己に繋がる糸に火を放ち、自らも大きく息を吸い込む、口の端からちろりと火の緒を覗かせる。だが華月はその顎門目掛け、槍を穿つ! 「破っ!」 そして念を込め――髑髏の背が、炎糸を紡ぐ尻が、どばっと爆ぜ。 火糸は煤と消えた。 「余計な事を。こいつは私を殺さないのに。今度こそ死ねると想ったのに」 ぐずぐずに崩れゆく蜘蛛の遺骸を常葉は見据えている。泣いたように眉が反り、けれど微笑んでいて――何故そんな顔をするのか、何故華月を咎めるのか、何故殺されないと云えるのか、何故――死にたいのか。 そうだ、死にたくとも殺されぬのなら妖を呼ぶ意味が判らない。 「蜘蛛に食べられなくたって、此処が火に捲かれれば死ぬでしょう」 「そんな!」 「あの日。父さんや母さんと、可愛いかった妹――咲と一緒に食べられたなら、どんなに好かったか。なのに蜘蛛は私だけ生かした。私に云い寄る男達を、群がる妖を……食べる為よ。もう厭なの、男も蜘蛛も生きるのも――全部」 「だからって!」 麗蒼楼を捲き込んで迄死のうというのか。 「他にどうしろと云うの? 私は何の力も持たない……ただの人なのだから」 常葉はすうと涙を一筋零して、揚羽がそうした様に華月の頬に手を添えた。 「あなたとは違うのよ、華月」 途端、常葉が自分に向けた言葉がいっぺんに思い出された。常葉に掛けるべき言葉も、向けるべき思いも、感じるべき気持ちも、何も判らなくなり、 「あ――」 華月は卒倒した。 「だから関わるなと云ったろう」 遠退く意識の中、嘆かわしそうな師匠の声が、頭に滲み込んだ。 華月が目を覚ましたのは、それから数日後の事だった。 起きて真っ先に浮かんだのは揚羽の笑顔。次いで常葉の物憂げな微笑が過った。 少し迷った末、結局、揚羽に会いに行く事にした。 「華月! もう大丈夫なの?」 「うん……御免ね、心配懸けて」 「善かった……」 数日振り――と云っても実感は無いのだが――の揚羽は、少しやつれて見えたけれど、やっぱり綺麗な揚羽のままで。華月を見るなり安堵の表情を浮かべてくれた。お蔭で、華月もやっと少しだけ安心する事が出来た。 「――そうだ。常葉の事だけど……もう知ってる?」 「ううん……何かあったの?」 訊ね返すと揚羽は哀しそうに俯いて、華月が眠っている間の出来事を語った。 何でも、方々が焼けた麗蒼楼の修繕費に主が頭を悩ませていた折、常葉の身請け話が舞い込んだと云うのだ。主は渡りに船とばかり二つ返事で承諾し、華月が目覚める丁度前日、常葉は何処かの富豪に手を引かれ、見世を去ったのだと謂う。 「そう、なの」 「本当に急な話だったのよ。……なんだか、最初から全部決まっていたみたい」 ――きっと揚羽の云う通りなんだ。 妖を連れて来た常葉が、妖と共に去った。代わりに麗蒼楼は以前の姿を取り戻す。常葉と妖が居た事なんて、忘れてしまったみたい――華月には、そう想えた。 常葉が首を括ったと風の噂に聞いたのは、それからふた月後の事だった。
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