ねえ。 あの日、貴方に私がした事、覚えてる? ※ 琥珀色が無数に重なって黒く染まったきめ細やかな液体から立ち上る湯気が、疲れた頭を幾分か鮮明にしてくれる。だが、 「~~っ」 口に含むと炭のような味がして、イェンスは思わず身震いした。 「……豆の量が多過ぎたかな」 別に久しぶりだったからでも新作の事ばかり考えていたからでもない。単純に、このところ、正常な判断が働かなくなってきているのだ。その事を思い知る。 ――相変わらずお優しいのですね。 ふと。息子のような、弟のような友人の言葉が思い出された。 つい先日の事なのに、まるで遠い昔の出来事のようだった。なのに、その時に理由を質された――と言っても自ら進んで語ったに等しいが――怪我は軋み、疼き、悲鳴をあげてイェンスの身を、神経を苛ませた。 「それほどでもないよ」 溜息混じりの応えは、記憶の中の少年に向けられた。彼がこの場に居たなら、とりあえずまともなコーヒーにありつけただろう――背もたれに身を預けて、そんな埒もない事を思い苦笑する。ほんの僅か、気分が和らいだ。 ――話すべきではなかったのかも知れない。 彼の中に芽生えつつある、妻への気持ちは理解しているつもりだった。 尤も、彼――ヴィンセントは若いながらに利発で敏い。しらを切り通すのは難しい手合いだし、家族同然の彼に隠し事をしたくなかったという想いもある。 だから、イェンスは口を割った。 ――本当にそれだけか? 真実を知らしめる事で、ヴィンセントが妻に抱いているであろう慕情の火を素知らぬ顔で吹き消そうとしたのではないのか。何人たりと彼女に近付けまいと、触れさせまいとしたのではないのか。若い彼が幻滅するように仕向ける計算が働かなかったとどうして言える? 喜びも悲しみも楽しみも苦しみも、彼女から齎される一切を我がものとするために――? 「…………」 分からなかった。イェンスには、何も分からない。自分でいれたコーヒーが事のほか不味いことくらいしか。 ――でも、少なくとも。 あの時ヴィンセントに話したのは全て事実だ。一方で、妻に対する歪んだ独占欲もまた、真実だ。とは言え、こんなぐずぐずに煮崩れた思考に彼を巻き込むのは、妻との間に他の誰かを挟むのは、間違っている――たとえそれが、家族であっても。 そして、妻が苦しんでいる事もまた、確かだ。なのに、これまでイェンスは目を背け続けて来た。彼女から。自分から。 今、妻は眠っていた。 日を追う毎に睡眠時間が長引いている。イェンスが負う生傷に、内装と調度が刷新される頻度に比例して、彼女の眠りは深まる一方だ。 しかし――皮肉な事だが――その間は仕事がはかどる。何故なら、妻がどこへ出掛ける事なく、イェンスを責める事もなく、すぐ傍で寝息を立てているから。 妬みや恐怖から解放される、歪んだ安らぎのひととき。 愛している。結婚してもなお、独り占めしたくて堪らなかった。彼女と他の男がほんの少し口をきくだけで、視線を交わすだけで、激しく嫉妬した。おくびにも出さなかったのは、ただ恐れていたから。醜い妄執の数々を彼女に知られたなら、愚かな自分などたちまち捨てられてしまうのではないか、と。だが、 ――このままでは駄目だ。 ではどうするか。問題が明確な場合、解決策は同時に示される。 即ち、妻と向き合って話し合う。全て打ち明けて、彼女の想いも受け止める。 ――場合によっては距離を置こう。 「あのアプリコットパイがおあずけになるのは痛いけれど」 目を覚ましたら、寝室を抜け出した事をまた怒るだろうか。でも、それでも構わない。 不幸にしてしまった彼女を助けるために――。 ※ それでも届かなかった事。 ※ 「お願いだ。聞いてくれ、僕はただ、」 「事勿れ主義はもう沢山!」 妻は一切耳を貸さなかった。 それどころかイェンスを激しくなじり、物を投げつけて、一層激昂した。 「僕はただ、君が心配なんだ。僕の所為で君に辛い想いをさせているのなら」 「『僕の所為』、ですって?」 こうも振り乱していながら、彼女の黒髪は尚も美しい。その狭間から、血走った眼が剥いて、俄か諦念を想わせる形に伏せられた。 「――……そう。またなの」 「なんだって?」 「また貴方はそうやって自分の中だけで丸く収めようとしているの」 「……今はどう言われても仕方がないと思ってる。けど、どんな言葉でもいい、君の想いをぶつけて欲しいんだ」 「私の想い……?」 妻の目が再度狂気に見開かれた。 「その上で、どうしても僕の事が気に入らないのなら、少し距離を」 「ふざけないで!」 妻は夫に買ってもらった椿油の瓶を感情に任せて投げた。それはイェンスの額を掠め、瞬く間に彼を、室内を、甘く華やかな香りで満たす。 「やっぱり貴方――私に興味がないのよ!」 彼女は大声を出して――それは絶叫に近かった――イェンスに掴みかかった。 「ちがっ」 イェンスはテーブルと共に押し倒され、背中を打つと同時に腹上に圧し掛かられて、否定する事すら――自らの想いを伝える事すら、ままならなかった。 「――っ」 彼女は散らばっていた衣類からネクタイを鷲掴みにして、応急処置でもするみたいに的確で荒々しく、眼下の太い首に巻きつけ――両側に引いた。 イェンスはかはっとか細い息を漏らしながら、妻の腕に触れる。だが、止めようとはしなかった。 想いを受け止めると、決めていたから。 その事が更に彼女を怒らせて、喉仏が潰れるほど強く、首を締め上げた。酸欠で薄れ行く意識が捉えた、黒い無数の筋の向こう――妻は涙を流していた。 「わたしを――みてよ」 やがて途絶える間際、本当の声を聞いた。 ※ ※ ※ 気がつくと、イェンスは糸の切れた人形の如くだらりとくずおれていた。 ――まさか、 総毛立つ。滅茶苦茶なリズムで心臓が張り裂けるほど高鳴る。彼の首から乱暴にネクタイを退けて、痣の下に手の先を押し付けた。本当は優しく触れようとしたのに、全く思い通りにならなかった。 なのに――とくん、とくんと規則正しい旋律が私の指の腹を押し返す。優しかった。彼の――イェンスの人柄が顕れたような、紳士的な控え目の鼓動。意識を失っていてさえ、貴方はそうやって一歩引いたところで澄ましている。 ――どうして。 安堵が黒く染まる。 ――憎い。 分かってくれない彼が憎い。 何故私を分かろうとしないの。何故踏み込んでぶつけてくれないの。全部自分の中だけで終わらせようとするなんて。私は貴方が書いた小説の中で生きているわけじゃないのに。私は、貴方の目の前に居るのよ。貴方はいつだって私の傍に居るのよ――。 「えふ、えっ……」 自分の嗚咽が聞こえて、泣いている事に気がついた時にはもう、何も見えなかった。掻き乱された水面越しに映る世界も、横たわるイェンスの寝顔も、何も。 その事がなんだかとても哀しくて。 「――――――――――……」 声をあげて泣いた。小娘のように泣きじゃくった。 ――そう、私はいつまで経っても小娘のまま。 心から愛し合っていると、お互いの幸せを願っていると、そう信じていた、あの頃のまま。だから、ぶつかる事しか、当たり散らす事しかできない。 愚かな小娘。過ちを繰り返す女。 ――憎い。 誰よりも、何よりも一番、自分が許せない。 涙を雑に拭う。ぐすると、溶けて交じり合った化粧と口紅の入り混じった複雑な香りが鼻腔をくすぐる。きっと酷い顔をしているに違いない。彼には見せられな―― 彼の顔が目に入った。 「イェンス」 愛しい、大好きなイェンス。 未だ意識を取り戻してはいないが、遠からず目を覚ますだろう。 ――でも。 今日はこの程度で済んだ。でも―― ――このままではいつか彼を殺してしまう。 「ごめんなさいイェンス」 精悍さと愛嬌を併せ持った頬をなぞった。何度この手で触れただろう。それから髪を撫でて、唇を重ねた。我ながら学生染みた、どうしようもなく拙いキス。 「……ごめんなさい」 また涙が溢れた。堪える間もなく幾つも零れ落ちて、彼の頬を汚した。 上手くやれなくて――信じられなくてごめんなさい。 寂しくて。怖くて。 私を選んだ訳を知りたかった。いつか捨られると思った。 私はこんなにも愚かだから。貴方に相応しくないと、そう思っていたから。 だから、私は―― なまぬるい雨音が浴槽に溜まって、先程の私の視界とそっくりになった。湯気と飛沫とが後ろ髪と着衣とを瞬く間に染めて、私を濡れ鼠にした。 バスルームはこんなに温かいのに、私が摘んだ刃は、何故かとても冷たい。 「…………」 あの人はあんなに優しいのに、私が向けた心は、何故――こうも鋭いのか。 間近に揺れる湯が反射して酷薄に光るカミソリ。邪魔なモノ、過分なモノ、無駄なモノを排除するためのもの。決して必要なモノに向けてはならない筈の、 ――これは私の憎悪。 私の事を最も憎悪している、鋭利な鈍色。 真新しいのに手に良く馴染んだのは、切るべきモノが明らかだから――、 「あ――」 まるで子供の悪戯。 しならせた革紐で弾かれたような衝撃。 でも本当は思っていたよりも痛くはなくて。 なのに刹那の衝撃のあと、さっき流した涙と同じお湯よりも肌に近い温かな、けれど真っ赤な、不貞の色が、たくさん、たくさん飛び散った。 体中から、手首から吸い出される、不貞の色。 力が抜ける。 その前に――もう一度。 「っ――」 逆手だから心配だった。まったく同じになって、安心した。お湯に両手を浸たすと、ほんの少し勢いが弱まったような気がした。これ以上バスルームを汚さずに済んで、また少し安心した。あとでお掃除するのあの人だもの。それともヴィンセントが気を利かせてくれるのかしら。 「ヴィンセント」 思えば随分振り回した。きっと、傷つけもした。 「良くしてくれたのにごめんなさい」 でも、これで最後だから。 イェンスの傍に居てあげて。いつまでも、仲良くしてあげて。私には出来なかった。ごめんなさい。ごめんなさい。 イェンス。ヴィンセント。二人、どうか幸せに。そして、どうか、 「どうか私を赦さないで――」 赤く濁っていく浴槽が、さっと黒く染まった。 あの人の好きな私の髪。それが最後に見えた光景。まるで遠い昔の出来事。 だけど―― ※ 私は覚えてる。 ※ 腕時計に神経質な目を向ける。到着までに時間が掛かってしまった。 ――何故だ。 夫妻に可愛がられ、自身も夫妻の事を憎からず想っている。イェンスの事はもちろん、美しい細君への憧れは日増しに募る。我ながら馬鹿馬鹿しい只の思い込みと蔑みつつ、それでもヴィンセントは彼女の味方のつもりでいる。だから、二人と会う日は、彼にとり常に喜ぶべきものの筈だった。 それなのに、約束があるとは言え、今イェンス夫妻宅を訪ねるのは気が重い。 ――何故だ。 二人の確執を、目に見える形で思い知ってしまい、気が引けるのか。それとも、 ――後ろめたいのか? 彼女への想いが? イェンスに申し訳ないと、どこかでそう思っているのか。それとも、 ――……分からないな。 複雑な感情を押し殺しながら漸くここまで辿り着いた。だが、みっともないところは見せられない。青臭い矜持を自らに叩き付け、深呼吸をして胸を張る。 そうしてやっとインターホンをプッシュした。 応えはない。 「……?」 今一度押す。応答がないのでノックを繰り返すが、矢張り駄目だった。 「遅くなりました、ヴィンセントです」 まさか――ドアに耳をそばだてるも、争うような物音はしない。だが安堵すべき場面でもない。何故なら、夫妻は――少なくともイェンスは紳士だ。約束を違えるような人物ではないし、何よりこのところは外出すらままならないのだから。 「ミスタ、ミズ。どなたか。――いらっしゃらないのですか!」 ノックに力がこもる。誰も出ない。誰も居ない――筈がない。 「失礼します」 少し声を張り上げて躊躇いなく合鍵を差し込んで中に飛び込んだ。即座に強盗の類に占拠されている可能性にも想い至ったが、それならば何かしらの反応があって然るべきと次の瞬間には打ち消された。だから、ヴィンセントは保身より速度を優先した。 「……これは、」 むせかえるほど芳しい椿の香り。真っ白な花瓶が花共々砕け散っている。テーブルの脚が折れて傾いでいた。椅子は正位置を離れ、あるものは倒れてあるものは窓ガラスを突き破り。壁紙は無惨に抉れて――。 ――落ち着けヴィンセント。 ここまでは全て想定内だ。ならば二人もどこかに、 「――!」 大柄な、けれど人の良さそうな面立ちの紳士が横たわっていた。眼鏡は外れているが、紛れも無いイェンス・カルヴィネンその人だ。首の径に沿って赤黒い痣が出来ている。傍らには――ネクタイ。 駆け寄って速やかに呼気と脈を確かめる。安定していた。命の別状はない。ならば次は、 「しっかりして下さい!」 がくがくと揺り起こす。つい所作が乱暴になってしまったが、なにぶん緊急事態だ。 「――……ヴィンセント?」 「良かった。一体何があったのですか、」 ぼう――とした顔と声で、イェンスは若い友人の名を呼んだ。ヴィンセントはひとまず安心――ではない事を、次の瞬間凄い力で押し退けられて理解した。 「彼女は、彼女は、」 飛び起きた作家が調度すら押し退けて捜し求めているのは、最愛の妻に他ならない。写真立てが落ちる。壁掛けの絵が傾く。それらには目もくれず、イェンスは扉を勢い良く押し開けて、どたどたと隣室へ向かった。 「どこだ! どこに、」 「ミスタ……?」 ずっと紳士だと思っていた男の只ならぬ様子にヴィンセント少年はたじろいだ。とは言え、ここで彼が妻の身を案じるべき何かが起きた事は確かなようだ。 手分けするほどの広さはない。ヴィンセントはイェンスを追う事に決めた。 果たして、その判断は――正しかった。 イェンスは寝室から通ずるバスルームのドアを開けようとノブを必死に回していた。中から水音が響く。常に一定のリズム。出しっ放しのシャワーに当たるものに動きがない証。しかし他に人の気配はない。 ――開かないのか。 一瞬で肺を冷水で満たされたように、ヴィンセントの上体がさっと冷たくなった。嫌な予感しかしなかった。それでも――未だ間に合うかも知れない。 やがて体当たりを始めたイェンスに「落ち着いて下さい!」と窘めてみたが、彼は聴く耳を持たなかった、というより聴こえていないのだろう。見えてもいないのだろう。今までもそうだった。 ヴィンセントは即座に踵を返し、鍵を取りに向かった。 だから。だからこんな事に――! 「ミスタ、」 程無く引き返すと、あれほど頑なだった扉は素直に開いていた。 業を煮やした家主が鍵の存在に思い至り、手持ちのそれで開錠したのか。 偶さか原形を留めまま打ち壊す事が叶ったのか。 でも、そんな事よりも、湯気で立ち上る生臭い匂いが酷く鼻を突いた。 水音に混じって、イェンスが――独り――誰かに――語りかけているのが聞こえた。とても震えた小さな声で、繰り返し繰り返し。同じような言葉を、子守唄の様に囁き続けていた。 何が起きたのか、終わったのかは明白。体内を抉られたような心地。 ――それでも、 ヴィンセントは確かめなくてはならなかった。目を背けてはいけなかった。 それが、彼に課されたペナルティだった。
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