人間には二種類の者がいる。トラブルに巻き込まれてしまうタイプと、トラブルを空気のように呼吸してしまうタイプだ。 スタンリー・ドレイトンは、明らかに後者だった。「さて──」 彼はぐるりと目線だけで回りを見回した。おい、と背中から声を掛けられ振り向けば、暗い路地裏から数人の男たちが浮き出るように現れたのだ。彼らはそれぞれ剣呑な雰囲気を匂わせ紳士を囲むように立った。その数ざっと5人。 しかし、全く落ち着き払った態度で、スタンリーは口の端だけで微笑んでいた。 インヤンガイのカジノ「ランパオロン」の内部に、得体の知れないファージに憑りつかれてしまった“マンファージ”がいるらしい──。そんな噂を元に、彼は他3人の仲間とともにロストレイルに乗車し、このインヤンガイのホンサイ地区に降り立ったのだった。 ホンサイ地区は歓楽街だった。色鮮やかなネオンがビルのあちこちから飛び出し、勝手気ままに自己主張している。スタンリーは薄暗い路地に足をつけ、底辺からそれを見上げていた。 ランパオロン──スタンリーの世界の言葉に翻訳すれば、それはサファイア・ドラゴンという意味だ。 その建物は高く、まさに龍が天に向かって駆け上がるように建っていた。ビルの側面にはペイントされた青い龍が鎮座している。下からのライトアップでビルそのものが浮き上がっているようだ。それでいて周りの風景に溶け込み、特段目立つ建物でもない。 スタンリーは、この建物をどうしても外から見たかった。離れたところから俯瞰すれば、多くのことを見ることが出来る。それは、彼が彼自身の事業をこなすために学んできたことだった。 ランパオロンの建物を見て彼は考察を重ねる。おそらくは、この建物はオーナーの生き様をそのまま表しているのだと思われた。自己主張の強さと、周りに合わせる柔軟性。カジノオーナーのジェンチンという男もそのような男なのだろう。 そんな風に考えをまとめていたところ、見知らぬ男たちに囲まれてしまったのだった。 ──この男たち。自分をどうするつもりか。 彼らを、スタンリーはコートのポケットに手を入れたまま見つめていた。その時だ。「よせ」 一人の男が闇の中から現れたのだった。 アーモンド型のくっきりとした双眸が、スタンリーを正面から見つめている。ジーパンにグレーのジャケットというラフな格好だが、中に着ているシャツがシルク製であるのに気付いて、スタンリーは確信した。この男は自分の本来の身分を隠している。この男がボスだ、と。「悪いな、こういった処に一人でいる人間が珍しくてな」 彼は部下たちを見、手を挙げてそれを下がらせた。「興味本位で降り立ったのなら、すぐにでも上品なカーペットの上へ戻った方がいい。ここはあんたの靴を汚しちまうぜ?」「靴が汚れるのは、きみも一緒じゃないのかね?」 臆することもなくスタンリーは言葉を返した。 すると男はニヤリと笑った。スタンリーが自分の身分を見抜いたことに気付いたのだ。「あんたには見えないだろうが、もう俺の靴は充分に汚れてるのさ」「なら私のもそうだ。──きみには見えないだろうがね」 男は沈黙し、スタンリーも押し黙った。 一瞬の奇妙な間ののち、男は玩具でも見つけた少年のように悪戯っぽい視線を向けてきた。あんた変わった奴だな、とその唇がつぶやく。「こういった処に一人で居た上に、俺らのような連中に囲まれても全く動じてない。なぜか。それは、あんたが一人で俺らをどうにかできると思っているか、もしくは何も考えていない大馬鹿なのか、そのどっちかってことだ。さて、本当はどっちだ?」 スタンリーは即答した。「何も考えていない大馬鹿の方だよ」 期待通りの答えを聞けたからだろう。男は声を上げて笑った。部下は誰も笑っていない。しかし彼は独りで笑った。 やがて笑いをおさめ、彼はスタンリーに向き直る。「では、そんな大馬鹿殿のご尊名をお伺いしようか」彼は返事を聞く前に、自分が名乗った。「俺はジェンチン。そこで、商売をしてる」 彼が顎で指し示したのは、あの青い龍のカジノだ。「私はスタンリーだ。スタンリー・ドレイトン」「スタンリー、大馬鹿というのは冗談だ。忘れて欲しい」 さっと非礼を詫び、カジノオーナーは親指で自分の城を指差した。「時間があれば是非立ち寄ってくれ。あんたのお眼鏡にかなう場所だ。おそらくな」 ジェンチンはそう言うと、手を挙げてスタンリーの返事も聞かずにきびすを返していた。通りすがりの客との会話はもう終わりなのだろう。部下たちに、何かを聞いている。 スタンリーは悠然と、しかし、如才なくその話を盗み聞きした。 ──見たという奴はいますが、会った奴は誰もいませんよ。 ──やっぱり生きてるはずがない。奴は死んだんですよ。 部下たちはハッキリとそう告げていた。* * * 「ランパオロン」はその名の通り藍色を基調にした豪華なカジノエリアを持っていた。 乳白色の柱は異国情緒を生み出し、天井には月や星をモチーフとした壁画が描かれている。広いフロアのちょうど真ん中あたりには、多くのサファイアを飾り立てたシャンデリアがあってキラキラと青い輝きを放っていた。 藍色の絨毯を埋め尽くすのは蓮の花をモチーフにした幾何学模様だ。その上を藍色のベストや藍色のボウタイをつけたディーラーやウェイターが行き来している。この光景が、彼らをランパン──藍色の集団と呼ばしめているのだろう。フロアには、バカラやブラックジャック、ポーカー、クラップスにルーレットなど、様々なゲームテーブルが整然と並んでいる。 ここはホンサイ地区の中でも三本の指に入るほどの大きなカジノであった。 ロストレイルから降り立ったロストナンバーたちはそれぞれの方法でこのランパオロンに足を踏み入れた。 プロのカジノディーラーであるベルダは、そのままディーラーとして雇われることに成功した。マジシャンであるバーバラ・さち子の方も同様に従業員としての地位を手に入れていた。 スタンリー・ドレイトンは、少し時間をくれと言い姿を消した。 そして……待たされた小さなレディことヘルウェンディ・ブルックリンは半ばむくれながら、カジノに併設されたティー・サロンで時間をつぶしていた。「レディを待たせるなんて」 15才の少女は、今は真紅のカクテルドレスに身を包んでいる。ホルターネックは彼女の胸元に優美なラインを作り出しており、むき出しの白い肩には柔らかなピンクシフォンのショールをかけられていた。スカートは長く彼女の神秘をほとんど隠してはいるが、真っ赤なハイヒールの先が僅かに見えている。 善き魔法使いのように、2人の女性がヘルを舞踏会へ行くシンデレラに仕立て上げてくれた。バーバラがドレスと靴を彼女に。ベルダは大人びたメイクを施してくれた。 ──ざっと10年ぐらいはオトナに見えるはずよ。 コンパクトミラーで自分を確認し、ヘルはまんざらでもない気分で、自分をエスコートすると言った男性を待っている。 ヘルたちは、このランパオロンについての情報をいくつか掴んでいた。とくに経営側である幹部たちの情報だ。彼女たちはその情報を分析して、マンファージは次の4人のうち誰かだと踏んでいた。 すなわち──。 オーナーであり、社会の底辺から駆け昇ってきた男。ジェンチン。 その補佐を務める、会計役の冷血漢ツーシェン。 ジェンチンの義兄弟であり、薬物中毒になり失踪したというマオウェ。 母親の死で精神に異常をきたしてしまった哀れな少女。ジェンチンの娘リウリー。 経営者のジェンチンという男は、要するに成り上がりのマフィアである。ヘルは、よく知る人物を脳裏に浮かべながらそう思った。 カジノオーナーになったのは結果であって、ここに至るまでに、ありとあらゆる犯罪に手を染めているはずだ。──ヘルの実父と同じように。 最も許せない、とヘルが思ったのが、ジェンチンが自分の妻を自ら射殺したという話だ。敵との抗争に巻き込まれやむなく……ということらしいが、何があっても自分の妻を助けようとするのが普通ではないか。 目の前で父が母を殺すのを見て、リウリーは気がふれたのだという。 ちなみに、ヘルの実父はマフィアだ。 一歩間違えば自分も同じ目に遭っていたかもしれない──そう思うと、ヘルはリウリーという娘を他人とは思えなくなってきていた。 そこまで考えた時、視界の端を白いものが横切った。 はっ、とヘルは顔を上げてそれを見た。純白のドレスを着た少女が軽い足取りで廊下を歩いていた。白猫の大きなぬいぐるみを抱えた長い黒髪の少女は、ふわふわと漂うようにカジノの入口の方へと向かっている。 リウリーだ! ヘルは確信して、立ち上がった。毛足の長い絨毯の上をハイヒールで転びそうになりながらも、少女の背中を追いかけた。「ねえ──」 声を掛けても振り返らない。ヘルは仕方なく、少女の前に回りこんで行く手を遮ってみた。「こんにちわ、一人でどこに行くの?」 少女は足を止め、自分より少し年上の少女を見上げた。曇りのない漆黒の目である。肌は真珠のように白く透き通るようだ。月並みな表現だが、まさに彼女は人形のように美しい娘だった。 その人形が、ふふっ、と笑った。「媽媽、不思議ね。道がなくなっちゃった」 言いながら、軽やかにヘルをすり抜けてカジノの方へ歩いていく。「ちょっと──」 少女を追いかけようとして、ヘルは背後からの視線に気付いた。振り返れば、大柄な男が彼女をじっと見つめているではないか。が、視線が合うとそれを外し、リウリーの後を追いかけていく。 護衛ね。ヘルは合点がいったので、彼を無視した。冷酷なジェンチンといえど、娘を一人で放ってはおかないようだ。 一方、リウリーはカジノフロアの入口にまで行っていた。ヘルは彼女の後ろを歩き、再度話しかけようとした。「お客様」 リウリーのための扉を開けたドアマンが、ヘルにたしなめるように声を掛けた。先ほどまでいたティー・ルームの方に戻るよう手で指し示す。エスコートの男性を待てと言っているのだろう。ここは婦人が一人で入ってはいけない場所なのだ。 ヘルの脇をリウリーが護衛の大男と共にフロアへと入っていく。悔しそうにヘルはその少女の後姿を目で追った。と、ドアが閉じる直前、ふと彼女は気付いた。 あんな小さな少女がカジノフロアに入ってきたというのに、誰もそれに注意を払おうとはしていなかった。しかしたった一人だけ、少女を見た男が居たのだ。 奥で立ち話をしていた藍色のスーツの男。それがリウリーをしっかりと捉えていた。 その瞬間、ヘルの女の勘が告げたのだ。 あの男が少女の父、ジェンチンであること。彼がリウリーを自分の目の届くところに置くためにカジノに出入りさせていること。 そして──彼がまだ自分の娘を愛していることを。* * * マジシャンであるバーバラ・さち子がランパオロンの従業員たちと打ち解けたのは、まさに一瞬だった。 初めましての挨拶代わりに、従業員たちの袖から色鮮やかな藍色の花を引っ張りだして見せたからだ。それは造花だったが、茎を束ねているのはサファイアの指輪だった。 バーバラは何故かこういうところでこのような贈り物が喜ばれることを知っていたし、そのインヤンガイ風の贈り物に気を悪くする者は誰もいなかった。 さらに、人好きのする笑みを浮かべてみせれば、呑気そうなこの中年女性を警戒する者は誰もいなかった。 マジシャンである彼女の出番は、一夜につき3回、それぞれ20分。その他の時間は自由だと告げられた。 でもね、とベテランのウェイトレスが教えてくれた。営業時間内に飲み物を口にしない方がいいわ。 どうして? と尋ねれば、彼女は首を振り振り言うのだった。 飲み物に毒が入ってるかもしれないから、と。「死んだのは、お客が2人と従業員が4人だよ」 自分の出番を待つまでの間、バーバラはバックヤード……それも調理室のあたりをうろついた。よく切れる包丁をプレゼントすると、料理人の太った中年女が気を良くして、この1カ月の間に起こったことを教えてくれた。「最初はね、ベテランのディーラーが一人死んだんだ。何の前触れもなしにね、ブラックジャックのカードの上に血を吐いて倒れた」「まあ!」 怖い、とバーバラは身体を震わせる。演技ではなく、彼女は本当に恐ろしいと思っていた。もし本当に、人が死ぬのを見たら卒倒してしまうだろう。「即死だよ。身体を起こしたらもう死んでたって話だ。病院や闇医者に診せたら死因は窒息死って分かったんだけど、なんで突然窒息したのかてんで分からない」「何か飲んだんですの?」「そうなんだよ」バーバラの言葉に、料理人はしたり顔でうなづいた。「とにかく分からないから、みんな飲み物に何か入っていたんだろうって結論付けた」「毒、ですの?」「分からないねえ。でも、その後お客が死んだり、ディーラーやウェイターまで死んだもんだからジェンチンさんが怪しそうな人間を片っ端から辞めさせた。あたしは何とか残してもらったけどね」「きっとお料理が上手だからですわ」「あんたお世辞が巧いね」 料理人はさらに気を良くした様子だった。バーバラは質問を続ける。「それじゃ、お客さんは減ってしまったりしたんですの?」「いや、それが変わんないんだ。客が死んでからしばらくして、ランパオロンで一夜を過ごせば強運が手に入るみたいな噂が流れだしたんだ。このカジノで死ななきゃ、その後の人生なんでもうまくいく、みたいなさ」「まあ、本当なんですの?」「そんなわけないだろ? 気が狂ってんのさ、金持ちってのは」 と、一気に喋った料理人は一息つくと、バーバラを見て少しだけ逡巡したようだった。何か言いかけて口をつぐみ、んーと呟いてから、とっておきの話をするように声を潜めてみせる。「実はさ……、あたし見たんだよ。暴霊をさ」「えっ!?「今、噂でもちきりなんだよ。前、このカジノで働いてたマオウェっていう男なんだけどさ。そこの窓の外に浮かんでたんだ」「ええっ!」 目を丸くしてバーバラは驚いた。慌てて、女が指さす窓を見るが、そこには暗闇が広がっているだけだ。「何か言いたそうな顔をしてあたしを見るんだ。あんまり恐ろしかったんで、あたしゃ逃げ出したんだけど、叫んでたのがハッキリ聞こえちまったんだ」 何をですの? と恐る恐るバーバラが問うと、女はごくりと唾を飲み込み続けた。「──兄貴が殺される! って」* * * さて、それでは行きましょうか──。 ノートパソコンを閉じ、手帳を懐にしまってから男は立ち上がった。赤いフレームの派手な眼鏡をつけた痩せた男だ。 ベルダもうなづいて立ち上がった。たった今、彼女はこのランパオロンのディーラーとして正式に雇用されたところだった。書斎のような部屋──この男の私室のようだ──で、ベルダは淡々と面接を受けた。 彼女はじっと相手の様子を伺っていた。この男の名前がツーシェンといい、年齢が50才ちょうど。ランパオロンの資金面を管理している人物であることは分かっていたが、それ以外にも分かったことがあった。 彼の目はどうやら両方とも義眼らしい。 粗悪な手術を受けたまま放っておいたのか。瞳孔の回りなど、本来は白いはずのところが灰色に濁りきっている。眼鏡をかけているのはそれを目立たなくするためのようだ。「最後に、会っていただく方がいます」「オーナーのジェンチンだろ?」 部屋を出てスタスタと足早に歩いていくツーシェンの後ろを、ベルダはゆっくりと追いながら相槌を打つ。「そうです。彼はディーラーの腕を自ら確かめないと気が済まないので」「そりゃ見上げたもんだ」 ツーシェンはベルダの物言いにも何の反応も示さなかった。これからオーナーの前でカードでもルーレットでも得意なものを見せて欲しいという。 ベルダはもっとこの男に探りを入れてみたかった。しかしどうも会話が続かない。 そうだ。ジェンチンのことを聞いてみるか。ふと思いついてベルダは男の背中に話題を振ってみる。「ねえ、ジェンチンってのはどんな男なんだい?」「……」 返事がないので、ベルダはさらに尋ねてみた。「このカジノをもっとデッかくできるかい?」「もちろんです」 突然、くるりと振り返ってツーシェンが言った。「彼には才能があります。この狂った街を泳ぎきれるだけの、ね」「才能? それってどんな?」「私に聞かないでください。不愉快だ」 ランパオロンのナンバー・ツーは無理矢理会話を終わらせた。不愉快とはどういう意味だろう。ベルダは気になったが、すぐに2人はカジノフロアに足を踏み入れていた。 カジノがオープンするまで、あとほんのわずかの時間しかないのだという。 ベルダはルーレットの卓を選んだ。目の前にはオーナーのジェンチンとツーシェンの姿がある。他には、ウェイターたちが何某かの準備をしているのと、白いドレスを着た少女が大柄な男を連れて隅のテーブルでカードを散らかして遊んでいる。 室内は静かだった。 席につく前、ベルダはジェンチンと握手した。これからよろしく、と彼は静かに言い微笑んでみせた。気さくそうな男だった。自分の妻を撃ち殺すような人間には全く見えない。「女のディーラーはいいな」おもむろにジェンチンが言った。「華がある。シェン、彼女をどこで?」「腕に自信がある、自分を雇えと。道ばたで拾いました」 それはツーシェンなりの冗談だったらしい。ジェンチンが急に笑いだした。彼は笑いを納めると、座ったままベルダを正面から見すえた。「名前は?」「ベルダ」 ジェンチンは無遠慮にベルダの顔、胸元を見た。じろじろと見た挙句、最後に言う。「気に入ったよ、とくに目つきがいい。目はその人間の全てを内包する。いろんなところを渡り歩いてきたようだな? カジノだけじゃない、文字通り様々な世界を」 その言葉に、内心ベルダは驚いた。この男、ロストナンバーのことを知っているのか? まさか自分がロストナンバーだと見抜いて? しかし驚きはしたものの、彼女はそれを表には出さなかった。 ただ無言で微笑むと、ルーレットの銀色のボールを2人に見せたのだった。これから投げ入れるぞ、という合図である。 ジェンチンはチップをピンッと指で弾いた。それは「00」の位置に正確に落ちた。 ツーシェンは立ち上がって「EVEN」にチップを置いた。 偶数に入りさえすれば、ツーシェンの勝ちである。しかし配当はたったの2倍。特定の数字一つだけに賭けているジェンチンは当たれば36倍だ。 ベルダはボールを投げた。カラカラカラ……と軽やかな音を立てて銀色のボールが円盤の上を転がっていく。 やがて、ボールは「00」のところで止まった。「俺の勝ちだな」 淡々と言うジェンチン。非常に確率の低い出目を当てたというのに、誰も驚かなかった。ツーシェンなどは興味を無くしたように、ただ合格です、と一言残して席を立った。「確かにいい腕だ。ベルダ」 ベルダはただ礼をしてそれに応えた。「俺がこのランパオロンを手に入れた時、これと同じ出目だった」何気ない口調で、カジノオーナーが話し出した。「老先輩は、天が俺を欲していると、このカジノを譲ってくれたんだ」「0で止まっていれば、私の勝ちだったよ」 そっとベルダは口を挟む。ルーレットでは「0」か「00」が出て誰も賭けていなければ、ディーラーの勝ちとなる。だからこそ、ジェンチンは「00」に賭けたのだ。「そうだな。お前、このカジノが欲しいか?」「いや、私は」「欲しけりゃ、くれてやっても──」 ──ずだん! ジェンチンが冗談を言いかけたとき、背後でにぶい音がした。 ベルダは振り返り、床に大柄な男が仰向けに倒れているのに気付いた。あのジェンチンの娘リウリーの護衛をしていた男だ。 口端から赤い筋が見えている。目は見開いたままだ。 その頭のそばに何か菓子のようなものが落ちていた。彼はそれを口にしたのか──。「リウリー!」 誰かが叫んで、少女の手にしていた砂糖菓子を弾き飛ばした。それは確認するまでもなく、父ジェンチンだった。血相を変え娘の元まで駆け寄った彼は、放心した少女を後ろから抱きしめた。 驚いたリウリーは、唸り声を上げて父の手から逃れようとしている。 目の前で男が一人毒殺された! ベルダも当然驚いたが、彼女は別のところに視線を向けていた。 離れたところからジェンチンの様子を見ていたツーシェンである。 表情を全く浮かべない彼が、唇を噛みながらいまいましそうに親子の様子を見ていたのだ。その瞳からは何と── 涙がひと筋、流れ落ちていた。 あれは、いったい──? ベルダが眉を潜めた瞬間、ツーシェンがこちらに気付いた。 彼は一瞬で表情を消し、つかつかとこちらに歩いてくる。 ベルダは思わず身構えた。「だから娘をここに連れてくるな、と私は」 そう言ったツーシェンの片目が、ぐるり、と裏返った。「これから飛び立たねばならないのに、あんな重しがあっては……困ったものです」 口調だけは淡々と、彼はそう言い放って涙を流したまま廊下へと姿を消していった。あとは任せたとばかりに自分では何もしない。 視線を戻せば、ウェイターたちや用心棒の類が集まってフロアは大変な騒ぎになっていた。「誰だ! クソッ、殺すなら俺を殺せ!」 娘に逃げられ、取り乱したジェンチンは床に膝をつき叫んでいた。誰かが手を差し伸べるもそれを乱暴に振り払う。「そんなに、このカジノが欲しいならくれてやる!」 いきなり、ジェンチンは立ち上がり大きな声で言い放った。「何でもいい、俺はこれから毎日1ゲームをする。俺がもし誰かに負けたら、跡目にこのカジノを譲ってやるぞ、さあどうだ殺人鬼め!」 開店前のカジノは騒然となった。 顔を見合わせる者、手を取り合って震えている者、様々だ。リウリーは部屋の隅で怯えたようにうずくまっている。何人か今の顛末を目撃してしまった客たち──スタンリーやヘルもそうだった──が、驚いたようにオーナーや従業員を見まわしている。 そんな中、ベルダはただ一人確信していた。 マンファージを見つけた。それはツーシェンだ、と。=========!注意!この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。ただし、参加締切までにご参加にならなかった場合、参加権は失われます。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、ライターの意向により参加がキャンセルになることがあります(チケットは返却されます)。その場合、参加枠数がひとつ減った状態での運営になり、予定者の中に参加できない方が発生することがあります。<参加予定者>ベルダ(cuap3248)ヘルウェンディ・ブルックリン(cxsh5984)スタンリー・ドレイトン(cdym2271)バーバラ・さち子(cnvp8543)=========
ランパオロンのカジノルームは奇妙な熱気に包まれていた。 髪を結い上げたベルダは、無駄のない動作でカードを切りながらその雰囲気を肌で味わっている。 従業員が死んでからまだ2時間しか経っていないというのに、客足は途絶えることなく逆に賑わっていた。インヤンガイのように人心が荒みがちな世界の特性か、富める者はとかく「運」に敏感なのかもしれない。 ステージでは、バーバラ・さち子がマジックを披露していた。帽子の中から鳩を取り出し、客から借りた手袋を別の客のポケットから引っ張りだしてみせる。なかなか見事なものだ。 彼女たちは、短いミーティングをとり情報を共有した。分かったことは3つだ。 マンファージがこのカジノを仕切る組織ランパンのナンバー2のツーシェンであること。 そのツーシェンが従業員や客を毒殺していること。 ナンバー3だったマオウェが暴霊となって付近を彷徨っていること。 彼女たちは何とかしてツーシェンを倒さねばならない。ファージに取り込まれた人間は元には戻らないからだ。 しかし──。ベルダは客が途切れたのを見てこちらに近づいてくる男を見た。オーナーのジェンチンだ。 「どうだ、調子は?」 「ジン百杯分ぐらいは貢献したよ」 ベルダの返事を聞いてニヤッと笑う。彼は仲間が殺されるのを黙って見ているような人間には見えなかった。ツーシェンを倒すためには彼が最大の障害だと言えた。 「なぜ客が減らないか分かるか?」 ジェンチンは一人、テーブルに着いて語りだした。 「このカジノで生き残れば幸運が手に入るって言われてるからだろ?」 「そうだ」 満足そうにうなづくジェンチン。「その噂を流してるのが誰だか知ってるか?」 ベルダは無言で首を横に振った。 「ツーシェンだよ。この手のことに関して、あいつは天才だ」 やはり、とベルダは心中で独りごちた。思った通りだ。 「しかし、あんたもいろいろ厄介事を」 「ん?」 「目の届くところに置いておかないと安心できないのかい?」 手元でカードを繰りながら、ベルダは目線だけで一人の少女を見た。離れたテーブルに腰掛け、花瓶の花をちぎって遊ぶリウリーだ。 ジェンチンも目を細めてそれを見た。 「まあそんなところだ」 「不器用だね」 「いい言い草だな。ええ?」 そう言うものの彼に怒った様子はない。「それでも、ここに居させるのが一番安全なのさ。ここなら誰かに攫われることは無いだろう」 「前科があるってわけだ」 「口の減らねえ女だな」 カジノオーナーは口の端を歪めて笑う。彼は呟くように小さな声で続けた。まるで独白のように。──あの子まで失ったら、俺の人生は何の価値もないだろう、と。 その時、ステージの方で歓声が沸き上がった。視線を向ければ、フロアに降り立ったバーバラが、客たちの袖から次々にチップを取り出して渡していた。それはカジノからの粋なサービスのようにも見えた。 その脇でツーシェンが無表情のまま拍手している。バーバラは彼にも近付き、ジェスチャーだけで手を差し出すように促した。仕方なくツーシェンが手を出すと、マジシャンはそこからチップとお金を溢れんばかりに取り出した。 「まあまあ、いけませんわ。いくらなんでもサービスし過ぎですわ」 おどけてそう言いながら、チップとお金を彼の袖に戻し、代わりにスルスルとロープを取り出してみせる。「お客様にサービスし過ぎて、首をくくらなきゃいけなくなりますわね」 ドッと観客が沸いた。 「あらあら? こんなものまで沢山沢山」 と、バーバラは「毒薬」とか「どく」などと書いてある様々なカラフルな瓶を取り出してみせた。不謹慎なジョークではあったが、観客にはウケている。 バーバラが目を向ければ、ツーシェンは冷たい瞳で彼女を見返していた。 「──邪魔してもいいかな?」 ベルダのテーブルに一人の紳士が現れた。スタンリー・ドレイトンだ。彼の隣りには小さなレディことヘルウェンディ・ブルックリンがいて、礼をしてみせる。 ジェンチンは彼らを見上げると、すぐに立ち上がって笑顔になった。 「やあ、よく来てくれたな。楽しめたかい?」 「もちろん。早々とお金を使いすぎてしまったよ」 促されヘルはスツールに腰掛けた。スタンリーとジェンチンは隣り同士に座る。 「いいカジノだ」 ぐるりとフロアを見回し、スタンリーは口火を切った。「客の導線も考え尽くされている。ここなら彼らは気持ち良く金を使うだろう。ちょっと遊びすぎたかな、と思うぐらいに」 「ありがとう。──あんたも経験アリのクチかい?」 「ああ。散財させられる側でね」 2人は笑った。双方ともそれがジョークだと分かったからだ。 「だから少々勿体無いと思ってね」 スタンリーは相手から視線を外し、ゆっくりとした動作で懐から葉巻を取り出した。 「手放す、というのは、いささか早急じゃないかね」 「参ったな」 頭を掻き、ジェンチンは頬杖をつく。 「あの醜態を見られちまったのか」 「潮時とみたのならば、無理に引き留めはしないがね」 紫煙を吐きながらスタンリー。「私も一線を退いた身だ。だが、このカジノには投資する価値がある」 「あんたもそう思うかい?」 ジェンチンの言葉に、スタンリーは肩をすくめながら頷いた。 「簡潔に言おう、手放すのはまだ早い。いやなに、根拠のない私の勘が言うのだがね」 「そうか──」 彼は無言になった。手元のチップを裏にしたり表にしたり、指でもてあそんでいる。 「あんたに子供は?」 「息子が2人に孫娘が何人か」 「悠々自適の御身分か。いいもんだな」 カジノオーナーはチップをベルダの方に放り投げ、天井を仰いだ。そして囁くように言うのだった。 ──俺もあんたみたいになりてえな、と。 「あなたにだって家族がいるでしょ」 唐突に口を挟んだのはヘルだ。しかし口調には険がある。 「そんな風に言うんだったら何で──」 「ヘル」 スタンリーは彼女を静かにたしなめた。彼にはこの“後輩”の気持ちが痛いほどよく分かったからだ。彼は大切なものを守ろうとしてこのカジノを得た。だが守ろうとしても叶わず、自分が何をすべきか見えなくなったのだ。 「ジェンチン君。きみに話がある」 居住まいを直し、スタンリーは改まった口調で切り出した。相手がこちらを見るまで待つ。 「きみの仲間のことだ」 いぶかしげな視線の相手をそのまま、紳士は本題を切り出した。 「ツーシェン君のことだ。きみは最近の彼をどう思う?」 「……? よくやってくれてる、が?」 「しかし客や従業員が何人も毒殺されている」 「まさか、あんた」 ジェンチンは途端に険しい目つきになってスタンリーを睨んだ。 「その、まさかさ」 「あいつは義眼の中に毒を隠し持ってるのよ」 たたみ掛けるようにヘルが言う。 「さっき、あの娘の護衛が殺された時も、あいつは涙みたいなものを流してた。あの娘を毒殺しようとしたのよ」 「何だと?」 鋭い視線を向けられ、一瞬怯むヘルだったが、負けじと強い視線を返す。 「毒を持ち運ぶために目を義眼にしたんじゃないの」 「それは違う。奴は生まれつき目が見えなかった」 「なるほど」 スタンリーは2人を制するように落ち着いた口調で言う。 「彼はとても苦労人のようだ。私もそれなりに苦労をしてきたから分かる。力を手に入れようと手を伸ばし続け、そして最後には“暴霊よりもタチの悪いもの”に取り憑かれてしまった」 「──あんたらの目的は何だ?」 その声は冷たかった。スタンリーは嘆息する。カジノオーナーの目はもう、友人を見るものではなくなっていた。 「正直に言おう。ツーシェンだ」 全く臆することなく、スタンリーは言い放った。 「彼が……というより、彼に取り憑いた悪しき存在が、災厄を撒き散らすのを止めにきた。残念だが、彼はもうきみの知る人間ではない」 「そんな戯言を俺が信じるとでも──」 「思ってないよ」 少しだけ笑い、葉巻の火を消す。 「マオウェ君のことを覚えているかね。彼が同じことを言っていたとしたら、どうする?」 「あいつに会ったのか?」 驚いたようにジェンチン。スタンリーは敢えてイエスともノーとも言わなかった。 「薄々感づいているのだろう? 彼は死んで暴霊となった。それでもきみの身を案じている。きみの身に危険が迫っていると叫んでいたのだからな」 カジノオーナーは何かを言いかけて口ごもった。返す言葉が見つからなかったのだろう。額に手をやり思いを巡らせるように視線をテーブルの上に落とす。 スタンリーはヘルを促して立ち上がった。 「──急に現れて妙なことを口走っている我々のことは信用しなくてもいい。だが、兄弟分の言葉はどうだね? 無視してもよいものかな?」 返事は無かった。 「話を聞いてくれてありがとう。では」 脇でちょっと、とヘルが袖を引いたが、スタンリーはいいんだと彼女をなだめながら一緒に席を外した。 テーブルには俯いたジェンチンとベルダが残された。 少しの間があり、彼女はカードを切りながらオーナーの様子を見つめた。何気ない風を装いながら注意深く。 やがて、テーブルをダンッと叩きジェンチンは立ち上がった。 そして最後に腹立たしげに言うのだった。 ──じゃあ何だって奴は、俺の前に姿を見せないんだ! と。 * バーバラはステージを終え、休憩時間を迎えていた。 バックヤードに戻ると、大きな鞄の中をかき回してL字型に曲がった針金を2本取り出すと、胸の前に持って廊下を歩き始める。 すれ違う従業員には奇妙な目で見られたが、忙しい時間だ。バーバラが会釈してみせれば自分の業務に戻っていく。 聞いた話によると、この針金は霊を察知すると勝手に動くらしいのだ。バーバラはこれで暴霊となったマオウェを探し当てるつもりだった。 「なかなか見つからないですわね……」 と、厨房のあたりをうろうろしていた時、話し声がして彼女は思わず身構えた。 「──さっきの話、驚いたねえ」 「何がです?」 ベルダとツーシェンだ。バーバラはテーブルに隠れ、二人の様子を伺った。かのマンファージは、誰に持っていくつもりかワインのボトルとグラスを2つ持っている。 「ジェンチンの話さ」 ベルダは厨房の出入り口に寄りかかり、相手の背中に話しかけていた。「賭けに負けたら、あんたにカジノを譲るって? 有り難いねえ。どうだい、負けてほしいと思うかい?」 「いいえ」 淡々とツーシェン。 「彼は負けないでしょう。その勝負をディールするのは必ずあなたで、私があなたに特別の報酬を支払うからです」 「へえ、本当に?」 寝耳に水の話を聞き、女ディーラーは驚いた風を装った。 「私は勝負には関心がない。ただし彼の行動が集客に大きく左右することには興味があります。私にはできないことです」 「ふうん」 段々見えてきた。ベルダは自分の推測を確かめるために質問を重ねる。「ジェンチンじゃなきゃ、ここを大きくできないと? だから彼が娘にかまうと腹が立つのかい?」 「別に。ただ……龍の背中に女子供が乗るなんて聞いた話がない」 「ハン? 昇り龍か。なるほどね。じゃあ、あんたは?」 「何が」 「ジェンチンが龍なら、あんたは何なんだい?」 「私は──」 すると何故か不思議な間があった。ツーシェンは、手にしていたワインを置きボトルの栓の封をナイフでかき切った。 隠れて様子を伺っていたバーバラはあることに気づいた。ツーシェンが、涙を流し始めたのだ。 「私は──ただの蛇だ。だが、これから龍になる」 ベルダに背中を向けたまま、マンファージの義眼から液体が零れ落ちる。それはグラスに落ち、ツーシェンはワインの瓶を開け中身を同じグラスに注いでいった。 「──何をしているんですの!」 たまらず、バーバラは立ち上がっていた。目の前で仲間が毒を盛られるのを見過ごせなかったからだ。 ベルダもツーシェンも突然彼女が現れたのを見て驚いた。が、次に動いたのはツーシェンだった。彼は咄嗟に右手を振り払うような仕草をした。 何を? とバーバラが目を見張ったとき、何かの液体が飛んできた。彼の爪の先から飛沫が噴出したのだ。 きゃあっ、と彼女は女性らしい悲鳴を上げる。一瞬のことで、一歩も動けない! もう駄目だと目を閉じた時、彼女のスーツの裾を誰かが引っ張った。 すてんと転んだバーバラ。彼女をよけて液体はテーブルの上に付着し、シュウシュウと音を立てる。浴びていたら無事では済まなかっただろう。 「誰──?」 振り返り、バーバラはギョッとした。大きな男がいつの間にか立っていたのだ。手には拳銃が握られていて、ツーシェンを狙っている。 見たことのない男だった。だが──バーバラはさらに驚いた。彼の向こう側が透けて見えているではないか! 「マオウェ!?」 言ったのはベルダだ。舌打ちしたツーシェンは身を翻して、彼女に体当たりするように厨房から飛び出していった。ディーラーはそれを逃がすに任せた。 ツーシェンが居なくなったのを確認すると、暴霊は銃を下ろして、二人の女性に交互に目をやった。破れた革ジャケットの粗暴そうな男だが、こんな時はとても頼もしく見えた。 バーバラは目を丸くしながら、その姿を穴の空くほど見つめていた。前も、こんな風に誰かに助けてもらったことがある。ロストナンバーになる前のことを、何か思い出せそうな気がした。今、思い出したのは大きな背中。それだけだ。あれは一体誰だったのか。 ブルブルブル、彼女は首を横に振った。いいえ、いいえ、今はそんなことよりカジノの人たちを助けなきゃいけないわ──。 「オレはあんたらの言うことを信じる」 暴霊はやはりマオウェだった。そして素直に二人の話を聞いてくれた。敵の敵は味方、とすんなり理解したのだろう。 「奴は兄貴に全てを手に入れさせて、それを全部奪うつもりなんだ」 彼は薬物に精神と肉体を犯され命を失ったのだという。だから記憶もあやふやなところがあった。それでも、彼は兄貴分のことが心配で古巣に舞い戻った。 「ツーシェンは、いつも暗闇の中から俺らを見てたヤツに食われたんだ。ゼッタイそうだ。みんなそんなヤツは居ねえって言ったけどオレは知ってた! だからここから逃げたんだ」 「そうなんですの」 バーバラが相槌を打つ。ベルダの方は内心焦っていた。逃がしたツーシェンのことが気がかりだったからだ。おそらく彼は今ごろジェンチンに進言しているだろう。──新しく雇ったディーラーとマジシャンが裏切り者だ、と。 急がねばならない。しかしこちらには新たな切り札がある。 「あなたはジェンチンを助けたいのよね」 バーバラの言葉に、マオウェはこくりと頷いた。 「じゃあ、彼にツーシェンが侵食されてもう元に戻らないって伝えてくれないかい?」 「でないと、わたし達、彼をどうにもできないんですの」 しかし彼は二人の言葉に首を横に振った。それはできない、と言う。 「どうして?」 「オレは兄貴の忠告を三度も無視した。だから、のたれ死んだ。とても兄貴に合わす顔がねえ」 なるほど。ベルダとバーバラは顔を見合わせた。彼には彼なりの理由があって、ジェンチンから姿を隠していたようだ。生者たちに誤解されているとは思いも寄らなかったのだろう。 「ねえ、じゃあツーシェンを倒すのを手伝ってくれません?」 「もちろん。構わねえよ」 マオウェはうなづいた。小柄なバーバラを見下ろし、「オレの本体を使ってくれ」 と、彼女の手の平に黒光りするリボルバー拳銃が現れた。マオウェはこの銃に憑いていたのだ。おっ、これはいいとベルダがニヤリとすると、バーバラが悲鳴を上げた。彼女は武器の類が恐くて触れないのだ。 彼女が放り投げた銃を、ベルダがキャッチする。 「説得材料にはなるだろ。ヤク中でも、あんたはジェンチンの弟分なんだから」 * ヘルは、ジェンチンとリウリーの親子に並々ならぬ興味を持っていた。 なぜ、リウリーの母親は夫自身の手で殺されねばならなかったのか──。彼女はスタンリーがポーカーに興じている間に、カクテル3杯を使って従業員や用心棒たちから当時のことを聞き出した。酔ったフリをした彼女が自分のドレスの裾を少しつまめば、男たちは容易に口を滑らせた。 聞けば、リウリーの母親は耳が不自由で、サイバー手術も受け付けないほど身体の弱い女性だったそうだ。インヤンガイでは身体が不自由でも手術を受ける金があれば、いかようにもできる。事実、生まれつき目が見えなかったツーシェンはサイバーアイを埋め込んでいる。 ある日、ジェンチンがこのカジノを手に入れてから間もないころ、敵対する組織が殺し屋を差し向けてきた。ジェンチンに気付かれ、殺し屋は妻と娘を人質に取った。そしてお決まりのセリフ。銃を捨てろ、さもなくば──。 ジェンチンは相手に最後まで言わせずに、妻の頭を撃った。ひるんだ相手の隙に乗じて、続けて殺し屋を撃ち殺す。 どうせ殺されるのなら自分の手で、とでも思ったのだろうか。いずれにしても、ジェンチンの冷酷さは伝説となり、修復できないほどの心の傷を負った娘だけが残されたのだった。 しかも──と、ヘルはフロアを見回し、何事か話しこんでいるジェンチンとツーシェンを睨みつけた。あのマンファージは明らかにこの少女の命を狙っている。 恐らくカジノの経営に邪魔だから。ただ、それだけの理由で。 「ねえ、何して遊んでるの?」 リウリーには新しい護衛がついていたが、ヘルはそれを無視して少女の隣りに腰掛けた。リウリーはハサミで切り絵に興じていた。兎や蓮、梅、竹などの紋様を綺麗に切り抜いている。 「──兎さんの足がちょっきん、頭もちょっきん。なぁんにもなくなりました」 話しかけても、少女は会話してはくれない。彼女の世界にはおそらく、自分と死んだ母親しか存在していないのだ。ヘルはリウリーの手を握ってみた。少女はすぐに手を引っ込める。 決めた。 ヘルは椅子から立ち上がった。キッと顔を上げてつかつかと歩いていく。目指す先にはバーのスツールでマティーニを飲むジェンチンがいる。こちらにレディが来るのを見て居住まいを直した。 「私と勝負して」 ヘルの申し出に、彼は笑った。 「構わんよ。賭ける金がデカいぜ?」 「望むところよ」 二人は無言でルーレットの卓に移動した。ベルダもフロアに戻っていたのだが、ジェンチンは彼女の卓を選ばなかった。 一方スタンリーはベルダとバーバラと作戦会議中だった。彼はヘルに気付き、半ば慌ててルーレット卓へ向かった。バーバラはベルダの卓に残り、はらはらとその様子を伺う。 「あんたに答えてもらいたいことがあるの」 「ほう?」 「私が勝ったら、必ずその質問に答えて」 ジェンチンは頷いてみせた。会場が、ようやく彼ら二人の勝負に気付いてざわつき始めた。結局、まだ誰も大勝負に出る者はいなかったのだ。 ディーラーが銀色の玉を見せる。 ヘルは「15」に手持ちのチップ全てを積んだ。高級車が一台買えるほどの額だった。ギャラリーがざわめいて、オーナーは満足そうに笑う。彼が「34」に手持ちのチップを全て押しやると、またギャラリーが声を上げた。 二つの数字は隣り同士だ。ぎりぎりまで勝負を持たせようという魂胆か。 カラン、とディーラーが銀の玉をルーレットに投げ入れた。ヘルは玉を目で追う。しかし彼女はその玉が止まるまで待たなかった。 チャキッと取り出したのはトラベルギアの拳銃だ。彼女は少女らしからぬ早業で武器を構え、玉に狙いをつけた。「15」にねじ込んでやるつもりだった。 だが、彼女は撃つことが出来なかった。 「──てめえ、何してやがる?」 ヘルよりも素早く銃を抜いた者がいたからだった。彼女のこめかみにピタリと銃口が当てられている。ジェンチンだ。 とはいえ彼も引き金を引けなかった。自分に銃口が向けられていたからだ。構えているのはスタンリー。誰も彼が銃を抜くのを見ることができなかった。 銃を構えたまま三人が静止した時、ようやく観客からどよめきが起こった。恐れをなした者たちが三人のテーブルからどんどん離れていく。 ──チャンスだ! その様子にベルダが、咄嗟に声を張り上げた。 「強盗だ! バックヤードに何人も隠れてる!」 パニックはすぐに起こった。カジノフロアにあるまじき三つの銃口が、客の不安を増幅させたのだ。客たちは強盗が来たと勘違いし、出口に殺到して次々に外へ逃げ出していく。 ベルダはマオウェの拳銃を構え、ツーシェンの姿を探す。居ましたわ! と足元で自分の大きな鞄の影に隠れたバーバラがある方向を指差す。 そこには、用心棒を数人従えたマンファージが、幽霊のように立っていた。 最後の客がフロアから飛び出して行ったとき、ようやくルーレットの銀色の玉が止まった。「34」だった。 「──生きて帰れると思うなよ、お前は自分の命を賭けたんだ」 ヘルに向かって、ジェンチンが静かに言った。 「君を殺したくない。銃を降ろしてもらえないだろうか」 「俺だってあんたを殺したくない。だが仕掛けたのはそっちだ」 ヘルの隣りからスタンリーが問いかけるのを、彼はにべもなく切り捨てた。 「どうして奥さんを殺したのよ?」 銃を向けられたままのヘルが、ぽつりと呟いた。 なに、とジェンチンがヘルを見た。聞き間違えたのかとばかりに怪訝な視線を送る。 「あの子を愛してるなら、どうしてあんなに傷つけたのよ!? あんたはクズよ、自分の手で殺すなんて……どうせ捨てるなら、家族なんて作らなきゃ良かったのよ!」 「お前に何が分かるっていうんだ!!」 怒りのあまり彼がテーブルを叩き、積まれていたチップが飛散した。彼はいきなり痛いところを突かれ頭に血が昇ったようだった。 「死ぬよりひどい目に遭うのを黙って見てろっていうのか!」 ヘルは真っ直ぐに彼を睨みつけ、右手に握ったままの銃をテーブルに置く。 幽霊のように、用心棒たちが手に手に武器を取り出した。銃器や刀である。ひぃっ、とバーバラが悲鳴を上げて鞄の後ろに隠れた。ベルダは銃の狙いをツーシェンに合わせた。 誰かが誰かに銃を向けている。いつ発砲があってもおかしくない一食触発の状況だ。 ハッと思い出したように、ヘルはリウリーの姿を探した。彼女は奥のテーブルで一人で遊んでいた。そばにはセクタンのロメオがついている。無事だ。 「あっ! 分かりましたわ!」 そこで素っ頓狂に声を上げたのはバーバラだった。死んだ目をした料理人の女が包丁を持って歩いてくるのを見て、彼女は閃いたのだ。 「ツーシェンは義眼の涙で人間を操ろうとしたんじゃないかしら。その耐性が無かった人が死んでしまった……?」 「なるほどね」 銃を構えたまま、ベルダはふてぶてしく笑った。「もしそうなら、私は気に入られてたってわけだ。ツーシェン?」 「チン、その男を殺しても構いませんか?」 ツーシェンは彼女の言葉を無視した。その男とはスタンリーのことだ。 「待ちなよ」 そのやりとりに割って入ったのはベルダだ。「ここに拳銃が一丁ある。これで勝負を決めたらどうだい? お互いボス同士が、代わる代わるに自分の頭に向けて引き金を引く。負けた方は全員が命を差し出す」 「……いいだろう」 「チン!?」 意外にもジェンチンは勝負に応じた。ようやくヘルから銃口をそらし、スタンリーも銃を下ろした。 銃口に囲まれた空間で、ベルダは二人の目の前に立ち、マオウェのリボルバーの弾倉を見せた。空っぽのそこに一発の弾を装填して、手で弾倉を回転させる。これでどこに実弾があるか分からなくなった。 彼女の立会いの元、二人は真っ直ぐに視線を戦わせた。 一発目は、ジェンチンだった。カチッ、空振りだ。 二発目は、スタンリーが引いた。カチッ。 三発目は、またジェンチンに戻る。カチッ。ツーシェンが舌打ちした。 四発目は、スタンリーは、ゆったりと葉巻を咥えながら、カチッ。 五発目は、ジェンチンの番だ。 彼はそこで銃をよく見た。銃が傷だらけなのを見て、ふっとカジノオーナーは笑った。自分の頭に向けて引き金を引く。 ──ダァーン! フロアに銃声が鳴り響いた。 腰を折ったのは──ツーシェンだった。 「な……」 腹を押さえ苦悶の表情を浮かべるツーシェン。ジェンチンは頭を後方にそらせて弾をよけたのだ。それが彼を直撃した。まるで狙ったかのように。 ツーシェンは万歳をするように両手を挙げる。 「チン、なぜ撃った? 私は貴方になれる人間なのに、なぜ、なぜ、なぜ……」 すると緊張の糸が切れたように、用心棒たちが一斉に銃を発砲した。弾丸の雨だ。 ヘルは目を見開いた。撃たれる! と思った瞬間に誰かが自分を庇うように床に伏せたのだ。肘の痛みに顔をしかめつつも彼女は相手を見た。見知らぬ若い男である。 「だ、誰っ!?」 「目を狙え、ヘル!」 隣りにいた誰か──新しいトラベルギアの効果で若返ったスタンリーだった──が、惚れ惚れするような機敏な動作で、銃を構えた。目を丸くしたヘルだったが、慌てて愛銃をツーシェンに向ける。 彼らは撃った。 スタンリーの弾は左目を。ヘルの弾は右目を貫いていた。 後方へと吹っ飛ぶツーシェン。 それに追い討ちをかけるように、ベルダが弾を撃ち込んだ。バーバラの鞄に隠れながら4発も5発もツーシェンの身体を撃てば、用心棒たちは動きを止める。 ベルダは立ち上がり、ゆっくりと歩いていく。見るも無残な状態になったマンファージを見下ろせば、血と肉の破片が赤黒く絨毯に染み出していた。頭のあたりに何か脳味噌でないものがはみ出していた。 ダンッ! それを撃ったのはジェンチンだった。 ようやく、フロアに静寂が訪れた──。 「その銃を渡せば分かってくれると思ったよ」 ぴく、と手を震わせ動かなくなった死体を見、静かに言うベルダ。 「俺は探偵をやってたことがあるのさ、旅人さんよ」 ジェンチンは事も無げに呟いた。驚くベルダの脇で、バーバラが大げさに声を上げた。 「エェッ! じゃあわたしたちの話も?」 「あながち、嘘でもなさそうだと思ってた。だが──俺は、こいつのことをそれなりに気に入ってた」 「知ってるよ」 見下ろすその横顔に、ベルダは嘆息とともに声を掛ける。 「なんで俺は──」 続く言葉を飲み込み、ただ彼はゆるゆると首を振った。その手に白い小さな手が触れる。ジェンチンは驚いたように眼差しを向けた。リウリーが、自分の手を握っているではないか。 ヘルが彼女を連れてきたのだ。 「リウリーは治らないかもしれない。でも、それでも……愛してあげて」 ジェンチンは無言で頷いた。ぎゅっと娘の手を握りなおす。 「貴女のママは、パパを愛してた?」 ヘルはリウリーを抱きしめ、額にキスをする。返事は無かったが、ヘルはすでにその答えに思い至っていた。顔を上げれば元に戻ったスタンリーと目が合う。彼も彼女を肯定するように微笑み頷いた。 * 数日後、ランパオロンは営業を再開した。人は多く死んだが何も変わらなかった。 インヤンガイとはそういうところだ。 一つ、変わったことといえば、カジノに凄腕の女ディーラーやマジシャン、どんなゲームでも負けなしの紳士淑女のペアが見られるようになったということだけだった。 (了)
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