壱番世界に『世界樹の苗木』を植え付けようとした世界樹旅団の作戦は、ことごとく阻止された。侵略の魔の手に、人々が気づくことはなかった。 イスタンブール歴史地区においても、その日起こった異変は、事態の収拾が早かったこともあり、ささやかな謎めいた事件として、現地の新聞に小さく載っただけだった。 その後しばらくして、歴史地区は一週間ばかり、関係者以外の立ち入りが制限されることとなる。 それは、もともと修復中であった城壁の復元をすすめるためだとも、ロンドンに本社を置く、ある世界的大企業の出資による、大作映画の撮影のためだともいわれたが――東西文明の十字路、観光都市イスタンブールの人々にとっては、特に気にするほどのできごとでもないのだった。 ――そして。 オリエント急行の終着点、深夜のシルケジ駅に、ロストレイルおとめ座号が到着する。 ロバート卿の招待に応じた、ロストナンバーたちを乗せて。 † † † ペラ・パレス・ジュメイラは、ヨーロッパとオスマン帝国の雰囲気を違和感なく調和させた、老舗のホテルである。アールヌーボー様式に東洋のスタイルを取り入れた内装と、床から天井までの窓がある客室、クラシックな堅木張りの床は、かつてこのホテルに、オリエント急行から降り立った賓客が宿泊した時代を彷彿とさせる。 ロビーにて、扇をもてあそびながら、ヴァネッサ・ベイフルックは気だるげに、しかし楽しげに、ロバート卿に話しかける。「アリッサとエヴァも来ているのでしょう? 今、どこにいるのかしら?」「ひと足先にチェックインを済まされ、出かけられたようですよ」「こんにちは、ロバート卿。ご招待ありがとうございます」「どこから観光していいか迷っちゃうけど、行ってきまーす!」「行ってらっしゃい。楽しんできてくださいね」」 招待の礼をのべ、観光に出かけて行くロストナンバーたちを、ロバート卿は見送っている。「あらぁ」 ヴァネッサは扇を開き、口元に当てる。「どうしてエヴァをエスコートしないの? たまには旅先で親睦を深めるのも大事でしょうに」「ペラ・パレスのカフェでお茶でも、とお誘いしたのですが、ひとりで過ごしたいからと」「まあまあ。ふられてしまったのね? お気の毒に」 くすくす笑うヴァネッサに、ロバートも苦笑する。「あの難攻不落さは、コンスタンティノープルの三重城壁以上ですね」「それでロバート卿は、今日はどうお過ごしのご予定かしら?」「ポスポラス海峡クルーズに行くつもりです。ヴァネッサさまは?」「そうねぇ。トプカプ宮殿を見学して……。そのあと、少し、街でお買いものもしたいわね」 † † † (男の子に見えるかな?) ウィリアムを強引にロバート卿に挨拶に行かせたすきに、変装したアリッサは人ごみに紛れ、単身、ホテルの外へ出ることに成功した。 髪を古びた帽子で隠し、サスペンダーつきのだぼだぼのスボンと汚れたシャツといういでたちである。 久しぶりの観光にわくわくし、ガラタ橋付近をうろうろしていたところ。 乗馬服を着た黒髪の青年に、ぶつかってしまった。「あ、ごめんなさい」「いえ、こちらこそ」 足元をふらつかせたアリッサを支えてくれた青年は、絶世の美貌の持ち主だった。冬の湖のような瞳には、どこか見おぼえがあるような……? じっと見つめて、すぐに、その正体に気づく。 なんと……。「エ、エエエエエ、エヴァおばさま」「しっ」 レディ・カリスは人差し指で、アリッサの口をふさぐ。黒髪のウィッグは精巧であったし、身のこなしの敏捷さも含め、その男装はなかなか巧妙だった。「こんなとこでそんなかっこで何してるのー!? フットマンも連れないで男装で単独行動なんて」「そっくり同じ台詞を返してあげるわ。あなたこそ、ウィリアムを巻いてきたのね」「だって……。観光って、自由で楽しいのが一番だと思うし……、お目つき役と一緒にするものじゃないとも思うの。おばさまはどうして?」「今回に限っては、あなたと同じ理由。ロバート卿のご招待ではあるけれど、旅先でまでロード・ペンタクルに気を使いたくはないのよ」 カリスが手にしている市街地図に、アリッサは目を輝かせる。「あっ! この花丸印。ロバートおじさまが逆さ吊りになったコーヒーハウスだ。それに、皇帝として拘束されちゃったアヤ・ソフィア」「……ご本人には申し訳ないけれど、見ておきたかったものだから」「面白そう! 行きたかったのここ」 満面の笑顔で、アリッサは元気に走り出す。 † † † ビザンチウムと呼ばれていたこの都市が、創立者コンスタンティヌス帝の名を取って、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルとなったのは西暦330年のことだ。 それから一千年あまりを経て、オスマン・トルコの治める地、イスタンブールとなり、さらに―― 1924年、共和制を宣言したムスタファ・ケマルにより、オスマン王家のカリフはイスタンブールから追放された。 帝国の存続は、永遠ではない。 それでも、未だこの街は、光の都が織りなした華麗な歴史の残り香の、ただ中にある。=============!注意!パーティシナリオでは、プレイング内容によっては描写がごくわずかになるか、ノベルに登場できない場合があります。ご参加の方はあらかじめご了承のうえ、趣旨に沿ったプレイングをお願いします。=============
ACT.1■夢の名残 「あれが、ルメーリ・ヒサールですね」 村崎神無はつぶやいた。メフメット2世が築いた砦の名残が、向こう岸に見える。 頬を撫でる潮風が心地よい。神無の黒髪も、さらさらと風に同化するかのようだ。 この都市の歴史も、かつてここで起こった戦いのことも、神無はよく知らない。それでも、海上から見る風景は、十分に彼女の心を打った。 (もっと……。知りたい。この世界のことを) 「海上から眺める景色は、また違うよな」 デッキにいた相沢優は、うつりゆく光景に目を細める。やわらかな、しかしどこか毅然とした、少年から青年への端境期の輪郭を、風が通り過ぎていく。 ふと心を横切るのは、あの、竜星の出来事。 まだ油断はできない。けれど、世界樹旅団による植樹の侵略を防くことができて、壱番世界を守ることができて、本当に良かったと思う。 「ルメーリ・ヒサールは、今は修復されて、野外劇場やコンサート会場として活用されているそうだよ」 ロバート卿が、すっと指をしめす。 「あ、ロバートさん、こんにちは」 「やあ優」 「ご招待いただいて、ありがとうございます」 「少しはゆっくりできているといいのだが。……きみは、神無さん、だったかな?」 優はごく自然に挨拶をし、神無は、 「………! あ、あわわわ、ロ、ロバ、ロババ、きょきょ、本日はお日柄もよろしくッ!」 まさかロバート卿から声をかけられるとは思っていなかった神無は、がっちがちに固まってしまった。 神無たん、ファミリーというのはすんごく偉い人で、私如きがお目にかかっていい存在じゃない! と考えているのである。 緊張のあまり、卒倒しかけた神無を、ダークグレイのスーツに身を包んだ紳士がさりげなく支えた。 「おやおや。話しかけただけで若いお嬢さんを失神させてしまうとは、ロバート卿も隅に置けない」 メルヴィン・グローヴナーだった。 「これはこれは。ドバイ以来ですね。貴方がご参加くださるとは」 ここがビジネスの場であるかのようにロバート卿は会釈をし、メルヴィンも笑みを浮かべる。 「おや、意外かね?」 「ユーロ圏債務危機のおり、ご多忙なのではと」 「それは君も同様だろうに。欧州金融安定化基金(EFSF)が、うまく機能すれば良いのだがね」 「欧州中央銀行(ECB)は、債券市場に介入するようですが果たして――おっと失礼、退屈だったでしょうか?」 振り返った先にいたのは、談笑中の、川原撫子と吉備サクラだった。 「おかまいなく〜☆ 太っ腹なご招待、ありがとうございますぅ。ロバート卿がとんでもなく良い人に見えてきました☆」 「私、香辛料系のお土産欲しいんですよね。あと、現地のカレーのレシピを覚えたいなって思ってたんですけど。トルコライスみたいな。……その、グラウゼさんへのお土産にしたくて」 「カレーですかぁ。いいですねぇ」 「でも、調べてみたら、トルコライスってトルコ発祥じゃないんですね。お土産はスパイスにしようかな」 「エジプシャン・バザールに行くといいですよ☆ 私は、コロンヤを買おうと思うんですぅ」 「コロンヤ?」 「トルコの芳香剤です☆ いろんな種類があるんですよ〜。バラとかラベンダーとかジャスミンとか。瓶も綺麗ですしお手頃価格なのでおすすめです☆」 そんなガールズトーク(??)をかたわらに、ベルダがゆっくりと近づき、ロバート卿にウィンクをした。 「こういうクルーズもいいものだね」 「お久しぶりです、レディ・ベルダ」 マーメイドふうのドレスから、白い腕が伸ばされる。艶めいた指先が、ロバートの頬と首すじをなぞった。 「この間の続きでもするかい?」 「たいへん魅力的なご提案ですが、ターミナル中の男性陣に恨まれてしまいそうだ」 「なら、ポーカーでも?」 「お相手いたしましょう。ですがどうか、お手柔らかに」 「そりゃあ、こっちの台詞だと思うがねぇ」 そしてベルダは、カードを配り始める。 † † † 「拘束され続けで、大変でしたね」 にこやかに声をかけてきたのは蓮見沢理比古だ。カジュアルないでたちであるが、さりげない所作に気品と落ち着きがある。 「これは、ミスターハスミザワ。ブルーインブルーの真珠魚漁のおりにはお世話になって」 「真珠魚漁は、俺も楽しかったです」 「どうも。こんなのんびりすんの珍しいんで、自分でも驚いてる」 蓮見沢家当主の秘書であり、護衛役でもあるところの虚空は、いつもどおり理比古の影のように――影というには印象的すぎるにしても――付き従っている。 理比古はにこにこと虚空を見て、たまにはもっと自由に楽しんだら、っていってるんですけどね、と言い、虚空は虚空で、十分楽しんでる、船から見える美しい光景に、一瞬だがつとめを忘れて感動にひたりそうになった、と、堅苦しく返し、それはそれで、彼らの日常であるらしかった。 「よければ今度、日本にいらっしゃいませんか。打ち上げも兼ねて」 「日本に? それは興味深い」 「ご案内したいお店があるんです。ご飯とデザートがとても美味しいので、ご馳走したくって」 「楽しみですね。時間が取れそうでしたら、是非」 † † † 「あなたの弟に逢ってきたよ」 ムジカ・アンジェロがそう言ったのは、クルーズが終わりかけたころだった。 「……海が、お好きですか?」 返事の代わりに、ロバートはそう応える。 「船の上は居心地がいい。……もしかしたら、ベンジャミンさんは違うのかい?」 「ええ。弟は幼いころから、湖や海といった場所が苦手でした。そのくせ、いつか海賊の宝を探したい、宝の地図と暗号文を手に入れて解いてみせるんだ、などと、矛盾したことを言っていて――弟は、元気でしたか?」 「螺旋飯店の支配人は、あの街にこそふさわしい“名探偵”だったよ。あなたにとって、まだ彼は“弟”なのかな?」 かつてのベンジャミンが、ムジカの亡き弟と重なる。 「それはもちろん。ただ僕は、記憶の中の弟しか、思い浮かべることができなくて。……幼い弟は、年の離れた兄をうっとおしがって、なかなか相手にしてくれませんでした。彼が五歳くらいのときでしたか、面白い暗号文をつくってくれたら遊んでもいいと言われたので、ずいぶん頑張りましたよ」 「オリジナルの暗号文を考案……。あなたが?」 そんなこともありました、と、ロバートは笑う。 ――あなたはこの地に、何か思い入れがあるのか。それとも。 ムジカが、重ねて聞こうとしたところで、 「そろそろ、終着港のアナドル・カワゥです。レストランへご案内しましょう」 話題は、持ち越されることとなった。 † † † 「トルコ産アカシアの蜂蜜とハーブでマリネした鴨のローストです。ザンテカランツレーズンのソースでどうぞ」 テーブルについた一同の前に、アミューズが置かれる。 ふとウエイターを見て、ロバートは、おや、という顔をした。虚空だったのだ。いつの間にやら店側と交渉したらしい。 「お客さまなのですから、きみも、ミスターハスミザワと一緒にテーブルに」 「そうだよ、虚空」 「給仕しているほうが落ち着く」 虚空は譲らない。筋金入りの通常営業ぶりだった。 「神無さん? どうしましたか?」 ロバートの隣席に座ることになった神無は、まだ緊張でガタガタ震えている。食事にあたって両手首を繋いでいる手錠をはずそうとしているのだが、うまくいかないのだ。 「お手伝いしましょうか」 反対側の隣席にいたサクラが、神無の首から下げられた鍵を用い、手を貸した。 「ありがとう」 ようやく神無は、ほっと息をつく。 「美味しそうです〜☆」 撫子は臨戦態勢だった。なお、撫子たんは特別に食べ放題OKだったりする。 「この食材とソースの組み合わせはいいな。今度俺も作ってみよう」 料理に舌鼓をうちながら、優は料理研究に余念がない。 「イスケンデル・ケバブです」 新しいひと皿が運ばれてきた。複雑なスパイスの香りが広がる。 「イスケンデル……? ドネル・ケバブに似てるけど」 首を傾げる優に、メルヴィンが説明をする。 「イスケンデル・ケバブは、ドネル・ケバブにヨーグルトとトマトソースをかけたものだよ」 「どうして『イスケンデル』なんでしょう?」 「アレキサンダー大王のことなのだよ。この料理は大王のお気に入りだったらしい」 「詳しいんですね」 「実は全て本から得た知識でね。僕はこの地に来たのは初めてなのだ」 そう言って、メルヴィンは苦笑する。 「君のほうが、料理には造詣が深いと思う。いろいろ教えてくれないか?」 レストラン内部には、バーカウンターコーナーがある。 「お酒さえ飲めれば、どうだっていいわ」 臼木桂花は、ひとりカウンターに陣取っていた。 緑の肌のバーテンダーからワインリストを受け取るなり、無遠慮にロバート卿を指差す。 「あちらの方の奢りで。このワインリストに載ってるの、全部持ってきて頂戴」 「あの……、何か、ご不満なことでも?」 バーテンダーはそっと眉をよせる。 「別にぃ? 人様のお金で旅行させていただいてますもの、不満なんて欠片もありませんわ」 何ごとかと、何人かが心配そうな視線を送ってくる。 大丈夫ですよ、と、微笑んで、バーテンダーは、レストラン部分とバー部分を隔てるべく、仕切用の扉を閉めた。 もう、バーでのやりとりは、彼らには見えず、聞こえない。 † † † 「早くワインを持ってきてよ」 「お断りします」 ツーリストのバーテンダーはきっぱりと言う。 「お酒を大事に飲んでくださらないお客さまに提供できるワインなど、一本たりともありません」 「何ですって」 「酔いたいだけなら、エチルアルコールでも飲んでいればよろしい。ここにあるワインを醸すために、どれほどのひとびとの想いが凝縮していることか」 「それくらい、わかってるわ。アチシは商社ウーマンだったんだから」 「でしたら、もっとお酒全般への愛情を持ってください。どんなご事情がおありでも、荒れていい理由にはなりません」 「愛はあるわよー。好きじゃなきゃ飲めないでしょ。お酒なんて」 「ではどうか、時間をかけて味わいながら、丁重にお楽しみください。一気飲みなどはもってのほかです」 それを約束してくださるのなら、おもてなしさせていただきます、と、バーテンダーは表情を和らげる。 「まずはこちらをお試しになっては? カッパドキア産のゴールド・スパークリングワインです」 † † † 「うーん、美味しかったです☆ メインのお料理だけじゃなく、レンズ豆とホワイトアスパラのスープも自家製パンも」 「デザートもよかったですよね。ザクロシロップのフルーツカクテルとか」 食べ終えた撫子とサクラは、にこにこと満足を告げる。 優もあらためて、ロバート卿に向き直った。 「ロバートさん」 「ん?」 「ごちそうさまでした」 「ああ、うん、どういたしまして」 「あなたは、ストレートな謝意に弱いのかな?」 ムジカがからかうように言う。 「さて、どうだろう? 僕はこのとおりひねくれ者なので、かえって、裏表のない素直な人物に好感を持つというのはあるかもしれないね」 「なるほどね。……おや、これはまた」 折りも折り、ムジカのもとに由良久秀から連絡が入った。 「ご友人から呼び出しですか?」 「あなたが好感を持てなさそうな人物からね。なんでも、地下宮殿で、逆さまの女の首を見つけたらしい」 「ユニークな謎掛けをなさるかただ」 「これが謎掛けだって、わかるのかい?」 「そういうきみも、わかっているんだろうに」 「そうだね。哀れな女の名前は“メデューサ”だ」 ACT.2■それが宝石 トプカプ宮殿の宝物殿は、もともと、メフメット2世の夏の宮殿として建造された。 その壮麗さ、広大さに、華月は、鮮やかな紫の目を見張る。 三つの宝石が埋め込まれた黄金の短剣、ダイヤモンドとルビーの羽飾り、黄金の象のオルゴール、スプーン職人のダイヤモンドと呼ばれる86カラットのダイヤなど、どれも素晴らしいものだった。 その価値が華月にはわかることを、すぐにヴァネッサは理解した。 「ものを見る目があるひとがいて、うれしいわ」 ヴァネッサは満足そうに扇を揺らす。 ジャックは膨れっ面で、ずっと小声でぶつぶつ言っていた。 「そりゃ麗しの茨姫がこうして出てきてくれりゃ嬉しいゼ。でもその前に俺としちゃデートのひとつもしたかったのにヨ。畜生、ここには初デートに狙ってたンだゼ」 「あら、それは」 「ハイハイ、レディに贈り物が間に合わなかった俺が全て悪いンだヨ」 「痴話喧嘩はほどほどにね♪ 宝石キラキラキレイだねっ☆」 うにょにょもんぶは、うにょうにょうにょと歩きながら、黄金の甲冑を見て、「ねーねー、この甲冑、もんぶに似合うかな?」などと言っている。 「もんぶに宝石のお友達はいなかったなぁ。もんぶのおうちお金持ちじゃなかったし」 † † † 「トルコ石というのは、トルコでは産出しないの。なのになぜそんな名前かというと、トルコの宝石加工技術がすぐれていたからなのよ」 グランド・バザールのメインストリートに並ぶ宝石店で、これと、それと、ああ、そのネックレスもいいわね、その指輪も、などといいながら、ヴァネッサさまはお買い物に余念がない。 そして、もんぷにも容赦なかった。 「え? もんぶがお荷物持つの? わかった、がんばるー」 大き過ぎる荷物を持たされたもんぷは、うんしょうんしょ、ちょっと重いねー、などといっていたが、そのうち。 ……ぷにゃっ。 潰れてしまった。 「大丈夫?」 実は、華月も荷物持ちをさせられていたのだが、手を差し伸べる。 「貸しな」 「ありがとうございます」 礼を述べる華月に、 「茨姫の荷物は全部持ってやるヨ。好きなだけ買やいいだろ」 と言うのだった。 「……綺麗」 銀細工の製作のときに使えたらと思いながら、華月も宝石店の品揃えを見ていた。 「これなど、品質が良い割には手頃なのではなくて?」 ヴァネッサが、小さなトルコ石を指さす。 華月は嬉しそうに笑い、それを買い求めることにした。 ACT.3■忍ぶれど 「アリッサお嬢様を見かけなかったか? レディ・カリスも、どこにいらっしゃるのやら」 ペラ・パレスのロビーで、ウィリアムはロストナンバーたちに聞き込みを開始していた。 百田十三は鉄串に符を巻いて滑らせ、術の召還を行う。 報告は、すぐになされた。アリッサは変装し、歴史地区の観光に出かけたらしい。 「流石アリッサ。思った通りしでかしてくれる。火燕招来急急如律令! アリッサの行先を探れ」 偵察用の燕が、飛び去り、そして。 「行方は、わかった」 しかし、ウィリアムにそれを告げながら、十三は言う。 ――追い付くのは勘弁してやれ、と。 † † † 一息入れがてら、コーヒーハウスで、テュルク・カフヴェスィ――トルココーヒを飲んでいたアリッサとカリスのもとに、ジューンが近づく。 ピンク色の髪をふんわりと揺らし、純正のアンドロイドは丁重に頭を下げる。 「こんにちは、アリッサ館長、レディ・カリス」 古い帽子をすっぽりとかぶり、カーキ色のシャツを着た下町ふうの少年と、簡素な黒革の乗馬服を銀のベルトで留め、腰に片手半剣を携えた剣士ふうの青年の正体は、あっさり看破された。 ジューンの目に変装は通じない。その意味するところも。 「お二人が男装なさっているのは、宗教上の理由ですか? それとも、ここはそんなに治安が悪いのでしょうか?」 「どちらでもないの。『お忍び』っていったら、わかってくれるかな?」 アリッサの言葉は、ジューンなりに解釈された。 「了解いたしました。公式の状態ではないということですね」 「ここには、ひとりで来たの?」 「はい、壱番世界で初めてコーヒーハウスが出来た場所だと伺ったので、まずは、と思いまして」 この後も、ご一緒させて頂いても宜しいですか? と、ジューンが申し出たとき。 「いやー、あんた、男装してもとびきり美形なんだな」 つかつかと現れた坂上健が、カリスの顔を覗き込む。 「……野暮なことを。ゆきずりの剣士にいうことではない」 ジューンを受容したカリスだが、健には容赦なかった。 健は健で、それを気にする様子はないようだ。安定無敵のKYである。 「ロバート卿は、仮にも親戚なんだし、そんなに嫌わなくていいだろうに。それとも案外、まっとうな反応というべきかな」 「なぜ?」 「あのひと、目的のためには手段を選ばないって気がするし、同じ価値観じゃないと共感できないだろう?」 「誤解があるようだが、私はあのかたが苦手なだけで、とくだん、嫌ってはいない。あのかたは、私が敬遠し忌避してやまないところの、野暮な殿方ではないのでね」 あなたのように、と、ガラスハートな男性なら全力泣きダッシュ必至の辛辣な意味が込もっているわけだが、しかし、健くんにそれが伝わるようならとっくにKIRINは卒業しているんじゃなかろうか。 「そのすがたじゃ、レディ・カリスって呼べないな。なんて呼べばいい?」 根負けした、というように、剣士はため息をつく。 「……セシル、とでも」 † † † (アリッサとカリスさま?) ティリクティアも、彼らの正体に気づいた。 (野暮なことしちゃ悪いわね。ええと、たしか、壱番世界共通の、偶然の出会いのルールがあったはず) 「すみませーん、食パンください。え? サバサンドしかない?」 ティリクティアはお茶目にも、おもむろに屋台で、トルコ名物サバサンドを購入した。 そんでもって、それをくわえてふたりを待ち伏せ、まずはアリッサにぶつかった。 「きゃ、ごめんなさい」 わざと尻もちをついたティリクティアはすぐに立ち上がり、身だしなみを整える。 「……どういたしまして? あの、サバサンド落としたよ?」 「ありがとう。これも運命ね。可愛いお兄さん、かっこいいお兄さん。私も一緒に歴史地区をまわってもいいかしら?」 古式ゆかしい手順を踏んだ巫女姫に、アリッサとカリスはどう反応したものか、しばし考え込む。 (誰だろ、ティアにこんなこと教えたの) (調べておきなさい) その様子を見ていた一一 一が、駆け寄って来た。 彼女の今回の参加動機は「金貨野郎は気に食わないけど、観光旅行のチャンスだし喜んで!」だったので、ふたりに通じるものがあったといえよう。 声は小さめながら、嬉々としてささやく。 「遂に、つ い に ウィリアム執事を撒いたんですね~〜! さすが館長! 世界一です! いえ異世界群一です!」 さらに声をひそめた一は、今度は乙女らしく頬を染めて、ちらっと剣士を見た。このイケメンの中の人がカリスだとはまっっったく気づいていないのだ。 「と、ところで、すっごく美形のロストナンバーさんとご一緒ですねー。あのかたの、お、お名前は何て?」 アリッサは、小首を傾げつつ、 「セシルって呼べばいいと思うよ」 とだけ言う。 「セシルさんですか。最近保護されたかたでしょうか? ああん、迎えに行きたかった。真理に目覚めて立ちすくむ彼に手を差し伸べて、さあ、私と一緒に冒険の旅に出かけましょう、と言いたかった」 「あ、同じようなこと、私、アリオにやったような気がする(註:違います)」 「そんな劇的な出会いだったんですか? ふつう、ラヴが芽生えません?」 「………芽生えてないなー。ここにはアリオも来てるはずだけど、今どこにいるのかな?」 「うわクール。そういえば金貨野郎はレディ・カリスにフラれたらしいですよ!」 「えっ、そうなの?」 「いやー流石はレディ・カリス、男を見る目がありますね!」 剣士は笑いを堪えていた。それがまた一には至上の微笑みに感じられ、乙女心はディラックの空の彼方まで飛翔するのだった。 「ゼロは聞いたことがあるのです。この世界で一番のお金持ちさんはお姫様属性で、逆さ吊りとか拘束とかにあうのが得意技だそうなのですー」 「うわびっくりしました!」 いつの間にかそこにいたシーアールシーゼロは、なぜか、白セーラー服と半ズボンの男装だった。 「コンダクターの男の子の変装ですか?」 一に問われ、ゼロはきょとんとする。ゼロの肩の上に、セクタンが一匹、乗っかっていたのだ。 「謎のセクタンなのです。いつの間にかここにいたのです」 「あれ? この子、ヴェネツィアで見たことあるような? ウィリアムー! ウィリアムですね。探してたんですよ、どこ行ってたのー!」 一は、ぎゅむーとセクタンを抱きしめる。 「いいお話なのです」 うんうんと頷いたゼロは、カリスとアリッサに言うのだった。 「そんなこんなで、ここには素敵な王子様が二人もいるので、お姫様を助けてあげるといいと思うのです。そして告白するといいのです」 (告白?) (ロバートおじさまに「あなたのことが苦手です」って言えばいいんじゃないかな?) (……今更?) しばらく一の腕の中でうっとりしていたセクタンは、すぐに、はっと我に返り、ぴょいーんと、すりぬけてしまった。 「あああ、行かないでーー、ウィリアムー!」 その言葉を聞き届けたように、セクタンは制止したが、すぐに、しゅわっちと飛び上がり、別の幼女の肩に乗っかった。 そこには、ゼロ同様に男装をしたエレナがいた。こちらも、ヴィクトリア女王がエドワード皇太子に着せたような、あるいは音楽院の生徒を彷彿とさせる、愛らしくも貴族的なセーラー服すがたである。 「どうしたの? どこの子かな?」 びゃっくんと一緒に抱かれたセクタンは、意味もなく「セクタンの護り!」的ポーズを決めているが、まったくもって何も発動しない。 「よう一やん、ここにいたのか。……なんだなんだこのセクタン、おまえ、男の娘が好きなのか?」 虎部隆がひょいと手を伸ばし、セクタンを引き取った。セクタンはイヤイヤをするように首(?)を振る。 はずみをつけて、えいやっと隆のナイアを蹴るなり、その反動で空を切った。放物線を描いて地に落ちたセクタンは、今度は、とっとこぴょんぴょんと、アヤ・ソフィア方向に向かって移動しはじめる。 どこからか小さな旗を取り出して器用に振ると、一同をくい、と振り向く。さあ出発するぜ、おまえらオレについてこい、と、言っているようだ。 「……何様だ、おまえ」 呆れ果てた隆に、 「でも、ちょうど、アヤ・ソフィアに行くところだったんだよ」 と、アリッサはにこりとした。 「おっ、アリッサ、その格好も似合うな! って言っちゃだめなのか。どう呼べばいい?」 「んー、アリ……、アリオ? かな?」 「どっかの影の薄いヤツと同じ名前だな」 「どうせ……。影が薄いよ……」 どこからともなく、聞き覚えのある声がした。 よくよく見ると、ゼロのそばに、少年がひとり、立っている。 アリオだった。 「あれ? アリオじゃん? いつからそこにいた?」 「ゼロちゃんと、ずっと一緒だった」 「ゼロより影が薄いなんてアリオさんも隅に置けないのです」 「いや、隅に置きっぱなしだろ。前回はレディ・カリスがぼっちだったけど今回は誰だろ、とか思ってたんだが、おまえだったかぁ、ははは」 「笑いごとじゃないよ」 「悪い悪い。そうだ、夜、ここにいる皆でホテルの部屋に集まらねぇ? アリッサも来いよ、遊ぼうぜ! あとで優にも声かけとくし」 隆は、がっしと、アリオの肩を組む。 「遊ぶったって、賭けトランプだけどな!」 † † † 結局、セクタンに先導されるように、一同がアヤ・ソフィアに向かおうとしたときである。 純真無垢な子狼の、あどけない声が響き渡った。 「アリッサとアリッサのおばちゃんだー。こんちや!」 アルウィン・ランズウィックに、ものっそストレートに言われて、アリッサとカリスは、またも顔を見合わせる。 「女の人間なのに、何で男の人間のかっこ? ……そうか、ショコラはいよー(註:諸国漫遊)な! 白いヒゲのじーちゃんのアレな。秘密のな。控えろろーな」 「アルウィン、こちらにおいで」 保護者的立場のイェンス・カルヴィネンが、歩みよって来た。 イェンスは非常に多忙な身であるのだが、怖い代理人を拝み倒し、やっと休みを貰えたのだ。もちろん、帰れば仕事の山が待っているだろうけれど、そこはそれ。アルウィンとの観光を優先したのだった。いろいろばっちり予習済みである。 「アルウィンはとても素敵なこと聞いた。逆さまに干される(註:吊るされる)と王様になれるらしい」 何やら情報が間違って届いているようだが、特に誰も訂正しなかった。 「さあ、アルウィン。ふたりとも知らない人だよ! では失敬! 館長!」 アルウィンを抱え、連れて行きざまに、イェンスはうっかり言っちゃいながらも、頭を下げる。 アルウィンに肩車をしながら、イェンスは思う。 もし自分に子供がいたらこんな風だろうか、と。 「イェンス。アルウィンがついてる」 その心が通じたかのように、アルウィンは、はしゃぎながら答えた。 (心配するほどのこともなかったか) ティーロ・ベラドンナは、姿を消し、ひとりで上空をふわふわ飛んで、歴史地区の観光を楽しんでいた。 トプカプ宮殿の尖塔に掴まったり、アヤ・ソフィアの屋根に寝転んだりして、そこらへんの屋台で買ってきたサバサンドを食べながら。 もしもふたりの正体がばれ、難儀しているようなら手を貸そうと思っていたが、その必要はなさそうだった。 ティーロは気ままに向きを変える。次はシシュ・ ケバブにしようかと思いながら。 † † † 一同は、アヤ・ソフィア、ブルーモスクを経て、イェレバタン・サラユへと向かった。 地下宮殿の通称で知られているここは、東ローマ帝国の大貯水槽である。 エレナはじっと立ち尽くす。 数百の柱と地下水の光景は幻想的で、何故か目に見えない『運命』のかたちを感じた。 「栄華は永遠ではないかもしれない、でも永遠に残るモノもあると思うわ」 そして、終焉を迎えるのにも理由があるはず。 (運命の分かれ道で、カリス様やアリッサは何を思うの?) 「あたしね、自分にとっての『本当の幸い』を求めていいんじゃないかなって思うの」 少女の声が、静かに反響した。 黒葛小夜と由良久秀は、少し前にここに到着し、ゆっくりと観光していた。アリッサ一行を見つけたが、遠くから会釈するだけに留める。 由良としては、地下宮殿の撮影が目的だったのだ。それでも、ふと絵になるな、と思い、風景を撮るふりをして、アリッサとカリスを写真におさめる。 「ねえ由良先生。此処にはどんな王様が住んでいたんですか?」 「ただの貯水池だ。滑るぞ」 由良は、気配りはするが、愛想はない。しかし小夜は、尊敬した瞳で見上げながら、異国の情景を楽しんでいた。 足を滑らせかけて、思わず腰にしがみつく。 「あ、ごめんなさい」 「足元に気をつけろ」 怪我をさせたら小夜の兄が面倒だ、などと思いながら、純粋な眼差しは満更でもない。 ――と。 「メデューサの首だ。逆さまの」 「え?」 おもむろに指さす先に、小夜は見た。 336本の大理石の円柱で、この貯水槽は支えられているのだが、そのうちのひとつに、メデューサの顔が彫られた古代の石塊を土台にしているものがあったのだ。 「どうして、こんな」 「リサイクルだろうな」 あっさり言って由良は、ムジカに連絡する。 何らかの興味を惹かれるだろうと、思ったので。 ACT.4■ペラ・パレス・カフェの一幕 ファルファレロ・ロッソは、このホテルのバーに行くつもりだったのだ。 それなのに。 「黒い髪、黒い服、眼鏡……、パパ!?」 なんと、ゼシカ・ホーエンハイムにつかまってしまった。ゼシカの父親を構成するポイントに、共通しているものがあったらしい。 「誰だてめぇ? 娘なら間に合ってる」 「パパ……」 小ガモのようにくっついてくるゼシカを、当然ながら、ファルファレロは邪険にした。 世にも愛くるしい幼女は、長い睫毛に覆われた大きな瞳を潤ませ、とうとう泣き出した。 行き違うロストナンバーたちの視線が痛い。 「おい、こら。俺が泣かせたみてぇじゃねぇか」 ――どう見てもそうである。 仕方なくファルファレロは、ゼシカをカフェに連れていき、落ち着かせることにした。 誤解は解けたようで、ゼシカは、両親のことを嬉しそうに話し始める。 「これがパパよ。上手に描けたわ」 似顔絵を見せられ、 「下手くそだな」と酷評したものの、その父親が、以前、ポーカーをした牧師だと判明した。 「酷え親父だな。てめえの事捨てたんだろ? 忘れちまえよそんなの」 「ううん。ゼシね、パパの事大好き。ゼシのママもパパが大好きだったのよ」 「わかった。次会ったらついでにぶん殴ってやる」 しかしゼシカは、にっこりと小指を差し出す。 「マフィアさんも、家族は大事にしなきゃだめよ」 「……そうかもな」 言われてファルファレロは、多少、娘との関係を考え直す。 まさか、指切りげんまんで約束させられるとは思わなかったが。 † † † 彼らのテーブルのすぐ近くからは、ロビーが伺える。 観光から戻ってきたらしき剣士ふうの青年に、ロバート卿が話しかけていた。 「やあ。ミスターセシル」 「何のことでしょう?」 「一応、気は使ってくださったんですね。偽名の出典は、エリザベス1世の宰相、ロバート・セシルからですか?」 「『ロバート卿』に、敬意を表さないわけにはいきませんので」 「アリッサは?」 「お友だちと一緒なので、ひとりで」 「ああ、なるほど。では、お茶でも?」 「……このすがたですと、あらぬ誤解を招くと思いますが?」 これはいったいどういうことかと、ゼシカは大きな瞳を見開き、じっと、ファルファレロを見つめる。 が、ファルファレロは目を逸らした。 「俺にコメントを求めるんじゃねぇ!」
このライターへメールを送る