ヴォロスの果て無き大地と蒼穹の間を、ロストレイルが駆ける。どこまでも青い空に虹色の線路が構築され、車輪が通り抜けた後には風に流れる雲のように解けて消える。 陽の光に穏かな緑を輝かせる草原の果て、ふうわりと膨らんだ丘の森が見え始める。 四人掛けのボックス席の窓辺に座ったまま、キース・サバインは黄金色の瞳をゆっくりと瞬かせる。開け放った窓から流れ込むヴォロスの風が、赤茶色の鬣を撫でて過ぎる。「あんな感じの森?」 頭の両脇に結い上げた蒲公英色の髪を揺らし、向かいに腰掛けている黄燐が窓枠に手を掛け身を乗り出す。視界を狭める単眼模様の薄黄の顔布を、邪魔とばかりに片手で撥ね退け、春の陽色の眼を細めて丘の森を見遣る。「うん、少し似てるねぇ」 キースは大きく頷く。「シエラのところは、森の中央にすごく大きな樹があるよぉ」 貫禄が出ればと顎下に生やし始めた鬣を肉球の手でごしごしと擦り、ほんの少し沈みかけた表情を誤魔化す。「もう、『空猫』に行っても会えないのね」 キースとその相棒がターミナルで営む喫茶店兼修理屋によく足を運んでいた黄燐は、ぽつりと零す。「あの、あのね、」 しょんぼりと俯く黄燐の着物の裾を小さな手が引っ張る。黄燐の隣、蜂蜜色の柔らかな髪に縁取られた桜色の幼い頬に懸命な笑みを浮かべて、ゼシカ・ホーエンハイムは小さな肩から提げたポシェットの紐をぎゅっと握り締める。「ゼシね、ガトーフレーズ作れるようになったのよ」 透けるような海の色した大きな眼が、自分よりも少しお姉さんの姿した黄燐を映す。「ライオンさんに教えてもらったの」 網棚の上には、キースが零世界からヴォロスに居を移す為に詰めて来た荷物。荷物の中には、きっと今まで零世界で暮らしてきた思い出も、きっとたくさん入っている。「おいしく作れるになったのよ」 ゼシカは斜め前のキースに笑いかける。幼い少女の健気な笑みに応え、キースは丸い眼を柔らかな笑みに細めた。 黄燐は蒲公英色の髪を揺らして大きく頷く。寂しさを振り払い、キースを真直ぐに見る。春の花のような温かな笑顔を浮かべる。赤茶色の鬣の頭上には、ヴォロスの真理数がはっきりと浮かび上がっている。「帰属、おめでとう」 キースに祝いの言葉を掛ける黄燐の手を、ゼシカはぎゅっと握る。黄燐は反対の手でゼシカの頭を撫でる。撫でられて、ゼシカはくすぐったそうに笑う。「お祝い、だもんね」 キースの隣に座るアルド・ヴェルクアベルが銀色の髭を震わせて笑む。白銀の猫毛に覆われた口許から鋭い犬歯がちらりと覗く。びろうどの毛の三角耳をぴんと立たせ、銀月色の猫眼をヴォロスの風に瞬かせる。「それに、もう会えなくなるってわけじゃないし」 心配いらないよ、とアルドは黒色肉球の手でゼシカの淡い金色の頭をぽふぽふと叩く。 見送る者と見送られる者、それぞれの頬を、ヴォロスの風は等しく撫でて過ぎる。 元は宝物庫であり、朱の蛇獣と死闘の場であった大樹の虚の中央、虚の中にあって空を目指すもうひともとの樹の根元近くを、キースは当面の住処と定めた。 先の訪問で集めた木材を切り出し組み立て、獅子の巨躯に見合った大きめの、けれど素朴なベッドと机を作り上げて行く。「寝台じゃ、寝台じゃあ!」 キースの住処の裏、樹の反対側から回り込んできたシエラが、背に負った白狼の仮面と一緒にベッドの周りを跳ね回る。「シエラは今までどこで眠ってたんだぁ?」「床の上や柩の中じゃの」「……シエラのベッドも作ろうねぇ」 ベッドに敷くマットレスのカバーを大きな手で器用に縫いながら、キースは頷く。シエラのベッドを作るための材料も、後で森に行って探して来よう。「シロやフィーは?」 此処には居ないようだけど、と相沢優がぐるりを見回す。宝物庫に満ちる柔らかな風が優の黒髪に触れて過ぎる。「はて、森の中で遊んでおるかの」 頭上高くに生い茂り、絡み合い、木洩れ日透ける天井を成している樹の梢を見仰ぎ、シエラは首を傾げる。「そこから見えんかの?」 シエラの視線を追って黒の眼を上げ、優は梢高くに赤褐色の翼を休める玖郎を見つける。 温かな陽射しを翼に浴びて、玖郎は顔を半ば覆う二重鉢金を上げる。開けた視界で大樹の脇の箱舟と呼ばれる飛空船へ、それより先の森を眺める。 箱舟の甲板には砂駝鳥と呼ばれる翼持たぬ巨鳥と舟に住まう年老いた人々が何やら忙しげに立ち働いている。 箱舟の周りには幾つもの天幕が設けられ、王の元に生きることを決めた狼面の人々が煮炊きの火をおこしている。 大樹を護るような森の、細い獣道を辿る白狼の仮面被った少年と、少年の背中にへばりつく小さな血色の翼持つ蛇を見つけ、玖郎は山伏衣装の袖を風に流して腕を上げる。森に居る、と指し示す。「シロもフィーも、先に大勢訪れてくれたのが、久々に賑やかじゃったのが心底楽しかったようでの。……良い、仲間達じゃの」 宝物庫を見て回っているアルドや黄燐やゼシカを視線で追い、シエラは微笑む。「彼らとも別れることとなろうが……」 気遣わしげにキースを見詰め、言葉を濁して後、「今宵、祭祀を執り行う」 シエラは背筋を伸ばす。「準備の為、私はしばらく地下に潜る。此処は皆で自由に使うてくれて構わぬ」 すぐに戻るがの、と指し示したは、宝物庫中央に育った樹の根元、絡み合った樹の根の、大人ひとりが通れるほどに開いた隙間。地下に続く闇の道。「此処から出ても大丈夫なのか?」 優の心配に、シエラはどこか得意げな子供のように笑う。「呪いの環の外には、――己の身が灰塵と崩れる場所には決して出たりせぬよ」 空色の眼を笑みのかたちに細めたまま、シエラはそうだ、と両手を打ち合わせる。 「銀狼婆さまやクロが箱舟の竜刻の力を借りて何ぞしようとしてたの。祭祀に備え、城の周りに花を咲かせるとか言うておったか」 花咲く瞬間はきっと見ものじゃろう、と肩で切り揃えた白い髪を揺らして微かに首を傾げる。「ともあれ、の。ゆるりとして行くが良い」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>キース・サバイン(cvav6757)相沢 優(ctcn6216)玖郎(cfmr9797)ゼシカ・ホーエンハイム(cahu8675)アルド・ヴェルクアベル(cynd7157)黄燐(cwxm2613)=========
「なかなかいいところじゃない」 蒲公英色の顔布を上げ、黄燐は隣に立つゼシカに向けて朗らかに笑む。シエラ王と話すキースの背中を見つめる、自分よりも小さな少女の横顔がひどく寂しげに見えて、黄燐はそっと手を伸ばす。ポシェットの肩紐を握り締めるのとは反対の手を、拾い上げるようにして繋ぐ。淡い金髪に縁取られた白い頬が、黄燐の手の温もりに勇気を得て持ち上がる。 「ふふ、キースらしいところね」 ゼシカを元気付けようと、黄燐は殊更明るく笑ってみせる。空色の大きな瞳が黄燐を映し、何とか笑みを浮かべようと揺らぐ。 (ライオンさん) ゼシカは黄燐の手をぎゅっと握り、この地に帰属するキースの大きな背中を仰ぐ。 「ライオンさんは自分の居場所を、新しい家族を見つけたのよね」 大人びた口調で言ってみせる。言ってみせることに成功する。 (ゼシはもうひとりぼっちじゃない) 心の中で呟けば、胸にふわりと温かな火が灯る。 ライオンさんと一緒で、ゼシにも家族ができるの。 胸に灯った温もりを護るように、ゼシカは微笑む。 (やさしい魔法使いさん) 壱番世界に帰属して、ゼシカの家族になってくれる。 (郵便屋さんは故郷に帰っちゃうけど、) それでも、もう、 (ゼシはもうひとりぼっちじゃないのよ) 黄燐の手に今度は両手で抱きついて、離れる。ベッドのカバーを縫いに掛かるキースを手伝おうと駆けて行く。 「この森が、キースの新しい故郷になるんだね」 アルドが樹に覆われた宝物庫内を見回す。 「シエラ王や、この森のみんなのコトは報告書でしか知らないけれど」 中央の樹の根元に立つ幼い王を、城を呑み込んだ大樹を、銀月色の瞳に捉える。 「大変なコトがあったことも、やっぱり報告書でしか知らないけどさ」 空から流れ落ちる木洩れ日に、瞳が細くなる。眩しげに伏せた眼が、ふと苦笑いに曇る。 (全然、力にもなれなかったな) アルドの視線に誘われ、黄燐もぐるりに視線を巡らせる。 「それにしても、ここ、宝物庫だったのね」 眼を凝らせば、壁を作る樹の根に絡み取られるようにして、宝珠の付いた儀仗や宝石の鞘持つ剣や水晶の首飾りが見える。 「……死闘があったなんて、信じられないわ」 ぽつりと呟いて、 「でも、案外、そういうものかもしれないわね」 見かけによらず長い時間を生きてきた少女はどこか達観したように頷いた。シエラ王のあのはしゃぎっぷりにはちょっと親近感よね、と以前ベッドを初めて見たときに同じような反応をした黄燐はくすりと笑う。 裁縫作業に一区切りをつけ、キースはゼシカに礼を言って立ち上がる。祭祀が始まるまで、シエラのベッドの材料をとって来ようか。 「外の森に行くよぉ」 「ゼシも行くの」 「付き合うわ」 「僕も行こうっと」 行ってらっしゃいと手を振るシエラに、ゼシカが行ってきますと手を振り返す。宝物庫を出て行くキースの後に黄燐とアルドが続く。 森に向かう皆をシエラと共に見送り、優は天井を埋める梢を仰ぐ。梢に立ち、森を眺めていた玖郎が翼を広げた。音も立てず床に降り立つ。 「蛇獣が封じられていた地下へ赴いてよいか」 王の準備の妨げとならぬ折でよい、と言い添える天狗の要望に、王はさして拘らぬ風に頷き、優を向く。 「優はどうする」 「折角だし、城の周囲を歩いてみようかな」 今まで幾度も訪れてはいたが、あまりゆっくりと見て回る事は出来ずにいた。過去に見仰いだ城は樹に呑まれて跡形も無いけれど、のんびり散策してみたい。それに、会いたい人も居る。向こうはそんなことは思ってもいないだろうけれど。 優が宝物庫から出て行き、翼持つ天狗と地を這う一族の王が残る。 「行くかの」 「かまわぬか」 「うん、構わぬ」 王は地下への入り口である樹の根元に置かれた角灯に火を入れる。幼い背に白狼の仮面が揺れる。 「足元に気をつけてな」 言いながら、王は闇の中に足を踏み入れる。元より視覚に頼らぬ玖郎も、闇に怖じず樹の根で出来た闇の坂道を下る。 王の掲げる角灯の火を呑むほどに暗闇が濃い。指先に粘ついた空気が触れる。 王に先導され、樹の根の隧道を只管に潜る。幾つか大きく空いた根の隙間を抜ける。己の息遣いと踏み出せば軋む樹の根の音だけが大きく耳に届く。地の底深く潜れば潜るほど、全てが閉ざされて行く。 「暗かろう」 王の呟きに、 「呪い施されずとも、狂わずにはいられまい」 大空を飛ぶ為の翼持つ天狗は闇を踏みしめる。 「外への渇望が呪詛となろう、ましてそれをはばまれては」 「うん」 角灯の頼りない光に揺れる樹の根が冷たい石壁に代わって、王はようやく足を止めた。 「フィーが朱の蛇獣と化せし経緯、あの後、私達も聞いた」 苔生した壁に光が弱く反射する。床に落ちた光が、焼け焦げた家具の残骸らしきものを照らし出す。 遮蔽され日も差さぬ、元は獄であった地下の底。 「此処で幼きフィーは地を這う一族の女王に、己が祖母に呪い施され、埋められた」 翼持つ一族の呪い封じた魔方陣を護り続けて来た、地を這う一族の最後の王は低く囁く。 「フィーの骨肉は全て朱の蛇獣と化し、彼女の亡骸は欠片とて遺されて居らぬ。そう思うて居た」 背に負うた白狼の仮面が、王に代わり語るかのように震える。 「暫し、待っていておくれ」 王は懐から布の包みを取り出す。黒く煤けた石床に膝を突き、額を押し付ける。包みから小さな種を取り出し、ばら撒く。 炭と化した木片でも焼けた石床でもない、晒した様に白い骨の欠片を央にして、種が撒かれる。 「呪いに融けぬ強き思いが遺されたと、これは生きたいと願う心なのだと、……思うは私の願望に過ぎぬがの」 唯一つ、白く残った小さな骨の欠片に、王は祈る。 「綺麗事であろうか」 命繋ぐ事を第一義としてきた天狗は、暗闇に撒かれた種を見つめ、ただ静かに佇む。 絡まり合う樹の根の隙間から、幾千の光の筋が斑に降り注ぐ。 (こんなに明るかったかな) 前はもっと暗かった。キースが灯りを掲げなくてはならないほど、樹の根が密に絡み合っていた。今は何人もの人が並んで進める道幅も、ひと一人が通れるほどだったはず。 前に通った時はこんなにのんびり歩けなかった。行く手阻み、生き物のように鞭のようにしなり打ち掛かる樹の根を押し退け切り払い、必死に駆けた。大樹の内に朱の蛇獣ごと己を閉じ込めようとしたシエラを救う為に、キースと共に。 穏かな光が注ぐ樹の根の隧道を辿りながら、優はゆっくりと歩く。 初めて来た時はまだ城が城の形を残していた。次に来た時はそのほとんどを樹に呑まれかけていて、 (あの時は焦ったっけ) 初めて会った時にシエラと名乗った孤児の王の、ひどく寂しげな眼がずっと気になっていたから。 (でも、もう) 孤児の王は、もうひとりぼっちじゃない。 優はぐるりを見回す。孤児の王を護って、何百年とただ一人、永遠の呪術を己に掛け、白骨の姿となってまでも城の門番を続けていた彼はどうなったのだろう。シエラは確か、従兄だと言っていた。愚かな男だと。 (彼は、) 門番が立つ場所へと足を運ぶ。宝物庫から外へ、ほとんど一本道で伸びる樹の根の隧道のその途中、道の端に置物のように立つ門番が居る。 初めて会った時と同じに、槍を手に直立不動で王を守り続ける門番の騎士の背を、陽が優しく温めている。 優の気配を感じ取り、門番が狼の仮面の顔を向ける。誰何するように、槍の穂が僅かに優に向く。機械仕掛けの人形の動きに、優はほんの少し肩を落とす。 「今日は、門番さん」 門番に攻撃させぬようにする唯一の方法は、己の名を伝える事。名乗れば門番は槍を納める。護るべき門がなくなった今も。孤児の王がひとりぼっちではなくなった今も。 門番の正面に回り込み、優は狼面の眼の奥を覗き込む。そこにはしゃれこうべの虚ろがあるばかり。 「君の名前を、聞きたいんだ」 返事はないのだろうと思っていた。だから、虚ろな眼窩に意志の光が薄く宿り、槍がその骨の手を離れて落ちた時には、 「……っ、」 ぎくりとたじろいでしまった。後ずさる優に向け、門番は深く一礼する。骸骨の身に重なり薄く透ける若い男の姿を見た気がして、優は瞬く。 ――吾が君は独りにあらずか ――なれば己は、暇を乞おう 言葉に淡い笑みを滲ませて、男の姿が、白骨晒した門番の姿が、陽だまりに崩れる。白い灰と砕けた男の身体が地面に落ちるよりも先、樹の根の隙間から強風が雪崩れ込む。風笛の音と共に何処かに舞い上がり、消える。 後に残るは、槍一条。 「ライオンさん、これくらいでいい?」 小さな腕にいっぱいの草の束を抱えて、ゼシカは木材を切り出すキースに声を掛ける。 「助かるよぉ」 頭に巻いたタオルを外し、赤茶色の立派な鬣を風に払って、キースはのんびりと笑う。ライオンさんの大きな笑顔につられて、ゼシカは薔薇色に染まった白い頬に笑みを咲かせる。 「広げて乾かしておいてねぇ」 「これ、シエラの寝床になるのね?」 「うん、マットの中に入れるんだぁ」 それじゃあ、とゼシカは思う。向こうに咲いていたお花も摘んで乾かそう。干草と一緒に混ぜておけば、きっとお花の匂いのベッドが出来上がる。外に出ることの出来ないシエラに、外の空気を届けてあげよう。 ゼシカは花を摘みに出発する。靴底に踏む草も土も、ふわふわと柔らかい。お空からはライオンさんの眼の色みたいなぽかぽかのお陽さまの光。柔らかな翠色を重ねるいっぱいの葉っぱの向こうには水色の青空。振り返れば、樹の隙間にキースの大きな背中。キースを手伝うアルドの、キースと比べてしまえば随分と小柄に見える背中。 草が踏み分けられて出来た細い道を辿れば、蒲公英色した髪をぴょこぴょこ跳ねさせて、黄燐が歩いている。片手に提げた不思議な形の木の靴を、森で出会った白い狼のお面の男の子に差し出して、 「……試し履き、してみる?」 にっこり、悪戯っぽく笑いかけている。あの靴の名前、確か行きの列車で教えてもらったんだけれど。何て言ったかしら。 ――キースに最初に会ったとき、あたし履いてたじゃない ふふ、と黄燐はあの時楽しそうに笑っていた。 ――ぽくぽくさせて、顔隠してた頃が懐かしいわ ゼシカは記憶を順に手繰り寄せる。何だっけ、何て言っていたかしら。ぽくぽくぽく、不思議な足音を立てる靴。 ゼシカが首を傾げて居る間に、白狼の少年は木の靴に挑戦する。 ――木履、持って来たのよ そうだわ、思い出した! 「ぽっくり!」 思い出したのがあんまり嬉しくて、ゼシカは両手をぱちんと鳴らして靴の名前を声にする。 「うわ?!」 それに合わせるように、白狼の少年は木履の高い踵で派手にスッ転んだ。少年の肩にしがみ付いていた翼持つ赤い鱗の蛇が、一緒には転ぶものかと翼を羽ばたかせ、宙に舞う。子供の声でケケケと笑う。 「シロ、フィー」 道の向こうからゆっくり歩いて来ていた優が驚いたように足を止める。 「黄燐さん、ゼシカさんも」 笑顔で近づいてくる青年の手に見慣れない古びた槍を見つけて、黄燐は白狼の少年、シロを助け起こしながら首を傾げる。 「その槍、門番のだ」 シロが呟く。優は寂しげに眼を細めた。 「シエラに返さないとな」 優の表情と言葉に何かを悟って、シロは黙り込む。 「シロは、これからどうしていくんだ?」 「え、おれ?」 シロは青い眼をきょとんと丸め、 「しばらくはフィーと一緒に居るよ。こいつ、おれが居ないとだめだもん、っ痛ってェ?!」 言いかけた所をフィーに翼で頭を叩かれ、頭を両腕で抱えて蹲る。 「そっか」 あの時、シロはフィーと共に殺されて構わないと言った。 殺されずとも、地の底深くに封じられてもいいと。一族の皆を殺したフィーと同じ力を持つに至り、一族の皆に憎み恐れられることに怯え、途方に暮れていた。 そのシロとフィーが、今は仲良く過ごしている。 みんなのおかげだなと、優はそう思う。 「……あー、」 少し離れた道の途中で、楽しげに話している皆を見ながら、アルドは銀の眼を明るい笑みに細める。皆が居るのとは反対の方向を、肉球の手で森の奥を示す。 「ちょっと僕、向こう行って来てもイイ? 宴の時には必ず戻るよ」 「案内は要るかいー?」 簡単な案内くらいなら出来るよぉ、とキースが材木を削りながら丸い金眼を上げる。透明な髭を森の風に揺らして、アルドは笑う。 「大丈夫、迷子になったりはしないから!」 眼を細め、口の両端はきゅっと持ち上げて。口許から覗く小さな牙も、笑みを笑みに見せ易くしてくれることを、アルドは知っている。 「なんせ僕、森育ちだからねー♪」 銀色の猫毛に覆われた手をひらひらと振る。道の向こうからこちらに向かって来ている誰かが一緒に行くと言わないうちに、跳ねるような足取りで広場を離れる。木々の間にひょいと姿を隠す。 皆から見えないことを振り返って確かめる。前を向いた途端、顔に貼り付けていた笑みが剥がれた。銀の眼が、牙の覗く口許が、しょっぱく歪む。 丈低い草叢に紛れて、走る。温かな木洩れ日も、風に吹かれて気紛れに散る木の葉も、足を取ろうと地面から盛り上がる樹の根も、全部ぜんぶ振り払って、森に育ったアルドは走る。 森の中心、元は城だった大樹から遠く離れて、人の気配が遠く離れて、やっと足が緩んだ。力いっぱい走って弾む息を数度の呼吸で整え、柔らかな草の上に寝転がる。 高い梢から降り注ぐ陽の光に掌を差し伸べる。銀色の毛が木洩れ日の金色に透ける。 (覚醒してから、十三年くらい経ったのかな) 眩しさに細めた銀眼が、光に打たれて潤む。 伸ばした掌に集まって、乳白色の霧が生まれる。アルドの姿を隠して、アルドの周りだけを深い霧が包む。 「うん、これで“霧深き森”だ」 くすりと笑おうとして呟いた声は、けれど逆にしょんぼりと沈んでしまった。 仰向けに転がったまま、アルドは霧に霞む森を眺める。 よその森で自分の故郷を懐かしもうとするのは、本当は駄目なんだろうけれど。それでもやっぱり、帰る場所を見つけられたキースが羨ましかった。嬉しいんだろうなと思えば思うほど、胸の奥がしくしくと痛んだ。 僕の故郷は、今頃はどんな風になってるだろう。 何か変わってるかな、それとも何も変わってない? (父さん) 子離れ出来てない父さんは、きっと心配してくれてるだろうな。 「……帰りたい、な」 心の内に抑え切られなかった言葉を声にした途端、霧の粒が眼の端に雫になった気がして、両拳で眼をごしごし擦る。水滴を払いのける勢いで起き上がって、深呼吸する。胸の内に吸い込むように、霧を消す。 「手伝いに戻ろうっと……もう終わってるかな?」 上手く笑えることを確かめる。 ――もう皆の所に戻っても、大丈夫。笑える。 シエラ用の寝台の素材をある程度揃え、シエラの待つ宝物庫に戻るなり、ゼシカはスケッチブックを広げた。寝台を組み立て始める皆の邪魔にならない場所でクレヨンを引っ張りだす。一心不乱にお絵かきを始めるゼシカの隣に、シエラが興味津々しゃがみこむ。 「あれ、玖郎さんは?」 優が傾き始めた陽の光が差し込む天井を仰ぐ。重なり合う梢に、玖郎の姿は無い。 「箱舟に向こうたようじゃの」 応じるシエラの眼が、優が大事に抱える古びた槍に止まる。優はシエラの傍ら、まるで門番の騎士のように跪いた。樹の根が奏でる風の音と共に消えた門番の最期の言葉を王に伝える。 「そうか」 短く頷き、シエラは優の手から門番の槍を受け取る。槍の持ち手に、門番の手がずっとあった場所に、そっと額を押し付ける。 「苦労を掛けた」 もう居ない門番に語りかける僅かの間だけ沈んだ蒼の眼は、けれど優に視線を移す時にはもう笑みを取り戻している。 「ありがとう、優」 門番の槍を、己の寝床であった黒柩の脇に立てかけ、シエラは大きく息を吐く。そうして、ゼシカの隣に膝を抱えて陣取る。次々に描き上げるクレヨンの景色を覗き込む。明るい色でのびのびと描かれていく、 「ゼシが見てきた色んな世界の綺麗な景色なのよ」 景色だけじゃない、 「一緒に来た旅人さんたち、」 シエラは知らないけれど、世界図書館の司書さんたち、零世界でお留守番しているお友達、ゼシの知るみんなの似顔絵を描こう。色んな景色とたくさんの友達を描き続けるゼシカの傍ら、シエラの寝台が何となく形になってくる。無骨でシンプルなキースの寝台とは違い、緩やかな曲線で組み上げられた、どこか可愛らしい寝台の枠。 「これ、飾ってほしいの」 形になったばかりの寝台に、ゼシカがスケッチブックを抱いて駆け寄る。クレヨンで描いた景色の絵も、友達みんなの似顔絵も、全部ぜんぶ、丁寧に一枚ずつスケッチブックから剥がす。 「折角描いたものを貰うていいのかの」 お絵かきの紙の束をゼシカから差し出され、シエラは躊躇いながら受け取る。 「いいの。ライオンさんとシエラのベッドの周りを飾って?」 小さなゼシカは、ひとりぼっちの夜を知っている。真夜中にふと眼が覚めた時の、傍に誰も居てくれない淋しさを悲しさを、知っている。 ――そんな気持ちの、紛れさせ方も。 「きっと淋しくなくなるわ」 綺麗な景色で、優しい人たちの絵で、周りを囲んでしまえば、眠れない夜だって怖くない。 「前にくれた絵、実は持って来てるんだぁ」 キースがふうわりと笑う。 「一緒に飾ろうー」 「ありがとう」 ずっとひとりぼっちで眠り続けていた王様は、小さな少女の優しい心遣いを抱き締めて頭を下げる。 森の央に聳える大樹に寄り添うて、大樹に負けぬほど巨大な飛空船が大地に降りている。飛空船を大空に押し上げる竜刻の仕業か、船底からは樹の根が幾千と生え出し、大地に数千の楔となって食い込む。 最早飛ばぬ船の甲板に、玖郎は翼に風を抱いて舞い降りる。 巨大な竜刻を数人掛かりで甲板に運び出そうとしていた狼面の一族の一人が、玖郎に向け片手を上げて挨拶する。 竜刻を運ぶ男達の指揮を取る銀狼の仮面の老婆の側に立ち、玖郎はちらりと首を傾げる。祭祀にあたり何か助力がかなえばと思い箱舟に立ち寄ったが、竜刻を用いるのであるのならば、 (特に木気の入用はないか) 「咲かすは白焔花か?」 大人数人手を繋いでやっと囲めるほどの巨大な竜刻を、樹を組み上げた台座に据付け、黒狼の仮面被ったクロが玖郎を向く。そうだ、と頷く。 「こっちのにくっつけて飛んでな」 甲板の隅に納まる小型の飛空船に竜刻を移し、空から大地に竜刻の力を降らせるのだと言う。 「異郷のならいはわからぬが、」 猛禽の肢と翼を持つ天狗は、箱舟の甲板を、城呑み込んだ大樹を見遣る。この地で、多くの血が流れた。 「両族の魂鎮め――神和ぎの儀としてはふさわしく感ずる」 城呑んだ大樹――地を這う者が竜刻の力を得て操る地を這う者の木は、翼持つ者の象徴とされる白焔花を養分として育つと王は言った。 「そうなるよう、願うておる」 銀狼の老婆が祈るように面を伏せる。 「朱の蛇獣を滅することこそ、一族滅亡の危機に追い遣られた我等が悲願と信じておったが、……」 フィーを、と老婆は嗄れた声で囁く。 「かつてこの地に共に暮らした、翼持つ者と地を這う者の血を継ぐあの子をこの地を護る神とするが、永く続いた戦の幕引きとしては良い」 のう、と同意求められ、以前の戦の土壇場で朱の蛇獣の助命を皆に問うた玖郎は小さく顎を引く。 地を這う者の木と翼持つ者の花。叶わぬはずの木と花の併存が叶えば、 (両の血を持つ者の神奈備としても相応であろう) フィーが神として宿るに打って付けの地となる。 玖郎は今はまだ地を這う者の樹だけが聳える森の央を一瞥して後、陽射しに照らされる森へ向け翼を広げた。 森の木々の向こうに陽が隠れる。森の央の大樹が黄昏の金色に染まる。大樹の虚に抱かれて伸びるもうひともとの樹にも、穏かな金の色が差す。 祭祀の為と託けて、宝物庫の樹の梢に幾つもの角灯が掲げられた。狼面の女達が部屋の一角で賑やかに宴の準備を始めた。色鮮やかな敷物が敷かれ、酒樽が並べられた。箱舟から砂駝鳥と共に降りてきた老人達が、蹲る砂駝鳥の身体で暖を取りながら酒盛りを始めた。 「己の身に呪い掛けてまで王を護ろうとした、その思いはどんなものだろうな」 優から門番の最期を聞き、クロは黒狼の仮面の下の蒼の眼を瞬かせる。 「まあ、王の許婚だった、て噂もあるけどな」 「え、でも」 最後に見た門番の姿は、どう見ても自分と同年代かそれ以上だった。優は眼を丸くする。クロは喉の奥で笑う。 「噂だ」 煮炊きの火を囲む女達の方から歓声が上がる。空覆う梢高くへと視線を向ければ、夕暮れの空を玖郎がその肢に巨大な獣を、片手に何か入った袋を掴んで舞い降りてくる。 ずしん、と重い音さえたてて、玖郎は煮炊きを手伝うキースの前に獲物を置いた。狩人であるキースは感嘆の声をあげる。 「立派な猪だねぇ」 「世話になった。食うとよい」 玖郎は、いつもの素っ気無い調子で餞別を差し出す。 「この地に根を下ろす者には、珍しくもなき獲物となろうが」 「ありがとうー」 玖郎の気遣いに、キースは楽しげに笑う。狼面の女達が包丁やナイフを手に手に集まり、解体の手伝いを申し出る。 焼肉にしよう鍋にしようと女達とはしゃぐキースの側を離れ、玖郎は場の隅で静かに酒盛る老人達をその巨体で温めてやっている砂駝鳥の傍らに立つ。皮膜の瞼を閉じていた砂駝鳥は、玖郎の気配を感じてか、つぶらな眼を開いた。羽毛の頭をもたげて小さく鳴く砂駝鳥の前、玖郎は手にした袋を置く。袋の中から蜥蜴の頸を掴み出す。 「懇意にしてくれて、うれしくおもう」 くれるの、と眼を輝かせ嘴を開く砂駝鳥に手ずから食わせてやる。蜥蜴を一呑みし、砂駝鳥は旨そうに喉で鳴いた。玖郎の手に頭を押し付ける。 世界には、と玖郎は思う。その諸相に適応し懸命に生きる、さまざまな鳥が居る。 (それを知れたことは、さいわいであった) 砂駝鳥の頭を撫でながら、玖郎は引き結んだ唇を和らげる。 「次を約束できぬゆえ……達者でな」 玖郎を見つめ、砂駝鳥は頷く。玖郎にしか解せぬ言葉を紡ぐ。 ――共に砂漠渡り、朱き災厄より我らを救いし、翼にて天駆くるもの。我らが友。ありがとう、ありがとう。 静かに別れ告げ合う天狗と巨鳥の脇を、白狼の仮面の少年が影に身を潜めて通り過ぎる。肩にしがみついていた翼持つ小さな蛇が滑り落ちかけ、ピィ、と悲鳴あげる。抗議するフィーの尻尾をシロは無造作に掴み、構わず宝物庫の真中へこっそり駆けようとして、 「遅かったのう」 「どうせ森で遊び呆けておったのじゃろ」 酒盛りの老人達に捕まった。そのままその場にシロは正座させられフィーはその膝に蹲らされ、酔っ払い爺達の説教を聞かされそうになったところを、 「まあまあ、日暮れには帰って来たし、許してやっておくれ」 白狼の仮面を背に負ったシエラ王が宥めて止める。 「王!」 「このようなところによくぞ王!」 「此処は私の住処ぞ」 平伏する老人達の傍らに膝をつき、王は声をあげて笑う。 「さ、折角の祭祀前の宴じゃ」 恐縮する老人達の杯に酒を注ぎ、助かったと笑み交わすシロとフィーにくすりと笑いかけ、王は酒瓶を抱えて宴の場をうろうろと歩き回る。 「飲むかの?」 解体した猪の肉や臓物を煮込みに掛かっていたキースと、その傍にちょこんと座るゼシカと黄燐にカップを差し出す。 「飲むよぉ」 キースには一族の男達が醸した蜂蜜酒を、 「二人はこっちじゃの」 少女二人には蜂蜜を果汁で割ったものを。 「お祭り、とっても楽しみ!」 「それに! 花の咲く瞬間が楽しみよ。だって、滅多に見られないじゃない?」 「お花が一斉に咲くの、とっても綺麗なんでしょうね」 ゼシカと黄燐が華やいだ声で言い合い、笑う。歳の近い(ように見える)少女二人に笑みを向けられ、幼い少女の姿した王は堪え切れない笑みを零す。 「うん、楽しみにしていておくれ」 梢に掛けた幾つもの角灯の光が一番に当たる宴の輪の真中、わあっ、と賑やかな歓声と拍手が起こる。見れば、銀色の毛並みと銀色の眼を温かな光に輝かせ、アルドが気取った仕種でお辞儀をしている。くるり、しなやかな動きで宙返りをしたかと思うと、唄いだすは陽気な祭り歌。 (宴って言ったら、やっぱり楽しいことだよねっ) 森の中で感じた寂しさや羨ましさを吹っ切るように、殊更に明るくアルドは歌う。キースの帰属を祝って軽やかに踊る。 「よーし、俺もー」 カップの酒を飲み干し、キースは勢いつけて立ち上がる。パスホルダーから魔法のようにトラベルギアの槍を取り出し、宴の輪の真中に飛び込む。アルドの歌と踊りに合わせ、槍を用いて舞う。アルドがトラベルギアの丸盾を取り出し、二人が即興の演武を行えば、宴は否が応にも盛り上がる。 アルドが拍手で見送られて後、キースが一人で舞うは故郷の槍舞。槍が風を切る独特の音に合わせ、キースはその巨躯を力強く躍動させる。低く勇壮な歌を紡ぐ。キースの歌と舞に引き寄せられ、クロが自身の槍を手に舞いに加わる。老人達に背中を押され、フィーを肩に貼り付けたままのシロが飛び込む。クロシロ父子を迎え、キースが笑う。父子も、一族の人々も笑う。 槍舞を終え、キースは一族の皆から浴びせられる拍手に照れて鬣を掻きながら、深く腰を折る。 「俺は今日から皆と一緒に生きていくんだぁ」 新たな住人を歓迎し、拍手が一層大きくなる。 「よろしくお願いしますー!」 キースは拍手に負けぬ声でこれから世話になる皆に挨拶する。キースに便乗して、フィーがシロの頭の上で翼をはためかせ頭を下げる。 これより先の仲間達に肩や背中を叩かれながら、キースは宴の輪を一度抜け出る。手慣れた仕種でギアの槍をパスホルダーに戻し、 「っと、ギアとホルダー返さないとねぇ」 長い間使ってきた道具を手に、少し眼を伏せ、上げる。 「優君」 中央の樹の根元の黒柩に腰掛けたシエラの隣に座る優に、キースは呼びかける。最初にここに来た時も、彼と一緒だった。そうして初めてシエラに会った。あの時はまさかこの地に帰属するなんて思ってもいなかったけれど。 あの頃よりもずっと大人びた表情を見せる優の前に、キースは立つ。頭に巻いていたタオルを外し、背筋を伸ばす。 (……ロストナンバーとして最後だから、ちゃんと) 「受け取ってくれるかなぁ」 キースはロストナンバーである優に、ギアを納めたパスホルダーを差し出す。 「今までありがとう」 旅人であることを終わらせたキースは、旅人である仲間達に、旅人である自分に関わってくれた全ての人々に告げる。 「旅人にならなかったら、色んなこと知らないままだったんだぁ。知るきっかけをくれたこと、それに皆に会えたこと、感謝してるよぉ」 優はほんの少し緊張した顔で立ち上がり、キースに倣って背筋を伸ばす。両手で、キースのパスホルダーを大切に受け取る。 「キースさん、帰属おめでとう」 宵の空から風が流れ来る。風と共、小型飛空船の銀色の影が梢を摺り抜け樹の根の床に降りる。 「頃合かの」 大樹上空を飛ぶ小型の飛空船を仰ぎ、シエラ王が蒼の眼を瞬かせる。 「フィー」 王の合図を得て、フィーがその翼で宙に舞う。角灯揺れる樹の一枝に蛇身を巻きつかせ留まる。竜刻の作用か、角灯の火が全て消える。ふわりと落ちる闇の中、風花のかたちして、白く淡く光る竜刻の力が飛空船より舞い落ちる。重なり合う樹の梢を摺り抜け、樹の根の床に降り積もる。宝物庫は見る間に真白に染まりゆく。黄燐が思わず触れようとした指先には何も感じさせず、竜刻の力の粒は雪と同じに床に染み込んで消える。 「祈っておくれ」 王が幼い声を響かせる。 「親しき人々の、遠き人々の、幸いを、健やかなるを。皆の優しき心を力とし、我らはこの地を我らのフィーと共に護ろう」 床を埋める樹の根の隙間から、水が湧き出るように光が跳ねる。波紋描いて床に広がり、壁を昇り、空に翔る。光に引き上げられるように、樹の根の隙間から数百もの淡翠の芽が飛び出す。凄まじい勢いで樹の根の焦げ茶を若翠に染め、樹を央に、樹の下に集う人々を央に、新しい樹蔦が宝物庫を縦横に這う。 そうして、光が灯る如く、一面に白い花を咲かせる。 「白焔花……」 優が息を飲む。それきり言葉をなくす。黒柩に座すシエラの傍らに立ち、花が咲き誇る様子をただ静かに見つめる。夕闇に紅く色を変えるはずの白焔花は、けれど今は月の白。 「咲いてくれた」 身体が萎むほどの息を吐き出すシエラの背に掌を当てて擦ってやる。 「優は、また行ってしまうのか」 息を吐きつくして、シエラは呟く。皆が居るよ、と言いかけて、優は唇を噛む。誓うように、言う。 「どれだけ離れても、住む場所が全く違っても、……例え、もう二度と会えなくなる時がきても。俺はシエラの友達だ」 ずっとずっと、とシエラの冷たい手を握る。もちろん、と微笑みに夜色の優しい眼を細める。 「キースさん達とも」 瑞々しく咲く花の甘い香りを抱いて、夜風が流れる。 「ね、これを、この皆で見られるのって、きっと幸せだわ」 蒲公英色の髪を花の風になびかせ、黄燐が花のように笑う。黄燐と手を繋いで、アルドとも手を繋いで、ゼシカは足元に広がる花畑に座り込む。そのまま仰向けになる。手を繋いだままの黄燐とアルドも、くすくす笑いながら花の上に寝そべってくれる。 樹上の飛空船が、音も立てずに箱舟へと戻る。梢越し、満天の星空が広がる。 (パパ、ママ、見てる?) 空に行ってしまった両親に、ゼシカは呼びかける。 もうすぐゼシの旅は、パパを見つけるために始めたゼシの旅は終わるけれど、 (ゼシは幸せよ) ゼシカは故郷に戻る。シスターになり、大好きな魔法使いさんと一緒に孤児院を守っていく。 心に未来を描いて、ゼシカは澄んだ青空の瞳で星空を見上げる。 (魔法使いさんと郵便屋さんにもこの光景を見せたかったな) 星空の隅、赤星の色したフィーが、梢に蔦巻きつかせて咲いた白い花を鼻先で突いている。 「フィー」 玖郎に呼ばれ、フィーは花びらに噛り付こうとして止めた。蛇の頭を傾げさせ、樹の下から己を仰ぐ赤褐色の翼持つ天狗を見下ろす。 「なにかのぞみはあるか」 一族の神として祀り上げられた、元は一族を根絶やしにせんとした朱の蛇獣に、玖郎は常と変わらぬぶっきら棒な口調で尋ねる。 「おれに為せることなど限られるが」 玖郎に応えようとして、フィーは口をもぐもぐと動かし、己の思いを上手く言葉に出来ぬことに焦れた。その身を宙に投げ、樹の下でぼんやりと花を眺めるシロの頭にぽとりと落ちる。翼を羽ばたかせ、通訳しろと急かす。 フィーに耳を齧られそうになりながら、フィーの意思を解するシロは玖郎の前に寄る。フィーと一緒に玖郎を見仰ぎ、フィーの思いを言葉にする。 「望みはもう、叶えてくれた。貴方は私の命を救ってくれた」 少年の声で伝えられるフィーの心に、玖郎は小さく頷く。 「過去、すでにありかたを歪められたおまえが、末始終おのれを見失うことのなきよう、この杜が棲みよい場となるを願う」 命の恩人の言葉に、フィーは小さな翼を羽ばたかせ、――微笑む。 梢に掛けられた角灯に火が戻る。祭祀の終わりは、キースとの別れの時。 「元気でねライオンさん」 ポシェットの紐を両手で握りしめ、ゼシカは懸命に笑顔になる。キースがしゃがみこんで肉球の掌で頭を優しく撫でてくれる。 「ゼシカちゃんは強くて優しいいい子だよ」 温かな掌に、堪らず泣きたくなって、けれど泣き顔を見せたくはなくて、ゼシカは大好きなライオンさんの大きな胸に身体ぜんぶでしがみつく。 「けど、甘えたって良いんだからね? 幸せになってね?」 くしゃくしゃになりそうな顔をキースの胸にぐいぐいと押し付ける。ライオンさんの手が背中を撫でてくれるのが淋しくて嬉しくて、顔をあげる。 めいっぱいの笑顔で、ゼシカはキースの頬にキスをする。 「ライオンさんのお菓子が食べられなくなるのは残念だけど、」 まん丸の眼をますますまん丸にして、照れて笑うキースに、ゼシカはスカートの裾をちょこんと摘まんでおしゃまなお辞儀をしてみせる。 「今度はゼシが手作りのお菓子を持って森に遊びにくるわ」 精一杯のお別れの挨拶をして、最後は俯くゼシカの手を、黄燐が握る。 「本当におめでとう、キース」 「今まで店に来てくれてありがとう」 キースの言葉に、黄燐はちょっと喉を詰まらせる。ちょっとそれってほんとにお別れの言葉じゃない! 「皆で元の世界に帰れるといいねぇ」 どこまでも優しいキースの金色の眼を睨むように見つめて、黄燐は喉の奥にこみあがる寂しさを飲み込む。 「でも、時間があったら会いに来るからね!」 別れの悲しさを跳ね除けて笑う黄燐につられて笑ってから、キースはそっと気がかりを耳打ちする。 「後、アルド君の方も何かあったら教えてねぇ」 黄燐は泣き笑いのように唇を曲げる。 「キースはやっぱりキースね。任せて!」 黄燐とキースの内緒話が自分のこととは思いもせず、アルドは透明な猫の髭を花の匂いの風に震わせる。 「時間が許す限り、また会いに来る」 猫耳をぴんと立て、長い尻尾をゆらりと揺らし、アルドは口の端に小さな牙を覗かせ、強く笑う。 「なんせ僕達は、一緒に旅をした仲間なんだから!」 仲間、の言葉にキースは眼を細める。嬉しくてえへへと笑う。 「彼女と結婚するなら教えてね、きっと祝電書くから!」 キースの言葉に、今度はアルドが照れた。 「アルド君も、今まで店にも来てくれてありがとう」 「ここに根を下ろすのならば、つまは如何する」 玖郎が無邪気に問う。 「すくなくとも、あの王は伴侶に適すまい」 その王は黄燐からポックリを借りて履き、うまく歩けずに花と樹の根の上に転んで声を上げて笑っている。笑い転げる王につられて、シロとフィーが一緒に笑う。 「つ、つま?」 思わず声を裏返らせるキースに対し、玖郎は大真面目に続ける。 「おまえが、己が縄張りより子を追い出す種でもなくば、不老の王を永く守るに際し、継ぎをつくる意義はあるとおもうが」 「……あんまり考えたこともなかったねぇ」 「……おまえのごとく」 玖郎は分かるか分からぬかの程に声を迷わせる。 「ただ生くる以外に、なすべきことをさだめた者は、異郷の地にとどまるを、まよわぬのであろうな」 「数字が出たんだっけねぇ」 キースの頭上に浮かぶヴォロスを示す真理数を鉢金越しに見て、玖郎はどこか戸惑うように頷く。 「おめでとう」 「めでたいのか」 己が生まれ棲んでいた世界に帰ることのみ望んでいた天狗は、だからキースの祝いに逡巡する。 「何を選ぶのか分からないけれど、幸せであることを祈ってるよぉ」 玖郎はキースと、キースが帰属することを決めた地を、人々を見遣る。キースの惑わぬ笑顔を見る。キースを迎え心底嬉しげな王を見る。小鳥の仕種で首を傾げる。 「どうか皆、幸せで」 祈るように、優が笑顔で言う。キースに、シエラに、シロに、フィーに。 「俺が旅人で居る限り、また会いに来るよ」 「優君も元気で、本当にありがとう」 キースが大きく頷いて、シロが手を振る。フィーがシロの頭上で翼を広げる。 「シエラ達をよろしく」 旅人達の再びの旅立ちに、宝物庫に残っていた一族の人々がキースや王達の傍に集まる。クロがまたなと手を挙げる。箱舟の老人達が一礼する後ろで砂駝鳥達が別れの挨拶に高く鳴く。 ゼシカが小さな掌を舞い散る花のようにばいばいと振る。狼の一族に囲まれたキースが大きく手を振る。皆の笑顔に、その笑顔を作る手伝いが出来た事に、 (本当に良かった) 優は心から思い、安堵する。 間違ってしまう事も多いけれど、それでも。諦めなくて良かった。 キース達に見送られ、旅人達は花咲く大地の城を後にする。満天の星が静かにさんざめく森の小路で、ゼシカは後ろを振り返る。後ろに見えるのは、森の樹々と白い花に包まれた大樹。キースの姿は、もう見えない。 (おねえさんになったらがんばるけど、ゼシ、まだこどもだもん) 今だけは泣いてもいいよね? 思った途端、堪えに堪えていた涙がぽろぽろと眼から溢れて頬を伝った。 声も上げずにただ涙を零すゼシカの手を、黄燐はぎゅっと握る。つられて泣きそうになって、 (しみったれたのは、あたし、苦手なのよ) ぐっと我慢する。ゼシカに心配は掛けられない。何て言ったって、 (あたしのほうがお姉さんなんだしね!) 年上の意地で笑顔を浮かべる。 「永遠の別れじゃないもの、ね?」 ゼシカの涙を懐から出した手拭いでお姉さんらしく拭いてやる。 (これで二度目かな。友人が帰属するのを見届けるのは) さよならに涙するゼシカの頭を撫でてやりながら、優は大切に仕舞ったキースのパスホルダーを確かめる。 (でも、うん) 別れ際のキースの笑顔を思い出す。 (悪くない) 終
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