ファルファレロはその日何本目になるかわからない煙草を咥えた。 人の多い広場を避けるように路地へと入り、そこで壁に背を預けて煙を吐く。 壁と壁の間から見える広場は明るく、そこだけ風景を切り取ったかのようだった。昨年の暮れ、悪意を以って蹂躙され荒らされた場所とは思えない。 広場をゆく人々には見覚えがある者も居れば、まったく知らない者も居る。 何分そうしていただろうか、そろそろ戻ろうとしたところで見覚えのある黒い布が視界に映った。「……あいつ」 無意識に声が出る。 黒い髪に黒い目。そして浅黒い肌と黒づくめの男だ。 エダム・ブランク。先日請け負った仕事で出会い、ファルファレロが殺し損ねた人物だった。 入院していると聞いていたが、どうやら補助がなくても出歩けるようになったらしい。隣には小さな男の子が居た。 自分が殺そうとした相手がすぐそこに居る。 その理由以外でもなにやら気になり、ファルファレロはそちらへ足を向けた。 男の子はぐずっている様子だった。今にも大泣きにバージョンアップしそうである。 エダムはしゃがみ、ポケットをごそごそと漁っていた。「貰い物ですが……どうですかな?」 飴玉をひとつ摘んで渡そうとするが、男の子は首を振る。「……要りませぬか」「めろん、がいい」「残念だ。ここにはいちごしか――おや」 間近に人の気配を感じ、エダムが顔を上げた。 ファルファレロはそんな彼の顔をしばらく無言で見下ろしていた。敵意を隠さず視線を向けているにも関わらず、そういう目を向けられることに慣れているのかびくりともしない。「ガキでも攫ってきたのか」「違うとわかっていてお聞きになりますか」 エダムを無言で睨みつけると男の子の方が怯え始めた。 しかしそれは僅かな間のことで、すぐ笑顔になってファルファレロらが背中を向けている方向へと走り出す。「ぱぱ!」 聞けばエダムが道に迷っている男の子を見つけ、父親との待ち合わせ場所が広場と聞き連れて来たのだという。 幻覚であやそうともしたが、今まで良い幻覚を見せたことがないせいか調節が難しいらしい。 礼を言う父子に別れを告げ、エダムはファルファレロを見た。「して、儂に何か用ですかな?」「わかっていて聞いてるだろ」 先ほどの仕返しとばかりに言い、ファルファレロは銃口をエダムの額に突きつける。 一瞬ざわつく広場の空気。それに眉間のしわを増やしつつ、ファルファレロは舌打ちした。「てめぇを殺すことは諦めてない」「……でしょう、な」 どこか投げやりな様子で銃を下ろす。「けどな、俺だって興を削がれない訳じゃねぇ。腑抜けたてめぇを見て殺意が失せた」 自分と似た境遇なのに、業をこれ以上ないほど背負っているというのに、この男はここに存在している。 それにいらつきを覚えるが、ああいう普通の光景を見るといらつきの中に別のものが湧いてくるのだ。 それが殺意を掻き回して台無しにする。 根本が似ているからこそ、エダムの歩む道、そして歩もうとしている道を自分が行く未来もあったのではと青臭い考えが過ぎった。それが気に食わない。自分に対していらついているのかエダムに対していらついているのか明確に分けられない状態だった。 殺意は削がれたが、この心に溜まったものを発散してしまいたい気持ちはある。 自然と口が動いていた。「それはそれとして、だ。てめぇと一対一で決着をつけたい」「決着といいますと」「ここにはコロッセオって場所がある。そこに来い」 様々な手段が浮かんだが、ファルファレロは単純明快なものを選んだ。 深く考えずに思っていることを表現出来る方法だ。「……ふむ、素手によるバトルですか」 説明を聞いたエダムが頷く。 エダムは幻覚、ファルファレロは銃と遠方からの攻撃を主に使っているが、それら及びギア等を禁止し、素手で対戦しようというのだ。 エダムは病み上がりな上に元々の身体能力の差も大きい。加えて右腕もないが、今回重要なのは単純な勝敗だけではない。 殴り合いながら話したいことがある。ファルファレロはそう考えていた。「てめえだってそっちのがすっきりするんじゃねえか。禍根を流して過去にけりつけて、新しく人生を仕切り直す。まあ、びびって逃げるってんなら止めねえが」「いや、そうですな、よい案かもしれませぬ」 煽りにのらないエダムだったが、ファルファレロの目的はなんとなくわかった。 再度頷き、ほぼ同じ高さにあるファルファレロの黒い目を、自分と同じ色の目を見返す。「――では、コロッセオへ案内していただけますかな?」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ファルファレロ・ロッソ(cntx1799)エダム・ブランク(cemm2420)=========
戦うために存在している建物を前に、ファルファレロ・ロッソは背後を振り返る。黒い男が居た。 エダムのことを初めて耳にしたのは彼が裏切ったという知らせが噂話混じりに広がった頃だったろうか。話好きでも居たのか、訊いてもいないのにエダムがどう保護されたか、裏切る前にどんな問題を起こしていたかかが耳へと入ってきた。 中でも世界司書の予言と共に得られた彼の過去、生い立ちの断片はファルファレロの興味を悪い方向に引いた。 自分に似た境遇。起こしてきた事件。重ねてきた罪。 そのどれもが琴線に触れる。 ファルファレロは普段他人にここまで執着することはない。これは珍しいといえた。 「なるほど……まさにコロッセオですな」 そんなファルファレロの気も知らず、長い石造りの廊下を進みながらエダムが言う。 「無駄口は叩くな、早く来い」 開けた場所に出た。 灰色の石で形作られた闘技場。ファルファレロはその出入口の脇に上着を脱ぎ捨て、重なるように白銀の拳銃を投げた。バンビーナが見張るように隣に止まる。 エダムも反対側の脇に纏っていたギアの布を畳んで置く。 下は簡素な黒い服だ。ファルファレロが鼻で笑った。 「赤く染まっても目立たなくて良い」 「そちらは目立つのでは?」 エダムがファルファレロの白いシャツに目をやるが、本人に気にした様子は一切ない。血や土で汚して帰れば娘が何を言ってくるか難なく予想出来る。しかしそれに気を配るつもりはなかった。 自分のやりたいようにやる。 その結果がどうなろうが知ったことではない。 向かい合わせに立ち、二人は互いを見た。 「折角の闘技場だ、少し趣向を凝らしても宜しいですかな」 「勝手にしろ」 「では」 瞬時に幻覚が周囲を覆い尽くす。 何かが舐めるように景色が変わり、観客席が高い壁に、足元の石畳が一段階色の暗いものになった。 見上げてみると丸く切り取られた青い空。 「故郷の決闘場でしてな、少々規模が大きいが先ほどより我々に合っているでしょう」 もちろん「そう見える」ようにしただけで、五感や身体能力は弄っていない。 ファルファレロは特に感想も述べずに腕捲りし、エダムを睨みつけるように視線を向けた。 「来い、最初の一発は譲ってやる」 ● 地面を蹴って距離を詰め、わきを締めて体ごと傾けた大振りな動作で殴りつける。 エダムという男にしては荒々しい方法で『殴り合い』は始まった。 脇腹に食い込んだ拳を見てファルファレロは口角を上げる。なんだ、少しは楽しめるじゃないかと。 「一発目が脇腹とは、随分甘ちゃんだな!」 体勢を立て直す勢いを活かして拳を振るう。 狙いのまま拳はエダムの頬に命中した。瞬く間に浅黒い肌が鬱血し、歯の隙間を縫うように鮮血が走る。 踏ん張るように立ったままエダムも狙いをつける。 しかし片腕のエダムの攻撃は予想し易過ぎた。必ず残った腕側から来るのである。 肉と肉が衝突する炸裂音がし、熱を持った手の平に拳が受け止められる。手首を掴まれれば引き寄せられる――咄嗟に酷い体勢のまま後ろへ退く。一瞬前まで鼻先のあった場所を握った拳が通り過ぎた。 酸素と一緒に血液の粒を吸い込んでむせ込むと、面白いように血が辺りに飛んだ。 状況を判断する前にファルファレロが走り寄ってくる。 エダムはあえて接近を待ち、殴りかかられる直前に身を屈め下方から左腕を振り上げた。 顎からやや左に逸れた場所に衝撃が走る。 揺さぶられた視界にまだエダムは居る。眼鏡の奥でそれを睨み付け、揺れたついでとばかりにファルファレロは頭突きを繰り出した。 頭部から鼻に鈍痛が広がり、幻覚とは違う白い光が世界に走る。いくつも走るそれが消え切らない内に鳩尾を突くように殴られた。 「ッは……!!」 この男は――ファルファレロは喧嘩慣れしている。この十数秒でエダムは思い知った。 避ける技術も攻める技術も、どれもこれも優れている。多少の痛みでは動揺すらしない。 もしエダムが五体満足であったとしても互角に戦える相手ではなかった。 それでも拳が当たるのならば、殴るまで。 手の平に爪が食い込んで血が流れる程握り込み、懐に入ったファルファレロのこめかみを殴りつける。 眼鏡が真横へ吹き飛び石畳の上を滑っていく。 初めてファルファレロはふらついたが、倒れない。 エダムが荒々しい息を吐き出しているところにファルファレロがもう一撃食らわせた。舌を噛まなかったのが僥倖と言える。 「訊きたいことがあるんだろ」 我を失い殴り続けそうになるのを抑え付けながらファルファレロが言う。低い唸り声のようだった。 半分赤く染まった目をひと擦りし、エダムは口を開く。 「貴方は儂に大変興味がおありだった。それが不思議で堪らなかったのですが、理由を知り……今度は儂が気になる番になりましてな」 喋り終えた辺りで一発腹を殴られる。 お返しとばかりにエダムの左手も頬を殴った。 「っ……、いいさ、話してやる。お前の過去を、してきた事を、こっちだけ知ってるなんてすっきりしねえ」 お互いを殴る音を何度も響かせながらファルファレロは己の事を語る。 どうやって生まれたか、どんな女に出会ったか、何人殺したか。 地獄の殺人鬼と呼ばれ、醜聞を撒き散らす者として生きてきた。 ファルファレロ・ロッソという人間の人生はいつでも赤く染まっていた。母から産み落とされたその瞬間の赤がずっと落ちずにこびり付いているかのように、ファルファレロはその色と共に育った。 ロッソはイタリア語で血の色のこと。名まで赤く染めた殺人鬼だった。 「母親は俺を復讐のために産み落とした。最低な最高の淫売だ」 握った拳を叩きつける。防御したエダムの腕がみしりと悲鳴を上げた。 「俺は最初から手遅れだった。取り返す物も取り戻す物もない、初めからこうだった」 エダムの胸倉を引っ掴んで引き寄せる。 「……俺も聞きてえ事がある」 エダムが顔を上げると、目と鼻の先に鬼気迫る顔があった。 「お前は生まれながらに親父の道具。じゃあお袋はてめえをどう扱い何を望んだ」 「母親、ですか」 「息子を愛す普通の母親だったんじゃねーのかよ」 殴って地面へと放り投げる。エダムは受身も取れずに擦り傷を作りながら転がった。 母がエダムに冷たく当たった記憶はない。 しかし。 「母の中には……儂の前に、父が居た。良く言えば従順すぎた故、儂が怪我を負えば心配したが、それが父によるものとわかれば「それなら仕方ない」と――そういう母親でありましたな」 そもそもエダムは普通の母親というものがわからない。愛されてはいたのだろうが、これが普通なのか判断出来なかった。強いて言うならこの、何事も父ありきな母親が彼にとっての普通だ。 「しかし儂の母が普通か否か、儂に愛情を持っていたのか否かは現状に関係ありますまい。母の愛で惨劇を回避出来た……とは思いませぬしな」 エダムは父を恨んではいない。 そういう運命に生まれついたのだろうと今では思っている。 「過去は変えられないもの、ですから。故に」 立ち上がると視界が揺れた。 エダムは肩に飛んできた拳を寸でのところで受け止め、よろけながらファルファレロをじっと見て言葉を継いだ。 「……不可解だ。貴方は何故ここで母親という存在に注視したのか」 ファルファレロの血と同じ色の目が鋭さを増す。 何かを紛らわせるようにズボンのポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。 「貴方にとって、それが人生の重要なファクター……なのですか」 エダムの声を聞きながらライターで火をつけ、煙を大きく吸い込む。 思い返せばこの黒い男に出会ってから普段より本数が増えた気がする。ファルファレロは煙を吐き出し低い声を漏らした。 「うるせえ、質問したのはこっちだ」 いらついた様子で右手を振り上げる。手の甲には何度も殴ったことにより痣が浮かび上がっていた。 エダムは突進して懐に飛び込む。右手を左手で押さえ込んで地面を転がった。がら空きになった片側から鋭いパンチが飛ぶが、辛うじて残った二の腕で受け止めた。治って間もない傷痕に響く衝撃が炸裂し、思わず息をのむ。 力ずくで体を反転させ、ファルファレロはエダムに馬乗りになって殴り続ける。 噛み千切らんばかりに咥えられた煙草から灰がいくつもエダムの首に落ちた。 「てめぇ、もっと本気でやれ。殺る気で来い」 煙草を指で取って頭突きを食らわせる。 エダムの意識が飛びかけているのを確認し、そのまま煙草の火を肌に押し当てた。 「てめえが負けたらてめえに構い倒してるあの女を嬲り殺す」 「……あの方は、自らを守れる実力があります故」 僅かに眉根を寄せる。 「しかし、あの方に限らず――儂のせいで、迷惑をかけるのは本懐ではありませぬ」 言葉を耳で受けながらファルファレロは拳をエダムの目に翳した。 「次は目を潰す」 「……」 「自分が可愛けりゃ幻覚使え。そうすりゃ一発だろ」 幻覚を使えば満身創痍のエダムでも勝つことが出来る。 傷と腫れで歪んだが、エダムは笑ってみせた。 「どうやら本来の儂は……」 「約束を違えたくない男らしい」 右腕を振るう。固く握れる手の平はない。 それでも固いものがファルファレロの肌を引っ掻くように擦り、真っ赤な線を引いた。 まだ薄く柔らかい皮を弾けさせ、露出した骨の一部だった。 やっと本気になったか――と、高揚感に似た何かがファルファレロの胸を走る。 「てめえが嬲り殺した連中はもっと苦しんで痛がったはずだ!」 殴り、殴られ、血反吐を吐き。 「大元がてめえのせいじゃなくても罪は帳消しにゃならねえ」 「でしょう……そうでしょうな、罪とは罪人と共にある。何をどうしようとずっと」 「わかってるくせに償い? 阿呆らしい。んなの自己満足だ! 苦しみ抜いて死んだ人間の命を償う方法なんかねえ」 頭突きで血を散らし、睨み合う。 ずっとどこか冷めていたエダムの瞳に熱がこもった。 「奪った命は背負うべきものと承知している!」 「ならなぜ償おうとする!」 「償いとは本人にのみ行なうものではない。儂が……儂が傷つけたものは、それだけではない……!」 被害者の残された家族、土地、繋がり。 それらは今も存在し続けている。 「これも償えるものではないのだろう、けれどもしそれを成そうとするなら……儂は、醜くとも生きておらねば成せぬ! 成そうとすることすら出来ぬ!」 「それが自己満足、だって、言って……ッんだろうが!」 エダムの肋骨に衝撃と鈍い音が続く。臓腑を傷つける感覚に悪寒が走った。 「ッ、く……は……。じ、自己満足でも、汚物であることが変わらずとも、儂がまだ何かの役に立てるのならッ……」 やりたい、と口だけ動く。声は掠れて出なかった。 咳と一緒に血を吐き、殴り続けながら振り絞るようにファルファレロに言う。 「儂は許されることを望んではいない。周りに……許せる、優しく甘い人間が居る、そんなありがたき運に恵まれただけだ」 許されることを望まず。 罪はそのまま穢れた身に背負っていく。 それでも生きて残されたものへの償いを成したい、それがエダムに新たに芽生えた欲だった。 お互いに肩で息すら出来ず、弱々しい呼吸を繰り返す。 決闘場を模していた幻覚はいつの間にか掻き消えていた。エダムの瞳に意識が残っているのを見てファルファレロが立ち上がる。 「……それでも受け入れられてえなら死ぬまで詫び続けろ」 返事はないが、頷く気配がした。 地面に落ちた眼鏡を拾い上げる。 「言いてえのはそれだけだ。後は勝手にしろ。……漸く取り戻した人生なんだからよ」 なぜか長い息が漏れた。 背中を向けて出入口へ向かう途中で振り返る。 「少しは本当の自分ってやつがわかったか」 エダムはようやくそれを自覚したようだった。 だがあれで全て把握したとは思えない。人間の自我とは斯くも難しい。 「わかんねーから不都合があるとは思えねぇ。生まれてきたんなら生きる為だろ。――くたばるまで生き抜きゃ嫌でもわかるさ」 まったく、自分らしくないとファルファレロは思った。 エダムに慈悲をかけるつもりはない。それなのに口をついて出た、不愉快な不可思議だった。 切れた口内が痺れる。 今夜は辛い酒を飲もう。視線を前へと戻し、もう二度と振り返ることなくファルファレロは歩き始めた。
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