インヤンガイに落ちた世界計の欠片を脳に所持した状態で保護されたキサ・アデルは力のコントロールが出来ると司書から判断されて再帰属が決定した。 ロストレイルが地下にある駅に到着し、地上にあがると太陽の眩しい日差しが出迎える。「キサは、インヤンガイに帰りたい」 駅から一歩出てキサは目を眇める。「キサは、待ってる人がいる」 一歩、また進んでキサは呟く。「……けど私は」 キサは護衛であるロストナンバーたちの和やかな笑顔や呼びかけに突如足を止め、逆方向に走り出した。 誰も彼女を止めることは出来なかった。 どこをどう走ったのかは覚えていない。建物の密集した路地のなかで息を乱したキサは立ち尽くし、胸の上に光る小さな鍵のついたアクセサリーを握りしめた。「私は、まだ消えたくない。みんなといたい。私は……私は、私は……私は、……!」 ――見つけ、タ 不気味な囁きがキサを飲み込んだ。 彼女を探して、ようやく追いついたロストナンバーが見たのは昏い路地に佇む少女だった。その瞳は妖しく輝き、口元ににっと笑みを浮かぶ。「すばらシい、これほどノ力とは! ワタシの所有する記録、すべてヲ使っテ、今度こそ! 星を手に入れヨウ、イヴ! 今度こそ、星にだって手が届ク! 死者だって蘇ル、この落ちてきた星の知識と力を使っテ!」 めきぃと音をたてて少女の内側から出現したのは薄い紫色の化け物――チャイ=ブレ? と誰かが囁くが、こんなところにそんな化け物がいるはずがない。 だが、少女は完全に蚕じみた化け物に飲み込まれ、その姿は見えなくなっていた。 化け物は嘲笑う。それに合わせて空気は響き、割れ、何かが、 ――さぁ、死者の門を開キましょウ?★ ☆ ★ 緊急事態としてロストナンバーを集めた世界司書は深刻な顔で語った。「理由は不明だが再帰属するはずだったキサはインヤンガイにつくなり、逃亡した。その結果、インヤンガイのネット上で記憶を食べると言われるチャイ=ブレに似た化け物に捕まり、利用されている」 インヤンガイでたびたび起こった神隠し事件に関わっているチャイ=ブレに似た化け物は記憶を食らう。それは過去世界樹旅団がインヤンガイに放ったワームのデータを元に強欲な一部のインヤンガイの者たちが術と霊力によって作った劣化コピーだと推測されている。 その飼い主であるイヴという少女は大切な人を失って、死者を蘇らせようとした。霊力をエネルギーとするインヤンガイのサイバーシステムには悪霊が入り込むことからヒントを得て、魂のソフトウェア化を企んだのだ。しかし、それは失敗した。 飼い主であるイヴを亡くした化け物はたった一匹で暴走をはじめた。 己の持つ記憶を正しく使うことのできる世界計の欠片を所有するキサを襲った。 キサの所有する欠片は力を与え、吸収し、生み出すこと。「化け物はキサの欠片から知識と力を得て、自分の所有する死者のデータ……インヤンガイに死者を復活させた。これはすぐに鎮圧する必要がある」☆ ★ ☆ ソウ・ツィランは世界樹旅団に利用された殺人鬼だった。 後に「お姉様」と呼び慕うことになる理想的で魅惑的な少女に出会うまでは、女の武器を最大限に使った普通の殺人鬼だった。「おね……えさま……」 枯れた声で呼ぶが、返事は返ってこなかった。 少女は名をタミャという。インヤンガイの裏路地をふらふらしていたソウの前に現れた彼女の頭からは翼が生え、ソウにとってそれはとても神々しく見えた。 何よりタミャの爪を気に入った。 ソウは人間の爪というものがとても大好きだった。優しく撫でてくれたあの人やこの人の手の爪、懐いてくれたあの子の爪、今でも大事にとってある。爪以外に興味を示したことはなかったが、タミャはその人外的な外見もあいまって丸ごと好きになってしまった。 ソウは初めて他人に惚れ込んだのだ。 それはタミャの他人を操り力を与える能力と相性が良く、ソウはソウとしての自我を保ったまま驚異的な身体能力を手に入れるに至った。 しばらく思うがままにインヤンガイを渡り歩き、好みの爪を見つけては収集し、最後にはそれをドレスに仕立てて身に纏った。 そんな甘い時間はそう長くは続かず、ロストレイルに乗ってやってきた図書館のロストナンバーたちによりソウは捕らえられることとなる。 その後ロストナンバーたちに調べを受け、インヤンガイに帰された後は牢の中で日々を送っていたが――途端に記憶にノイズが走る。「お姉様……お姉様……?」 何も見えない暗闇の中、一歩踏み出すと遠くから人の話し声が聞こえてきた。 一歩ごとに五感が戻ってくる。じゃらりと恋しかった感触がした。爪のドレスだ。処分されてしまったはずのドレスを纏っている。 いつの間にか外に居る……とソウはやっと認識した。 懐かしいドレスに、懐かしい空気。なのに「お姉様」は居ない。 またノイズが走る。 何かが思い出せず、胸の中にもやもやが溜まった。「こんな気分の時はどうしていたかな……そうだ」 ぱんっと手を叩く。 素敵なことを思い付いた子供のようにソウは微笑む。「人を殺そう!」 爪もいっぱい、いっぱい、またいっぱい手に入る。 お姉様へのお土産にもってこいだ。早く会いたいな――と空を仰ぐと、青色の欠片もなかった。==============================================================================!お願い!イベントシナリオ群『星屑の祈り』は同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。==============================================================================
活気ある呼び込みの声は消え、通りは鉄の匂いをこもらせていた。 動く人間が居なくなった。それを確認したソウは集まった新しい爪を見る。 初めは自分も驚いたが、剥がした爪は勝手に浮き上がりドレスの周りを浮遊していた。自身が一体今どうなっているのか未だにわからないが、悪くない力だ。 「でも普通の爪ばっかりだね」 当たり前といえば当たり前だ。これは料理を売ったり、作物を育てていたインヤンガイの者たちの爪なのだから。 爪の状態を見ればその人の人生を垣間見ることが出来るが、一般人のものはやはりつまらない。 「お姉様に喜んでもらうには役者不足か……」 まるで自作した花輪を見るような顔で呟き、ソウは身を翻す。 もっと人間が沢山居るところに行こう。 ● ロストレイルから現場に向かう途中、蜘蛛の魔女はそろそろ頃合かと4人に話しかけた。 「悪いけど、私は私でやらせてもらうよ」 「ひとりで大丈夫ですか?」 「魔女にそんな心配はご無用。何かあったらノートで連絡頂戴な」 Mrシークレットにそう言った蜘蛛の魔女は糸を吐き、壁伝いに屋上へと上がっていった。 ソウを見つけた場合はノートで連絡する。この最適な連絡手段を持ち、且つ敵がどこに居るかわからない今、4人に彼女を止める理由はなかった。目は様々なところにあった方がいい。 東野 楽園はセクタンの毒姫を呼び寄せる。 「貴女も私の目になってちょうだい。お願いね」 羽音をさせて曇天に飛び立つ毒姫を見送り、ミネルヴァの瞳を駆使してソウを捜し始める。 「……やれやれ、しかし中々面白そうなことになってるみたいだね」 瀬尾 光子は小さくため息をつく。 観察目的にチケットを受け取ったものの、どうにも理解出来ないほどの悪趣味で厄介な相手のようだ。インヤンガイ独特の雰囲気も手伝って気が重い。 「お嬢さんはソウについてどうお思いで?」 エダムの問いを聞き、光子は眼鏡のフレームに指を滑らせながら答える。 「殺人を楽しむような輩は誰とも適合できないもんさね。生き返ってもその辺は変わらんようだ」 光子は生前のソウを実際に見たことはない。しかし報告書を見れば大体見当はつく。 「だから、これは善意じゃあないが、さっさと眠らせてやりたいと思う」 「……同感ですな」 ソウが生きた人間ならば別の道もあったろう。 しかし今は災いを振り撒くことしか出来ない存在だ。 その事実はMrシークレットもしっかりと認識していた。認識した上で、とても興味を引かれていた。 (どう転んでも人々の絶望にしかなりえない暴霊……しかしただ力で捻じ伏せ消すつもりではない様子ですね) 特に楽園は何か考えがあるようだ。 それがとても面白い。ただひたすら後味の悪い仕事に一摘みのスパイスがまぶされようとしているかのようで心が弾む。 (さてさて、救いを見せてくれるか否か。楽しみですね、ンフフフ) Mrシークレットはソウを知っている。彼女は前も救われることなく終わった。 さて、今回はどうだろうか。 蜘蛛の魔女はその機動力を活かし、凄まじい勢いで移動していた。人々の真上を跳んでも眼下の人間が見上げた頃には蜘蛛の脚先すら見当たらない。 やがてとある屋上の給水タンクの上で足を止めた。 そこに居たのは一匹の蜘蛛だ。蜘蛛の魔女の配下ではないが、会話が出来る。 「ねえ、ちょっと話を聞いていい?」 『なに?』 「怪しい人間の女を捜してるんだけどねぇ。爪で作ったドレス着てるから結構目立つと思うんだけど」 蜘蛛は不思議そうに片脚を上げる。 『爪、こんなの?』 「違う違う、人間の爪」 『あまりしっかりと見たこと、ない……』 蜘蛛の魔女は自分の指を見る。付け爪のせいでとても参考にならない。かといって、いつソウと戦うことになるかわからないこの状況で外すのはまずいだろう。 「仕方ないね……それじゃあ仲間を呼べるだけ呼んでおいで。見本を見せてあげるから」 通行人の指を見せてもらおう。確実に人間の爪だ。 驚かせることになるかもしれないが――なあに、一瞬で終わる。 クロセル。 水に関する魔術で、何かを探す時に役立つものだ。 光子はそれを自在に操りながらソウの出現地点を探してゆく。 「この周辺には居ないみたいだねぇ、少し足を早めてこうか」 「そうね……」 楽園も毒姫と視界を共有しつつ頷く。ソウは異様ないでたちだ、視界に入ればすぐわかるはず。 それに、きっと目立つのも厭わず血の色も纏っているだろう。 最後尾を歩いていたMrシークレットがコール音に反応して携帯電話を取り出す。探偵とすぐ連絡がつくよう支給された電話だ。 通話ボタンを押し、二言三言交わしてから切る。 「チャンさんがすぐそこまで来ているそうですよ、合流しましょう」 「ソウを捕まえた時に居たっていう探偵?」 「はい、私もその時お目にかかっています」 チャンは正真正銘普通の人間だが道案内には使えるだろう。居て損はない。 路地を抜け、寂れたバス停の前で合流する。 チャンは二十代の男性だ。緊張しているのか、前と変わらずかけたサングラスの奥で瞬きを繰り返している。 「一大事だな……。チャン・ジンだ、宜しく頼む」 「お久しぶりでございます、チャンさん」 チャンはMrシークレットの姿を見て「ああ」と声を漏らした。 「電話越しにもしやと思っていたが、あの時の」 「ンフフフ、ソウさんが蘇ったらしいですね。少しお手伝いしてほしいのですが……」 「もちろん協力は惜しまない。何でも言ってくれ」 Mrシークレットは目を細めて笑う。 「ありがとうございます。あぁ、もちろん危ない目にはあわせませんよ、ねぇ、メルシー?」 名前を呼ばれたセクタンがばさばさと羽根を揺らした。 はっとしてノートを開いた光子が手招きする。 「蜘蛛の魔女から連絡だよ。大量の負傷者を見つけたらしい」 「場所は?」 「ここより西の方だね……簡単な地図が添えてある。わかるかい?」 光子は地図をチャンに見せた。あまりにも簡易でただの図形にも見えかねないが、目印として書かれている店名には見覚えがあった。 「大丈夫だ、案内しよう」 走りつつ、一足先にミネルヴァの瞳でそれを確認した楽園がほんの少しだけ眉を顰めた。 絶命している者も居るが、負傷者のほとんどが爪だけ剥がされ悶え苦しんでいる。苦悶の声は老若男女様々だ。 「これは惨い……」 光子は確認出来た負傷者から順に回復術をかける。爪を再生させている間はないが痛みはましになるはずだ。 屋上から落下してきた蜘蛛の魔女が一行の目の前でぴたりと止まった。糸にぶら下がったまま更に西を指す。 「怪我してる人間はこの方角に集中してるみたい」 「爪を剥がしながら移動してるってこと? ……やっぱり悪趣味だねぇ」 「それなら移動速度は早くないはずよね」 毒姫を西に飛ばすと所々に赤色が見て取れた。 倒れた人間、鮮やかな血痕、そして――大通りを我が物顔で闊歩するソウ・ツィラン。 「居たわ、この辺りで一番大きな通りよ」 「それなら近道がある。ついてきてくれ」 楽園の情報に頷いて走り出したチャンの背を追うと、ほとんど障害物に阻まれないまま大通りの端まで出た。この先にソウが居る。 道の端には先ほどと同じように負傷した一般人らが呻いていたが、もう回復している暇はない。まずは元凶を断つ、と光子は道の先を見据えた。 やがて姿を現したのは、爪を繋ぎ合せて作ったドレスを纏った絶世の美女だった。 項に視線を感じたのかゆっくりと振り返る。 「おや、おやまぁ、どこでだったか見た顔があるじゃないか」 虚ろな瞳に楽しそうな光が宿る。 Mrシークレットは慇懃無礼にお辞儀した。 「久しぶりにお会いできて嬉しいですが、いけませんねぇ、死んだ人が出て来ては。子供たちが安心して眠れないじゃないですか」 「死んだ人? よくわからないことを言うねぇ、こんなに元気なのに」 ソウはくるりと舞ってみせる。男女様々な爪がじゃらじゃらと鳴った。 暴霊だが媒介となっている物があるのか、もしくはコピーされた時の影響か。実体、もしくは半実体を得ているようだ。 それでも死者は死者。生者と同じであるはずがない。 「哀れで未練がましい亡霊さんは、成仏して生まれ変わって幸せになっていただかないと」 カードを取り出すMrシークレットにソウは不機嫌そうな顔をした。 「また邪魔するのかい。そう……それなら相手になったげるよ、あんた達の爪ならきっとお姉様も喜んでくれる!」 黒いもやを纏わせ、ソウが吠える。 「は、やっ!?」 人間とは比べ物にならない速度で急接近したソウを見、光子は後退しながら水の壁を出現させた。 いつの間にか手に握ったナイフで水の壁が裂かれる。瞬きする間に増えるナイフに舌打ちし、光子は空気中の水を圧縮した。 「ナイフは出し放題って訳かい。けどそれはあんただけの専売特許じゃないよ!」 レーザー兵器のように放たれた高圧の水がソウの体を貫いた、鮮血の代わりにもやが噴き出す。 低く呻きながらソウが振るったナイフが光子の服を引き裂く。露出した腹部に赤い線が走るが、まだ浅い。 真横から蜘蛛の魔女が突進し、ソウは吹き飛ばされた。しかし地面に触れる直前にふわりと浮遊し、元の体勢に戻る。無意識にやっているのか気にした様子はないが、これでまだ死んでいないと言い張るのが滑稽だった。 「面白いドレスじゃないか。爪を集めたくなる気持ちはわかるけどねぇ、その発想はなかったよ」 「うふふ、それは褒めてくれてるのかい?」 「そうだよ、今度私も真似したいくらい」 くすりと笑い、蜘蛛の魔女の脚がざわざわともたげられる。 「けどねぇ、所詮人間の手足は4本。12本の手足を持つ私に人間如きが敵うもんか。それとも……私のこの自慢の爪、狙ってみるかい?」 蜘蛛脚の真っ黒な爪と真紅のトラベルギア『蜘蛛の爪』を見つめ、ソウの瞳が爛々と輝く。 「形は人間の方が好みだけれど……そうだね、そうそう、お姉様に似合いそう。お土産にさせてもらうよ!」 ナイフは的確に蜘蛛脚の先端を狙っていた。それが触れるよりも早く蜘蛛の魔女は飛び退き、身を屈めてから跳躍しソウを羽交い絞めにする。 素早く逆手に持ち替えられたナイフが脚の一本にめり込んだ。 力任せなその攻撃は常人なら激痛を与えることが出来ただろうが、蜘蛛の魔女は脚に痛覚がない。 「っ……手癖悪いね!」 それでも精神的なショックはそのまま伝わる。 刺さったナイフがそのまま移動し、脚を切り落とそうとしているのを見て一瞬拘束が緩んだ。少量のもやをその場に残してソウが脱出する。 「あれ……なんだろう、なんでこんなこと出来るんだろう?」 気付けばソウの周りにナイフが何本も浮いていた。 「手品でもなんでもない。なのに何故そんなことが出来るのか。答えは簡単、先ほど述べた通りですよ?」 楽しげに笑いながらMrシークレットがカードを切る。 「皆さんが前に出てくれている間に準備は終わりました。さーてソウさん、懐かしいシチュエーションですよ。この後私がどうするかわかりますよね?」 「……! あんたの爪は好みだけれど、カードは嫌いだよ!」 全面防御するようにナイフを展開させ、ソウはMrシークレットに狙いを定める。 Mrシークレットの肩から飛び立ったメルシーがベランダの手すりに留まったのを見届け、彼は片手を振る。 「ンフフフフ、メルシー、上からしっかり見ていてくださいよ」 Mrシークレットは防御に関する何事も行なわなかった。 ただただ司会者のように両手を広げてみせる。 「つっこんでくれば罠、上からならワイヤー。もしナイフが私に届いたとしても、あぁ! 諦めて死ぬしかありません、なんと言うことでしょう!」 「煩い口から切り裂いてあげるよ!」 ソウは自分が死んだとは思っていない。けれど今なら何でも出来るような気がした。 あの時のように罠に嵌ったとしても大丈夫、きっとこの男の血を見れる。 ネクタイを掴んで引き寄せるとMrシークレットは驚いたような顔をした。シルクハットが飛び、あと少しでナイフの切っ先が唇に触れるといった瞬間。 ぱっ、と彼の姿が消えた。 「なっ……」 「死ぬしかない……というBADENDでは寝覚めも悪いでしょう、最後のイリュージョンです」 真後ろから声。 代わりに目前に現れたのは巨大なアイアンメイデンだった。 「なっ、ぁ」 その中へ吸い込まれるようにソウが消える。針はない、ただし、きちんと両手両足の爪は砕く。 瑞々しいものが弾ける音がした。本来実体のないソウの記憶に基づいて爪と肉、骨が破壊される様が再現されたのだろう。 がたごとと揺れるアイアンメイデン。これには研究し編み込んだ術式がある。そう簡単には出てこれない。 「……見てみなよ、往生際の悪い奴だねまったく」 腹部を押さえたまま光子が指した先には黒いもや。アイアンメイデンに収まらなかった分のもやが人の形をとり、苦痛に顔を歪めたソウの姿になる。 明らかに力は激減していた。いわば捕まったのが本体、こちらは「残り」だ。 「無駄な抵抗はよしな!」 なおナイフを作り出そうとするソウを光子の水が覆い、それが瞬時に凍って動きを阻害する。 唸るソウは記憶のノイズが強まるのを感じていた。 死んでない。死んでない。自分は死んでない。だってこうして人間のように動きを封じられる。痛みもある。 その考えが枷になっているとは思わず、ソウはもがき続けていた。 意識が混濁する。 「ねえ、ソウ。私を覚えていて」 声が耳に届いた。甘く、脳に浸透するような声。 「お、ねえさま……?」 「そうよ 貴女の恋しいお姉様よ」 媚薬のような香りを纏った少女が近づいてくる。それは仲間には楽園という少女にしか見えなかったが、ソウにとってはお姉様だった。幻覚効果を孕んだ香りが彼女を逃さない。 「御覧なさい、この爪を忘れたの?」 「あ、ぁ」 「暴れないで、ナイフなんて投げないで、爪が欠けてしまうわ」 からん、と地面に落ちたナイフが溶けるように消えていく。 氷越しに冷えた身体を抱き締め、頬に指を這わせた。 エダムが最後の一押しにとタミャに幻覚を重ねて見せる。楽園は戦闘の合間に彼に頼んだのだ、葛藤を知りつつ……知っていて尚、タミャの幻覚をソウに見せてほしい、と。 頼み事には応じるまで。 「ほら、大人しくして」 口に含んだ痺れ薬を口移しでソウに飲ませる。薬は生きていた頃の記憶に縛られたソウに効果を現した。 「貴女はずっと寂しかったのよね」 「お姉様……」 ずっとこの時間が続けばいい。 しかしそれは、死者にも生者にも許されない。 楽園の口が残酷に開いた。 「特別に教えてあげる。貴女のお姉様はもう死んだの」 「っ、え?」 「お姉様に逢いたいなら地獄に落ちなさい。そこでなら誰にも邪魔されずお姉様と蜜月を過ごせるわよ」 だってお姉様はここに居るのに。 そんな思いは口に出来なかった。ノイズまみれの記憶が逆流してくる。 暗い牢で過ごしていた。 タミャとの繋がりは切れたと思っていたが、ほんの微かに残ったそれがソウに「お姉様の死」を感じ取らせた。 絶望が毎日襲ってくるようになり、やがて。 やがて。 「あたし、死ん、だ」 自分で命を絶ち、気付いたらここに居た。 お姉様の居ないこの世界に舞い戻ってきた。 表情の抜け落ちた顔に涙が伝う。 「さあ……もう一度お眠りなさい、貴女はもう死んでいるのだから」 鋏の二枚の刃がもやを断ちながら口付けする。ごろり、と落ちたソウの首は地面に当たる瞬間確かに微笑んだ。 ――これでお姉様のもとへ、ゆける ● ノートにあった連絡を見て光子が小さく息を吐く。 「あっちも片付いたようだね。……あぁ、肩の凝る敵だったよ」 キサ救出の報。これでこの騒動も鎮圧されるはずだ。 「儂はキサの方へゆきます故、また後ほど」 どこか焦った様子で駆けていき、挙句の果てに躓いているエダムに光子は肩を竦める。 「あいつも忙しい奴だね。さて……」 怪我人は粗方治療した。あとはインヤンガイの医療機関に任せればいい。 「悲劇を娯楽的悲劇にしたお嬢さまに拍手を。楽しませてもらいましたよ、ンフフフ」 バッドエンドでありハッピーエンドだ。拍手する手にも熱がこもる。 ご機嫌な様子でMrシークレットはメルシーを撫でた。 「あの可哀想な娘は、ちゃんとお姉様と会えたかしら」 「世界は違えど会いに行きそうな気がするねぇ。ま、しつこすぎて愛想尽かされないといいけど」 蜘蛛の魔女は若干の不機嫌さを混ぜて言う。 まったく、自慢の脚に酷いことをしてくれたものだ。帰ったら念入りに手入れをしなくてはならない。 楽園はもうもやも何も見当たらない大通りを見つめる。たしかにそこに居た娘は消え去った。記憶も何もかも空に還り、もう二度と形をとることはない。 「……あら」 あるはずのものもないのに気がつき、楽園は微笑む。 「お土産、ちゃんと持っていったのね」 くすくすと笑い声が漏れた。 ふわりと温い風が吹き、その笑い声を天に届ける。 応えるように空に眩しい青みが差した。
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