さて、日ノ本の一郭に在していた鞍沢の地が隣国矢嶋の襲撃に滅せられたのと頃合を同じくして、朝廷に坐していた帝は身体の繊弱故に坐を退き、後を実弟である親王に委ね臥せていた。 帝位に就いた後の親王の所業は歳月を経る毎に目に余るものへと変じていったが、言を挟もうと試みる者など皆無に等しかった。否、親王は己の政に言を挟み入れる事など決して許しはしなかったのだ。 帝位を退いてより以降、帝の姿を目にした者は朝廷内に唯の一人も居らず。知る者は親王の下した命により尽くに首を撥ねられた。故に、何時しか皆一様に口を噤むようになったのだ。 ――帝は、親王の謀略によって大妖に命を奪われたのだ。 その謀略の陰には、先頃亡んだ鞍沢の当主天野守久、並びに矢嶋の当主矢嶋直隆もまた噛んでいる。親王こそが矢嶋直隆を繰り、天野守久を弑させた元凶であるのだ。 尤も、矢嶋もまた、鞍沢亡き後、大妖との盟約を交わした守久の手により弑される処と成ったのだが。 斯くて、守久との盟約を果たせし大妖――大百足の物の怪と、朝廷に坐す親王ばかりが残され、歳月は流る。 ◇ 庭先に綻ぶ白梅を愛でつつ独り酒を愉しんでいた左大臣は、頬を撫で吹く一陣の夜風の気配の向こう、白拍子の姿を認めて杯を置く。 袖で口許を隠してはいるものの、切れ上がった黒い双眸の形を見れば、女が艶然とした笑みを浮かべているのは容易に知れた。 はて、と、左大臣は僅かに首を捻る。 仮にも此処は左大臣職に在る者の宅である。狼藉を狙う不届や、怪しげなる者は、余す事なく平等に追い返すよう、門番には厳しく言い渡してもいる。ならば、今こうして相対している白拍子は果たして何処より紛れ混んで来たものか。 本来であるならばここで衛兵を呼び、直ちに成敗を加えるべきであるのやもしれぬ。考えつつも、然れどそれ以上に、左大臣は退屈であった。 剣術の習いならば身につけている。恐らくは右に並ぶ者もそうそうは居らぬであろう。むろん、そのような腕前である事を周知にする必要もありはせず。よって左大臣たるこの男、取るに足らぬ使えぬ男――昼行灯と影で指さされ笑われている。 故に、衛兵を呼ぶまでもなく、単身であっても奸賊の一人、難なく斬り伏せる事など易い事だ。 尤も、それも常なる人間が相手であればの話だが。考えながら左大臣は自嘲する。杯に揺らぐ波の中、天に浮かぶ欠けた月が映っていた。彼は其れを一息に干し、次いで胡座を組み直す。 改めて眼前に立つ白拍子に目を向けた。庭に敷き詰めた玉砂利の上、白々とした月光を浴びながら、白拍子は白梅の木の下に居る。当然に、砂利を鳴らさずに庭を横切る事など出来ようはずも無いのだ。 「其方、物の怪か」 声を掛ける。干した杯に酒を注ぎ入れた。再び月が水面に浮かぶ。 白拍子は袖を下ろし、深々と腰を折った。品をすら思わせるその所作と月光の如き艶麗が、女が人とは逸した存在であると知らしめている。 為らば、眼前の女が牙を剥けば、或いはこの首など容易に転がり落ちるのやもしれぬ。考えれば知らず頬が歪む。其れも良かろう、悪くは無し。退屈なばかりの現し世に身を置き続けるならば、幽界にでも渡った方が一層愉悦であるやもしれぬだろう。 左大臣が眉一つ動かすでもなしに杯を口に運ぶのを、白拍子は白梅の下より動く事なく只見据えていた。 「白梅の精か」 左大臣が問う。女は漸く静かに笑った。 「否やと申しますよりも、左様に御座いますとお返しするが風情と云うものに御座いましょうか」 「そうであるやもしれぬのう」 返された言に左大臣は笑う。 「構わぬ、酌でもせい」 女に向けて手を招き、左大臣は告げる。白拍子は再び丁寧に腰を折り、その後に初めて砂利を踏みしめた。 「此度、吾が主の命ににより、左大臣様に主の言葉をお伝えする為に参じまして御座います」 そう告げた後、女は男に酌を進めつつ、朗々と唄うが如くに言の葉を落とす。 身体の繊弱故に帝位を退いた帝は、其の実、既に幽界に送り出されているのだと云う。 弑したの者こそが女の主。その実は大百足、即ち山の如き大妖である。 左大臣は首肯した。聞き及んだ事がある。数多の僕を抱え込み、様々な国を亡ぼし渡ってきた大妖だ。其れが先頃から朝廷より幾許も距離を置かぬ地を根城にしたという報せを受けて、帝はこの大妖の退治に関する勅命を下したはずだ。 さて、その勅命を受けし者こそが、鞍沢の当主である天野守久であったはず。左大臣は更に首肯した。 眼前で朗々と口上を述べる妖の言を侭鵜呑みにする訳にはゆかぬ。然れども虚偽を申し立てているわけでもないようだ。 杯を口に運びつつ、左大臣は静かに白拍子の話に耳を寄せる。 白拍子は告げる。己の内に刻まれた碑文を読み上げる如くに朗々と。 鞍沢に助力を為さんとして同行した矢嶋の力を合わせても尚、大百足の討伐には至らず終い。辛がら逃げ延びた両名の内、矢嶋直隆が親王に呼び出されたのはそれから数日の後。その際に親王が直隆に如何なる事を甘言したかは定かではない。だが、と白拍子は言う。知れた事。親王は直隆にこう告げたのだ。 「予はかような噂を聞き及んでおる。討伐の際、物の怪を操る奸賊がいたのだ、と。直隆。そなたは、『奸賊の顔を知っておろう』な? 物の怪を利用し、帝への反逆を企てるなど不届き千万」 唄を詠じるようにそう述べて、白拍子は数拍を置く。訪う静寂。白梅の枝が夜風に揺らぐ。 為ればこそ、後の流れなど推して知るべし。 親王は直隆を繰り、天野守久を弑させたのだ。然れどもその勅命は飽く迄も帝の御言葉でもある。 「天野守久を討たせたは帝の御言葉を騙った親王であると申すか」 杯を置き、左大臣は問う。白拍子は細い首を以て首肯いた。 その後、矢嶋直隆は大百足により命を落とす。親王の兵卒が直隆の助力に赴いた際、直隆の躰は物の怪共に喰らわれたか、跡形も残さず消えていたと云う。ただ首だけが岩場に残り、狂うたように笑い続けていたのだと。 吾が主は 白拍子は唄う。 「吾が主は帝の御命も絶ちまして御座います。然れども其れも又彼の親王の計上。その算段を知った後、吾が主はひたりと動きを止めまして御座います」 「何故か。其の話が真実ならば、親王は百足を利用し、己の地位を獲たのであろう。其れこそ正に不届き千万ではないのか」 「吾が主の意の総てなぞ知る術も有りませぬ」 然れど、親王は実に狡い男。頭も賢く、抜け目も無い。 帝の留守居を好機と捉え、隙あらばと天下を狙う血気盛んな侍共を利用し、是れを抑え、制圧した。以降に親王が布いた圧政は左大臣にも知る処。 国の護りは強固なものと成り、人は闇に畏れを抱かなくなりつつある。 然れど。 白拍子はゆるゆると笑う。 「闇が失せる事などありませぬ。深き業を抱えしは、吾らなどではなく、其方ら人間共であろう故」 人の心にこそ業深い闇は在る。故に物の怪の失せる事など在る由もなく。 「待て待て、其れは如何なる事ぞ」 左大臣は問う。然れども女は応えない。紅をひいた唇が歪んだ笑みを形作る。 一陣の風が吹き、梅の香が夜の闇を満たす。 左大臣と、空になった杯ばかりが残された。 ◇ 「其方、妾の忠言、何故に流したか」 杯に浮かぶ白梅の花弁に目を落としていた業塵の前、白拍子が凛とした声を張り上げる。 「親王の企みも、直隆の狂心も知りおきながら、何故に騒乱を止めなんだ」 沈黙したままの業塵を呼ばわって、白拍子は更に言を続けた。 「……事の真ならば、儂が使いを遣り、左大臣に伝えたわ」 ゆるゆるとそう応え、業塵は隈のついた眼を持ち上げ、白拍子の顔を見る。 左大臣の許に遣った虫が模していた風貌だ。誰の目に見ても美しい見目を持つ女。名を永峰太夫と云う女も亦人に非ざりし者。太夫があぎとを開きさえすれば、業塵など他愛なく呑まれる事であろう。 「其方、利用されると知っていて、何故に」 「人と策を弄してかき乱し、絶望と怨嗟と恐怖を生ませる為よ。余す事なく儂の腹を満たす糧となろう」 応え、業塵は僅かに口角を上げた。 放りやっておいても何れ親王は己の罪に沈むであろう。在りもせぬ呪いや怨霊に気を狂わせて、程なく自滅の一途を辿るのだろう。 太夫は束の間驚いたように目を見張り、後、深い嘆息を落として頭を振った。 「よいか、業塵。信心を忘れかけた人間には、今少し物の怪を恐れてもらわねばならぬ」 太夫は告げて、寂しげに眦を細める。 「使われる宿命、今の其方には破れぬぞ」 業塵は頬を歪めたまま、白梅ごと杯を干す。 「承知の上よ」 久方ぶりに持てる力と配下を用い、思うまま存分に遊んだ。数多の国を潰し、人を喰らい、殺してきた。 ……然れど、 「其方」 太夫が何事かを呟いている。然れど、その声が業塵の耳に届く事は無い。 空になった杯を眺め、業塵はそれきり沈黙するばかり。
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