ターミナルの心地よい青空の下 どどどどどとおおおおおお まるで暴走した水牛のごとく土煙をあげて走る人物がいた。 上等の着物にほそりとした身を包ませるのは、生きたまま骸骨となったような虚ろな顔。今はその額に大きな冷や汗をたらし、目はカッ! 見開いて前だけを見てなんかいろいろと怖い――あ、うん、ようは怖い顔で全力疾走中の業塵である。 彼の正体は大百足の大妖怪。人を投げて千切る、胎内に住む妖を使って掃除から破壊とかいろいろと出来ちゃうとっても強いはずなのに、なにゆえ逃げているのか。 やばい――危険 どどどどおおおおおお。(殺意) やばい、やばい、――恐怖 どおおおおおおおおおおおおおん。(殺意) やばい、やばい、やばい――決して逃げられない、これは しゃあああああああああああああああああああああああああ!(さ つ い!) ぞくりっと背筋に走る悪寒に業塵は、ハッとしてぎょろりついた目を向けたが、それはもう真横に迫っていた。 「業、塵」 イェンス・カルヴィネンが丸い眼鏡越しに虚ろな濃い植物色の瞳を向けてきた。 「!?」 あれ、人間ってなんだったけ? ついうっかり脳の端っこで人間という生き物がどういうものだったのかと彼岸の彼方に昇る魂に自問することでなんとか現世に己を留めた業塵――どうしてこんな状態になったのかの発端はきっかり一時間前に遡る。 業塵は覚醒したのち、司書のすすめと無償の好意から保護に携わったイェンス宅に身を寄せた。 イェンスが真心をこめて作った別宅は、住み心地抜群であった。 洋風の家はテーブルやソファ、これまた業塵があまり見ない類の家具が置いてあったが物珍しいのが逆によい。 何も知らない業塵に対してイェンスは大天使ガブリエルのように思わず、うお、まぶしいな後光が見えそうになる慈愛深さで接した。テーブルに思わず乗っかったり、座ったりしてもだめだよと諭し、カーテンの下ろし方がわからず、ついうっかり破いてしまったとしても、仕方ないねと苦笑いするばかりだ。 イェンスとの暮らして知った最も素晴らしいのは洋風の御菓子だ――なんという甘味! なんという美味! これだけのために覚醒したのではないのかと思ったほどの旨味に出会うきっかけともなった。 それも毎日三時になると紅茶なる味は薄いが匂いのよい飲み物とさまざまな菓子が一緒に出てくるのだ。もちろん三食昼寝つき。基本なにをしてもイェンスは怒らない、家の手伝いを強制することもない。 だから、まぁ、あれだ。 ――ちょろい と業塵が無表情なりにも感じた、かもしれないのは――仕方がない。 むしろ、イェンスの纏うほわほわさは、空気で膨らませた紙風船のように手ごたえのない。 何千年も生きた大妖怪の業塵からしてみれば人など、まぁそこらへんにあるゴミと同じようなものだ。 しかし、しかしだ。 イェンスはときどき相手をしてくれないことがあるのだ。 なぜだ! とまあ無表情なりにも業塵が感じたかもしれない。 なんといっても自分に尽くすはずのイェンスが、ときどきふらりと奥の部屋にこもって数時間ほど出てこなくなるのだ。こっそり覗いてみると、ペンを持って紙に何か鬼気迫る顔で書いている。ときどき高笑いやら雄叫びやらが聞こえてくるのには静かにドアは閉めて聞かなかった。自分は何も聞かなかったことにした。 現在、イェンス氏は別ネームで出しているエログロ小説の締切り三日前にして原稿が三分の一も進んでいないという危機的状況に陥っていた。締切りは歩いてくるんじゃないマッハで走ってくるんだあいつら! さらに壱番世界は悪魔召喚するほどの鬼気迫る気配を放つって原稿を待つ編集者がいるのだ。 そんなわけで追いつめられて原稿を仕上げにかかっている作家ほど触れてはいけないものはない。 が、そんなこと業塵にわかるはずもない。 暇だ。 軽く胎内の蟲を出したり、しまったりなんて無意味なことをしてみたが、ますます暇だと思うばかりだ。 暇で、暇で、暇で死んでしまう。 退屈は大妖怪を殺す。 ――なにもかもイェンスが悪いのである。 その日は最悪なことに三時のおやつまでイェンスは忘れた。 なんということだ! 一日一度の楽しみが抜かされたことの怒りと鬱憤、暇すぎて死ぬかもしれないと身悶えする気持ちをどこにぶつけるべきか。 業塵は考えた。 居間にあるテーブルの上にはまるで誘うかのように水性ペンが置いてある。 きゅぽんと蓋を開けて、テーブルの上でさらさらと動かすと、墨がないのに文字が書かれる。 これは面白い。 きゅきゅきゅー。 軽やかな音をたてて唸り、しなるペン! 書く、書く、書く、書く! テーブル、椅子、ソファ……とりあえず目につくものにあれこれとテキトーな文字を書いていくなか、ふと業塵はそれに目をつけた。 暖炉の上に置かれた写真たち。その一番真ん中に置かれている女性の写真にイェンスはよく声をかけていたが、せっかくだと業塵は線をいれる。 髭を二本。 うむ。 満足したところでばたんとドアが開いた。 「ああ! すまない、三時のおやつが……これは」 業塵が振り返るとイェンスが目を丸めて部屋の悲惨さに苦笑いした。いつものガブリエルの後光が出るかと身構えたとき、その笑みが停止した。 ある一点を凝視している。 はて。 業塵が眠たげな目を細めて手の元にある写真を持ち上げるとイェンスは、くわぁ! と目を見開いた。 「そ、それは、暖炉に置いてあった写真かい」 業塵は頷いて写真を元の位置に戻した。 その瞬間 「な、な、なっ!」 震える声に業塵は自分のつけくわえた芸術的な髭に感服していのかと呑気に考えたが、そのあとすぐに放たれる殺気に身をかたくした。 ハッ! 思わず視線を向けると糸の切れた人形のように俯いたイェンスがゆらっと動く。小さな眼鏡が獣の牙のようにぎらりと輝く。 ごくりと喉を鳴らす。 「大切な、写真が、なんてことを……なんてことを!」 なんだ、これは。 思わず細い目を開き、業塵は凝視する。全身から放たれる深い悲しみとそれを超える激しい怒りと殺気。 業塵が動いたのはほぼ本能に従っての行動であった。 拳を握りしめて、打つべし(腹を抉るように)、打つべし(肉を断つように)、打つべし(すべてを破壊する幻の左拳)! が 手ごたえがない。むしろ、拳が痛むのにぎょっと目を見開いて見れば黒い髪が指に巻き付いているのにイェンスへと視線を向けば、その腹に黒い髪が巻き付いているのだ。一本一本がしっかりとイェンスの肉体を包んで鉄の如き防御力を発揮している。 なん、だと…… 業塵が茫然とするのにゆらぁとイェンスが不気味に動いた。 「頼むよ」 冷やかな刃物のような声。 それに応じて髪がしゅるりと獰猛な毒蛇のように動いてイェンスの腕、拳に絡みつく。 そして あ、やべ。 本能的に業塵は後ろに回避していた。 ごん! 重い鉄が落ちたような音をたてて、床に穴があいた。 ぱちぱちぱちと目を瞬かせる。 どう見てもイェンスの細く、ひょろんとした拳が穴を開けた。これもギアによる能力の底上げか。しかし、あの髪ってそんな使い方が出来るのか? 今度こそ本当の意味で愕然とする業塵は、ハッとした。 ゆらと動くイェンスの目。 あれは殺す目だ。 片手をあげて、待てと示すがイェンスのぎらぎらとした目と同じほどの破壊すんぞてめぇな好戦的な気配を醸し出すギア、虚ろな目で凝視してくるガウェインがずーんと迫ってくる。 一切の斟酌も躊躇も無く、殺る目をしてやがる。やばい。 そんなわけで業塵は冷静沈着に、力いっぱいその場から逃亡することを選んだ。 大妖怪だって怖いものは怖いのだ。 よくわからないものをつくのは危険すぎる。ならば少し距離をとって様子を見て弱点をつくか。人間というものは空ろ、ほっておけば勝手に疲れて自滅するか、もしくは時間が経って忘れるか。 業塵はイェンス宅の窓に体当たりというダイナミックかつ素早い逃亡を経てターミナルの人ごみをてくてくと歩いていた。とりあえず、時間を置いて観察すればそのうち有耶無耶となるだろう。 なんと甘い考えか! ――殺気。 はて? おかしい、この怖気、この恐怖……本日何度目かになる、元来無縁な不安を覚えて業塵は顔をあげた。 なん、だと……(本日二回目) 「まてぇえええええええええええええええ!」 まるでジャンルにいる獣に育てられて野生児のようにイェンスはギアをロープのように伸ばして建物の端にくっつけて飛んでいる。 どすーん! 業塵の前に見事な着地。 「業塵~」 …… ……やべぇ!(これも本日二回目) 業塵はすすっと後ろに下がると胎内の蟲を呼ぶ。無数の蟲と痺れ毒を扇にのせて、放つ。 普通の人間ではひとたまりもないだろう。イェンスも蟲に全身を覆われ、さらに痺れ毒にふらりと倒れる。 勝った! 妖怪の強さ、見たか……と思った瞬間、ばきぃ。となにかおかしいな音がした。はて? と首を傾げて見ると、なんと、イェンスが起き上がっている。無数の蟲たちをギアが鞭のように撓って払いのけたのだが、痺れ毒はどうやって克服したというのか? あれは生きていれば通じるはず 答え・気合い。 そんな馬鹿なと思われるだろうが、いま、イェンスは怒りに脳の活動がすべて占められていた。もう大量のドーパミングやら脳内麻薬といった危険すぎるものを自己で作りだし、ハッスルしている状態なのだ。それにたかだか蟲の痺れ毒ごときが効果を発揮する余地なんて一ミリ単位もなかったのだ。 なんということでしょうか……! 業塵は地面を蹴って飛んだ。 だったら空に逃げればいいと思った瞬間に顔にマッハで飛んできたのはガウェインである。もふんなおなかが業塵の顔にぶつかる。 「!?」 ガウェインのダイレクトアタックによって業塵は地面にぺちんと落ちた。 「っっ!」 腰を思いっきり打った痛みに微かに震えながら、それでも起き上がったのは迫りくる脅威から逃げようとする生きとし生けるものの本能である。 振り返ってはいけない。 やつがくる! もう最終手段である。 業塵は蟲に変身した。それも小さな小蠅である。無数の胎内で飼っている蟲たちに紛れて逃げるという知能的な、別の言い方すればものすげぇあざとい方法であるが、命には代えられない。 「そこ!」 え? なんと伸びてきた髪の毛――イェンスはギアの髪の毛を一本一本を無数に伸ばして蟲をすべて捕獲するという荒業に出たのだ。 なんという執念 なんという恐ろしき怒りのパワー! つぶらな蟲の瞳で見るとイェンス自体も無事ではないことがわかった。いつも撫でつけている髪の毛はぼさぼさで頭からひゅーと血を出したり、なんか無駄に破けた服から流れている血はこいつはそう長く戦えないことを示している。 こうなれは耐久戦に持ち込むしかあるまい。 業塵は小さい蠅の姿で震え上がりながらも最後のプライドで覚悟を決めた。 どす。―-あ。 イェンスが拳をおろして、またふりあげる。 「ご」 ごき。 「め」 ぺち。 「ん」 ぐしゃ。 「な」 ぶじゅ。 「さ」 がちぃ。 「い」 ぐりぐり。 「は」 ざっくり。 「?」 ぷつーん。 あまりのことに映像ではお見せできないような悲惨な光景がターミナルの道の端っこで繰り広げられているのに行きかう人々は、私は何も見ていない、関わったらいけない、と足早く通り過ぎていく。 まぁ、傍から見たらイェンスが一匹の蟲に向けてぽすぽすと拳を打ちつけているだけなのだが、その無心の動きがものすごく恐い。 ……で 「君に怪我は無いかい? すまないね、ちょっと大人気なかったよ」 翌日の朝、全身が痛むのにターミナルにいる医者を呼ぶと全身筋肉痛、さらに数か所の骨が折れていることが発覚したイェンスは絶対安静とベッドの上にくくりつけられて、そこに業塵を呼ぶと苦笑いを浮かべて謝罪を口にした。 「恥ずかしいな」 心の底から昨日のことを後悔しているらしいイェンスに途中からいろいろと記憶がぶっとんで、気がついたらなぜか家にいた業塵は無表情で首を横に振った。 むしろ、そういう反応しかできなかったともいえる。 昨日のこともう忘れてしまいたい。 「ああ、写真なんだけどね。あれは水性だったから、よく拭いたら落ちたよ。油性だったと勘違いして本気で怒って、すまなかったね。君はよく知らないのに、ただ写真は大切な思い出が詰まっていたりするものだから悪戯でもあんなことはしちゃいけないよ?」 「……承知した」 「許してくれるのかい? ありがとう、やっぱり君はいい子だね」 「……」 「ん? どうしかしたのか?」 ふるふると業塵は首を横に振った。 あれで、大人げない、なのか。そうか。 業塵はしみじみと思う。 こいつだけは怒らせないようにしよう。からかうのはいいが、同じ過ちをもう一度繰り返したとき、自分の命は無くなっているだろうということぐらいはわかる。 「ああ、けど、原稿、なんとか書ける、かな?」 腕の骨、折れてるとかいわれていたような 「原稿は絶対に落としちゃいけないんだよ? 大丈夫、私にはグィネヴィアとガウェインの助けもあるからね」 にこりとイェンスは微笑んだ。しかし目が笑っていない、昨日と同じ戦う目をしてやがる、こいつ。 こいつだけは絶対に敵に回しはしない――イェンスのガブリエルの如き笑みを見ながら業塵はかたく、かたく、ものすごくかたく誓った。
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