お手製の落書き帳と、色鉛筆がたくさん、それと、美味しい美味しいお弁当。他にもお気に入りの石やビー玉や綺麗な蓋なんかが入ったポシェットをがちゃがちゃいわせながら、アルウィンは水族館のチェンバーへ走り込んでゆきました。 「こんちやー!」 おう、元気な挨拶だな坊主、と、いつもなら返ってくるはずの、優しい飼育係さんの声が聞こえません。広い水族館は、水槽から差し込む青白い光に包まれて、ひっそりとしています。 「おおうい、アルウィン、あそびきたぞー」 声が聞こえないところにいるのでしょうか。アルウィンはとことこと中へ進み、あちこちをのぞき込みながら飼育係さんを探しましたが、見あたりません。 アルウィンは、ちょっとだけがっかりしました。美味しいお弁当の自慢をしながら一緒に食べるのを、楽しみにしていたからです。お昼におかずの交換こが出来ないなんて、つまらないですよね。 しょんぼりしたアルウィンの真横を、小さな魚の群れがざあっと通り過ぎていきました。魚たちの鱗に反射した光があちこちに跳ね回って、きらきらしています。賑やかな音楽のような光模様に、アルウィンの瞳もきらきらしてきました。元気に泳ぐ魚に、励まされたみたいです。 「うん、まずははらごしらえだ」 おなかが減ると元気がなくなるって、誰かも言ってました。アルウィンは水族館の中で一番のお気に入りの場所まで行くと、一人でソファに座って、お弁当を広げることにしました。 * アルウィンの背丈の十倍はありそうな水槽は、この水族館で最も大きくて、最も多くの魚が泳いでいました。アルウィンはこの水族館に遊びに来るときはいつも、この水槽の前に座ってずーっと魚たちを眺めているのです。 床に寝そべっていた細長い魚がうねうねと泳ぎだし、小さな魚が群をなしたりばらけたり、古亀がゆったり飛べば、平べったい魚が蝶のようにひらりと過ぎる。どの姿も、見飽きることがありません。 アルウィンは今も、ご飯を食べているのに、時折ぽかんと口を開けたまま魚に見入ってしまって、我に返ったりしていました。 ごちそうさまをしたアルウィンは、落書き帳を膝の上に広げます。 「よーし、おえかきするぞ」 まずは黒い色鉛筆を取り出して、画伯よろしく、水槽に向かって、目を眇めてみます。 魚はちっともじっとしていてくれませんが、アルウィンは気にしません。まずは水槽を悠々と我が物顔で泳ぎ回っている、一番大きな魚を。水槽越しにアルウィンに話しかけてくれるように思える、賢そうな顔の魚を。水底を歩き回っている蟹の家族を。一度も動いた姿を見たことがない、ぬるりのっぺりした不思議な魚を。次々に、描いていきました。 黒い魚。緑の魚。青い魚。赤い海老。黄色。だいだい色。 いつしかアルウィンは、水槽を見ないまま、落書きに夢中になっていきました。もっとかっこいい魚。もっとすてきな魚。もっと強そうな魚を、色鉛筆を持ち替え持ち替え、描いていきます。 「できた! カッコイイ!」 渾身のカッコイイ魚が描き上がって、アルウィンは上機嫌です。思わず落書き帳を掲げて、水槽の中の魚たちへ、見せびらかしに行きました。 「どうだ、カッコイイさかなだ。アルウィンのさかなだ!」 鱗の色が一枚一枚違う、とてもキレイな魚でした。目玉はビー玉のようにぐるぐる不思議な色をしています。ヒレはぴんと大きくて強そうで、尾が彗星のように長くきらきらとしていました。 掲げた落書き帳へ、水槽の中の魚たちが、集まってきていました。アルウィンの魚を誉めてくれているようで、アルウィンはますます上機嫌です。世界一のお魚だと、そう思いました。 * そうして、お絵かきに満足したアルウィンが、お片づけをしているとき。 「……。……」 どこかから、声が聞こえた気がしました。 「だれかいるのかー?」 ぴくり、と耳を動かして、あたりを伺ってみますが、誰の姿も見えません。そういえば、今日の水族館は、アルウィン以外にお客さんが一人もいないようでした。 口を閉じて耳を澄ますと、静寂が戻ってきました。気のせいだったのでしょうか。アルウィンはお弁当をしまって、色鉛筆をしまって、落書き帳を抱えました。 さて、帰ろうかと、そのとき。 「……助けて」 今度は後ろから、はっきりと声がしました。 けれど、振り返ったアルウィンの後ろには、大きな大きな水槽があるだけです。また、空耳だったかもしれません。でも、アルウィンは小さくても騎士ですから、助けを求める声には応えねばなりません。 水槽を回り込むようにして、アルウィンは声の主を捜しに行きました。 「こっちいるのかー?」 「……」 「あっちなのかー?」 「助けて」 どういうことでしょう。声は、水槽の中から聞こえるようなのです。アルウィンは、ぺたりと水槽に張り付いて、耳をくっつけようとしましたが―― 「わわわわっ?!」 するりと、何かをすり抜けた気がしました。ひんやりとした空気を感じます。 いいえ、それは空気ではありませんでした。今先ほど水槽越しに見ていた魚たちが、とても大きくなって、アルウィンを取り巻いています。アルウィンは、水槽の中に入ってしまったのです! 「く、くうき、くうき」 息ができないんじゃないかと、ばたばたするアルウィンの周りで、ぱくぱくと魚たちが口を開きました。 「大丈夫だよ」 「大丈夫だよ」 それが魚たちからの言葉だと気がついて、アルウィンはぽかんと口を開けました。不思議です、まったく苦しくありません。 魚と同じ大きさになったアルウィンの周りを、嬉しそうに魚たちが泳いでいます。 「アルウィン」 「アルウィン」 「見てたよ」 「いつも来てくれたよね」 「一緒に遊びたかったんだ」 「遊ぼう」 「遊ぼう」 つんつんとアルウィンをつついて、魚たちは楽しげに誘います。 「僕の上に乗るかい?」 「僕と競争しよう」 「かくれんぼうも楽しいよ」 「私と一緒にダンスしましょうよ」 誰も彼もがアルウィンと遊びたがりました。アルウィンは嬉しくなって、みんなと一緒に水槽の中心へと泳ぎ出しました。 果ての見えない水槽は、まるで海の中のように深い青に包まれていました。 * 「次は何して遊ぶ?」 鬼ごっこも、かくれんぼうも、フォークダンスも、かけっこも、遊び尽くして、新しい遊びを考えていたときでした。 とてもいやな、冷たい波がやってきました。ざわりと、周りの魚たちが顔を見合わせます。 「暗いのが来たよ」 「怖いのが来たよ」 「逃げよう」 「逃げよう」 今まで集まっていた魚たちが、四方八方へと逃げていきます。暗い波は、あっという間にそこまで来ていました。 「アルウィンも逃げて」 「捕まっちゃうよ。逃げて」 「アルウィンはきしだ。みんなをまもる!」 怖がらせているのが悪いものなら、騎士は戦わねばなりません。 「寒いおばけだよ」 「悪い気持ちがこごったおばけだよ」 「負けないで」 逃げながら、魚たちは教えてくれました。それを追うように、闇がアルウィンに被さってきます。 (さみしいいいいいいいい) (消えちゃええええええええええ) 底の底から聞こえてくる声に、アルウィンは震えました。 「アルウィン、危ない!」 声に囚われてしまったアルウィンに、体当たりをして助けてくれた魚が、見る見るうちにどす黒くなって落ちていきます。 「みんなを、たすけるんだ!」 勇気を奮い立たせて、アルウィンは槍を取り出します。得体の知れない闇に向かって、えいやあと振り下ろしました。 しかし、いったん切り裂かれたように見えた黒い靄は、さらに深さを増して集まってきました。 (ばかだなあああああ) (ひとりでなにができるんだああああ) 怖い声に手が震えながら、それでもアルウィンは槍を振り続けました。穂先から光の刃を生み出して、闇を削り、退けようと、懸命になりました。 けれど、膨らみ続ける闇の早さには追いつきませんでした。とうとう、闇はアルウィンを飲み込んでしまったのです。 (逃げれば良かったのになああああああああ) (置いてきぼりだなああああああ) いやないやな気持ちが、アルウィンの心に染み込んでこようとした、そのときです。 ―――私にお乗りなさい。 闇を割り轟くように、初めて見るカッコイイ魚が飛んできました。 透き通った鱗がきらきらと七色に光り、ビー玉の目は澄んで凛としています。長い尾からは星が流れていきました。 なんてカッコイイ魚でしょう! アルウィンは、ぱああっと顔を輝かせました。周りの闇が、薄らいだ気がします。 アルウィンがその魚に跨がると、ぴゅいーっと凄い早さで泳ぎ始めました。立派なヒレにしがみついたアルウィンは、魚が振りまく星が、あちこちでぴかりと光っては消えていくの見ました。 「アルウィン、探してください」 「?」 「おばけの、正体をです」 そう言われても、アルウィンには、ただただ闇が広がっているようにしか見えません。 「早く。こうしている間にも、闇は広がっていきます」 「う。わ、わかった!」 「大丈夫。貴方ならできます」 カッコイイ魚に託されて、アルウィンは槍を構えなおし、もう一度目を凝らしました。 あたりはすっかり闇に包まれています。ただ、魚に散らされて、集まろうとする闇の隙間に、きらきらと星の欠片が消えていくのが見えました。いえ、あれは―― 「いた!」 アルウィンは、闇の中の闇を見定めたのです。星の欠片も届かない、暗い渦、真っ黒に塗りつぶされた何かの、正体を。 「あそこだ!」 アルウィンの声に従って、魚が向かった先、そこは、一番の闇が集まっている場所でした。 アルウィンは、ヒレに捕まっている自分の手が見えなくなりました。手に握っている、自慢の槍も見えません。あれほど煌めいていた魚の鱗の、一枚も見えないのです。何も見えない、真の闇がそこにありました。 (死んじゃええええええ) (嫌いだあああああああ) (なくなれええええええ) 今まで聞かないようにしていた、暗い声がぐわんぐわんと耳に響いてきます。心が冷たくなってきます。 「アルウィン! アルウィン、勇気を出して!」 魚の声がします。見えなくても、この手から伝わってくる強さが、アルウィンを引き戻しました。槍をもう一度、握り直し、構え直します。今、戦えるのは、アルウィンと魚、ただふたりなのです。 「私たちなら、できます。さあ!」 アルウィンは、一直線に槍を突き出しました。その勢いは、魚の泳ぐ早さも相まって、流星のようでした。水のうねりが、耳のそばで呻いています。 「やあ!」 アルウィンの槍の穂先が、闇を切り払います。けれど、一度ですべての闇は払えません。何度も、何度も、繰り返し、アルウィンと魚は一体となって、突撃を繰り返しました。 アルウィンたちが通り過ぎた後には、綺羅星が流れていきます。光が、闇を照らして、槍が切り開き、また星が照らして―― いつのまにか、おばけが、闇が、霧散してゆきました。 * ――という、夢から、アルウィンは目が覚めました。 それはもう、とてもとても興奮して、一人で槍を振り回し、えいやあと、かけ声もひときわ大きく響きます。 「カッコイイゆめだった! すごかった!」 あのカッコイイ魚は、もうアルウィンの中では無二の親友です。二人で守った平和な水槽を、心ゆくまで眺めてから、アルウィンは帰ることにしました。 ポシェットを下げて、空のお弁当箱を持って、それから、落書き帳の真っ白な頁を閉じて、胸に抱え、家に向かって走り出しました。 そう、開いたままだった落書き帳には、アルウィンが今日描いた魚たちが、たくさんたくさん、いたのですが、ビー玉色の瞳をした、七色鱗の魚だけが、消えていたのです―― おしまい。
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