窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
(いま、このロストレイルに乗っているロアンは、ぼくひとりみたいだ) 闇色の窓に映る己を己と確認して、ロアンは首をかしげる。金瞳が、星のように瞬いた。 コンパートメントの一等車両から、四人がけの座席がある三等車両まで、ふらりふらふらと探した後だった。幾人かのロストナンバーがいたけれど、迷子のロアンは見当たらなかった。 (さて、ここに逃げていったと見えたのに、何処に行ってしまったかな。もしかして隣のホームのロストレイルまで行ってしまったかしら。この車両をそのまま通り抜けてしまえばよかったな?) もっふりとした腕を組んで、一時の思案。 既にこのロストレイルは、ディラックの空にある。さすがに猫亡霊のロアンでも、この車両をすり抜けて、虚空の只中へ出て行こうとは思わなかった。 虚無が、誰も居ない先頭車両を冷やしている。 天鵞絨の座席は無言で、静かすぎて、寂しい。 ロアンはもう1つ先、機関室を覗こうと思い立った。まだ車掌さんには会っていない。 機関車側へと向かおうとした矢先、ロアンの動きを見越したように車掌が現れた。 奇妙な仮面に、大振りな制服。頭上には鳥姿のアカシャ。 自動的に閉まる扉を背に、車掌は立ち止まる。一礼。 仮面の向こう側からの視線が、ロアンを捉えたようだった。 「やあ、車掌さん。こんにちわ。こう暗いと、こんばんわ、かな?」 話し相手がやってきたとばかり、ロアンはふわりと車掌のもとへ飛んでゆく。纏わり付きながら、ふふふと、悪戯っぽく笑って。 「あのね、ぼく、どうやらチケットを忘れてきてしまったみたいなんだ」 くるりと、車掌の前で一回転。首に提げた小瓶が円を描く。 「そういえば、チケットをもらった覚えもないなぁ」 ふふふ、ふふ。 ぼくは自由気ままな亡霊だからね、うっかり入り込んじゃっても仕方ないさ。ねえ? ロアンは楽しげに、親しげに、伺うように、車掌の前でたゆたう。 ばさり。 アカシャが羽ばたいた。 車掌の平坦な声が、告げる。 「はい、貴方には当ロストレイルのチケットを発行しておりません」 「無賃乗車! 無賃乗車!」 「よって、到着地での降車を禁じます。当車両での待機をお願い致します」 車掌はそれだけを伝えると、また一礼して次の車両へと移動しようとしている。 ロアンは慌てて彼の後を追った。 「ね、ノートに書いたりして、知らせないよね?」 これを知ったら、確実に怒る人物をひとり、ロアンは思い浮かべていた。 「わかっているよ、行き先に着いても、勝手に降りたりしないよ。ターミナルに着くまで大人しくしているし、着いたら降りるよ」 歩みを止めた車掌の周りを、くるくると周りながら。 「だから、内緒だよ、おねがい、ね?」 ロアンはしおらしく、上目遣いで頼み込む。けれど。 「――既にターミナルへは伝わっております」 無慈悲に告げた車掌は一礼し、去って行ってしまった。 0世界に帰ってからのお仕置きを想像して、ロアンの猫尻尾はしゅんとなる。 うっかりと乗ってしまっただけだと言って、わかってくれるだろうか。 (優しい顔して怒ると怖いんだ、聖水だなんて、熱い水を掛けてくるし!) ぶるり、身を震わせて。ぷるぷると、首を振り。 車掌にもう一度頼み込んでみようかと、ロアンは隣の車両に行きかけて、思い出した。 そうだ、この車両から出るなと言われている。 ロアンは、所在なげに車両をふらふら漂いながら、待つことにした。 ……ロストレイルは今、どれくらい進んでいるのかな。 外が真っ暗で、空が暗いね、まるで夜みたいだ。 夜は怖いよ、何も見えない、何も感じなくなってしまうから。 目だけじゃない、耳も何もかも、塞がれてしまう気がして。 ……。 でも、この暗い空、怖い夜の先に、様々な世界があるんだよね。 ぼくは、そんな世界の多くのモノに、温度に、音に、触れてみたい。 暖かさも、冷たさも、激しさも、穏やかさも、ぜんぶ、ぜんぶ触れてみたい…… 虚空を映す窓は、眺めていると距離感を失いそうだ。 ロアンは窓に張り付こうとして、うっかりと猫耳を空に晒してしまい、すぐに引き戻した。亡霊であるロアンは、意識しないとすぐ、物質を通り抜けてしまう。 今度は手を実体化して、肉球をぺたり、ぺたりと窓に押しつける。それから座席の手触りを、手すりの堅さを、確かめて。 (こうやって、触れたかったんだけどな。今回はお預けだね、残念) ほどなくして扉が開き、乗客の確認が終わったのだろう、車掌が姿を見せた。 「おかえりなさい」 待ちかねたようにロアンが飛びついた。おねだりの目だ。 「ねぇ、やっぱりちょっとだけ、ちょーっとだけ、降りてもいい?」 「降車は禁じます」 「だって、せっかくの旅行だもの、何も触れず、何も感じずに帰るなんてもったいないよ」 車掌はロアンの方を向いて、はかるように黙っている。 「ちょっとだけでいいんだよ。ちょーっとだけ」 何も言わない車掌の頭上で、おもむろに、アカシャが翼を広げる。くちばしを開き、その奥から何かを覗かせ―― 「わ、わかったよ! 大人しくしているよ」 何を見たのか、ロアンは慌てて距離を取る。 思わず丸まった姿勢から、耳をぴこぴこと動かして。 「次はきちんと乗客として乗るよ」 「宜しくお願い致します」 礼を返した車掌の後ろ姿を、恨めしげに見送りながら、ロアンは思った。 (うん、やっぱり今度はちゃんと、チケットをもらってこよう) * 立ち去りかけた車掌が、くるりと向きを変えた。 「ロアンさま、宜しいでしょうか」 「うん? なあに?」 「ターミナルから通信が届いています」 「ターミナル、から?」 アカシャが、その名前を告げる。 「通信。通信。枝折 流杉より、ロアンへ――」
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