先日、夢浮橋の暁王朝、左大臣家子息・藤原鷹頼から華月のもとに文が届いた。華月がその文に書かれていた和歌の意味を解いた所、『私の腕の中から幻のように消えてしまった浜木綿の花が恋しい。夢の中だけでも共音(ともね)をしたいものです』 という、目を離した隙にいなくなってしまった華月を惜しむ意味と、夢の中だけでも共に合奏をしたいものですという以前した合奏の約束を思わせるものだった。 女房頭の和泉に早く返事をした方がいいと言われたもののロストレイルの時間が迫っていたのでそのままにしてしまったが……0世界に戻ってきてからいざ筆を執ろうにも華月は不安と困惑でいっぱいだった。(私の知る歌の返事でいいのかしら……) やはり夢浮橋には夢浮橋の作法があるのではないか。そう思うと下手に返事をしたためるわけにはいかなかった。華月は今のところ陰陽寮に仕える陰陽師ということになっているからして、その点でも作法を知らぬのはおかしく思われるに違いなかった。尤も鷹頼は、華月が陰陽量の陰陽師であるということに疑いを抱いているようだったが……。「そうだわ、夢幻の宮!」 バンッ。机に手を突いて華月は立ち上がった。ターミナルの誰よりも夢浮橋の作法に詳しい人がいるではないか。華月はトラムに乗り込んで商店街にある香房【夢現鏡】を目指した。だが。「そんなっ……」 夢現鏡の入り口はいつもの様に御簾が降ろされておらず、香りも焚かれていない。入口の戸は締め切られていた。 裏庭に回ってみる。春には立派な花を咲かせる桜の大木がある庭にも、人の気配はなかった。(どこかに出かけているのかしら……) 次に華月が目指したのは、紫上緋穂の司書室だった。 *-*-* 緋穂の司書室で夢幻の宮が夢浮橋へ行っていることを知った華月は、自ら夢浮橋へのチケットを求めてかの世界へと渡った。(きっと、道が開けるわ) 希望を持って華月はロストレイルから降りる。すぐに花橘殿へと向かった。この世界でのロストナンバーの拠点である花橘殿ならば、今彼女が外出していても、遠くない内に戻ってくることは間違いなかった。「宮様はおいででございます」 女房頭の和泉にそう言われて、華月はほっと胸をなでおろして大切にしまってある文へそっと触れた。「宮様、お客様でございます」「お通ししてください」 和泉について奥へと歩いて行くと、とある部屋の近くで彼女が声を掛けた。几帳の向こうから聞き慣れた声が聞こえる。 どうぞ、と促されて華月が几帳を避けて中へ入ると、そこには先客がいた。「華月さんだ!」「ニワトコ……」 明るい表情で手を振る彼。優しげな笑顔で出迎えてくれる夢幻の宮。 そうだ、少し考えればニワトコが一緒かもしれないと考えることが出来たかもしれないのに。「ごめんなさい、お邪魔、よね……」「そんなことないよ!」 恐縮する華月に対してニワトコが半ば腰を上げて。空いている円座を勧めてくれた。遠慮がちにそこに腰を掛けると、外から声を掛けた和泉と数人の女房が高坏に盛ったお菓子や果物、お茶を持ってきてくれて。場は一種のお茶会の様相を呈した。「お気になさらないでくださいませ、華月様。何か急を要するご事情がおありになるのでしょう?」「うん、そうなの……」「煎茶を井戸水と氷室の氷で冷やさせました。飲むとすっきりいたしまする。お菓子や果物を頂いて落ち着かれましたら、華月様のタイミングでお話くださいませ。ニワトコ様もお召し上がりくださいね」 夢幻の宮に促されて汗をかいている湯のみを手に取る。傾けて中の茶をすすると、心地良い冷たさが喉を通って行った。ニワトコを見れば大きな粒の葡萄を口にしていたので華月も一粒手にとった。皮を向いて黄緑色の果肉を口に含むと、みずみずしい甘さが広がり、なんだか胸をほっとさせた。 数粒頂いて茶で口をすっきりさせた後、華月は布巾で手を綺麗に拭いて、ゆっくりと問題の手紙を取り出した。そして頭を下げる。「夢幻の宮、この世界の返歌の書き方を教えて欲しいの」「お手紙、拝見しても?」「ええ」 そっと彼女の白い手が伸びてきて、手紙を受け取った。衣擦れの音と共に漂う香りはちょうどよい濃度で、飲食の邪魔をしない上品さだ。「この香りは……もしかして、差出人は頭中将でございますか?」「! わかるの!?」 夢幻の宮のその言葉に腰を浮かせた華月のその態度が答え。夢幻の宮はやんわりと微笑んで手紙を開いた。 添えられていた浜木綿の花は枯れないようにと0世界の自宅に置いてきたが、包んである表紙(おもてがみ)と中身はすべて持参した。 夢幻の宮はするすると手紙に目を通し、そして歌を見ると「……まぁ」と小さく零した。「頭中将がこのような歌を送るようになるとは……成長したものですね」「ぼくも報告書で読んだけれど、頭中将って左大臣の一番上の息子さんだよね?」 ニワトコの言葉に夢幻の宮も華月も頷いて返す。「昔……まだわたくしがこの世界の住人だった頃、元服前の彼の相手を良くしたものです。もう彼は忘れているでしょうし、これは内緒にしてくださいませね」 夢幻の宮の中では鷹頼はまだ元服前の小さな子供なのだろう。彼女は懐かしそうに目を細めた。 *-*-*「文の方は、鷹頼様が謝られているようですが……なにかございましたか?」「!」 問われ、華月は自然と頬が熱くなるのを感じた。どうなのだろう、この場であの出来事を話してもいいのだろうか。(でも、もしかしたら歌の解釈に必要かもしれないし……) 暫く逡巡した挙句、華月は小さな声でとぎれとぎれに先日この世界に来た時のことを話し始めた。倒れたことから浜木綿柄の袿を着せてもらったこと、そして――触れるだけの口づけ。 それを聞いたニワトコはにこにこして。夢幻の宮はなるほど、と手紙へと視線を落とした。何を言われるのかと縮こまった華月。「花が、添えられておりませんでしたか? 恐らく、浜木綿の花」「! そこまでわかるの!?」「ええ。この世界では使う紙や添える花にも意味を持たせることがありますれば」 しばしの沈黙。そして夢幻の宮は手紙を皆に見えるように床へ広げ、閉じた扇子でその一画を指した。「この謝罪文は、突然くちづけをしてしまった謝罪とともに、順序を間違えてしまったことへの謝罪でしょう」「順序……」 この世界では気になる相手に文を送り、何度かやりとりの後に女がその文の相手を気に入れば閨へと招き入れるといった手法で貴族の恋愛が進んでいく。その後は三日続けて男が通えば婚姻が成立するという風習だ。もちろん、すべての恋愛が三日続くとは限らなく、一日通っただけで捨てられる場合もあれば、本妻に迎えられはしないが細く長く関係が続く場合もある。「本来ならば手紙をやりとりしてそれから――その手順を経なかったことへの謝罪でございまする。かのお方は真面目な性格でございましょう?」「ええ……そして少し不器用な、方」 頬を赤らめる華月の色が変わった。恋する乙女の表情に、ニワトコは夢幻の宮をちらっと見た。(夢幻の宮さんも、あんな顔、してたことがある……) そうか、あれは自分に対して恋をしてくれていた顔なのか、ひとり納得して、ニワトコは少しどきどきした。「そしてこの和歌の解釈ですが……」 つつ、と夢幻の宮の扇子の先が動く。「表面上は『腕の中から幻のように消えてしまった浜木綿の花』と『合奏をしたい』という内容です。『腕の中から幻のように消えてしまった浜木綿の花』は華月様がお召しになっていた浜木綿柄の袿と掛けて華月様を指しているのは間違いありません」「……ええ」 事実、華月は鷹頼が席を外していた内に部屋から逃げ出し、そして鷹頼に会わぬまま左大臣邸を辞してしまった。「『合奏をしたい』というのは……『共音』と『共寝』を掛けていることにお気づきになりましたか?」「え……えぇっ!?」「つまり、これは……告白、華月様と共寝をする仲になりたい――もっと言うなれば、求婚の和歌にございます」 その言葉に華月は固まり、ニワトコはすごいね、と手をぱちぱちと叩いた。「もっと平たく言うのであれば、『先の無礼を許してもらえるのならば、結婚を視野にいれてお付き合いしたい』といったところでしょうか……」「……、……」 あまりのことに、華月は言葉が出ない。 漸く彼への思いを自覚したばかりだというのに、提示されたのはストレートな想い。 これがこの世界の通例だとしても、華月には衝撃的だった。「なんで……」「「え?」」「なんで、鷹頼さんは私になんか……」 呆然としたまま零された呟きに、ニワトコと夢幻の宮は顔を見合わせる。 それは、鷹頼もまた華月に思いを寄せているからではないのか。 しかし華月は、後ろ向きな考えを止めることはできないでいた。そう思ってしまうのは、彼女が過ごしてきた時間に原因があった。「華月さんは……うれしくしくないの?」「!」 ニワトコが問うたのは一番大事なこと。 愛される資格がある、ない以前に、何かの間違いかもしれないと考える以前に、彼の気持ちを聞いて正直華月がどう感じたのか、それが大事なのだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>華月(cade5246)ニワトコ(cauv4259)夢幻の宮(cbwh3581)=========
「華月さんは……うれしくしくないの?」 そのニワトコの言葉を聞いて、華月はビクリと肩を震わせた。その問への答えはすでに固まっている。けれどもそれを口にしていいのか、その答えに溺れてしまっていいのか、華月は恐れとともに疑問を抱いていた。 「そうだね……」 華月が答えようとして何度も口を開こうとするが断念するのを見て、ニワトコが優しい声を降らせる。 「少しむずかしいところもあるよね。ぼくも『特別な好き』っていう気持ちが分からなくって、とても遠回りしたからよくわかるよ。だけどね、それもぜんぶ、必要なことだったって、今は思うよ。知らないことを、知れたから」 ね? と同意を求めるニワトコの視線を掴まえて、夢幻の宮は優しく微笑んだ。 「ぼくは華月さんの昔のことを知らないけれど、きっとね、今悩んでいるということも、華月さんが歩いていくには必要なことなんじゃないかなって思うよ」 「ニワトコ……」 瞳の中で何かが疼く。優しい言葉に胸がきゅっと締め付けられる思いだった。 「だから、ぼくも、夢幻の宮さんも一緒に考えるから、できることはお手伝いするから。話を聞かせてくれると嬉しいな」 そう告げるとそっと口を閉じて華月の反応を待つニワトコ。その向かいに座る夢幻の宮がゆっくりと口を開いた。 「華月様が悩まれているご事情は存じ上げませんが、人に話して少しでも楽になるようでしたら、いくらでもお聞きいたしますから」 「夢幻の宮……」 話してみようか、どうしようか。華月の心の中で葛藤が吹き荒れる。思わず交互に二人の顔を見て、その真剣だが優しい瞳に背中を押される気分だった。 (私なんかのために……) きゅっと服を握りしめて、華月は決意する。自分の為に力になろうとしてくれている二人の好意に応えるために。 「私は……」 唇が、声が震える。それでも続けて言葉を紡ぐ。大切な、大切な想いを真綿でくるんで傷がつかないようにしながら紡ぎだす。 「鷹頼さんが好き。だからこの手紙は嬉しい。夢、みたい……」 それは華月の本心。好きな人に求愛されて嬉しくないはずはなかった。驚いて焦りはしたけれど、心の中にはきちんと嬉しい気持ちが生まれいでていて、それを打ち消すことなど出来そうになかった。けれども。 「けど、鷹頼さんには通っている女の人がいると聞いたわ。何より私なんかがそばに居てもいいの? 身分が違うわ」 甘く、蕩けるような喜びと同時に、襲ってきたのは不安。指先から震えが生まれいでる。 「身分……」 やっぱりヒトってややこしい。口の中でぽそりとその言葉を繰り返してニワトコは思う。ニワトコ自身もまた、この世界では夢幻の宮とは身分の差がある。この世界で根付くならば、いつの日かその身分が引っかかる日が来るであろう。 「彼の事は好き。すごく大好き」 自然こぼれ出た華月の言葉のように、ニワトコとて夢幻の宮を想う気持ちはいちばんだと思っているし、彼女を特別に好きで、ずっと彼女の側にいたいと思っている。 鷹頼さんを特別に好きだと断言できる華月は、何に悩んでいるのだろうか。何が彼女の心に引っかかっているのだろうか。 「私は元々、親に売られて遊郭で育ったの。遊女ではなかったけれどそれでも……」 「確かに、身分の差っていうのは気になると思うよ。でもね、互いがとてもとても好き合っている、それだけじゃ、だめなの?」 互いに思いが強ければ、身分を超えて側に居続けることもできる、先日中務卿宮の一の姫の恋の成就に手を貸したニワトコは、そんな場面を目の当たりにした。だからこそ、互いの気持ち以上に大切なものはないのだということを知っていた。 「華月様、華月様と頭中将の身分の差を埋める具体案ならばございまする。華月様はわたくしの娘として頭中将との縁談を進めるのでございます」 夢幻の宮がこの世界を放逐されてから十五年の月日が流れている。ロストナンバーとして成長が止まっていなければ、華月くらいの娘がいてもおかしくないのだ。 「嘘の身分を騙るわけではありませぬ。この世界に帰属すると同時に、わたくしの娘として新たな人生を歩むのです。身分について、誰にも文句は言わせません」 凛とした声音でそう言い放った夢幻の宮は、心から華月の幸せを祈ってくれているようだった。それは華月自身にも感じられた。 「けれども、華月様の一番の気がかりは身分ではございませんよね?」 「……!」 夢幻の宮は少し悲しそうな表情で首を傾げた。身分の差だったら自分が解決してやれるけれど、華月の心に引っかかっている大きな重石はそれではないのだろう。身分が、と第一に引き合いに出したが、それは……。 「……ええ」 小さく頷いて、しばし口をつぐんで。脳裏に浮かぶのは壊れてしまった親友の姿。 「でも揚羽は幸せになれなかったの。私だけ、幸せになっていいのかしら……」 気がつくと内心が言葉となってこぼれ出ていた。呟かれた言葉はころころと板張りの床を転がって。 ふたりは華月の言葉の真意を詰問しようとはしない。ただ、黙って見守ってくれている。だからこそ、華月は心を決めた。 *-*-* 私には、揚羽という親友がいたの。唯一の友よ。 私は幼くして売られて、異能の才があったがために遊女にされずに遊郭の守り手になるべく育てられたの。遊女がどんな辛い生活を送っているか、私は知っていた。その中で女でありながら春を売らずに済んでいる私は孤独だったわ。いつ遊女に身を落とされるかわからないという恐怖を抱いていて死に物狂いで鍛錬に明け暮れていたことが、遊女達は気に入らなかったんだと思うわ。私は孤独だった。 けれども揚羽と出会った。彼女がいたから、私は日々、生きることを耐えられたのかもしれない。彼女は私の拠り所だった。 この髪飾り、彼女とおそろいなのよ。私の、宝物。 幸せだったわ……ふたりで笑い合って過ごす時間は。 けれども、そんな時間は長く続かなかったの。揚羽は豪商に身請けされて――その相手が良い相手であったのならば、私だって安心して祝福したと思うわ。確かに、置いて行かれる、置いて行かないでとは思ったけれど……。 その相手は人を人とも思わないような人物だったの。その息子もまた……ごめんなさい、大丈夫よ。少し、思い出してしまっただけ……。 揚羽は、その豪商に壊されてしまったの。心はもう……幼子のようで。 無邪気に私を求めるのは、ただ幸せだった頃の気持ちを手繰っているだけ。 その上……私は豪商の息子に見初められて、買われることに――……。 *-*-* 華月はそこで一旦口を閉じた。自らの腕で自らの身体を抱き、カタカタと小さく震える。顔色は蒼白だ。 あの息子の言葉と視線がまだ絡みついているようで、今すぐにでも鷹頼の元へと助けを求めたい気分だった。鷹頼の存在が、あのおぞましい息子の記憶を抑えこんでくれると信じていた。 「覚醒してから一年以上の月日が流れたわ。精神が壊れた揚羽がどうなってしまったのかはわからない……もう、もしかしたら……」 精神を病んだ遊女はお荷物にほかならない。殺されるか、あるいは自殺を図るか――そんな話を何度も聞いたことがあった。 「この世界を選ぶ事は揚羽を捨てることになるのかしら……彼女は幸せになれなかった。揚羽は私を責めるかしら?」 浮かぶのは幼子のような彼女の姿。裏切り者と罵られたほうがまだいい。けれども記憶の中の彼女はただ、無邪気に華月に微笑むだけ。 「卑しい……醜い。こんな私が鷹頼さんの気持ちに答えてもいいの……?」 胸がぎりぎりと締め付けられるようで。はらりとこぼれ出たのは真珠の涙。決壊した堤防から、はらはらと涙がこぼれ落ちて止まらなくなる。 「本当は幸せになりたい。愛し愛されたいの。誰でもない、鷹頼さんと縁を結びたい……けど」 同時に過去が、揚羽の存在が棘のように苛むのだ。 幸せになりたいなんて、愛し愛されたいなんて、望もうとしなかった。望んではいけないと思っていた。望んではいけないと、自身に言い聞かせていた。 けれども今はもう、抑えきれそうになくて。あの人を、諦めることなど出来そうになくて。 揚羽を裏切ることになるだろうか? 揚羽は恨むだろうか? 何より幸せになれなかった彼女を差し置いて幸せを求める自分が卑しく感じられてたまらない。 華月は両手で目を覆い、さめざめと泣いた。そっと衣擦れの音と共に近づいてきた香り。夢幻の宮が優しく背中をさすり、そして華月を自分の胸に掻き抱いた。ぽん、ぽんと幼子にするようにゆっくり背中を叩かれる。 「ねえ華月さん」 背中を叩かれるリズムに乗るように耳に入ってきたのはニワトコの言葉だ。夢幻の宮の胸に顔を埋めたままの華月に、彼はゆっくりと語りかける。 「ぼくは、自分の持つ『特別な好き』をどうしたらいいか分からなかった。こういう気持ちを他のひとは持ってなくって、自分だけ悩んでるのかなって」 かつてのことを思い出しているのか、ニワトコの声はいつもより優しくて。じぃんと耳朶に染み入る。 「けどね、ある人に――誰かは内緒だよ――、それは持っていることは珍しくないし、素敵なことだって教えてもらったんだ」 ニワトコが思い出すのはかつての告解室でのやり取り。あの人の言葉で、道が開けた思いだったのだ。だから今度は、自分が華月の道を開くお手伝いをしてあげられればいい、そんな気持ちでニワトコは言葉を続ける。 「だから、鷹頼さんのお手紙に書かれた気持ちも素敵だし、華月さんの気持ちだって――ね?」 それでも華月は顔をあげられなかった。「揚羽が……揚羽が……」と小さく繰り返し、夢幻の宮の腕の中で頭を振る。 ニワトコの言葉は素敵だった。自分も人を愛していいのだ、そんな自身も湧きかけた。けれどもやはり引っかかるのは、揚羽の存在。 「華月様……」 夢幻の宮がそっと優しく髪を手櫛ですいてくれた。ニワトコは華月の様子を見て、少し考えるように黙り込んだ。 「華月さん、ぼくすごく気になっていることがあるんだ」 「……?」 そっと夢幻の宮の腕の中で身動ぎをして、華月は顔だけニワトコへと向けた。美しい紫水晶の瞳は涙で少し曇っている。 「揚羽さんって、華月さんが幸せになったら怒るような人だったの? 華月さんの幸せを願えないような人だった?」 「!! 違うわ!」 ガバっと勢い良く身体を起こし、華月は身体ごとニワトコの方を向いた。 「揚羽はとても優しくて、私が笑うととても喜んでくれて、私が訓練で上手く成果が出せると、自分のことのように喜んでくれて……」 自分で口にしながら、華月は目が覚める思いだった。あの髪飾りをくれた時も、揚羽は華月のためを思って、華月に似合うと思って、華月を喜ばせたくて。 「華月様、もしも華月様が揚羽様のお立場でしたら、揚羽様が幸せにおなりになるのをどう思われますか?」 そっと、手巾で華月の涙を拭き取りながら夢幻の宮が問う。そんなの華月の答えは決まっていて。 「決まっているわ。私のような目にあうのが揚羽じゃなくて良かったと心から思うわ。揚羽が幸せになってくれてよかった、と……」 「もしかしたら揚羽様は心壊れる前に華月様に助けてほしいと願われたかもしれません。けれどもそれと同時に、今の華月様と同じように思われたのではないでしょうか?」 「揚羽さんのことは、ぼくたちよりも華月さんが一番良くわかっているでしょう? どうかな?」 にこりと微笑みながら首を傾げるニワトコ。穏やかな表情で華月を見つめる夢幻の宮。 ――ちょっと華月、勝手に私を背負わないでよ! 脳裏に元気だった頃の揚羽が浮かぶ。彼女の声が響く。 ――私は華月の重荷になるつもりも、苦しめるつもりもないわ。 ああ、元気だった頃の揚羽が今の華月を見たら、そう言って拗ねてしまうだろう。 「思い、出したわ……」 あまりにも、壊れてしまった彼女の印象が強くて。元気な頃の揚羽だったら、遠慮深い華月の背を押してくれたはずだ。 「揚羽、ごめんなさい……」 それは彼女を裏切ることへの謝罪ではない。裏切りなんて成立しないのだから。 あの頃の貴方を、忘れていてごめんなさい。 *-*-* 文机に並べられたたくさんの紙の中から華月は白地に透かしの入ったものを選んだ。 筆に墨を浸し、ゆっくりと文をしたためていく。 「……接吻の件は気にしていない、だとちょっとそっけないかしら」 「そうでございますね……『気にしていない』ですと『意識していない』や『なかったことと思っている』と取られるかもしれませぬ」 「それは……困るわ」 その続きに書こうとしていたことと齟齬が出てしまう。夢幻の宮のアドバイスを受けて、途中まで書き記した紙を反故にする。そして新たにもう一枚。 (む、難しいわ……) 誤解のないように書こうとすると、やはり少し難しい。手が止まってしまった華月を見て、ニワトコが声を掛けた。 「正直な気持ちを書けばいいんじゃないかな?」 「正直……そうね」 少し恥ずかしいけれど、思い切って筆をすべらせる華月。 『藤原鷹頼様 お返事が遅くなってごめんなさい。 接吻のことは……最初は驚いてしまったけれど、でも嫌じゃなかったの。 私も、鷹頼さんが好きだから。 一度、会って話がしたいわ。 時間を取ってもらえるかしら? 華月』 筆を置いてふう、と息をつく。大いに緊張したし、自分の本心をしたためるというのも恥ずかしかった。でも、ここで逃げてはかつての自分と変わらない。幸せをつかみたいならば、自分も歩み寄らなければならないのだということは知っている。 最初の一歩は重くて踏み出すのに勇気がいるけれど。でもその先には彼が待っていてくれるから――だから勇気を出して。 鷹頼に自分の過去と今の本当を伝えるため、決意をするためにはこの一歩が必要だ。 「夢幻の宮、酔芙蓉の花は手に入る?」 墨が乾いた手紙を折りたたんで文箱に入れる際に、ふと思い立った。 「ええ、お待ちくださいませ」 夢幻の宮が女房に声をかけると、しばらくして一輪の酔芙蓉が運ばれてきた。 「この花は朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色となります。酔いが回っていく様子を表していることから酔芙蓉と呼ばれますが……色が変わる様子は心変わりにもとれまする」 「大丈夫よ。きっと、鷹頼さんならわかってくれるわ」 華月としては過去、現在、そして未来へと色を変えて進んでいくさまを表しているつもりだ。鷹頼との恋を知らなかった白、恋を自覚して頬を染めた淡い紅色、そして紅色は――。 酔芙蓉は華月自身を表していた。色の移り変わりは心が恋へと染まっていくさまを表している。 「そうでございますね」 夢幻の宮が目を細めて頷いたのを見て、華月は文箱の中の文の上に酔芙蓉の花を添えた。そして蓋を閉め、綾紐で箱を閉じる。 「文使いに左大臣邸まで届けさせまする。道中で散らしはさせませぬからご安心を」 すっと立ち上がって、両手で持った文箱を大切そうに運びゆく夢幻の宮の言葉は心強かった。彼女が几帳の向こうに消えていくのを見て、華月は再び小さく息をついた。 「だいじょうぶだよ、華月さん」 「でも、随分待たせてしまったから……」 「その時間を埋めるために、会う約束をしたんでしょう?」 「でも、他に通っている女の人もいるらしいし……」 思わず俯いた華月に、ニワトコは「すとっぷ」といってその言葉を遮った。 「それも会って確かめるまでは確定じゃないよね。素敵な気持ちも、哀しいことも、不安なことだって、言葉にしないと伝わらない。ひとは話し合って伝えあうものだって、これは司書の黒さんが言ってたことだけど」 「言葉にしないと……そうよね。こんな私でも、言葉にして伝える機会がもらえたのだから」 顔を上げると、ニワトコの青い目と目があった。 「華月さんが前向きになった」 にこり、嬉しそうにニワトコは笑って。 「華月さんが伝えたいことが、鷹頼さんに届くと良いね」 「きっと、届きまする」 ちょうど文箱を文使いに預けて戻ってきた夢幻の宮もそっと微笑んだ。 「ふたりとも、話を聞いてれて本当ありがとう」 華月は深く深く頭を下げて、ふたりの友人に礼を述べる。一人だったら、袋小路に迷い込んだままだったかもしれない。 前へと出した足を引っ込めたくなる気持ちがないとはいえない。けれども背中を押してもらったのだから、前へ進もう、恐れずに。 ――引き返してはダメよ、華月。 声が、聞こえた気がした。 【了】
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