赤ん坊が駄々をこねるように泣いた。「あらあら、困った子ね。おなかはいっぱいだし、おむつだって……キサ」 世界は季節が移ろい、だんだん寒くなってきたが、その部屋のなかは暖炉に火が焚かれ、窓辺から差し込む陽射しはあたたかく心地よい状態が作られていた。 揺らぐ椅子に腰かけた母親の理沙子・アデルは腕の中の赤ん坊を見て顔を曇らせた。「ここ最近、ずっとぐずって……やっぱり、気になるのかしら」 赤ん坊は首にかけた銀のアクセサリーを思いのほか強い力で握りしめるとちゅちゅと吸うのに、いくらだめだとアクセサリーを取り上げると火が付いたように泣きだしてしまう。よほど気に入っているらしいが、これは母親、父親ともにあげたものではない。「……返すべきよね。これって、鍵がついているし」 母親は慈愛深く笑って我が子の頬をつついた。「キサがどんな冒険をしたのかしらね。聞かせてもらおうかしら。ねぇ」 ぎぃ。椅子が揺らぐ。 母親はちらりと窓から外を見た。行きかう人の姿、街の姿……「いろんなものが変わったけど、大丈夫、また歩けるわ。何度でも立ち上がってきたんですもの。人は強いのよ」 アデル・キサのインヤンガイの再帰属絡みで大きな事件が起こったのは記憶に新しい。 幸いにもその事件は解決し、世界計の破片は回収されて司書によって丁重に保管されている。 ようやくいろんなことが落ち着きだした頃合いを見計らうように、インヤンガイのアデル家より連絡が入った。 黒猫にゃんこ司書は、黒い猫の姿で出迎えた。猫なのに荷馬車のように世界図書館にこき使われているため部屋は荒れ放題で、自慢の毛もちょぴり艶を無くしているが、珍しくにこにこと笑ってロストナンバーたちにチケットを差し出した。「アデル家の人からの個人的なご招待だよ。キサのことでいろいろとお世話になったのに、きちんとお別れが出来てないでしょ? それで、個人的に屋敷で晩餐会を開くからいらっしゃいってさ、難しく考えずに、これは君たちの今までの苦労をねぎらいたいって申し出だよ。アデル家は世界図書館といい関係を作ろうとしているからね、安心していい相手だ」 どう? と黒猫にゃんこは首を傾げた。「気になるならいっておいで、君たちのためにもね。きっと多少の我儘なら、アデル家の人は叶えてくれるよ」 駅を抜けると黒い高級車が待っていた。そこから現れたのは執事ぽい服を着た三十台くらいの優しげな笑みを顔に貼りつけた男だった。 油断ならないのは彼のコートの腕の部分には太いナイフがしっかりと装備されているところだ。それでも戦う気配はなく、むしろ、歓迎しているのは笑顔もそうだが雰囲気の穏やかさでわかる。「あなたたちが旅人さまですね? 私はアデル家にお仕えしています、とかげと申します。今回、マダムにみなさまをご案内するように申し付かりました」「案内?」「アデル家の人は……」 困惑するロストナンバーにとかげは微笑んだ。「多くの街が混乱しているのを立て直すため、ハワード様は現在、業務にお忙しく、夜しかお時間はとれません。マダムはキサお嬢さまと御屋敷におりますがみなさまを出迎える準備をなさっております。もちろん、みなさまが来ましたら喜んで出迎えますが」 けれど、とかげは続けた。「晩餐会は夜からなので、もしどこかに行きたいのでしたら出来るだけ案内しろとマダムからのご命令です。閉鎖された街のなかには入れませんが、もし近づきたいのでしたらお付き合いいたしましょう。危険がありましても私がみなさまをお守りするように言われています」 よく見れば月色の瞳をしたとかげは、首を傾げた。「私はアデル家の命に従います。さぁ、どうぞ。なんでもおっしゃってください」
がたん、とロストレイルが大きく揺れた。 びくりと、艶やかな毛に覆われた黒豹の一見紳士の外見を持つ探偵のエク・シュヴァイスの肩も震え、自慢の細長い尻尾が体のバランスをとるようにぴんと立つ。振動のせいで大切な帽子が少しずれたかと几帳面に右手で位置を確認した。 ぱっと、先ほどまで触れていた帽子が奪われ、かわりに、くくくっと低い笑い声がしたのにエクが視線を向けると、座席に行儀悪く体を預けたオレンジ色の鮮やかな毛並を持つ悪魔のテリガン・ウルグナズが意地悪く、牙を見せて笑った。その胸にあるロザリオがきらりと輝く。 「キサ、無事なんだろ?」 ぱしっと帽子を奪い返して、膝の上に置いたエクはむすっと言い返した。 「ああ、無事だと報告書にはあった。それに」ちらりとエクは斜め前に座っているユエを見る。 「あなたがキサを送り届けたと聞いた」 空に輝く月色の髪と鮮やかな夕焼け色の瞳を持つロウ ユエは静かに微笑んで頷いた。 エクの横に座っていたふわふわと柔らかな緑髪に優しい笑みをたたえたニワトコとユエの横に腰かける純朴な人柄が顔に出ているオゾ・ウトウも口元に微かな笑みを浮かべた。 キサがインヤンガイに再帰属した。 だが、そのために世界と、彼女が支払った代価は決して安くはない。 それでも同じ旅人として再帰属できたことをそのあとの幸福を祈る気持ちは変わらない。 「キサは……そうか、無事に帰れたんだな」 ぽつりとエクは独り言を漏らす。 キサが行方知れずになったとき、駆けつけてやれなかったことが心残りではある。だがキサは無事で、きちんと生きて、母親に抱かれているという真実がエクの心に安堵を齎した。いいんだ、キサが幸せなら、俺がその役目でなくても、笑ってくれれば。 「しかし、あのときは」 思い出してエクはむすっとした顔をするとテリガンが肩を竦めた。 「え、まだ怒ってるのかよ」 「……怒ってないと思ったのか」 エクが牙を剥いて怒るのに他の三人がきょとんとした顔をする。 「なにかあったのか?」 とユエが代表して問う。 「……実は、キサを助けるため、別の部隊に入って」 「命令無視して、キサのところ駆けつけよーとしてんだよなー」 エクの言葉を奪い取ったテリガンは、ばさっと黒い蝙蝠翼を広げて、くくっと思い出して笑う。 「流石に、それってやべーだろう。だから機転を利かせたオイラがこれで殴ったわけよ」 「ワイン瓶、ですか」 上着からなぜかワイン瓶を取り出して胸を張るテリガンにオゾが目を瞬かせる。 「なんで、俺のワインコレクションのモンテレは俺を殴る武器になっているんだ」 ちなみに、このワイン瓶ではじめにエクをぶんなぐって気絶させたのは彼がリーダーと慕う青年だ。そして何故かそれはエクを殴る専用武器と身内のなかでは決まってしまっていた。なにかあるたびにモンテレで殴られて気絶させられるということが起きているのだ。 「そんなわけでオイラはエクが暴走しねーための付き添いな。ってかまぁ、キサの様子が気になるってのもあるけど? キサ、どうだったわけ」 「俺が母親に引き渡すときは笑っていたが……あのときはバタバタしていたからな、晩餐で改めて挨拶して、キサを様子を見るのも悪くはないだろう」 「そうですね……晩餐があるんですよね」 ユエの言葉にオゾはほっと笑ったあと、すぐに暗い顔になった。言葉の後半も尻窄みとなる。 キサが再帰属したと聞いて心の底からよかったと思う。出来ればその顔を見たいと司書の呼びかけに応じたが、まさかアデル家から晩餐のおもてなしがあるなんて自分がいいのだろうかと恐縮してしまう。なんというか柄ではない、合わないし、それに、それに……うじうじと悩んでいると、黒猫にゃんこから笑顔で「はよ、いけ。男だろうがよ」とチケットを押し付けられてしまった。ああぁ~。 「ふふ、楽しみだな」 ニワトコは優しいまなざしで暗い、ディラックの空を見つめた。 とかげの案内をエクは丁重に断り、夜には屋敷に行くと口にして一人でふらりと歩いていってしまった。 そのあとを 「しかたねーなー、しっかり者のオイラが見張ってねーと!」 自称、お供のテリガンがあとを追っていったので心配はないだろう。 「ぼくは、できれば理沙子さんに昼間のうちに会ってお手伝いをしたいんだけど……構わないかな?」 「構いませんよ。一度アデル家に向かいましょうか」 とかげは答えると車のドアを開けて大切な客人たちを車内に招いた。ふわふわの座席にオゾはおっかなびっくり、ニワトコはくすくすと笑い、ユエはゆっくりと腰を下ろしたのを見届け、車を発進させた。 しばらくして車がアデル家の屋敷の門をくぐって建物の前で、ニワトコは降りると去っていく車に手を振って見送った。 「こんにちは、お邪魔します!」 「いらっしゃいませ! お客人!」 屋敷のなかにはいると二人の女中を従えた車いすの理沙子が出迎えてくれた。キサは今は慌ただしいので乳母が子供部屋であやしているそうだ。 彼女たちは夜の晩餐のために屋敷のなかを忙しく立ち回るのに一応、リビングのソファに座らせてもらったニワトコは本来の目的を思い出して、よしっと腕まくりした。 「理沙子さん」 「なぁに? ごめんね。今、夜の支度をしていて、私は動けないから、メイドたちにあれこれと指示を飛ばすんだけど」 「ぼくもお手伝いしていいですか?」 「いいの? 大切なお客様なのに」 「はい。ぼく、ここに来たのは家族っていうものを見て、感じたいと思ったのもあるんだ。大切なひとと家族になったら、どんなふうなのかなって。それに、キサさんがこれからどんなふうに暮らしていくのかなって」 インヤンガイは以前、一度訪れただけでたいした知識もないから先入観にとらわれることのない目で、アデル家のことを見る事が出来ると思うのだ。知るためにもアデル家のために動きたい。 理沙子は目をぱちくりさせたあと、ふっと笑った。とても自信のある笑みだ。 「参考になるかわからないけど、どうぞ。あと、私、人使いは荒いわよ?」 「はい」 「じゃあ、まずは花を飾って。テーブルに、みんながきれいだって幸せになるようなの。あなたが選んで」 「ぼくの?」 「そ。よろしくね」 「うん。とっても素敵なお花を飾るね!」 車のなかでオゾはそわそわしていた。こういう高級感あふれる乗り物には慣れないので、つい窓から外を見ると、あっちこっちで肉体労働者たちがあくせくと働いているのが見えて心惹かれた。 と、車が小さな振動とともに止まった。 「えっと、どうしてこんなにも頻繁に停止しているんですか?」 「リンゴですよ」 「リンゴ?」 「穴だらけの林檎。今回、ちょっと大きい事件が起こったので、地下の作り直しを」 とかげの説明のあと、がこんと大きな振動が襲ってきたのにオゾとユエは驚いた。 「……すいません、マンホールに落ちました。すぐに近くの者を呼んで」 「あ、僕も手伝います」 とかげが出ていこうとするのにオゾは急いで外に飛び出した。じっとしているよりも動いたほうが自分には合っている。 外に出ると、土と排気ガス、汗と食べ物といった様々な生活臭が混ざった、決して不愉快ではない人の生きている街の匂いがした。 見るとマンホールに車のタイヤが落ちている。周りを見るとあっちこっちが工事中やら地面に穴が開いている。 穴だらけの林檎の意味がようやくわかった。 事件のせいで破壊された場所を修理や補修するが、作業量の多さにたいして圧倒的な人手不足から安全面がおざなりになっているのだ。このマンホールだって、誰か見張って車や街行く人を守らなくては危険すぎる。 「あーあ、はまっちまってるよ。あんたの車かい? ちょいとまってな」 「あ、手伝います」 集まってきた工事現場の人々はいつものことらしく呑気な態度だ。オゾはそのなかに混じって、車のタイヤを持ち上げて穴からすくいあげた。 よし。 オゾは呼吸を整えて、とかげのいる運転席を覗き込む。 「ちょっと、ここのお手伝いをしてもいいですか? はい、ちゃんと夜には御屋敷にいきます。場所はわかっていますから」 「構いませんが、オゾ様は、それでよろしいのですか」 「こういうのを、ほっておけなくて」 「わかりました。のちほどお迎えにあがりますね」 とかげがくすっと笑うのにオゾは頭をさげて車が行ってしまうのを見送ったあと、働いている工事現場の人々に向き直った。 「すいません、お手伝いさせてください。そんなに動けないかもしれませんが、この穴を見張って、人を誘導とかなら出来ます。もちろん、報酬はいりません。完全なただ働きで、こき使ってください、夜までですが」 猫の手も借りたいほどに多忙である工事現場の人々は顔を見合わせると、にっと笑ってオゾを歓迎した。 そうして気がつくと、元々メンテナンスの仕事をしていたオゾの器用さが見込まれてあれこれと任せられてしまった。頼まれると断れない人の良さが災いした。 「はーはー」 疲れて目を回すと見かねた者たちが薬缶を差し出してくれたのに水分を補充する。 「あんた、無償でこんなことしていいのかい」 「い、いいんです」 「器用だね。それにしちゃあ」 「細かいことは、わりと得意なので……生まれた故郷でもそういう仕事をしていました。恋人も応援してくれて、両親も」 懐かしい、戻りたい場所のことを思ってオゾは目を眇め、しゃべりすぎたと恐縮するとふーんと労働者は笑った。 「あんた、自信持ちな。かなり働き者なんだから」 「ありがとうございます。ですが、僕は、失敗を」 「失敗? そりゃあ、誰だって生きてりゃあ、失敗するだろう」 「僕の、怠慢が大きなミスを引き起こしてしまって、それで」 ぎゅっと拳を握りしめてオゾは言い返す。 「あんた、仕事は一人でしてるんじゃないよ」 呆れた口調で言われてオゾは、はっとした。 「仕事は一人じゃない。大勢が携わってる。あんたがミスしても、それをフォローするのが他のやつらの責任だろう。あんた、なんでもかんでも一人でしてると思うから失敗すんだよ」 オゾは黙りこくった。自分のせいで、自分がミスしたせいで……そう、ずっとそう思っていた。 けれどいま、労働者たちと働いていてはっきりとわかる。彼らは自分に出来ないことは頼る、自分に出来るはするというスタンスだ。失敗しても他が助けに回る。それが当たり前。 「あんたのしていた仕事は知らねぇけどよ。仕事ってのは、一人が小さな歯車になってそれ以外の歯車を動かしてるんだ。あんたの責任というが、それは一人だけじゃない、全員のもんだろ? もうちょっと頭柔らかくしな」 「っ、そう、でしょうか? ……ありがとうございます」 オゾは小さく笑った。もし故郷に帰ったら、いいや帰る。そのとき少しでも変わった自分がいることを彼女に見てほしいと自然にそう思った。 「みんな、いろいろとやることがあるようだな」 ユエは広くなった車内でくすりと笑った。 「そのようですね、ユエ様はどうしますか?」 「そうだな」 インヤンガイに行くるのがユエの目的のほとんどは達成している。キサのことが気になっていたのでアデル家の晩餐の招待には素直に感謝していた。 晩餐に行くと口にすると従者があれこれと世話を焼いて、品の良い黒の布に銀の糸を使って龍が描かれた派手すぎず、しかし、ユエの魅力を十二分に引き立てる正装を用意してくれた。 しかし、晩餐が夜からと聞いてユエはずっと考えていた。 「行きたい所があるんだが、良いか?」 「もちろんです」 「なら、頼む」 ユエが口にした場所にとかげはしばし考えるように目を眇めたが、車は真っ直ぐに進んだ。 そこはユエがキサを取り戻すために死闘を繰り広げた街。 あのときは戦う以外の選択肢がなくて、手段も考える暇すらないために自分の力でいくつかのものを化石化させてしまった。そのあとはキサを母親に渡さなくてはいけないのと自分もひどく消耗し、始末にまで手がまわらなかった。いくらインヤンガイといえど化石化などそうあることではないので、さぞや困らせている可能性があると気にかかっていた。 ハワードの仕事を増やすのは本意ではない。 車が到着すると、ユエは降り立って、いくつかの化石化した状態の建物や車を見た。 「街は閉鎖こそしてませんが破壊が多かったため、今は人は住んでいません。復興にはとても、手がまわらないので放置しているんです。いまは人が生活している街の復興が優先されているので」 「そうか。ここの化石化を解除したいのだが……霊力漏電などの危険性はないか?」 ユエの言葉にとかげは頷いた。 「大丈夫でしょう。何か危険なことがあっても、ここには人もいませんから」 「そうか」 ユエの紅色の瞳がちらりと化石化したものを見て、閉じられる。それだけのことだが、化石化は瞬く間に解除されて、元の形を取り戻した。 「これで、霊力のまわりはよくなるんじゃないのか? 少しは復興の助けになるといいが」 「大助かりです。すごいですね」 とかげはユエの力の強大さに心底感心した目を向けた。 「……少し散歩をしたいのだが、いいか?」 ユエが悪戯ぽく笑ってタワーを指差した。 建物のなかには戦いのあとが色濃く残っていたのにしばし迷ったが、ユエは痕跡消去を行った。 旅人のしたことならば、同じ旅人が消しても構わないはずだ。 そうしてタワーの一番、屋上まできた。 「っ」 陽射しが眩しく目が痛む。肌は出来る限り晒さないようにしているが、それでも頬や手に太陽の光があたるとじりじりと焼ける痛みを覚える。 ふっと風が吹いて銀の髪を弄ぶ。 ユエは見る。 建物の海がどこまでも続いている。そこから聞こえてくる生きている人々の潮騒のような音、多くの香りが混じっている生活臭が風にのってユエの耳に届き、鼻孔をくすぐった。 「あれだけの騒ぎがあっても、ちゃんと生きているのだな」 踏みつぶされようと、苦しみのなかにあっても、それでも生きて、必死にあがいて、また立ち上がる。 人は強い。 ユエは目を伏せて、全身で世界の息吹を味わった。 エクが一人で向かったのは、マンションだった。 理沙子と知り合うことになったのは、彼女自身が過去と決別するための依頼だった。母親という自分と同じ苦しみを抱いた理沙子をほっておけなかった。 ……8ヶ月前か、彼女から依頼を受けたのは。 ただの護衛だったハズなんだが……奇妙な縁だな。 高飛車で傲慢で、ほっておけない弱さを抱えていた理沙子と無垢で無邪気な娘のキサはいつの間にか依頼という領域を超えてエクの心を占めていた。 女性は苦手なんだがな。 何故だか、理沙子やキサの事が気に掛かって、自分から関わりたいと思っていた。 一人の依頼人に肩入れしすぎている時点で、俺に探偵は不得手だったのかもしれん、今更だが。 苦笑いが漏れた。出身世界でも盗賊としては自分で言うのもなんだが中々に優秀だったが、探偵業はどうもぱっとした成果を出せなかった。いやむしろ、ドジをよく踏んでいた。覚醒したあとも探偵と名乗って働いて結果が出せたのは偶然や努力が実を結んだだけだ。それとて幸運だったからだ。 そろそろ、決めるべきなのかもしれない。こんな中途半端な立場ではなくて。 「俺は、ここに」 理沙子とキサの笑顔が瞼の裏に貼りついて、離れてくれない。 「あーあ、もう見てらんねぇぜ」 翼を広げた状態で空中に胡坐をかいたテリガンはため息をついた。 わざわざ蝙蝠たちを数匹飛ばして、センチメンタルモードでまったく警戒心のないエクを警護してやっていた。ここ、チンピラ多いな。こっそりと追い払ってるオイラってば、すげーやさしいぜ。ふふん。 キサとは四か月とはいえ住まいを共にして楽しく、ときには叱ったり、喧嘩したり、一緒に過ごした仲間だ。 とはいえ一番キサを気にしてあれこれと世話をしていたのはエクだ。 「……エク、なーんかインヤンガイに居付いちゃう雰囲気がするんだけど。種族差とか、大丈夫なのかねぇ、ココって獣人なんか往なそうなんだけど」 テリガンはそこまで口にしてあー、もうっと爆発する。 「なんでオイラがここまで心配してやるんだよ! いい歳した大人のくせによ!」 太陽がじわじわと地面に飲み込まれ、黒いカーテンが空に広がって夜となった。 アデル家の門をとかげに案内されてユエ、オゾがくぐるとニワトコが出迎えた。 「おかえりなさい。わぁ、オゾさん、泥だらけだね」 「ええ、すいません。いろいろと作業をしていて」 泥だらけの顔でオゾは笑った。 「まずはお風呂ですね。いらしてください」 「すいません」 とかげに案内されてオゾは身を出来るだけ小さくして風呂場に向かうのにニワトコは笑ってユエを晩餐の席に案内した。 「その姿は」 「え? ああ、タキシード? 理沙子さんがせっかくだからって貸してくれたんだ。似合うかな?」 「ああ。男らしくなっている」 大きな樫のドアをニワトコが恭しく開けると、広い部屋に出た。白い長テーブルに優しいピンク色の薔薇が飾られ、蝋燭の灯りが優しく燃えている晩餐のために用意された部屋の奥では黒いチャイナ服の理沙子が車いすに腰掛けて笑っていた。 ユエはその前に歩いていくと、片膝をついて、理沙子の右手にある指輪にキスした。 「今宵は招待していただき、感謝する。夫人」 ユエが優雅に微笑み、理沙子の足元に目を向けた。車いすは理沙子の足首から下が失われているために用意されたもののようだ。義足をつけているが、それで歩くのはまだ困難らしい。 「客人が来るまで、まだ時間があるので失礼を承知で尋ねるが、足は……? 良ければ無くした部分を生やす、と言うか治すが」 「え、生やす」 「余計なことかもしれないが、貴女はキサの母親だ」 「……治るなら、治したいわ!」 理沙子は飛びつくように返事した。 「だって、キサと思いで作りたいもの」 「わかった」 ユエは穏やかに微笑んで理沙子の足に遠慮がちに触れた。そこについている義足をのけ、傷面をなぞると、あっと理沙子が小さな震えた声をあげたとたんにユエの手に理沙子の足が戻っていた。 「ほんと、あなたたちのすることって魔法みたい」 「万能ではないがな」 そのとき、ぽーんと来客を告げる音がした。エクとテリガンがやってきたのだ。 ハワードは仕事のため遅刻すると連絡がきたが晩餐は予定通り開始され、つつかなく進んだ。理沙子はあれこれと話題をふるのはキサのターミナルでの生活なのにユエは家庭教師のときの話を披露した。 「いろいろとやらかしていたらしいがな」 それに高級や夜会といった雰囲気に慣れなさすぎておどおどしていたオゾはキサの話題に意識を向けて、数秒ほど思案して遠い目をした。 果たして話してもいいのだろうか? いろいろと、本当にありすぎて……家庭教師として教えた身としては、親に隠すほどではないにしても、聞いて楽しいだろうかと、またしてもいらぬ苦悩を抱えてせっかくのおいしい料理の味もまったくわからない状態だ。 「そうだな。それについては纏めておいた、これだ。キサは0世界で多くを学んだ……ちょっと頭を抱える事態になってるものもあるが」 「ええっと、呆れないで下さいね」 報告書を見てエクが自分でまとめておいた「キサのお勉強がんばった日々」という冊子を受け取った理沙子はオゾの言葉に面白そうに眺めた。 「それは、もう一人のキサについてのものだな」 ユエの脳裏にキサを取り戻すときに黒広げた死闘が蘇る。その果てに泣き笑いをして懇願した彼女の声が響く。 忘れないで、願い、としがみついてきた世界計の破片から生まれたキサ。 生きているから忘れたくないと思うのはあたりまえのことだが、彼女は自分の運命を受け入れて、責任を払った。 その強さを、語れるならば口にして、一人でも多くの者に知ってもらいたいと思うのは最期の瞬間まで彼女を抱いて、魂である世界計の破片を託されたユエの願いだ。 やや乱暴にドアが開いてハワードが入ってきた。肩で息をしているのはここまで走ってきたらしい。全員の視線に咳払いして 「すまない、遅れてしまった。ただいま、キサ、理沙子」 ハワードは迷いもなく理沙子に近づき、その腕にいるキサを抱き上げてキスをする。その光景を見たニワトコは微笑んだ。 「あの、手紙とか届きましたか? キサが、母の日をお祝いしたいって、それで父の日も、ぼくは、それにかかわったんです。キサは、ママのことが大好きだって、パパのことも、ゆっくりと知りたいって、一生懸命でした」 ハワードがキサを抱いてニワトコに視線を向けたあと、腕のなかの娘を見た。 「あのときの、あれは君たちの手伝いもあるのか。正直、驚いたが……悪くはなかった」 「ふふ、よかった。えっと、言葉にはうまくできないけど、ちゃんと絆って出来てるんだなって、見ていて思えて、いいなって」 だいじょうぶ、そんな風に思える。ハワードは娘も妻も大切にしている。理沙子も。だから自然と胸の中に「いいな、ぼくもああなりたい」と憧れが胸に溢れてくる。 そっか。 人の絆が作り上げたものは言葉にできないけど、ちゃんとあるんだね。見ていればわかる。 優しい雰囲気が、大切にしていると伝えている。 理沙子の自信に満ちた笑みは愛されているからだ。 ハワードの優しい雰囲気は愛されているからだ。 キサが笑って、泣いているのはちゃんと自分の声にこたえてくれる愛がそこにあるから。 「うん。家族って素敵だね」 ぼくも、きっと作るんだ、大切な人と、こんな愛しい空気を 晩餐が進むと、キサを抱いてほしいと理沙子は集まった者たちに頼んだ。ニワトコは抱っこして白花をつつかれて困りながらも楽しそうに声をあげた。次にユエが遠慮がちに抱っこして髪の毛をひっぱられて苦笑いを零した。 「キサは長いものを握りしめるのが好きだな。……俺がアデル家に願うのは一つだ。これからも色々有るだろが、出来るだけ長生きをしてほしい」 アデル家も、その使用人も、知った顔が傷つくのは見たくない。出会いの形はなんであれ、こうして今は縁を作ったならば幸福となってほしい。 オゾはキサをおっかなびっくり抱っこして、キサの全身の柔らかさにほぉと肩から力を抜いた。 「もう急ぐことはありません。もう一度、ゆっくり身につけて行って下さい……そうすれば大人が口ごもるようなややこしいことも、ちゃんと分かってきますから」 大人になろうとしたり、強くなろうとしたり、がんばっていたキサ。 「言葉を覚えて行く何年もの間に、少しずつ大事なことを覚えていけばいいんです」 ここは貴女のいるべき場所で、見守っている人がいっぱいいるから。 キサが笑うのにオゾは口元を綻ばせる。あのターミナルでの日々の、あのキサは幻だったのかもしれない、けれど過ごした日々が形として残らなくても心の深い底にはきっと小さな破片として存在していると信じている。 「一番大事なことは、もうしっかり身につけているみたいですね」 大丈夫、大丈夫ですよ、オゾは繰り返す。 「人生を強く生き抜いて下さい」 祈るように、優しくオゾは囁き、キサに頬すりした。赤ん坊が嬉しそうに笑った。 「キサは確かに帰したぞ、父親。子供を守るのは、親の役目だ」 キサを囲んでの楽しげなひと時が流れる傍らでエクはそっと牙を見せてハワードと対峙した。やはりハワードのことを好意的に思えない己がいた。 冷やかな敵意がこめられた視線をハワードはワインを飲んで受け流した。 エクはぷいっと顔を反らして立派にホスト役を務める理沙子を見る。 「理沙子、少しでもなじみのあるものがあるほうがいいだろう? ターミナルで使っていたものだ。俺が運べるだけ持ってきた、使ってやってくれ」 「あらあら、キサが成長しないと使えないものもあるわね」 魔法のかかったポケットから取り出されたキサの荷物一式に理沙子は目を眇めたあと、ネックレスを差し出した。 「これ、あなたたちが?」 「それはテリガンが作ったやつだな」 「あー、オイラのだ!」 「キサがずっともっていて、返したほうがいいと思って」 理沙子が差し出す銀のネックレスには鍵がついている。鍵は博物館のもので、キサがいつでも帰れるようにと渡したものだ。 エクは首を横にふると理沙子の手を包んで鍵を握られた。 「それは取っておけと、リーダーから伝言を預かっている。博物館のメンバーだった証として……お前は一人じゃないという証明として、な」 「けど」 「博物館からの贈り物ってコトで、取っとけってリーダーが言ってんだぜ。まぁ、要らないって言うなら引き取るけどさ。もらってほしいんだ、オイラたち」 「そう、ありがとう。もらっておくわ」 理沙子が微笑むと、重ねられているエクの手を掴んだ。 「外に出たいの。まだ歩き慣れないから、支えてちょうだい」 「ん? ああ、いいぞ」 エクが不思議そうに理沙子を支えてベランダに出るのにハワードが視線を向けていることに気がついたテリガンは気をきかせることにした。 「なぁ、ハワードの旦那、提案があるんだ」 「なにかね」 「なぁなぁ、オイラたちがインヤンガイじゃない世界から来てるってことは知ってるよな? ありとあらゆる世界を行き来するために、オイラたちはその為の乗り物に乗ってくるんだけど。乗り物を止める駅を、アデル家の敷地内に作れない? そうすればアデル家でなんかあった時、オイラたちもココになるべく早く駆けつけられると思うんだ。出来たらでいいからさ、考えといてよ」 「それは、少しだけ難しいだろうな」 ハワードは険しい顔で言い返した。 「とかげからの報告で聞いたが、君たちのなかに私の命を狙った愚か者がいたらしい。その理由が私がいなければインヤンガイは平和になると考えての行動らしいが……命は狙われるのは慣れているが、君たちのような者たちにまで物的証拠も、根拠もなく狙われるとしたら警戒せずにはいられない」 「あー」 依頼の内ならばなにをするのも自由、責任は個々で負うものが世界図書館のスタイルだが、ハワードたち別世界の住人からしてみれば一人の行動も世界図書館という一つのグループとして見られ、評価されることは致し方のないことだ。 応じてくれるのは低いとは思っていたが、やはり残念なのにテリガンは髭をたらした。 「自分の懐に蛇を飼う趣味はない」 「そっかぁ、まぁ、そうだな」 「しかし、私は今後も世界図書館と良い関係を築いていきたい。私の住むこの街に駅を作る、というならば協力しよう。いまはいろいろと工事をしているので応じられる。ただそちらのリーダーの意見もあるだろうから、私から言えるのはこれだけだ」 「ありがとな!」 小さな希望を見出してテリガンは笑って頷いた。 ベランダに出ると夜風が冷たく肌を刺すのにエクは腕のなかにいる理沙子を心配した。彼女は薄着だが寒がることもなく平然と夜空を見上げる。 「元気そうでよかった。足も、ユエのおかげで治ったな」 「ええ」 「理沙子、……キサは確かに、貴女の元へ帰した。約束は果たした、それでまだなにか俺に」 「今更なんだけど、エクはこの世界に来てくれる気はない?」 理沙子の問いにエクは目を瞬かせた。 「あのね、よくよく考えたの。それで、やっぱり私、エクが好きよ。キサもあなたが大好きみたい。傍にいてほしいって感じてる。私はあなたにいっぱい迷惑かけたし、苦労させたし、からからったし、けどあなたは私に会いにきてくれたから、きっと大丈夫だと思うからいうわ……ここにいてほしいの」 エクは目を見開き、すぐに逸らして言われた言葉の意味を吟味する。 「あなたがここに住むとしたら大変だと思う。あなたみたいな人は、きっと、この世界では珍しいし。けど、あなたのふわふわの毛も、長い尻尾もチャーミングで私は大好きよ。キサも」 理沙子は笑って茶化したあと、俯いた。 「そう、大変よ。苦労するし、傷つくし、幸せにできるなんて保障はどこにもない。私自身にはたいした力もないしね、護ってあげられるなんて言いきれない」 「理沙子」 インヤンガイは常に危険が存在し、絶対に安全な場所なぞ存在しない。とくにマフィアという権力を握る立場であれば、なおのこと。 理沙子は勢いよく顔をあげた。 「私はエクにこの世界に、私とキサの傍にいてほしい。私があなたにあげられるものは、あなたの名を呼んであげること、笑顔をあげること、……思い出を作ることだけ、それだけよ。それでは足りないかしら? あなたがここにくる理由にならない?」 エクは首を横に振った。言葉が、からからの喉から出てこない。 「あなたにはあなたの大切なものがあるのもわかるから、どんな答えでも私は受け入れるわ。だから答えて」 風が吹いて短い理沙子の髪の毛が揺れる。 光を秘めた瞳が真っ直ぐに見つめる。 見栄も、プライドも捨てて、理沙子は裸の心でエクと向き合っていた。その強さにエクは目を逸らすことをやめて理沙子を見る、彼女を相手に言葉を取り繕うのは無意味だ。 「理沙子、俺は」 帰りたい、どこに。きっと、――ここに。 理沙子の言うように、ここで生きることは苦労するだろう。それをひとつ、ひとつ、クリアーしていけば。 一緒に理沙子は考えてくれるだろう、キサも。 はっとしてエクは己を映す硝子窓を見た。 ゆらっと陽炎が見えた、気がした。真理数かと思ったがはっきりと見えないし、すぐに視得なくなったのは目の錯覚か、そうあってほしいという願望が見せただけなのか。 もしかしたら、本当に…… 真理数がはっきりと出ないのはエクの心が定まってないからか、それともこの世界に帰属するための資格が足りないからか ――きっと両方だ。 「理沙子……俺はきちんと結論を出して貴女に答える。……約束する」 また、約束を作ってしまった。自分の甘さを自覚しながらも、言葉は勝手にエクの口から零れ落ちていた。まるで祈りのように。
このライターへメールを送る