ターミナルは画廊街の端に、『知る人ぞ知る』と言った風情でひっそりと佇む、小さな映画館が在る。 普段は壱番世界の名画や異世界で手に入れたフィルムなどを気紛れに上映しているだけの、まさに道楽商売と言った様子の運営だが、時折――やはりこれも気紛れに――“シネマ・ヴェリテ”と称して特別営業をする日が設けられていた。 その日、初めに訪れた一人だけを相手に、フィルムを回すのだと云う。 ◇ 軽やかなベルの音。 映画館の扉を開けて、映写技師は最初の客を迎え入れる。 「いらっしゃい。……おや、君は」 画廊街の煉瓦通りに佇むその姿を目にして、穏やかに目を細めた。 「こんにちは」 柔らかな所作で、ニワトコは軽く頭を下げる。淡緑の髪に花冠のように咲き誇る、白い小さな花がふわりと揺れて、芳香さえも風に靡いた。 「“シネマ・ヴェリテ”へようこそ」 映写技師は頷いて、観客をホールに招き入れる。 「映画館は初めてかい?」 「うん」 髪で隠されていないほうの瞳が、物珍しげに廊下に貼られたポスターを眺めている姿を微笑ましく見守り、映写技師は声を掛けた。その言葉に青年は肯定を返しながらも、視線はポスターに釘付けのようだった。 絵画的な筆致で描かれた、光溢れる森の情景。 青い瞳に郷愁と、悼みを浮かべ、ニワトコは身を翻して劇場へと向かう。 「それで、フィルムの色だが」 五色のフィルム缶を並べたテーブルを転がしながら戻ってきて、ひとつひとつの色について説明を加える映写技師の言葉を、ニワトコは静かに聞いていた。 「君は、どれを選ぶ?」 緑の中で細やかに咲く花に似て、柔らかな笑みを浮かべるニワトコの頭上には、未だ点滅を残しながらもはっきりとした数字が浮かんでいるのが見て取れる。彼の愛する女性に燈るものと、揃いの数字が。 「ぼくは、もうすぐ帰属します」 「そのようだ。おめでとう」 素朴だが、心からの祝福。 陽光を浴びるようにそれを受け止めて、ニワトコは微笑みを返した。 「この映画館で、今までの想い出を形にしてもらえると聞いて」 「成程……《追憶》のフィルムだな」 技師が指し示した先に在るのは、ターミナルの空を切り取ったような、青い色のフィルム。ニワトコもまた頷いて、ゆっくりとフィルム缶に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、滲み出るように文字が刻まれる。 「では、観客席へどうぞ」 促されるままに人のない客席へと向かう。経験のない映画と言うものへの憧れと、これまでの己の旅路を思い返しながら、ニワトコは期待を胸に銀幕を見上げた。 暗転。 そして、青のフィルムが回り始める。 初めに銀幕が映し出したのは、赤だった。 ざらざらと、赤のノイズが、スクリーンを蝕んでいく。焔のように立ち昇る赤は踊りながら画面を食らう。黒で切り取られた森の景色を。悲鳴と、呻きに彩られた惨劇の場を。 映像が揺れる。まるでカメラを手にする誰かが懸命に駆けているかのように、上下に激しくぶれる。 「――!」 ニワトコは青の瞳を怯ませ、しかし逃れる事はなくそれを見つめ返した。 (あれはぼくなんだ) 彼の世界で、これほどの高さで走る事ができる者が己ひとりだと、ニワトコは知っていた。この炎から逃れ得る事が出来た者もまた。 ぎゅ、と膝の上で拳を握ったニワトコの眼前で、映像は唐突に黒に塗り潰された。暗転よりも尚深い、漆黒のノイズ。 そして、薄い青の文字が、画面の中央に現れる。 《 La bouquet de souvenir 》 『――恐ろしい炎の記憶は、そこで途切れた』 不意に、劇場の両側に設えられたスピーカーから、そんな言葉が零れ落ちた。 それはモノローグ。 ニワトコの見つめる前で綴られる、彼自身の想いの雫。 そしてナレーションに合わせるように、映像は移り変わってゆく。黒のノイズに侵蝕された画面を払うように、青い光が舞う。それは次第に銀幕を柔らかく覆って、雲一つない鮮やかな空へと変わった。 臙脂色の列車が、その蒼を切り裂くように滑る。 硝子の轍を伸ばしながら、するすると降下するロストレイルが滑り込むのは、山のような、螺旋の街並みを造るたくさんの建物の麓だ。 列車が着陸する寸前、大写しになる列車の車窓には、貼りつくように外の光景に魅入るニワトコの姿があった。 『それらを“街”と呼ぶことを、ぼくは傍にいたツーリストから教えてもらった』 初めて目にする、ニワトコと同じ姿かたちの人々。 炎から逃れたばかりで茫然としていた彼は、降りたばかりのホームでひとり、ターミナルの雑踏を前に立ち尽くしていた。 彼を迎えに来たロストナンバーが、振り返ってニワトコに笑みを向ける。――その表情の意味も、ニワトコはまだ実感を抱けずにいた。 これからよろしく、と新たな旅人を歓迎する言葉。 何気ない仕種で差し伸べられた、大きな掌。 『差し出された手の意味を、その時のぼくは知らなかった』 握手、という人間同士の挨拶。 植物たちの世界しか知らなかったニワトコには、たくさん覚えるべきものがあって。覚醒したての彼の日々は目まぐるしく過ぎていく。 旅先で出会った、緑の宝石のような眼をした、気の強い少女。 彼女に連れられて、様々な店を転々とした。そのどれもがニワトコには初めて経験するものであり、新鮮な楽しみを覚えるものだった。 ぬいぐるみが雲の上に暮らす、幸福と平和の世界。 植物に親しいニワトコのアドバイスを受けて、ふしぎな種を植えていくぬいぐるみたち。虹色の花の道に、彼らはいたく喜んだ。 ――新たな命の誕生。 それを体感して、樹である彼の目からも涙が零れ落ちる。 キャラバンと共に、世界の果てへ旅をした日もあった。 無限に続くかと思われる緑の海に、翼のような、光のような、すべての色を添えた花が咲き誇る。 歌と喜びに充ち溢れた海を、ゆっくりとニワトコや仲間たちがあるいていく姿が、鳥瞰する画面に映り込んでいた。 銀幕は、これまでにニワトコが刻んできた幾つもの旅路を描き出す。淡い空色のノイズに縁取られて。 そのひとつひとつに抱えた想いを蘇らせながら、ニワトコはどれひとつとして取り零さぬように、その双眸に収めていった。 そして――。 『そして、ぼくは彼女と出会った』 銀幕の中央に現れる、その後姿。 待ち侘びていたひとの姿が銀幕に現れて、ニワトコはこの上なく幸福そうに微笑んだ。甘やかな菓子を頬張るように、その名前を声に出さずに口の中で転がす。 映像は移り変わる。 見慣れた――今日も、此処へ来るまでに歩いてきた路。画廊街の煉瓦通り。ふらふらと当て所もなく歩いていたニワトコはその通りを抜けて、商店街へと差し掛かり、ふと一つの店の前で足を留めた。 御簾の開け方が解らなくて戸惑う自身の姿。苦笑のような、照れたような表情を浮かべて、ニワトコは静かに見守る。今ではすっかり馴染んでしまったあの扉も、かつてはニワトコが初めて経験するものの一つだったのだ。 それを中から開ける手。 柔らかな、和菓子の上に雪のように積もる金箔にも似た黄金のノイズが、微笑むその髪を、肩を、瞳を彩っている。 黄金のノイズは《希求》を顕わすのだと言う。 ――だからこれは、ニワトコが彼女との未来を望んでいる証だ。 少しばかり照れるように微笑んで、ニワトコは銀幕の情景を追い続ける。 味覚が解らない、と彼ゆえの悩みを零した事。 それに対して真摯な答えをかえしてくれた事。 二人が出逢った日の情景が、青と金に彩られて描き出される。 それから。 『彼女との記憶には、いつも花が隣に在った』 それから、たくさんの時間を共にした。 『たとえば、桜』 視界を覆い尽くさんばかりの花吹雪が、紗幕のようにスクリーンの中で踊り狂う。 青いノイズの閃く空の下、たった一人で過ごしていたという花見を共に過ごして。 桜の精のような、美しい舞を見た。 『たとえば、氷雪花』 花言葉は『永遠の幸福』『奇跡』『天の祝福』。 一面の白の中に咲く、一輪だけの青い硝子の花。 その花に誓った言葉は永遠に破られないと云う伝説の花を探し出して、二人だけの誓いを交わした。 青いノイズが雪のように降り注ぐ、その雪原に佇む二人の言葉は、銀幕を通して此方側へ聴こえてくることはなかった。 『宮の庭園に、たくさんの花を植えた事もあった』 土を入れ替えても、肥料を与えても育たぬと庭師が嘆いていた場所。 植物を枯らせる程の呪にも臆さずに、植物と同じ腕で原因を取り除いて、心を閉ざした少年――未来の義弟の庭に、彼と共に花の種を植えた。 『そして――蒼の庭園』 蒼い花が幾種も束ねられたブーケは、蒼のノイズを燐光のように纏い輝いている。無数の祝福をその胸に抱き締めて、ニワトコの隣の彼女は目映い笑みを浮かべている。 降り注ぐ花は、銀木犀。桜。氷雪花。紫陽花。虹の花。シエラリジェル。ニシェック。 これまでにニワトコが出逢った、数多の花が彼らの旅路を祝福する。 『――ぼくは此処から、彼女との未来を歩む』 振り返る事なく、真っ直ぐに路を行く二人の後姿を、いつまでもいつまでも銀幕は捉えていた――。 ◇ ぱちん、と軽やかな音が聞こえて、はたとニワトコは我に返った。 「あれ、映画……は?」 「もう終わったよ」 背後から声を掛けられて、ニワトコは振り返る。 二人が夫婦になったあの日の花に似た、美しい青に染まるフィルムを片手に、映写技師が微笑んでいた。余韻に浸っていて、映画の終わりを認識していなかったのだろう。ニワトコは照れたような笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。 「初めての映画は、気に入って貰えたかな」 「うん。とても――とても、綺麗だった」 「そうか」 目映い光を仰ぐように、映写技師は目を細めて観客の賛辞を受け止める。 「だが、それは映画が美しいのではなく、君の歩んできた道のりが美しかった、という事だろうな」 「……そう、だね」 様々な仲間たちと共に、様々な旅を経験した。 そのひとつひとつが、今もニワトコの心の中で輝き続けている。 再帰属を果たすのは彼の望みに違いないが、同時にそれらの旅路を忘れてしまうのは寂しい、と思ったからこそ彼は此処へやって来たのだ。 充たされたように微笑むニワトコの様子を見、映写技師は何かを確信したかのように言った。 「フィルムは……受け取ってくれるね」 「うん。――夢浮橋へも、持って行っていいのかな」 「彼の世界に映写機があるかは私には判らないが、持って行くのは構わないだろう」 その言葉に、ニワトコは顔を輝かせ、差し出されたフィルムを受け取った。 後々上映できるか否かが大切なのではない。想い出を詰め込んだこの《青》を持ち続ける事が、ニワトコにとっては大事だった。 「ありがとう」 「こちらこそ。――これから忙しいかもしれないが、もしも時間が出来たら、彼女とも映画を見に来てくれると幸いだ」 冗談めかして、片目を瞑りながら映写技師はわらう。ニワトコは軽く目を円めて、しかしすぐに、ふわりと花がほころぶように微笑んだ。 「うん」 大きく頷いて、ニワトコは映写技師に見送られながら劇場を後にする。 いつか、彼女の世界で、彼女と此れを眺める機会があれば良い。 この街で――無限の世界で手に入れた大切な記憶の花束は、いつまでもこの蒼の中で咲き続けている。 <了>
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