白い雪が、僕の肩に落ちてきた。 降りしきる雪をただ「美しい」と思えるのは、暖かい家と服と食べ物が「当たり前」にあると思っている連中だけなのだろう。 今の僕には、雨露をしのぐ家も無い。 服だって、このボロボロの一張羅だけだ。 食べ物はゴミ箱の中の残飯だけ。それだって、空腹を満たすにはあまりに足りない。 父さんは首をくくって死んだ。母さんは見知らぬ男たちに連れて行かれた。 残されたのは、小さい頃からずっと一緒だった犬のレイだけ。 それからずっと、レイとふたりで彷徨っていた。 でも、今はもうそれすら出来ない。 何処かへ行こうにも、足に力が入らないんだ。これじゃ残飯も探しに行けない。 僕はこのまま、ここで死ぬのかな。 こんな不幸のどん底で、何もいいこと知らないまま、野垂れ死ぬのかな……。 いつの間にか、僕は「僕」を見下ろしていた。 ああ、僕は死んだんだ。僕の魂は、僕の肉体から切り離されたんだ。そう理解するのに、時間はかからなかった。 見下ろした僕の死体は、ひどくやせっぽちっで、骨と皮ばかりの貧相な姿をしていた。 隣でレイが鳴いている。僕の臭いを嗅いで、頬をなめている。 無駄だよ。そんなことをしても。僕はもう生き返らないんだ。 生き返ったところで、僕にはもう何もないんだ。 君まで僕と同じように、飢え死にすることなんて無い。 そうだ。それでいい。 僕を食いちぎって。僕を噛み砕いて。僕を飲み込んで。 ああ、これで僕は君と一つになれる。 僕は君の血となり肉となって、いつまでも君と生きてゆける。 何の役にも立てなかった僕が、初めて君の役に立てた。 自分の命すら救えなかった僕が、初めて君の命を救ったんだ。 それにしても、路地裏を駆け抜ける四本の足は、何て軽やかなんだろう。 耳に、鼻に、研ぎ澄まされた感覚が捉える世界は、新たな発見に満ちている。 さあ行こう。僕達はひとつだ。 僕が君に力をあげる。 君の爪で、君の牙で、僕らを食い物にした奴等を、今度は僕らが食ってやるんだ……。◇ インヤンガイ某所、テンシャン街区。 かつてこの地域は、打ち捨てられたボロ家ばかりが無秩序に並ぶ、典型的なスラム街であった。 しかし、最近になって再開発計画が立ち上がると、古い家屋は次々に取り壊されて道路網が整備され、富裕層を対象とした高級マンションや高層ビルが続々と建設されていった。 大企業や商業施設の誘致も進み、そして今や、有数の発展都市へと生まれ変わったのだ。 それでも、中央部から遠く離れた路地裏には、昔と同じうらぶれた風景が広がっている。 再開発のあおりを受けて、立ち退きを強要され住処を奪われた人々が、饐えた臭いのする路地裏を胡乱な瞳で彷徨い歩く。 清浄なる楽園と、よどんだ煉獄が同居する、歪な空間。それが今のテンシャン街区の実情だった。 街区の中央に、新たな街の象徴として建造された超高層ビル「凌雲楼」。 その上層部では、今日も上流階級のセレブたちが、豪奢な衣装に身を包み、贅を尽くしたディナーに舌鼓を打ちながら、下界に住まう卑小な働き蟻たちを見下ろしていた――。 そのテンシャン街区郊外の、古い病院の一室に、「霊能探偵」ミン・ユィンは入院していた。「貴方たちが、例の『助っ人』ってわけね……全く、私も油断したわ。まさかあれほどまでに、負の力を増大させていたなんて」 艶やかな黒髪も美しい妙齢の女探偵は、しかし今は腕と足を包帯に巻かれベッドに縛り付けられた、無残な姿を晒していた。敵に不覚を取られた悔しさと自らの不甲斐なさに、きゅっと唇を噛み締める。「ええと、『暴霊』ってのがどういうものかについては、知っているわよね? 広義には、人の制御を離れ暴走した霊力。そして狭義には……この世に未練や無念を抱いたまま死に、破滅的な力を得るまでに暴走した人間の怨念。特に後者は、時に物品や動物に憑依し、取り憑いたモノ自体を魑魅魍魎へと変容させてしまう……今回あなたたちが相手にする奴は、そういう存在よ」 そう言ってユィンは、枕元に置かれた資料を手渡した。その中に挟まっていた一枚の写真。野次馬が携帯カメラで取ったものらしく少々ピンボケ気味であったが、黒く大きな獣の影が人に襲い掛かる様子は、はっきりと見て取れた。「これが今回のターゲット。暴霊に憑依されて怪物化した犬、ってわけ。この一週間、奴に殺された人間は優に十人を越えるわ。最初に殺されたのは、ストリートキッズのシャオヤンという少年。その次が、最近このあたりでは羽振りの良かった高利貸しのゴンジャ。あとは地上げで荒稼ぎしていたインテリヤクザに、お忍びで外遊していた企業幹部、繁華街でいちゃついていたカップル……被害者の間に関連性はなく、殆ど無差別と言っていいわ。強いて言うなら、二番目の犠牲者であるゴンジャが、最初に殺されたシャオヤンの両親に多額の金を貸していたことぐらいかしら」 次に数枚の被害者の写真に目を通す。シャオヤンという少年は、見るからにやせっぽちで、酷く寂しげな顔をしていた。その次のゴンジャは対照的に丸々と肥え太っており、下品にニヤけた笑みからは傲慢不遜な人格が見て取れる。「……ターゲットは無差別だけど、奴の行動には一定の規則性がある。事件現場がこのテンシャン街区の外縁から、徐々に中心部へと移っているの。まるで最初から中心部を目指しているかのようにね……そうそう、奴の攻撃パターンについてレクチャーしておくわ。まず一つは奴の咆哮。これには任意の物品を破壊する力があるの。信じられないでしょうけど、鉄製の刀や銃まで粉々にしてしまうほど強烈なものよ。今まで地元の警察や、そしてこの私が太刀打ちできなかった原因の一つもそこってわけ。だけど、奴の本当に恐ろしいところは……『精神への侵食』よ」 ユィンの表情が一気に強張った。過去の「奴」との熾烈な戦いを、そしてその際に被った精神の破壊を思い出し、その恐怖に耐えるように拳を握り締める。「奴は……あの犬に憑依している『暴霊』は、人間の『負の感情』を凝縮したような存在なの。人間には誰しも、心のどこかに負の感情を持っている。普段『善良』とされている人物でさえ、ちょっとした僻み、驕り、劣等感を全く感じないなんてことは、まずないはずよ……この街のような場所では特に、ね。 その心の隙間に奴が忍び込んだら最後、それらを徹底的に抉り出され、見せつけられてしまうの。自分の中の、或いは世界に蔓延する『ドス黒い悪意』に蹂躙され、正気を保つことさえ困難になってくる。個人差はあるけど、酷いときにはそのまま発狂して廃人になることだって珍しくないわ。 仮に持ちこたえたとしても、今度は牙攻撃が待っている。一瞬でも隙を見せれば、あっという間に噛み殺されてしまう。かく言う私だってこのざまよ。この程度で済んで、生きているのが奇跡なぐらいだわ。最初の依頼人だった一流企業の社長なんか、一瞬で正気を失って、涎を垂らしてヘラヘラと笑いながら食い殺されていったのよ……。自分が死ぬことすら自覚しないまま、死ぬより恐ろしい精神状態に追い込まれて……」 思い出したくない程のおぞましい光景に、ユィンは再び身を震わせる。そして懐から、数枚の紙切れを取り出した。紙幣ほどの大きさのそれは、何やら呪文か経文めいた、難解な文字やシンボルが書かれている。一人につき一枚ずつその札を配ると、ユィンは再び、真剣な眼差しを向けた。「これを持って行きなさい。暴霊が与える霊的ダメージから身を守る『障壁の念』が込めてあるの。そんなに長くは持たないけど、気休めぐらいにはなるわ。本音を言うなら、私自身が再び奴と向き合って雪辱を晴らしたいけど、この体では暫く動けそうにない。それに何より、これ以上被害を拡大させてはいけない……貴方たちだけが頼りなの。お願い」 病院を後にしたロストナンバーたちは、最初に此度の依頼を持ち込んだ世界司書、オリガ・アヴァローナの言葉を思い出していた。「今度の戦いは、辛いものになるわ……『彼』にとっても、あなた達にとっても」 あの時のオリガの悲しげな瞳が、そしてユィンの眼差しが、頭に焼き付いて離れなかった。◇ 雲を貫き、天に向かってそびえたつ、水晶のように煌めく塔「凌雲楼」。 あそこはかつて、僕の家があった場所。僕の不幸が始まった場所。 崩れそうなバラック小屋は潰されて、僕らは家をなくした。 そして今、僕らがかつて貧しい暮らしをしていた土地のその上で、僕らを追い出した醜い奴等が、贅沢な暮らしをしているんだ。 下界の人間を嘲笑いながら……。 行こう、レイ。 今の僕には、この鋭い牙と爪がある。 あの欺瞞に満ち満ちた、ばかげた塔をぶっ壊して、お腹一杯白豚どもを食べてやろう。 僕はもう、あの頃の僕じゃないのだから――。
昨今テンシャン街区を騒がせている連続殺傷事件の生き証人、ミン・ユィンからの情報を得た旅人達は、ある一つの仮説に行き当たっていた。 ――此度の『敵』となる暴霊の正体は、恐らく最初に殺された少年・シャオヤンだ。 他の被害者が企業幹部を中心とした富裕層、もしくは取り立てて経済的には困窮していない中流層で占められる中、ただ一人、路上をあてどなく放浪していたひ弱な子供に過ぎないシャオヤンだけが、どうにも『場違いな』印象を拭えなかった。 彼は暴霊に殺されたのではなく、何らかの理由で死亡した後『暴霊化』し、近くにいた犬に取り憑いたのではないだろうか。遺体が他の被害者と同様に食い荒らされていたのがどのタイミングでなのか、そもそもそれが直接の死因なのかどうかまでは分からなかったが。 一体、何が目的で『暴霊シャオヤン』は斯様な惨劇を繰り返すのか。そして何故、市街中心部の「凌雲楼」を目指すのか。 生前の彼の足跡をたどることで、真相の一端が見えるかもしれない。 そう考えた彼等は、早速行動を開始した。 ◇ 外縁部のうらぶれた路地から、人通りの多い繁華街へと抜け、中心部を目指す3つの人影があった。 一行の中で最年長のメルヴィン・グローヴナーは、ユィンから渡された資料の束を眺め、ふむふむと頷きながら思索に耽る。 「……被害者の大半は、一流企業の社長や幹部クラス。それも再開発に絡む利権や、地上げ等の裏工作に関わった『企業ヤクザ』が大半のようだ。もっとも、今この街区で高い地位にある人物は、何かしら関わりを持っているものだけどね。また、犠牲者のうち男女のカップルは二組。うち一組は先の地上げ工作にも関わっていたヤクザとその情婦。そしてもう一組は裏社会との繋がりこそ無いが、着衣の乱れがあったことから、恐らく性交渉の途中に襲われたと推測される。物欲、金銭欲、権力欲、性欲……被害者の共通点は、シャオヤンよりも『幸せそうに』見える者。しかもそこにあらゆる『欲望』が関わっている、ということだろう」 冷静に、理論的に、一切の憐憫を挟むことも無く、メルヴィンは『灰色の脳細胞』が導き出した自説を流暢に語る。 やがて一行は、新生テンシャン街区の象徴とも言える超高層ビル「凌雲楼」に辿り着く。 天を貫かんばかりに高く高く聳え立つ、ガラス張りの優美な姿。その荘厳なる様は、壱番世界の「バベルの塔」の伝説を思い起こさせる。人々の知性と技術の粋を集めて作られながら、しかしその驕慢ゆえに神の怒りを買い、破壊された古の塔。 「これが凌雲楼……天と地の架け橋にして、全ての欲望が集う場所。一人のいたいけな少年を暴霊と化すまでに狂わせた、背徳の塔……興味深いね。実に興味深い」 まるでお気に入りの詩篇でも見つけたかのような口ぶりのメルヴィンを見て、ウィズは何故か不機嫌そうな顔で呟いた。 「……分かってねえな」 「ん? 何か君の気に障ることでも言ったかね?」 「別に……オレが怒ってるわけじゃねえし」 苦虫を噛み潰したような顔のウィズの言葉を継ぐように、璃空が続ける。 「人の魂……それも憎悪や狂気といったものは、決して興味本位で触れてはいけない領域。生半可な気持ちで触れれば、いつ飲み込まれるともしれない。それが、非業の死を遂げた者の『こころ』であるなら、尚更」 若干十三歳ながら、出身世界で常に妖と戦ってきた璃空の言葉は、落ち着いた中にも決して軽んじてはならないと思わせるほどの『重み』を湛えていた。とは言え、齢六十三歳にもなる老紳士を孫にも近い年頃の少女が諭す光景は、傍から見ればどこか奇異にも映る。 「そういえば……例の作戦、本当にやるつもりなのか?」 「ああ。僕が件の暴霊を引き付けるための囮になる、というものだろう。勿論だよ。当然、君たちが守ってくれるのだろう? 期待しているよ」 やれやれ、これだからセレブ様はよ……と言いかけた言葉を、ウィズは喉の奥で飲み込んだ。自分は決して前線に出ず、常に安全な場所にいてご高説を賜るこの慇懃な老紳士を、ウィズはどこか苦手にしていた。無論、彼とて戦闘能力を持たない老人を戦わせるほど薄情ではない。表立って口にはしないものの、内心は同じロストナンバー同士、助け合うのは当然と心得てもいる。しかし彼は、世界のあらゆる事象に精通し、それを「論理的に」分析出来る高い知性を持ちながら、人の心の機微にはまるで無頓着なこのメルヴィンという男に対して「何かが欠落している」ような、そんな違和感を感じずにはいられなかった。 「守ってやるさ。今回の作戦がなくてもな……実は病室を出る前、ユィンに言われた。奴が真っ先に狙うのは、恐らくあんただ。だから守ってやれ、って……今のあんたを見て、その意味が分かった」 「それは僕が、あの暴霊が嫌う『金持ちの高利貸し』だからかね?」 「……やっぱり、あんたは何も分かっちゃいねえ」 落胆の思いを吐き出すように、ウィズは溜息をついた。そして一転して、真剣な眼差しをメルヴィンに向ける。 「奴を……暴霊の怨念を見くびるな。自分の力を過信するな。でないとあんた……死ぬぞ」 ◇ 同じ頃、ウィズたちから少し離れた場所で、テオ・カルカーデとクラウスは眼前の凌雲楼を眺めていた。 見た目は普通のドーベルマン犬のクラウスはまだしも、テオは己の半獣半人の姿を隠そうともしなかった。実際、それを見咎める者もいない。無論『旅人の外套』の効果もあろうが、周辺の駅前広場やアーケード街のそこかしこでは、派手なファッションに身を包んだ若者や、仮装を施した大道芸人たちの姿が見える。恐らくテオの異貌も、彼等と同様に見られているのだろう。 「いやあ、それにしてもすごいですねえ。この凌雲楼。ブランドショップにプレイスポット、オフィスにホテルに、そしてマンション!! 都市生活のありとあらゆるものが、この中にギュギュッと詰まってるんですよ!」 テオは無邪気に笑いながら、初雪に遊ぶ子供のようにくるくると回る。外壁の全面に張られたガラスは、日中の陽光を浴びて水晶の如く光輝く。夜になれば、色とりどりのイルミネーションに彩られ、昼とはまた違った美しい姿を見せるという。そんな評判を聞きつけては、期待に胸を膨らませずにはいられなかった。 しかし、そんなテオにクラウスは、自分達には大事な使命があるはずだと、テレパシーを通して釘を刺す。人語を話せぬ代わりに鋭い眼差しを向けるクラウスを見て、テオはハイハイ、と少し悪戯っぽく肩をすくめた。 (……シャオヤンについて、何か分かったのか?) 「ええ。色々と聞きこみしてみた結果、面白いことが分かったんです。あのシャオヤンっていう少年、元々はこの辺りに住んでたんです。そう、今まさに凌雲楼が建ってる、ここ」 再開発計画の発令と同時に、周辺一帯の住民に立ち退き命令が出されたという話は、ユィンからも聞いていた。住処を追われた貧民達の多くは、あてどなく街中を彷徨い続けた挙句に、その殆どが中心部から遠く離れた外縁部に落ち着いたと言われている。シャオヤンも、そうして外縁部に追われた一人なのだろう。 「で、そのシャオヤン本人についても、色々とありましてね。立ち退き命令が下る少し前に、父親が首吊り自殺したんです。何でも生活に困って借りた多額の借金が、利子に利子が重なって膨れ上がり、返しきれなくなったとか。そして残った借金の代わりに、母親がヤクザ者の手で娼館に連れ去られたらしいんです。おまけにどうやら彼自身も、一時期その手の場所に連れて行かれたらしくて……まあ所謂『家畜以下の扱い』というやつです」 聞くだにおぞましい言葉をさらりと言ってのけるテオに、クラウスは眉をひそめる。スーパードッグという「人ならざる者」でありながら人と変わらぬ知性を持つ彼には、その言葉の意味するところが嫌と言うほど理解できてしまう。 「そんなわけで、住人が全員いなくなってもぬけの空になった家は、退去命令の答を待つまでも無く、あっという間に潰されちゃったというわけです……まあ、さすがにここまで不幸が続くと、ちょっとかわいそうな気もしますけどね」 表層の軽薄な笑みこそ崩さないものの、最後の方はほんの少し語気が弱まる。このテオという青年、些か不躾で空気が読めない面はあるものの、少なくともメルヴィンと違って多少は「他者への哀れみ」を感じる心はあるようだ。 (ところで、そのシャオヤンが犬を連れていた、といった情報は?) 「そうそう、肝心なことを言い忘れていました。シャオヤンは小さい頃から『レイ』という名の雑種犬を一頭飼っていましてね。例の『家畜小屋』を命からがら抜け出して以来、何処に行くにもいつも一緒だったそうで、一緒に路上で寝ていたり、飲食店の裏で残り物を貰ったり残飯を漁る姿がしばしば目撃されていたそうです。その犬が仮に生きていたとしても、今ではもうかなりの老犬になっているはずなんですが」 メルヴィンの計画した作戦は、彼等も聞いていた。 黒き狂犬……暴霊シャオヤンのこれまでの出現情報と移動速度から推測すれば、恐らくは今夜、この凌雲楼前に出没するはずだ。 ◇ そして深夜。 間もなく日付けも変わろうと言うのに、凌雲楼の灯りが消える気配はなかった。それどころか、先刻テオが語った評判どおり、煌々と照らし出される灯りに包まれ、日中以上の眩さで光り輝いている。 その光に導かれる虫たちのように、多くの人がここを訪れ、様々な人間模様が繰り広げられる。 高価なドレスや宝石、化粧品を、抱えきれないほどに買い集めるマダムがいる。 芳醇なワインの香りに酔いしれる紳士がいる。 出世の為、残業に勤しむ企業戦士がいる。 ホテルの一室で睦みあう男女がいる。 輝ける麗しの塔は、ありとあらゆる欲望の坩堝でもあった。 その塔の前に、メルヴィンは一人、誰かを待つように立っていた。ダークグレーの上質なスーツを纏ったジェントルマンは、いかにもこの塔に招かれるに相応しい。 他の4人は、そこから少し離れた場所で待機していた。物陰では、ウィズが得意のワイヤートラップを仕掛け、璃空が結界を張る。テオがトラベルギアの小瓶を両手に抱え、クラウスもやはりトラベルギアの万能首輪を起動させる。何かあったらいつでも迎撃できるようにと、緊張の面持ちで待ち構える。 そしてついに、黒き巨躯の猟犬……『暴霊シャオヤン』は現れた。 最初はホストやチンピラなど、すれ違う派手な身なりの男たちを手当たり次第に睨みつけていたシャオヤンだったが、メルヴィンの姿を認めるや、迷い無く一歩、また一歩と歩み寄る。 「はじめまして。……待っていたよ。シャオヤン君」 いきなり話しかけてくるメルヴィンに、シャオヤンは警戒の色を強め、低い唸り声を上げた。 『お前……何故僕の名を知っている……?』 「僕はね、この世のことは全てお見通しなんだよ。ちょっと君に興味があってね。さあ、こっちに来て話をしようじゃないか」 非武装であることを誇示するように大きく手を広げ、友好的な、しかし不敵な笑みを浮かべる。大仰な芝居も、シャオヤンの注意を引くための挑発だ。 「……僕は君の『心』が知りたいんだ。いくら全てお見通しと言っても、『人の心』ほど気まぐれで、厄介なものはない。特に君のようなタイプは、非常に知的好奇心をそそられるよ。これ程の『憎しみ』や『破壊衝動』なんて、今まで僕は感じたことがないからね。教えてくれないか。どうして君は、両親や自らの死“ぐらい”で他者を全て殺そうなんて思うんだい?」 『自分の死“ぐらい”で……だと?』 「ああそうさ。考えても見てごらん。君の行為は、借主本人や保証人だけでなく、赤の他人にまで取立てを行っているようなものだ。それも『自分の命』を寄越せだなんて、悪魔じゃあるまいし、あまりにも不当な取引だと思わないかい? 僕には理解できないよ」 (やべえ。あの爺さん、よりによってあんなこと言いやがった!) 物陰で2人のやり取りを聞いていたウィズは歯噛みした。最悪だ。いくら囮になって敵を引き付けると言っても、挑発が過ぎて本気で怒らせてしまっては意味が無い。理性を捨て、敵に対する一切の慈悲や敬意を捨て、心を怒りに染め上げた狂戦士が、どれほど恐ろしいものか。 地の底から鳴動するような、深い深い憎悪に満ちた唸り声が、距離を置いているはずのこちらにまで聞こえてくる。 「……来る!」 この世のものならぬ禍々しい気配を感じ、璃空が叫ぶ。 次の瞬間、シャオヤンの背後で黒い怒りが爆発した。目には見えない、しかしそれが「闇よりも尚ドス黒い『負の感情』」であることを、メルヴィン以外の全員が否応無しに感じ取る。 「まさかこれが……精神侵食!?」 (気をつけろ! 持っていかれるぞ……!) ◆ テオは彷徨い続けていた。一切の命の息吹宿らぬ、荒涼たる大地を。 一体ここは何処なのだろう? 自分は確かに、真夜中のテンシャン街区、凌雲楼の前にいたはずだ。 行けども行けども変わらぬ光景に絶望の念を感じながら、それでも彼は歩を進める。一刻も早く戻るために……何処へ? 思い出すのは故郷の風景。透明な太陽と、七つ月。 嘘の無い、正直者の世界。そして『嘘吐きを認めない』世界。 誰もが皆、正直に仲良く笑顔で暮らし、だけどそれゆえに『密やかな欺瞞を内包した』世界。 とても美しくて、醜い世界。大嫌いで、大好きな世界。 戻りたくて、戻れない世界。 過去に後ろ髪を引かれながら、自分の居場所を求め彷徨う日々。 だけど、いくら歩いてみても、あの場所より美しい世界はどこにもなくて。 『……まだ、そんなことをやっているの?』 「これくらいで殺されるなんて、世界を捨てた甲斐がないってものですよ。私は、絶対見つけてみせます。この知識欲の赴くままに」 『暴力と権力の前に、人は無力だ……知識じゃ、お腹は膨れないんだよ』 シャオヤンの嘲笑に意地とプライドで胸を張って見せても、耐え難い空腹と渇きが容赦なくテオを苛む。 それでもテオは、前に進むしかなかった。 今の彼にはもう「帰る場所」などないのだから……。 ◆ 暴霊シャオヤンは、眼前のメルヴィンを見上げていた。微動だにせず、その鋭くも禍々しい視線で彼をねめつける。 『君は、僕が死んでも何とも思わないんだね?』 「ああ。僕もこの長い人生、他人の死や人間の汚い部分なら何度も見てきた。それらの全てにいちいち感傷を抱くのは、あまりにも非効率的だ。どこかで割り切らないとやってゆけない。まして君は、今この時が初対面の『他人』だ。君は、世界中の全ての墓に向かって涙を流せと言うのかね? その方が遥かに非現実的で偽善的じゃないか」 『君は、本当に憎しみを知りたいんだね?』 「ああ、とても知りたいね。他人が当たり前に持っているのに、僕が唯一持っていないのが、それなのだから。一度でいいから、他人を心から憎んだり愛してみたいよ」 『そう……だったらその望み、叶えてあげるよ』 だから 今すぐここで シ ネ 暗転の後、右手に走る激痛。 ふと見ると、彼の右手首から先が引きちぎられていた。 無残に晒された骨と肉の断面から、真紅の鮮血が飛ぶ。 「――!」 悲鳴を上げる暇も無く、今度は左の足首が吹き飛んでいた。 肘から、膝から、肩から、腰から、まるで食肉として屠殺される家畜のようにメルヴィンは解体され、バラバラの肉片と化してゆく。 眼球をえぐられ、首をもがれ、腹を割かれ、臓物を引きずり出され、既に人の形を失っても尚、「メルヴィン・グローヴナーだったモノ」の意識は自身の欠片の存在を――そしてそれが誰かに食われる様を感じていた。 炎に焼かれる。熱湯で煮られる。噛み砕かれ飲み込まれる。食い残され捨てられ蛆が湧く。 分かるかい? これが『死』というものだよ。 これでもまだ「自分が死んだ“ぐらい”で」なんて言えるかい? メルヴィンは『理解』した。これは全て暴霊シャオヤンが仕掛けた、悪しき夢まぼろしだと。 だが、夢を夢であると『理解する』ことと、その悪夢を『克服する』ことは、全く別のものだ。 彼はあまりにもシャオヤンの、否、人間の『心の闇』を侮りすぎていた。 遠くで、誰かの声が聞こえる。 「何であいつには金を貸して、俺には貸してくれないんだ! 俺とあいつの、一体何が違うと言うんだ!!」 「あなたのお金があれば、娘は手術を受けられて、たった十歳で死なずに済んだのよ!」 「ああ、確かに俺は成功したさ。富も得た。名誉も得た。だがな、その代償に、俺は『もっと大切なもの』を失ったんだ……」 悉く浴びせられる罵声。それは、かつて彼が踏み台にし、あるいは見殺しにした者達の怨嗟。 ……そうだ、僕は「誰からも愛されない」人間だ。 だから幼い頃から、一心不乱に本を読んで、この世の全てを理解した……理解? 僕のこの『灰色の脳細胞』は全てを正しく導き出す。ならば、今この世界に満ち満ちている矛盾は、理不尽は何だ? あ、あ、あ、あ、あ、あ…… どれほど叫びたくても、冷徹な『理論家』の仮面は固く顔面に張り付いて剥がれない。 締め付けられた喉の奥が、声を上げることを許さない。 全神経が軋む。 五臓六腑が爆ぜる。 いつしか、現実の『彼』は激しく嘔吐していた。胃酸まみれの食物を全て出し尽くしてもなお、胃袋も腸も全て口から逆流せんばかりに。 ◆ 「おい、何をしている。しっかりしろ!!」 「……え? うーん……私は一体何を……?」 璃空の喝に、呆然と地べたにへたりこんでいたテオは我に返る。 「あんたは今まで、奴に『飲み込まれて』いたんだよ……ちくしょう。まだ『あの人』の影が消えねえ」 こめかみを押さえ、今も胸を刺す心の痛みに耐えながら、ウィズは敵の方を見やる。 禍々しい殺気を放つ、漆黒の妖犬。その前では、高級スーツを吐瀉物に汚した老人が、虚ろな瞳で今も嘔吐を続けている。 傍らには彼を庇い、くしゃくしゃになって倒れたセクタンのネクサス。 メルヴィンが甘く見ていたのは『人の心の闇』だけではなかった。怒り狂った暴霊が、たった一度で攻撃をやめてくれるなどと、誰が保証できるだろう? (……やらせるか!!) その場にいた全員の頭に、シャオヤンとは違う『声』が直接響く。見れば、いつしかクラウスがメルヴィンを庇うように立ちはだかっていた。 万能首輪のマジックアームに阻まれ、シャオヤンの牙はメルヴィンを食い殺すこと叶わなかった。それでも狙いを逸れた牙は、メルヴィンの右腕をかすめ、間欠泉の如き勢いで真紅の血飛沫を飛ばす。 負傷したメルヴィンの身柄を背後の仲間に預け、シャオヤンと対峙したクラウスは、テレパシーで呼びかけた。 (やめろ! この男は貴様の憎むゴンジャではない! 縁もゆかりも無い別人だ!) 『同じダ! コイツは僕や父さんの命を『その程度』と言って馬鹿にした!! 金の力で人の運命を狂ワセテ、それを高みから見て楽しム、生きる価値の無いクズだ!!』 (違う。ゴンジャは確かに貴様が殺した。復讐ならそれで果たしたはずだ。今の貴様の行為はただの八つ当たりだ。しかも何の罪も無い犬まで巻き込んで……。義憤の名の下に殺人を正当化するのが、そんなに立派なことだと思うのか!?) 『ウるサアアアアあアアあアアあああい!!』 絶叫、そして咆哮。 凌雲楼――傲慢と享楽の粋を集めた、この背徳の塔に、ついに怒りの鉄槌は落とされた。 窓ガラスが一斉に割れ、内部と言わず外苑と言わず辺りを煌々と照らしていた照明は落ちて、周辺は暗闇に包まれる。 突然の事態に、恐慌状態に陥った人々が逃げ惑う。 時折、恐怖に耐え切れず精神を壊した者がビルの窓から飛び降り、アスファルトに血と肉の薔薇を咲かせる。 倒壊こそ免れたものの……不夜城は一瞬にして、煮えたぎる地獄の釜と化した。 「……いい加減にしろよ。クソガキ」 突然の大惨事に周囲が喧騒に包まれる中、ウィズが一歩前に進み出た。テオと共にメルヴィンを介抱していた璃空も、紺碧の瞳を彼等に向ける。トラップや結界は、周辺の壁や地面が咆哮により崩れたことで殆ど用を成さなくなってしまったが、それでも二人の心には、あの漆黒の闇を克服する程の「強い意志」が残されていた。 「確かにこの爺さんは、お前からすりゃ憎くてたまらないクズ野郎なんだろうよ。オレだってこいつに言ってやりたいことの一つや二つぐらいはある。だがな、そんなどうしようもない奴でも、仲間は仲間だ。何よりオレ自身が、こいつを笑う資格なんざないぐらい、最ッ低のクズ野郎だってのは、一番自分が分かってんだよッ!!」 腹の底から叫び声をあげ、ウィズは黒犬へと歩み寄る。そこに一切の恐れはない。 「昔のオレには『あの人』が……オレと仲間達にとって、かけがえのないほど大切な恩人がいた。だけどあの人が命を落とした時、オレに『影』が囁いた。『自分か仲間の命を捧げれば、そいつを生き返らせてやろう』ってな。だけどオレは結局仲間も、そして自分も犠牲に出来なかった……。自分が『大切な者のために命を差し出す勇気もない臆病者』だということを、嫌と言うほど思い知らされたんだ……」 ウィズの言葉に答えるように、璃空もまた強い意志を湛えた瞳で黒犬を見据える。 「……取り返しの付かない過ちを犯したのは、私も同じだ。己の弱さ、未熟さのために、茅音を……初めての友の命を守れなかった……」 「だがオレは諦めない。どこかにきっと、あの人が生きている世界があると信じている! オレは生きて、きっと探し出してやる! たとえ何十年、何百年かかってもな!」 「誰かを守るために、別の誰かを犠牲にする矛盾や罪は、私も覚悟の上だ。それでも私は、守ってみせる。歩んで見せる。決して恨み言一つ言わなかった茅音の優しさに報いるためにも、人々の笑顔を、希望を、感謝を光明として、私は進む!!」 『君たちは……強いんだね』 二人の決意に、シャオヤンが答える。ほんの少し、笑顔が戻るかと思ったその刹那、再び深い不信の念が彼等を覆う。 『でもそれは、力を持ってる奴だけの特権だ。僕のような弱い人間は、何も出来ないまま強い奴に踏みつけられるだけだ』 「死ぬ気で這い上がってやろうとか、そういう風には思わねえのかよ!」 『這い上がろうとした……! でも駄目なんだ。勝てないんだ。負け続けるだけなんだ。死んだ後になってやっと、僕はこの力を、奴等に負けない力を手に入れたんだ!』 ウィズと激しく口論するシャオヤンに、璃空がふと尋ねる。 「シャオヤン……お前の『本当の望み』は何だ? 人を殺すことか?」 『ああそうだよ。僕から全てを奪った、僕を馬鹿にした奴等を、全て!!』 「違う。本当は『奪われたもの、失ったものを取り戻したかった』のではないのか?」 『それは……』 シャオヤンの言葉が詰まる。最後に璃空の投げかけた問いが、彼の奥底に眠る『真実』を揺さぶった。 ああそうだ。僕が欲しかったのはこんなものじゃない。 たとえ貧しくても、父さんがいて、母さんがいて、レイがいる。そんなあたりまえの日常を喪いたくなかっただけだ。 僕はただ、幸せになりたかっただけなんだ…… でもね、僕が望んだ、守りたかった幸せは、いつも誰かに根こそぎ取られてしまうんだ。 誰かに立ち向かう力も無い弱い人間は、ただ強い奴に奪われるためだけにしか、生きてはいけないの? どうして、この世界はこんなにも不公平に出来てるんだよ? 神様はこんなにも意地悪なくせに、どうして一番高いところで、偉そうにみんなに褒められてるんだ。 だから。 瞬転の後、雄叫びをあげてシャオヤンは襲い掛かった。咄嗟に、ウィズがトラベルギアのサーベルを掲げる。 (……やめろ、あの犬を殺さないでやってくれ……!) クラウスは声にならない叫びを上げた。あの犬はただ、シャオヤンに操られているだけだ。何の罪もない彼を殺すなど…… ……良イノダ…… 突然、クラウスの心に『声』が聞こえた。先刻までのドス黒い憎悪とは違う、安らかで暖かい声。人の言葉ではない、しかし、はっきりと伝わる『意志』。 (貴様……シャオヤンではあるまい。レイ、彼の飼い犬のレイなのだな?) ……アア、イカニモ。旅人達ヨ、ドウカ一思イニ、しゃおやん諸共我ガ身ヲ滅ボシテクレ…… (――何故! 何故貴様まで死ぬ必要がある!?) ……言葉ガ通ジヌトハ言エ、闇ニ堕チテユクアノ子ヲ止メルコトモデキズ、コノ身ヲ任セタ我モ同罪ダ。如何様ナ裁キモ受ケヨウ…… (本当に……それでいいのか?) ……構ワナイ。コノ老イサラバエタ身、イズレ長クハ持ツマイ……既ニ死ノ道行キニアルアノ子ガ一人キリデ寂シクナイヨウニ、セメテ魂ダケデモ側ニイサセテクレ……頼ム…… (そうか……許せ、レイ……) 黒犬――レイの瞳は、先刻までの凶暴さが嘘のように穏やかだった。その静けさの中に秘めたる覚悟を、クラウスも無碍にすることは出来なかった。 「……あばよ、シャオヤン」 風に舞う小さな一雫は、誰の為のものか。 ウィズの右手のサーベルが、シャオヤンの――或いはレイの体を貫いた。 瞬間、黒犬の体を包み込む光。 光は次第に人の姿を形作る。酷く痩せこけて、寂しげな瞳をした少年の姿がそこにあった。 ほんの一瞬、小さく微笑むと、その姿は砂城の如く砕け、光の粒子となって空に舞う。 『僕も……君のように強く生きられたら良かった……』 『もう少し早く君と出会えていたら……僕の心は少しでも安らかでいられたのかもしれないね……』 『ごめんね、レイ……君を利用してしまった、僕は馬鹿だ……』 ダイヤモンドダストのように、キラキラと舞う光の粒子。 それはサーベルを掲げたウィズの上にも、メルヴィンに寄り添う璃空の上にも、黒犬の亡骸を見つめるクラウスの上にも等しく降り注ぐ。 『あ り が と う』 こうしてシャオヤンは、レイと共に『二度目の死』を迎えた――。 ◇ テンシャン街区を騒がせた、凌雲楼での謎の崩壊事件から2日。 ユィンが入院していたのと同じ病院の一室に、右腕を包帯に包まれベッドに横たわるメルヴィンの姿があった。 あの後、璃空が回復系の式神を使い応急処置を手助けした甲斐もあってか、腕の傷自体は見た目ほどには深くは無かった。 しかし何より深刻なのは、精神的なダメージだ。 凌雲楼の死闘以来、彼はまともに口も利けず、ただ濁った瞳で虚空を見つめるのみであった。仲間が肩を貸さないと自力で歩くことも出来ず、医師の質問にもただ「……ああ」とか「……うう」といった、生返事とも呻き声ともつかぬ声を発することしか出来ない。高齢ということもあり、念のため3日間の検査入院をすることになった。 そんな彼の病室を、テオが見舞う。 「……例の事件、結局世間では『欠陥工事と霊力負荷による複合的な事故』の線で落ち着いたみたいですねぇ」 新聞の一面にでかでかと書きたてられた「凌雲楼崩壊」の記事を眺めながら、テオは話しかける。そんな彼の言葉に、メルヴィンは「……そうか」と一言返すのみであった。 メルヴィンは自分のセクタン・ネクサスをポンポコフォームにしていなかった。故に彼は予め「もし何か金銭的に困る事態に陥ったら、手持ちの指輪を売り払って構わない」と仲間達に言付けていた。これらは皆、誰かの形見や特別な記念の品ではない、自分の道楽で買ったものだ。壱番世界に戻れば「巨万の富」で似たような品はいくらでも手に入るのだから、と。 出身世界の鑑定書が使えないので、本来の相場に比べて安く買い叩かれるのは致し方なかったが、それでも入院費用がギリギリで捻出できるだけの額にはなった。そういう点に関しては、さすがこの男は抜け目がないと、テオは素直に感心する。 なのに、それほど明晰な頭脳を持ちながら、何故こんなにも簡単に彼の心は折れてしまったのか。その姿には最早『伝説の金貸し』の絢爛にして堂々たる威厳は無い。ただ背中を小さく丸め、擦り切れた老人がそこにいるだけだ。同様にシャオヤンの深い闇に触れ、一時的であれ我を失っていたテオにとって、今のメルヴィンの姿は決して他人事ではなかった。もし自分が同じ目に遭っていたらと思うとゾッとする。 体の傷は癒えるだろう。夢はいつか覚めるだろう。 時と共に『夢』の記憶も薄れ、かつての理性と威厳を取り戻す日も、そう遠くはないだろう。 久しぶりに聞いた「呻き声『以外』の言葉」に、テオは望みを繋ぐ。 しかし、メルヴィンの心の奥底では、今も黒いインク染みのようにこびりついて離れない「闇」が囁く。 ――分カルカイ? コレ ガ 『死』 ト イウモノ ダヨ。 君ノ命モ 地位モ 名誉モ全テ 幾千幾万幾億ノ 屍デ 出来テイルンダ ヨ。 ソシテ イツノ日カ……君モ 『こちら側』 ニ 来 ル ン ダ ヨ …… かくしてメルヴィンは「望みどおり」、人の「憎悪」の感情を知った。 それが果たして、彼にとって本当に「幸せ」なことだったのかは、わからない。 ◇ シャオヤンの『最期の咆哮』により無残に破壊された凌雲楼は、堅牢な鉄骨により辛うじて我が身を支えていた。 外壁には割れた窓ガラスの代わりにブルーシートが掛けられ、修復工事に従事する作業員らが、忙しそうに動き回るのが見える。 この街区の富を吸い上げ、貧民達の犠牲と嘆きを礎にしていたこの塔は、皮肉にもその崩壊によって、自らが追い出した者達に仕事を与えてくれたのだった。 その正面玄関前、中央広場の片隅に、小さな献花台が拵えられた。 此度の事件で命を落とした人々の霊を弔うため、遺族や縁者たちが代わる代わるここを訪れ、花を手向けていた。 場所柄ゆえ、犠牲者に比較的裕福な者が多かったせいだろうか。台から溢れんばかりに豪華な花束が積み重ねられてゆく。 しかし、その中にシャオヤンに向けた花はない。彼の存在すら知る者もない。 家も無く親も無く、人知れず路地裏で野垂れ死んだ薄汚い子供のことなど、人々が気に留めることも無いのだから。 ウィズと璃空、クラウスの三人は、その献花台を訪れていた。 彼等の手には、つい今しがた花屋で買ったばかりの小さな花が一輪。腕の使えぬクラウスだけは、同じ花を口に咥えて。 金持ち達の豪華な花束の前ではかすんでしまいそうな小さな花。それでも、シャオヤンが本当に求めていたのは、巨万の富でも栄誉でもない「ささやかな幸せ」だったと思うから。 「今度こそ、安らかに眠れ……シャオヤン」 祈りを捧げ、璃空が一輪花を手向ける。続いてウィズとクラウスが同様に花を捧げながら、胸の奥で哀悼の言葉を呟いた。 献花台を後にし、ふと空を見上げる。この街では滅多に見ることのない晴れ渡る蒼穹の彼方に、白い雲がたゆたう。 死せる魂はその行いによって、皆等しく天秤に掛けられる。悪しき者、罪深き者は地の底深く燃え盛る獄で責め苦を受け、善き者、罪無き者は天上におわす慈悲深き神の御許へと招かれる……それは多くの地域そして世界において、共通して見られる伝承。 こうしていると、もしかしたら天国は、本当にこの空の上にあるのではないかという思いが浮かぶ。 「彼は……天国に行けたのだろうか」 「さあな。あれだけのことをやったんだ。ひょっとしたら地獄行きかもしれねえぜ」 璃空の問いに、ウィズはぶっきらぼうに呟いた後「それでも」と前置きして、 「行き先がどこだろうと、今のシャオヤンならきっと心配いらねえよ。あいつはもう、一人じゃねえんだからな」 「そうだな……」 そんな二人にクラウスも頷き、心の奥でシャオヤンの『朋友』に呼びかける。 (すまなかったな、レイ……向こうでも、お前のご主人を大切にな……) ごめんね、レイ。ずっと君が側にいるってことに、気付いてやれなくて。 行こう。僕たちはもう孤独じゃない。 たとえこの先に何が待っていても、君が一緒ならきっと、どこまでも行けるよ―― 吹き抜ける一陣の風の中に、そんな声が聞こえたような気がした。 <了>
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