鬱蒼と茂る南国風の草木を背にし、真っ黒い具足に赤い陣羽織を纏った男が岩場に腰掛けていた。彼の耳に届くのは、聞き慣れぬ鳥の声と遠い潮騒、そして相棒である機械人形の女が彼の義足を工具で弄るカチャカチャといった音だった。「景辰サン。少し、足を動かしてみてくだイ。……調子の悪いところはありますカ?」 海が近いからなのだろう。彼女は到着してから景辰の機械義足の調子をずっと気にしていた。そして景辰は、作戦前にもう一度見せて欲しいと言われてから両脚の調整が終わるのを待つの間、ずっと落ち着きなく目線を適当なところに彷徨わせていたのだった。「いや。ねぇよ」 目線を逸らしたまま答える。その表情は不機嫌、というには少し、頬の赤さが目立っていた。間近で作業を続ける女に、ちらりと一瞬だけ視線を送ると、景辰は落ち着かぬ様子で顔を背け、眉間に皺を寄せる。「リーベ。お前、今回もずっといる気か? インヤンガイのときは『壺中天』とかいうやつで遊んだ程度だったけどよ、今度はたぶん、直接世界図書館の連中と遭遇することになる。悪いことは言わねぇから、やることやったらさっさと帰れ」「ソレについては、前も言いましタ。貴方ハ放っておくト何をするか分かりませんノデ、お断りしマス」 リーベは義足の調整を終えると、工具を肩にかけていた鞄の中にしまう。同時にやっと解放された景辰は立ち上がり、彼女に背を向けて何歩か距離をとった。耳の赤さを隠すように両手を後頭部で組む。「なら、大人しくしてろ。図書館の連中とは関わんな。あいつらには俺一人いれば充分だ」 それを聞くリーベの無機質な顔には不安な感情が色濃く浮かんでいて、それは彼女が人形であるという事実を見るものに忘れさせてしまうのではないかという程だった。「……足、壊さないように気をつけてくださイネ」 視線を落とし、他の台詞を吐きたくなるのを堪えるように、リーベは当たり障りのない言葉を選ぶ。景辰はそれに何でもないように応えた。「分かってる。お前に貰った足だ。下手な使い方はしねぇよ」「それなら、できれば――」「なんだ?」 思わず漏れかけた言葉を飲み込むように、リーベは首を左右に振る。景辰はそんな彼女の様子を見て怪訝そうに眉を顰めながらも、「もういくぞ」と声をかけて潮騒のする方向に向かって歩き出した。「……ごめんなさイ」 景辰サン、と呟く彼女の声は、届いていないようだった。* * *「ブルーインブルー、ジャンクヘヴン近海。多数のファージ変異獣の発生が予言されよったけぇ、討伐頼む」 世界司書の湯木はロストナンバー達に依頼の内容を率直に伝える。湯木の表情は相変わらず淡泊でふざけた様子など欠片もないが、椅子に腰掛けた彼の膝上には大型の炊飯器を抱きかかえられ、炊き立てらしい白米がほかほかと湯気を立てていた。「付近の孤島に、旅団のロストナンバーの存在も確認しとる。数は二人。この間、壺中天ハッキングしよったやつらじゃの」 ファージの大量発生に、旅団の存在。二つの事柄はまったくの無関係ではないと考えるのが妥当だろう。聞けば緊張が走るような依頼内容にも関わらず、右手に持ったしゃもじで白飯を掬ってはそれを口に運ぶを繰り返しながら説明を続ける司書に、ロストナンバー達は些かうんざりしたような視線を送る。「寄生されたんは、サメじゃ。寄生された個体は他の個体より体長がでかくなっとるうえに、凶暴化しとる。付近の漁師やらなんやらが遭遇しよったら、船ごと丸齧りは間違いないの」 あっという間に炊飯器いっぱいの白飯を平らげると、間をあけず机の下から本日二台目の炊飯器が現れた。二台目の中身は五目御飯のようだ。「近くには大規模な遺跡もあるらしいけぇ、壊さんようにっちゅうことだけ気ぃつけとき」* * * 巨大なサメの背に座り、景辰は穏やかな波の揺れる感覚を味わいながら遠い水平線を眺めていた。「あれから、どれだけの時間が過ぎた」 それを聞く者はどこにもいない。そこにいるのは彼以外にはサメばかりで、紡ぐ言葉は潮風の中に消えていくばかりだ。「このままで、いいのか」 言葉が吐き出されるにつれ、彼の周囲に灰色の霧が薄らと滲みだす。「俺は、間違ってるのか」 霧は、ゆっくりと。彼自身を覆い、やがて周囲に待機するサメ達をも隠していく。すっかり灰色で覆われた視界の奥に、小さく黒い船影が見える。「……『お前ら』はどうだ?」 問うたその口は、いつのまにか笑みの形に歪んでいた。
波に揺られる船の上で、ロストナンバー達は前方に広がる灰色に濁った光景の中におびただしい数のサメの背びれと一人分の人影を捉えていた。 「あそこにいるのは、旅団のロストナンバーかしら」 「そう、だと思いマスヨ」 レナ・フォルトゥスは少しでもその人物の正体を見極めようと目を凝らす。同じようにじっと一点を見つめていたニッティ・アーレハインも彼女に同意するが、仲間とはいえ年上の人に囲まれて言葉尻がどうにも不自然なイントネーションになっていた。 「あの司書君は、旅団は二人と言っていたが……今は一人しかいないようだね」 他に人影がないか、イェンス・カルヴィネンはゆっくりと視線を巡らせていた。ここは水上であり、隠れられる場所などはあまりない。 「よう、世界図書館。遅かったな、暇すぎて居眠りしかけたぜ」 ロストナンバー達がそれぞれ敵の様子を探っているところに、男の声が拍子抜けするほど気安い調子で霧中から響いた。 「男ということは、そこにいるのは蔦木景辰ね。今度はブルーインブルーに現れて、何をするつもり?」 以前の壺中天での事件の報告書に記載されていた旅団は、蔦木景辰という男とリーベという女の二人組だった。姿はハッキリとは分からないが、声の主が男というならおのずと人影の正体も知ることができる。 「ああ、それはアレだ。前も言っただろ、地質調査ってやつな」 レナの問いに、景辰は事も無げに答える。そのやりとりを脇で聞いていたハーデ・ビラールは怪訝そうに眉を顰めた。 「地質調査、か。世界樹を育めるほどに終末を迎えた世界を探し、最後を自分たちで作り上げようとは……ご苦労なことだな、世界樹旅団」 「想像力豊かだな、嬢ちゃん。まったくの的外れって程でもねぇが、読みが過ぎると頭痛になるぜ?」 いくらか笑いの混じったような声が返ってきたことに、イェンスはふむと口元に手を当て軽く思考するような仕草を見せる。 「すると、……その『地質調査』というのはやはり世界樹に関係することなのかい?」 「らしいな。壺中天から帰った後、リーベに半刻かけて説明されたんだが……さーて何っつってたかねぇ」 話す声の調子からして、男がつい最近得た情報をちらつかせつつ挑発しているのは明らかだった。 「なんとなく、何がしたいっていうのは分かりそうなんだけど」 「教えてもらったって言ってるんだから、訊いてあげるのが一番よ。いかにも話したそうにしてるしね」 レナは太陽を太陽系を模した装飾の施された星杖を手に不敵な笑みを浮かべる。それとほぼ同時に、それまでより大きな波が船の方まで届き、ロストナンバー達の足場が大きく揺られた。 それまで前方のみを覆っていた霧がゆっくり範囲を拡大し、自分たちの周囲を覆っていくのを見て、ロストナンバー達は各々身構える。 「ま、ゆっくりしていけよ。茶菓子はでねぇけどな」 「旅団とこうしてバトるの初めてだけど、ま、なんとかしてみようかな。カイン、フォロー頼んだよ」 『うん。まかせて、ティー』 ニッティが自身の足元に視線を落とすと、それまで彼の後ろにぴとりと体を寄せていた黒猫が顔を覗かせる。 小柄な従者の尻尾が揺れ、赤いローブが刹那に翻る。そしてその口から呪文めいた言葉が紡がれる程に、波が沸き立ち船にまでその振動が伝わっていく。やがて現れたのは、手。真っ黒い毛に覆われた巨大な獣の手だった。 召喚された『ヘカトンケイルの手』の上へ、従者と共にひょいと飛び乗る。 『――ィ、』 彼の耳に聞き覚えのある声が届いたのは、まさにその瞬間だった。 彼らの耳に届く声、彼らの眼に映る姿、いよいよ戦いに身を投じる四人の動きを、それらはことごとく鈍らせる。 見てはいけない。今はやるべきことがある。しかしどう理性が語ろうと、何よりも誰よりも愛しい妻の姿を見て見ぬふりするなど、イェンスにできるはずがない。彼の目の前で、磨かれた黒檀の如く艶やかな髪の女が立っている。その頬を伝うのは彼女の眼から零れた涙で、その双眸に映っているのは彼女に優しく微笑む過去のイェンス自身だった。 「……僕を、責めているのかい?」 応えないまま、彼女はイェンスの両頬にその白い指を這わせる。 「それとも、僕の悔悛を聴いてくれるのかな」 彼女の瞳の中に、偽りの言葉を紡ぐ自分が見えた。死をも恐れぬ愛念と死をも与えかねぬ執着を押さえ込み、臆病な寛容さで繕った愚かな自分が見えた。彼女を何よりも想うのに、彼女の愛を信じきることのできない自分が見えた。 「すまない」 いつのまにか、妻はネクタイをイェンスの首に巻き付けていた。徐々に喉を圧迫していく感覚に、イェンスは眼を閉じる。 こんなにも。彼女を何よりも想っているのに、自分の愛を信じきってもらえなかったのは何故なのか。 赤く染まったバスタブに浸かる彼女が見える。あの日の彼女が見える。あの日の彼女の声が聞こえる。彼女の掠れた声が、哀しい言葉が―― ハーデはそのESP能力で空中から敵の動きを伺っていた。灰色の霧は敵の姿を覆い隠し、視覚で数や位置を把握するのは困難だ。だが、それも彼女の透視能力を持ってすればなんの障害にもならない。 海中に潜むサメを自身の前に瞬間移動させると、右手に携えたショートソードに光の刃を宿らせてそれを切り刻む。その動作に無駄はなく、彼女の戦闘能力の高さを如実に表している。 しかし、彼女の表情は苦悶に満ちていた。周囲の景色を視界に入れまいと、目前に次から次へとサメを引きよせては光の刃で切り刻み、それのみを視線を集中させている。 「やめてくれ」 呻くような言葉が漏れる。地に塗れ打ち捨てられた同胞の姿から、ハーデは目をそらした。腕を失った仲間が、囮にされ見殺しにされるのが見える。助けを呼ぶ声が聞こえる。それら全てから目をそらし、耳を塞いだ記憶が蘇る。全て見ないふりをして、全て聞こえないふりをして、ただただ戦い続けていた。 神は世界を救いなどしない。まして人など、そんな下等な存在など、誰が救うというのか。神から見た人間も、悪魔から見た人間も、変わりなどない。虫のようにしか、彼らの目には映らない。人間など虫けらで、戦える人間は使える虫けらだった。 「嫌だ、私は……!」 戦えぬ人間などどうしようもない。戦えぬなら死ぬまで働け、戦えぬなら楽しませろ、戦えぬなら―― 好き放題に使われ、消費されていく人間達の、地獄からの阿鼻叫喚がハーデの聴覚を支配していく。見るに堪えられぬほどの哀れな光景が、ハーデの視覚を占領していく。 「嫌だ、あんな惨めな境遇は……ッ、私は戦士なんだ……私は戦える、戦えます……いや、いやぁぁあああああああああッ」 逃れられたはずなのだ、あの悪夢ばかりの世界から。戦うことでしか、尊厳を守れぬような世界から。悲鳴をあげながら、ハーデは敵を切り刻んでいく。逃れられたのいうのに戦いをやめないのは、まだ精神が逃れられていないからなのか。 違うと、ハーデの心は叫んでいた。刃は敵を貫き、血を空中に舞い散らせ、命を散らさせる。もうあの世界に自分はいないのだと、彼女の心は叫び続ける。 「私の生命はもう、私のものだ、私だけのものだッ! 私の生命の使い道は、私が決める!!」 嗚咽の混じった、悲鳴にも似た絶叫と共に、光の刃はいっそう輝き血肉を引き裂いた。 『だいじょうぶ? ティー、くらいかおしてるよ』 巨大な『手』の上で、カインは心配そうに主の顔を覗き込んだ。ニッティは大丈夫と応えながら微笑み、従者の頭を優しく撫でる。 「霧が濃いね。とにかく、近くにいるやつから片っ端に蹴散らしていこう。……カイン、『ヘカトンラッシュ』、いける?」 『うん、だいじょうぶだよ! ティーも、むりしないでね』 カインは再びヘカトンケイルの手を召喚する。今度は八つの獣の手が海上に出現し、海面から突き出す背びれに向けてその巨大な拳を叩きつけた。 「……シャチに変身したレナさんに当てないように、気をつけてね」 八つの拳がサメ達を殴り蹴散らしていくのを確認し、ニッティはカインをもう一度撫でる。カインはこくりと頷き、気合いの入った様子で『手』達を操っていく。 「さて、……こっちはどうしようかな」 ニッティの前には、父が立っていた。母が立っていた。妹が立っていた。もういないはずの、もう亡くなってしまったはずの、家族が立っていた。 『ニッティ、お前は……俺と同じ職は嫌だったのか?』 そう問いを投げた父の目は寂しげだった。ニッティに戦鍛冶師の技術を厳しく叩き込んだのは、父だったのだ。アーレハインという戦鍛冶師の家に生まれ、未来の、最高の戦鍛冶師として、父はどれほどニッティに期待していただろう。ニッティの道具の使い方を見ているときの真剣な眼や、初めて魔道具を完成させて喜ぶ自分を見ているときの優しい眼が、温かさと後ろめたさとを伴って思い出される。 母はそんな父と自分を、いつも楽しそうに見ていた。完成した魔道具を使った戦い方を練習しているときに、妹が幼いなりにすごいすごいと拍手してくれたこともあった気がする。 「ボクは、魔導師になったことを後悔するつもりはないよ。それは、まったくない」 『ティー?』 攻撃を継続しつつ、カインが首を捻る。しかしニッティは、じっと前面に広がっている霧の中に向かって話しかけ続ける。 「でも、ボクはそのために家族の夢を捨ててしまった。……だから、」 手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、家族は立っている。しかし、ニッティはあえてそれをしようとはしなかった。 「ごめんね、アーレハイン。それと、ありがとう。ボクはもう戦鍛冶師には戻れない。戦の鍵束が一人、魔導師のニッティ・アーレハインとして生きる。認めてとは言わないけど、許してくれるなら――」 ニッティは言葉を切り、呪文を唱える。彼が発動させたバロットゲイザー、間欠泉の魔法はヘカトンケイルの手の下あたりを泳いでいたサメを目前に打ち上げた。ニッティはパスホルダーから取り出した3m近い大槌をめいっぱい振りあげ、家族の幻影をかき消すと共にそれの鼻先を叩きつける。 「見守っていてくれると、嬉しいかな」 『アニマルシェイプ』の呪文でシャチに姿を変えたレナは水中からサメ達を蹴散らしていた。サメ達は自分より巨大な相手にも恐れず歯を剥き出しに突っ込んでくるが、レナも怯むことなく突進でそれらを返り討ちにしていく。 彼女の周囲に霧はない。水中に霧が降りることなどありえないのだ。故に、彼女の目の前にはただサメだけが、彼女の耳にはサメ達の泳ぐ音と体がぶつかる音だけが入ってくる。 (この霧にも弱点がある、ということね) しかし変身の呪文を唱えているとき、彼女にも見えていた。昔の自分が犯した失敗の光景。魔道書『グランドリア』を奪われてしまったときの記憶だった。かつての都市エルファリア秘蔵の魔道書だったというのに。はありとあらゆる森や大地、動植物に関する魔法が書かれていた、重要な魔道書だったというのに。 未熟さ故に敗れ去ったあのとき、自分を見下すあの眼はまだハッキリと記憶に残っている。 (冥王星のキルディウス。七星将……いや、この当時は八星将だったわ) その後のエルファリアの衰退を見れば、そのときの自分の失態がどれほどのものか、嫌でも分かる。今、あのときに戻れたならきっと防げるはずなのに。そう思う一方で、その思いも自身の驕りではないかと勘ぐってしまう。今どう思おうと、過去の失敗を今更取り戻すことはできない。まして、あのときに戻るどころか元の世界に戻ることもままならないというのに。 (ダメよ、気をとられては。今は、今やらなければならないことを、やればいい) レナは一帯のサメをある程度退散させると、海面に上がっていく。 (霧を退けることができれば、幻影は現れない。なら、私の呪文で吹き飛ばしてあげるわ!) 変身を解き水中から顔を出したレナを、巨大な『手』が急いで掬いあげる。黒い手の上で、休憩を挟むことなくレナは風の呪文を口にした。 「アルザード、カイザード、南天の風神よ。汝が力を持って、吹き飛ばしたまえ――」 星杖が魔力を帯びて煌めく。風の力が増幅され、凝縮し、レナの前髪を揺らしている。 「ジェットストリーム!」 風が、レナを中心に一帯を吹き荒んだ。 霧と共に消えていく妻の幻を、イェンスは寂しげに見つめる。首を締め付けるネクタイの感触も徐々に薄れていく。 「還ってしまうのかい? 何も答えないまま……」 せめて、たった一つでいい。望む言葉を置いていってくれたなら、どれほど救われるだろうか。この不安を、寂しさを、過去の愚かさとして掬っていってくれるだろうか。 「信じていて欲しかった」 ネクタイを握る彼女の手首を触ろうとしても、空気のようにすり抜けて届かない。過去には、どうしても届かない。 「ねぇ、君は……僕を愛していてくれたのかい?」 望む言葉は一つだけ。それさえ聞けたなら、自分はどれほど満たされるだろう。その言葉を二度と疑わず、きっとどこへでも歩んでいける。しかしそれでも、彼女は何も答えない。ただ哀しげに涙を流し、今なおイェンスの首を絞めるネクタイの端を掴んでいた。 「僕を恨んでいるのか」 あの日の記憶は、まだ戻らない。戻っていない。しかし、先程聞こえた気がしたあの声は。彼女の掠れた声は。あの哀しい言葉は。思い出せない。 「でもね、僕は君を永遠に愛してる」 もうほとんど見えなくなっている妻に、イェンスはもう一度手を伸ばす。その美しい髪に触れる前に、霧は晴れて幻影は過去へと還る。 「想う限り、心の中の君は死なない。……そうだろう?」 行き場を亡くした手を握りこむ。そして、イェンスはすっかり風の止んだ海を見る。ついに姿を現した漆黒の甲冑を纏った男と、彼に従う巨大なサメ達がそこにいた。 「僕は死なないよ。君を死なせないために」 「あー、サメに乗った侍だなんて、発想が斜め上だと思いマス」 ニッティが些かおどけた調子で感想を述べると、景辰は誇示するように自身が乗っているファージサメの顔を上げさせた。 「いかしてんだろ。貸して欲しくても貸してやらねぇぞ?」 「いや、別に貸して欲しくはまったくないデス」と返すニッティの傍らに、レナを乗せた『手』が移動してくる。 「それで、『地質調査』が何を指しての言葉なのかは、教えて貰えるのかしら?」 「ああ、その話か」 レナが持つ星杖は、景辰へ真直ぐと向けられていた。それに怯む素振りもなく、景辰はにやりと笑みを浮かべる。 「確か、えー、ファージやら俺みたいなロストナンバーの能力やら使って侵略みてーなことすると、世界の侵食のしやすさが計れるとかなんとか言ってたな。大体そんなとこだ」 「……随分、素直に話してくれたね」 イェンスの乗った船も、景辰やファージサメの元へと接近していた。 「んなことがバレたとこで、俺は依頼されたことをやるだけだし、てめーらはそれを邪魔しにくるだけだ。何も変わらねぇよ」 その台詞と共に、両脇に従えていたファージサメ二匹が動き始める。一匹はレナとニッティの方へ、一匹はイェンスのいる船の方へと泳ぎだす。 「……まぁ、俺にしちゃ面倒な話だ。力を競ってこいっつーだけなら楽しいのによ」 レナはファージサメが接近しきる前に呪文の詠唱を始めた。 「こちらにも一匹……船を壊されては困るな」 イェンスはまだ残っている通常のサメ達をちらりと見る。それから、肩に上ってきたフォックスフォームのガウェインを優しく撫でた。 「手伝ってくれるかい、ガウェイン」 イェンスは前もって脇に用意しておいたバケツに手をかける。そこに入っているのは大量の肉片とその血に塗れた魚だった。それを海中で待ちうけるサメ達の方へと次々投げ込んでいく。 「サメには、狂食行動という習性があるんだよ」 イェンスは肩にいるガウェインに話しかけながら、大量の鈴が提げられたブイを放った。俄かに、海面が細かく波立ち、忙しない水音が発せられるようになっていく。 「サメの感覚器官は非常に鋭敏なんだけどね、それ故にあまりに大量の獲物の気配を感じ取ると混乱してしまうんだ。そして、相手を確かめずとにかく噛みつこうとするようになる」 その習性は、ある場合は仲間同士食い合う結果になることもあり、近くに人間がいた場合はそれを襲う結果になることもある。 海に、徐々に赤い色が広がっていく。それはイェンスが撒いた餌によるものだけではない。混乱したサメ達は、接近していたファージサメの巨体にも噛みついていた。ファージサメは痛みに暴れながらも、体を捻ってはサメ達を振り落としている。 「これだけだと、さすがに倒せないか。でも、接近はできない。……ガウェイン」 暴れるファージサメの鼻先を狙い、ガウェインが狐火を放った。続いて目やエラを焼き、ファージサメをさらに弱らせる。 「……頼むよ、グィネヴィア」 一束の黒くしなやかな髪が、ファージサメに絡みつき、締め上げ、切り裂いた。 「アイスストーム!」 周辺の気温を一気に引き下げ、凄まじい冷気がファージサメを襲う。サメの周囲の水が凝固し、その体を氷が覆っていく。 「動きが鈍くなったね……バロットゲイザー!」 間欠泉により、ファージサメは空中に放り出される。体の自由を封じられてなお、サメは大きく口を開け、その小さな瞳はレナとニッティの姿を映していた。 「あんたに恨みはないけど、仕留めさせてもらうわ」 レナの星杖に再び魔力が集約され、放たれるときを待っていた。そして彼女はサメを見据え、叫ぶ。 「エア、カッター!!」 刃と化した風が、氷漬けのサメの体を刻んでいく。氷の砕ける音と、血が舞う色。そして、巨大な水柱をたてて、サメは海へと落下していった。 しかしそれを見届ける間もなく、ニッティは慌てて周囲を確認する。 「……いない」 「いない? ……! あの男は、」 レナの台詞を遮り、凄まじい水音が響いた。先に倒したのとは違うファージサメが海面からその身を空中へ晒し、乗っていた景辰がそれを蹴って『手』の上に立つニッティの方へ跳躍する。 「気を抜くなよ、少年!」 襲いくる刃を、ニッティは両手で構えた大槌で受けとめる。しかしもう一撃、防がれた太刀とは別に脇差が右側からニッティを狙う。槌を封じられたニッティは、咄嗟に義手でその刃を弾いた。 「お、いかした義手だな」 「それはどーも。そっちは義足だっけ?」 右手を使ったことで槌が押し負け、ニッティは身を捻って刃から逃れる。呪文を唱える暇はない。ニッティは右手に持ち直した大槌を、景辰の脇腹を狙い振り抜く。 「さっきは面白い霧を出してくれたね」 「ああ、楽しかったか?」 景辰はそれを跳躍で避ける。その脚力は、やはり義足の力によるものなのだろう。ニッティが義手によって大槌を軽々振るえるのと同様に。 「悪いけど、ボクにうだうだ悩んでる暇なんてない、前へ突き進むだけ。邪魔するなら、アンタごと打ち砕くよ、景辰サン」 「……いい覚悟だ」 景辰が笑むと同時に、その脇からレナの放った炎の球が彼を襲う。後退により回避した景辰を、さらに『ヘカトンケイルの手』が追撃した。 「おお!?」 景辰は反射的に襲ってきた『手』を蹴って、これを防ぐ。しかしニッティ達のいる『手』からは落下していった。 『ティー、けがしてない?』 「ありがとう、カイル。ボクは大丈夫だよ」 落下した景辰は、再びファージサメの上へと着地する。そこにはイェンスの乗った船が間近に迫り、さらにニッティとレナも高度を下げ景辰を射程圏内に捉えていた。 「こいつは参ったな」 言葉とは裏腹に不敵な表情を崩さない景辰に、イェンスは冷静な様子で質問を投げる。 「貴方はさっき、自分の役割を面倒だと言ったね。それはつまり、貴方は旅団の方針と折り合いがついていないということかな。……だとするなら、貴方は何の為に戦っているんだい?」 イェンスの問いが耳に届いた途端、景辰は一転して表情を歪ませた。 「……俺は、受けた恩を返す。それだけだ」 「恩……それは、旅団に対する恩かい?」 問いを重ねる程、彼の顔に先程までの不敵さは消えていく。それは怒りというよりも、苦悶に近いような表情だった。 「違ぇな。俺の恩人はたった一人だ。……ただ、世界樹が枯れさえしなきゃ俺たちは消えねぇ。旅団が負けさえしなきゃ、俺たちは消えねぇ」 景辰の口調は徐々に速まる。イェンスの問いが彼の中の何かを衝いたのは間違いないようだった。 「俺は、てめぇらの正義感に負けて、恩人を消失させるわけにはいかねぇんだよ……!」 「貴様の事情など、どうでもいい」 呻くように声を絞り出す景辰の正面に現れたのはハーデだった。空中に身を留まらせながらも、今の彼女の表情は殺気と憎悪ばかりで埋め尽くされている。彼女は目線だけで景辰を見下ろしたまま、言葉を発した。 「殺す者は殺される。それが世界の範と知れ。……お前の足、義足だな。お前にはこれ以上ないほど楽しませて貰った。礼代わりに普段見せない技を見せてやろう――」 「……お嬢ちゃん、本当に想像力豊かだな」 ハーデの視線は景辰の脚部を見ている。彼が義足であることは、前回の報告書でも判明しており、また、透視能力を持つ彼女にしてみれば見るだけで分かることだった。 彼女はトラベルギアの力で、金属棒を軸に光の刃を出現させることができる。それが例え、義足に使われているボルトなどであっても――。 ハーデは彼の両脚に意識を集中し、その部品の一つ一つに光の刃を発動させようとする。しかしそのとき、景辰の足場となっていたファージサメが沈む水音と同時に一帯は強烈な閃光に包まれた。 「何――!?」 「うわっ! 何、何事!?」 「これじゃ、何も見えませんわ!」 「これは、閃光弾……!?」 全員が怯み、大きく隙ができる。そのとき、ハーデの真下で大きな水音がたった。敵の攻撃、そう判断はできても視覚のままならぬ状態でその奇襲に完全に対応しきるのは困難だ。まして、冷静さを欠いた今の彼女であれば、なおのこと。 ハーデは何がしかの攻撃が加えられるものと覚悟していた。しかしその予想に反して、彼女の感覚が捉えたのは男の掌が背に触れたものと空気の流れの微妙な変化のみ。景辰の手が触れたところから白い霧が湧きだし、彼女を包みこんでいた。 「……!?」 掌の感触が離れると同時に、ハーデの体を覆った霧が黒く染まっていく。そして漆黒に色を変えたそれは、水面へと落ちていく景辰へと吸い込まれていった。 「ハーデさん!」 仲間の呼ぶ声に、ハーデは何の反応も返さなかった。ただ茫然とした様子で、景辰がファージサメの上に着地するのを眺めている。その顔に、先程までの憎悪や殺意といったどす黒い感情は微塵も残っていない。 「予定ヨリ遅くなりましタ。すみまセン、景辰サン」 「いや。体ほぐすには調度いいくらいだったぜ、リーベ」 徐々に視力を取り戻していたニッティ達が目にしたのは、びしょ濡れでサメの上に立っている景辰と、その傍らで彼の無事を確認する長い銀髪に銀のドレスを纏った女の姿だ。彼女は浮遊する流線型のリフトに乗っており、サメの上にいた景辰もすぐさまその傍らに飛び乗った。リフトには操作パネルのようなものがあるのも確認できる。 女はニッティ達の視線に気づくと、彼らの方へ向き直って丁寧な仕草で一礼した。すかさず景辰が下がるよう左腕で制止するが、彼女は特に従うでもなく敵であるはずの四人に向けて挨拶する。 「はじめましテ。リーベ・フィーアと申しマス」 無機質に白く継ぎ目のある彼女の顔を見れば、人間でないことは「アンドロイド」というものが存在しない世界の出身者でもすぐに分かる。先程、閃光弾で景辰を逃がしたのは彼女だろう。同時にファージサメが水中に潜ったのも、彼女による操作だということは想像に難くない。 「ハーデに何をしたの」 先の激昂が嘘のように呆けたままのハーデを気にしつつ、レナは険しい表情で尋ねる。 「そこの色黒のお嬢サンは、ご心配いりまセン。一時的に感情の一部を抜かせて頂いたダケなので。景辰サンが後できちんと戻しマス」 リーベは表情を変えずに返答した。一方、景辰は不機嫌そうな様子で、言葉が途切れるとすぐ彼女の腕を掴んでは何かを耳打ちする。 「分かりましタ。それでは皆サン、これデ失礼しマス」 その言葉と共に、波は再び慌ただしくなった。ファージサメのもとに、新たな野生のサメ達が集まってきたのだ。ニッティ、レナ、イェンスはもう一度戦闘の態勢を整える。しかし、ハーデの戦闘不能が景辰にしか回復できないとなると、下手には手が出せない。 そんな彼らに、景辰がもう一度声をかけた。 「そうだ、色黒の嬢ちゃんがよ、さっき殺すヤツは殺されんのが当たり前みてーな話したよな。そいつについちゃ、俺も賛成だ。でもよ、事実確認くらいはちゃんとした方がいいと思うぜ」 その表情に、先の動揺の跡は見られない。ただ、何故か不機嫌さが滲みだしている。 「それは、どういう意味かな?」 イェンスの問いに景辰は答える気がないようで、リーベに離脱を急かすような素振りを見せる。しかしリーベはそれに応じず、律義に投げられた問いに答えを返した。 「壺中天のときモ、今回も。私達ハ誰も殺していまセン。特に今回ハ、景辰サンはサメを連れて待ってただけデス。これから旅団が行うコトについてハ申し訳ないとは思っていマスが、今回私達ガ誰も襲ってないノハ事実デス」 「待ってた……? それは、ボク達がここに来るのをってこと?」 ニッティは不審げな表情を浮かべる。思い出してみれば、自分達が到着した時にも景辰はそれを匂わせるような言葉を発していた。 「回答を拒否シマス」 申し訳ございまセン、と頭を下げ、リーベは今度こそリフトの操作パネルを動作させる。そして次にニッティ達が声をかけるのを待たず、彼らを乗せたリフトは高スピードで一帯を離脱していった。後には、薄らと広がった黒い霧だけが残る。霧はゆっくりと、ハーデの体に染み込んでいっているようだった。 「逃げたわね」 「……仕方ない。今はとにかく、残りのサメをどうにかしよう」 残されたファージサメ一体と野生のサメ達は、三人の協力により滞りなく駆逐することができた。そしてハーデの回復を待ち、一行はロストレイルへと帰還する。 車両へと戻っても、ハーデは未だ鬼の形相だった。ぎり、と歯ぎしりをし、窓の外に見える海を睨みつける。 「次は、必ず殺してやる……」 ニッティは膝の上でくつろぐカインの背を撫でていた。視線を彼女が睨む水平線へと移し、向かいのハーデの隣に座っているレナへと問いかける。 「釈然としない、と思いまセンカ?」 「……そうね。彼らは、明らかに何かを隠していたわ」 ニッティの隣に腰掛けていたイェンスも神妙な顔で頷き、同意する。 「でも、彼らからは絶対的な悪意を感じない。……どうにか、深刻な事態を避ける道があるといいんだけどね」 出発したロストレイルは、あっという間に海を遙か下へと離していく。逃げた旅団がこの海のどこへ行ったのか、確かめる術を今の彼らは持っていなかった。 【完】
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