無名の司書の『導きの書』が、音を立てて落ちた。図書館ホールに鈍い音が響く。「どうしたんだい?」 青ざめて片膝をついた司書を、通りがかったモリーオ・ノルドが助け起こす。「《迷宮》が……、同時に、ななつ、も。どうしよう……」 震える声で、司書は言った。フライジングのオウ大陸全土に《迷宮》が複数、発生したらしい。放置すれば迷宮は広がり続け、善意の人々に被害をもたらしてしまう。 たしかに、予兆はあった。先般、フライジングへの調査に赴いたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノの報告によれば、《迷鳥》の卵は、駆除が追い付かぬほど多く発見されているという。それも、ヴァイエン侯爵領だけではなく、オウ大陸に点在するさまざまな地域に。「それは……。きみひとりでは手に余るだろうね。対処するための依頼を出すのなら、手伝おう。どうもきみはこのところ、オーバーワーク気味のようだし」「ほんと? モリーオさん、やさしい……」 無名の司書は、じんわりと涙を浮かべる。「じゃあ、お言葉に甘えて。あたし、ひとつ担当するから、あとむっつ、よろしく」「……ちょっと待った。なんでそういう割り振りになるかな?」「それだとモリーオがオーバーワークになるぞ。俺も手を貸そうか?」 贖ノ森火城が、苦笑しながら歩みよる。「ありがとう、火城さん。頼もしい~」「忙しいの? 私も手伝うよ?」 紫上緋穂も駆け寄ってくる。「ありがとう! 緋穂たんだって忙しいのに忙しいのに忙しいのに!」「よかったら、あたしもやるわよ?」 ルティ・シディがのんびりと声を発し、無名の司書はしゃくりあげた。 「ルティたーん! うれじい愛してる〜!」 同僚たちの配慮に、司書は胸の前で両手を組む。灯緒がゆっくりと近づいた。「フライジングに異変が起こったそうだな」「灯緒さぁぁぁぁ~ん。灯緒さんだって朱昏で大変なのにありがとうありがとう愛してる~!」「……いや? ……ああ、……うん」 まだ何も言っていないのに、というか状況確認に来ただけだったのに、灯緒はがっつり抱きつかれて、手伝うはめになった。『オレは手伝わねぇぞ?』 アドは、スルーします的看板を掲げ、走り去ろうとした。んが、無名の司書にあるまじきものすごい俊敏さで首を引っ掴まれてしまった。「ありがとうアドさん!」『手伝わないつってんだろーが!?』 * * その迷鳥の卵は「複黄卵」だった。すなわち二羽、雛が生まれたのだ。 しかし通常、どちらかは孵化後早々に死んでしまう。卵の中で、栄養の奪い合いになるからだ。 だからその迷宮の主となった、おそろしく大きな純白のカラスも、生まれるなり片割れを亡くしていた。 死んだ妹の亡骸を、自分が殺した片翼を、おのれの翼でかき抱き、白いカラスは悲嘆にくれる。 彼女は、ことばを持たない。 知性あるものたちと、意志の疎通もできはしない。 後を追いたいのに、どうしていいのかわからないその哀しみを、伝えるすべを持たない。 ……どうしよう。 だって私も生まれたばかり。死にかたが、わからない。 たくさんたくさん、化け物を出せば、いいのかしら。 たくさんたくさん、憎まれれば、いいのかしら。 そうしたら、誰かが殺しにきてくれるかしら。 もっと怨嗟を……! もっと憎悪を……! 広大な迷宮に、夥しい桜の樹が乱立する。 生き物のように幹はうねる。枝は腕を伸ばす。侵入する獲物を絡めとろうと、待ち構える。 ……違う。ちがう。 殺してほしいのは、この哀しみと迷いが生み出してしまう化け物。 どうか私を眠らせて。 妹と、一緒に。 今度生まれてくるときは、一羽の鳥になれるかも……、しれないでしょう? * * 「……よりによって」 シオンは嘆息する。 無名の司書が告げた《迷鳥》は、よりによって、双子の片割れだったのだ。しかも迷宮は、ヴァイエン侯爵邸の裏庭に発生したという。 迷宮を埋め尽くしているのは、あやしい幻想を見せる桜。迷いこんだ者たちは「愛するものの死」を追体験させられ、自ら死を選んでしまう。迷鳥を不憫に思い、説得におもむいた侍女がふたり、すでに命を落としていた。「これって……。『退治』してやるしか、ないんじゃないかな。おれがこのカラスなら、そうしてほしいと思う」「しかし、私には」 ラファエルが言いよどむ。それは私には出来ない。卑怯かも知れないが、出来ない。 ならば、誰に、その過酷な役目を負わせるのだと。「何もできなくても、あなたたちは同行して見届けるべきでしょうね。わたしは行かないけれど」 白雪姫は肩を竦める。「さすがにいたたまれないわ。自分を見てるみたいで、ちょっとね。こういうのって、下手に助けようとかしないで、とどめを刺す覚悟ができるひとが行くべきだと思うのよ」!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『春の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
桜色に 衣は深く染めて着む 花の散りなむ のちの形見に ――紀有朋・古今和歌集 ACT.1■瑠璃の慟哭 アーティラ・ウィンクルーネは、ごくあっさりと依頼を受けた、ようには見えた。 「何てゆーか、救われない話だよね。可哀想ってゆーか」 だが――、思わずボクもセンチメンタルぅ~、と、肩を竦める可愛らしい竜人の瞳には、まぎれもない感傷が浮かんでいる。 侍女が犠牲になったと聞いて、アーティラの胸に去来するものがあったのだ。 「――往こう」 ただそれだけを、ムジカ・アンジェロは言った。 「感謝します」 「……ありがとうな。アーティラ。ムジカ」 ラファエルとシオンは、白雪姫の魔法のちからを借りるでもなく、いつもどおりのすがたで、ロストレイルに向かう。その横を、アーティラとムジカは無言で歩く。 * * 今回、ロストレイルの暫定的〈駅〉を、ヴァイエン候領の西《風待ちの森》に定めたのは、現地協力者の有無が不明であることを考えれば、いささかの冒険ではあった。だがこの森は、先般、騎士団による迷卵駆除が行われたばかりで、皮肉なことではあるが、迷宮が発生する可能性が大陸内のどこよりも少ない。依頼を受けた旅人たちは、当該の地から、各迷宮へ出向くことになった。 なだらかな広陵がふつりと途切れ、三方を河に囲まれた小高い丘が見えてきた。 丘はその頂上からふもとに至るまで、瑠璃いろの花に埋め尽くされている。壱番世界でいうところのネモフィラによく似ているが、それよりも色が濃い。目にしみるような青だ。 「こちらでは『青の玻璃草』と呼んでおります。本来、あまり群生しない草花なのですが、シルフィーラが幼少のころから丹精した名残でこのように」 この地に春が訪れたことを象徴する花でもあります、と、ラファエルは言い添える。久方ぶりの自領と自邸への帰還に感慨がなかろうはずはなかったが、その声音は抑制され、堅い。 「あなたの翼の色だね」 シルフィーラが何故、侯爵邸の建つ丘をこの花で埋めたのか、わかる気がする――とは、ムジカも言わない。 「恐れ入ります」 青の玻璃草がさざ波のように揺れる中を割り、白大理石の階段が丘の上へと続く。突き当たりには、白い外壁と青銀いろに葺かれた屋根、いくつもの塔を持つ城が見える。 「わお。綺麗なお城だ!」 アーティラが素直な歓声を上げた。 ヴァイエン侯爵邸《瑠璃の城塞》は、ふもとから遠目に見るたたずまいは優美な城である。しかし、近づいてみれば、その造りは存外、質実剛健で機能的であるようだった。 「ここって、攻めにくいし、守りやすいんじゃない?」 アーティラの的確な指摘にラファエルは頷く。 「よくおわかりで。いくさを想定した造りにはなっております。欲をいえば、もっと要害の地のほうが、城塞としては適しているのですけれども」 「それだと、住みにくいよ〜」 「仰るとおりです。ですので多少、詰めが甘い部分がございまして」 たとえば、と、階段を上り切るやいなや、ラファエルは慣れた足取りで正門横の隠し通路を抜け、裏庭に回り込む。 「……内部事情に詳しいものの手引きがあれば、誰に見咎められることもなく、容易に侵入が可能です」 「今更ですが、このグダグダな設計はどうかと思いますよ、侯爵閣下。ドンガッシュに改修依頼したほうがいいんじゃないすか……ぁ?」 シオンがぽりりと頭を描き、つとめて力の抜けた声を上げる。が。 そのとき。 裏庭の片隅にぽっかり空いた穴から、桜の花びらが噴水のように吹き上がり――荒れ狂った。 「あれが……、迷宮」 「下がって……!」 アーティラがシオンを後ろ手に庇いながら、鎖を構える。 渦を巻く花びらの洪水の中心には、魔物の指先を思わせる桜の枝が伸びていた。ひゅん、と、うなりながら揺れる枝先には、一羽の鳥が翼を縫い止められ、突き刺さっている。 鳥はまだ生きているようだった。力なく身じろぎをするたびに、血が流れ、羽根がちぎれ飛ぶ。 (鷹……?) ムジカの髪を撫でて、花びらに混ざり、すべり落ちてきた羽根は、淡い薄茶いろをしていた。桜に捉えられている鷹は、鷹というには猛々しさのない、やさしい色合いとすがたをしている。 「なになに、よくわかんないけど、鷹さん、もちょっと頑張って! 今、助けるからさっ!」 アーティラの手を起点に放たれた鎖は鞭のようにしなって、伸びた。 ぐるぐると巻きついて、桜の枝を羽交い締めにする。 桜吹雪が横殴りに吹きすさぶ。つぶてのような鋭さで。 詩が、こぼれる。ムジカの唇から。 研ぎすまされた美しい言葉は、弾丸として充填され―― 鷹を捉えていた小枝を、正確に撃ち抜いた。 いましめを解かれた鷹は、ぽとり、と、ムジカの腕の中に落ちる。 * * 「アンリ……? アンリ・シュナイダー……? 大丈夫か。なぜ、きみがここに」 「ヴァイエン候!」 鷹は渾身のちからを振り絞り、ひとのすがたを取る。 端正な横顔に、育ちの良さと誠実な気性がにじむ青年だった。アンリ・シュナイダーは膝を折り、大きくこうべを垂れた。 「よくぞご無事で。ご帰還を待ち望んでおりました。行き届かぬ身で、貴領の保全に干渉いたしましたこと、お許しを」「アンリ。するときみは、私がいない間、ヴァイエン領の管理を引き受けてくれていたのか……。ヴォラース伯であるきみが、そこまで」 「……候がいつかはお戻りになると信じておりましたので。陛下に無理を申し上げたところ、お聞き届けくださいました」 ヴォラース伯アンリは、ラファエルが武装財務官総括であった時期、副総括を務めていた。ラファエルの消息不明後は総括となり、事実上は国の直轄領となったヴァイエン候領を、自身が保守管理したいと申し出たのだ。 ラファエルが帰還次第、すぐに復帰が可能であるように。 「ひどい負担をかけてしまったね。早く傷の手当を」 「これくらい大したことは……。それより、こちらの、命の恩人のかたがたは……?」 薄茶の玻璃のような目を見張り、アンリは、アーティラとムジカを、交互に見やる。 * * 迷宮発生と同時に、侯爵邸に務めるものたちには、ことが収まるまで各自の部屋で待機するよう、アンリは厳命したという。それでも禁を破り、迷宮に近づいた侍女たちが犠牲になった。 いつまでもこの状態が続くのは芳しくない。そう思ったアンリは、自ら迷宮に赴いた。 そして、幻影に、囚われた。 アンリは、ラファエルとシオンが今までどこに行っていて、何故戻ってこなかったのか、問いつめようとはしない。 ただ、ここではない世界に行き、ここではない世界のかたがたと、数奇な体験をなさってきたことはわかります、と、言った。そして、この危機に、ご尽力くださるかたとともに、お戻りくださったことも、とも。 医術の心得のある侍女頭から手当を受けながら、アンリは真っ直ぐに、旅人たちを見つめている。ことに、アーティラのすがたに、興味を惹かれたらしい。 「これはまた、幻想物語から抜け出してきたかのような。……失礼ですが、触れても?」 「あ、うん? べつにいっけど」 包帯だらけの腕で、毛並みにそっと手を伸ばされ、アーティラはくすぐったそうにしている。 「……貴方は」 ムジカと視線を合わせ、アンリはふっと口元を綻ばせた。 「芸術家の目をしておられる。絵はお描きになりますか?」 「いや」 ムジカはゆるやかに首を横に振る。 「不躾なことを申し上げました。もし、何らかの理由で断念されたのだとしたら、わたしと同じかもしれないと思いましたもので」 「あなたは、画家でもあったということかな?」 「兄たちが健在であったころは絵の道を志しもしましたが、今は」 アンリはシュナイダー家の四男であると言う。本来ならば家督相続とは無縁のまま、好きな道に進めるはずであったが、兄たちが次々に病死したため伯爵位を継ぐことになったらしい。 「では、絵はもう?」 「時おり、手遊び程度に絵筆を持つくらいはいたします。腕がこのような状態でなければ、おふたりのお姿を素描いたしたいところですが」 「あのなぁ、アンリ。お貴族様が自領ほっぽり出してひとんちで執事づらした挙げ句、厄介ごとに巻き込まれてんじゃねぇよ。とっととヴォラースに帰って自分の嫁取りの心配でもしやがれ」 シオンの憎まれ口が、精一杯の配慮だとわかっているアンリは、 「おや、いらしたのですかシオンどの。息災で何よりです」 と、返す。 「あれ意外。疫病神のおれなんか、野垂れ死にしたほうがいいと思われてるかと」 「疫病神のあなたなど、野垂れ死にしてくれて構いませんが、候がどんなに哀しむかと思うと」 「――ヴォラース伯爵」 少し考えにしずんでいたムジカが、声をかける。 「アンリでかまいません」 「ではアンリ。先ほどあなたが桜に捉えられたとき、どんな幻影を見た?」 「……それは」 「言いたくなければ構わない」 「いいえ、申し上げます。候が、殺されるのです。何処とも知れぬ場所で、シオンどのとシルフィーラどのの手によって」 それは、わたしにとって耐え難い光景でした、と、アンリは胸を押さえる。 外傷はないはずの、胸を。 ACT.2■桜迷宮――右手(めて) 「とてもつらい、幻影なんだね」 ため息をつくアーティラに、侍女頭が目頭を押さえる。老齢の彼女は先代の侯爵夫人、今は亡きラファエルの母が嫁ぐとき、ともにこの地に来たという。 「あの、さ。死んだ侍女さんたちって」 「イルマは気だてが良く、手先が器用で裁縫が得意でした。カリンは少し神経質で無口でしたが、よく働く涙もろい娘でした。ふたりとも……、まだとても若くて、あんなふうに死ぬ子たちでは……」 「そっか。わかった」 アーティラは立ち上がる。 迷宮に向かう覚悟ができたのだ。 迷鳥を退治する、覚悟も。 ぽっかりと開いた入口は、今はしんと静まり返っている。 階段というには歪な凹凸の通路へ、アーティラは入って行った。 慎重に。慎重に。 「夢幻踏」で空中を蹴りながら、少しずつ。 ほどなくして、道はふたつに分かれ―― * * 右の方向から、女の悲鳴が聞こえてきた。 (今のは……!) 思わず、アーティラは走る。 あれは。 あれは。 彼女の声。 なつかしい、やさしい彼女。アーティラが唯一、こころを許していたメイドの……、 名前を、呼ぶ。叫ぶ。 アーティラを家出させるため、雇い主であるアーティラの両親に背いてくれた、彼女。 もしも事が露見したら、酷い目に遭うことはわかっているのに。 (逃げて。逃げてください。私は、大丈夫ですから) 大丈夫なはずがない。 現に今、彼女は……、両手の甲を釘で打たれ、ひび割れた丸太に縛り付けられている。身体中に残る、生々しい拷問の痕。丸太は薪の山に突き刺され、今、火がつけられようとしている。 そのさまを見て、アーティラの両親がけたたましく笑う。 ほらごらん。メイドの分際で、身の丈に合わぬ裏切りをするから。 ほらごらん。この娘は、おまえのせいで、こんな無様な死を遂げる。 炎の中で、彼女が叫ぶ。 ただひたすらに、アーティラの名を。 「こんな最期なんて……」 手を差し伸べようとして、思いとどまる。 ダメ……! 落ち着くんだボク……! 惑わされちゃいけない……! 彼女を見据える。そして、気づく。 その炎は、よく見れば、桜であることに。 アーティラは、走る。 幻影に背を向けて。 (わかってる。彼女は今ごろ、本当にこうなってるかもしれないってことくらい!) ボクが家出したから、色々な人が被害にあってるってことだって……! けど、決めてるんだ。ボクは絶対、過去は振り向かないって! 振り返れば振り返るほど、辛くなることは分かってんだよ! ――だから、ボクは、 今、自分にできることを一生懸命やる! アーティラは、走る。 今度こそ、迷いのない足取りで。 ACT.3■桜迷宮――左手(ゆんで) アーティラが先に迷宮に入ってのち、ムジカも裏庭へ向かおうとして、もの言いたげなシオンを振り返る。 声を落として、問う。 「――殺しても、構わないのか?」 「ああ」 「殺して、欲しいのか」 「ああ。……頼む」 ――シオン。もしも。 もしもきみがいつか、意志の疎通のかなわない迷鳥となったとしたら。近づくものを傷つけ殺めることしかできない、哀しい生き物になってしまったとしたら、そのときも? 言外の問いに、シオンは頷く。 「ヴァイエン候に殺される覚悟なら、おれも姉貴も、とうの昔に出来てる。だけど、おそらくヴァイエン候は、おれも姉貴も殺せない」 「その覚悟があるなら、役目を引き受けよう。優しすぎる彼(か)の天使の代わりに」 壱番世界において「ラファエル」の名を持つ天使は、人を癒し、創造性を育成し、そして若者を保護することを役割とする。さらには、旅人を守護する存在でもあるのだから。 「あんたたちは優しく在ればいい」 階段を降り、ほどなく―― ……兄さん。 桜吹雪が、舞い上がる。 左手に、アトリエが見える。 あれは最愛の神の、遥かな高みで、ミューズの懐に抱かれ、透き通る笑みを浮かべる弟の……、 ねえ、兄さん。 何かの本で、読んだことがあるんだ。 白鷺の親鳥は、巣から落ちたものを決して拾い上げたりはしないんだってね。それが卵だろうと、生まれたての雛だろうと。 だから、 巣から落ちてしまった雛鳥は、そのまま死を待つか、他の動物に喰われるか、あるいは―― * * 末期の病状であるのに、弟は、病室を抜け出していた。 それは、いつものことだったので、ムジカもまたいつものように弟を追って、彼のアトリエへ足を踏み入れる。 そこで、見たものは。 白い羽根のように散らばったクロッキー帳と、そのただ中で横たわる、弟のすがた。 クロッキー帳に伸ばした半透明の指は、自らの吐き出した血で濡れている。 神はなおも、絵を描こうというのだ。その血で。その最期の命で。 「………!」 何を叫んだのか。 何も叫ばなかったのか。 それさえもわからない。 いつか死の翼が弟を攫っていくことは、常に覚悟していたはずだ。 だが、覚悟があってなお。 凄まじい別離の恐怖が蘇る。 駆け寄って、抱き起こす。 すでに、これは幻想だと、気づいていたけれど。 腕の中でもう一度、彼の最期の願いを聞く。 「僕の世界を燃やして」 ムジカは、アトリエに火を点ける。 弟の言葉通りに、懐かしい世界ごと、桜の樹を焼き尽くしてしまおう。 「幸せだったか」 幻想の弟に問うてみる。 答は帰ってこなかった。 * * そして、最奥に辿り着く。 嘆き続けるカラスが、そこに居た。 白い鴉は、神の使いであるともいう。ならば、これもまた、天使なのだろう。 天使は自殺を許されない。 どんなにその後を追いたくとも、神を喪った世界に絶望しようとも。 弟の願いは果たした。 けれど自分は未だ此処に居る。 死ぬことも出来ずに、絶望と共に取り残されている。 「おれは、死にたいと願うことさえも既に諦めた。だが、半身を喪って死を望む心は解る」 ――自ら死ねないのなら、手を貸そう。 ACT.4■春の葬送 「迷鳥は」 すでに到着していたアーティラが、魔法で生成した鎖を、ギアにつけている。 「出来るだけ苦しませず、楽に倒してあげたい」 「同感だ」 「だから、一撃で仕留める!」 アーティラのギアが勢いよく飛び、急所を狙う。 それに添い、ムジカの詩銃が放たれた。 白いカラスの左胸に、鎖は突き刺さり、弾丸は命中した。 ほんの一瞬だけカラスは痙攣し―― すぐに、こと切れたのだった。 「愛しいものを見せてもらった」 ムジカの唇が紡ぐのは、今度は、鎮魂のうた。 カラスへの哀惜と感謝をこめて贈られた歌が迷宮に反響するにつれ、桜は、夥しく散った。 アーティラは、ふたつの亡骸を並べ、手を合わせる。 今度生まれて来るときは、しあわせな、一羽の鳥であるように、と。 * * 迷宮を収束させ、戻って来たアーティラとムジカに、ヴァイエン候とヴォラース伯は揃って頭を下げる。 シオンも声を詰まらせながら礼を述べたとき。 彼のトラベラーズノートに、連絡が入った。 「……灯緒からだ。迷鳥が一羽、保護されたって……!」 しかもそれは「鷺の《迷鳥》」だという。 「姉貴かもしれない。おれ、ちょっと行ってくる!」 「待て、シオン。それは、おそらく……」 「待ちなさい、シオンどの。シルフィーラどののはずは」 ラファエルとアンリの制止も聞かず、シオンはロストレイルの<駅>を目がけて飛んていく。 * * 「行ってしまったか。あまり気を落とさねば良いが」 息をはくアンリに、ムジカは聞いた。 「なぜ、シルフィーラではないとわかる?」 「彼女はとうに翼を落とし『トリ』ではなくなっています。それに、ヒトの帝国の後宮に入ってまもなく、皇帝の寵姫となった彼女が、ここで迷鳥となるはずもない」 「……それでも、片翼を求めたいのだろうね」 死ぬならば、ともに。 ――生きるならば、ともに。 巣から落ちてしまった雛鳥は、そのまま死を待つか、他の動物に喰われるか、あるいは―― あるいは、自らの力で、巣に戻るしかない。 弟の言葉が、蘇る。 ――Fin.
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