ロナルド・バロウズは、楽譜を手にする。 天使と契約した者、パラディンが作曲したバイオリン協奏曲だ。 ざっと見て、頭の中でメロディを鳴らす。 金属のボールが坂道をコロコロと駆け降りていくようにメロディが流れたかと思うと、トントントンとリズミカルに撥ねて行く。 バイオリンの指使いを軽くやっただけで、分かる。 凡人ならば音を上げる、超絶技巧の楽譜だ。 「だが、これは」 ロナルドは呟く。 楽譜から読み取れるのは、彼の癖や好みが熟知されているということだ。弾きやすい流れを突如崩されたり、かと思えばたおやかに流れたりする。タンタンタンとリズミカルにピチカートするかと思えば、いきなり弦を激しく動かさなければいけなくなる。 一見、滅茶苦茶。 その裏にあるのは、繊細さと綿密さ。 ロナルドは頭の中のメロディを、楽譜を読み込みながら辿る。 零れるように、流れるように、撥ねるように。 「……うっ!」 ずきん、という激しい痛みを感じ、思わず頭を押さえつける。 楽譜から手を離して何度か呼吸すれば、痛みは徐々に和らいでいく。 「これが、属性のせい、か」 眉間に皺を寄せ、ロナルドは楽譜を少し離れて見る。 敵対はしていない。しかし、属性の違いが頭痛を生む。うわんうわんと、耳鳴りがする。 「だが、俺は、これを」 意を決し、ロナルドは楽譜に手を伸ばす。 パッと見て、すぐに頭痛が生じるわけではない。最初は、軽い違和感。音を辿れば辿るほど、ドラムロールのように広がっていくだけなのだ。 バイオリンを構え、楽譜を見て、弦を引く。 「だって、これは、君が」 ロナルドがそこまで言ったところで、意識がぷっつりと途絶えた。 ばたん、という大きな音を耳の奥で聞いて、思う。 今、倒れたのだな、と。他人事のように。 ――手に入れたのね。 懐かしい声が響く。 目を細めて声の主を見ようとするのだが、うまく眼球が動かない。 ならば声をかけようと喉を震わせるが、うまく口が動かない。 泥の中で、ざらざらと蠢いているかのようだ。 ――いいの、いいのよ。別にいいの。 必死になって、手を伸ばそうとする。身体が動かない。 酷く喉が渇き、身体が重く、堪らない。 せめて声を、懐かしい声を、焼き付けんばかりに聞きたいと、耳を澄ます。 ――いいのよ。 何故、と問いかけようとする。 どうしてパラディンになったのか、と。 天使が下す命令は過酷だという。時には命を差し出すのだと聞いた。 誰かに言われたのかい? ――いいえ。 彼女は静かに答える。 言葉が口から出ているのかいないのかは、分からない。それでも、彼女は問い掛けに答えてくれる。 そうして、すっと長い手で何か指差す。 指された先にあるのは、紙の束。 五線譜の上で音符が踊る、あの楽譜。 ――手に入れたのね。 これは君が、作曲したのかい? 噂では聞いていたけれど、知らなかったんだ。 知らなかったんだよ。 ――そう。 顔が見えない。顔が見えないんだ。 君の顔が分からない。 笑っているのかい? 怒っているのかい? 呆れているのかい? それとも。 ――……ロ……。 聞こえない。俺を呼ぶ声が、分からない。 だから、もっと近くに。 もっと、もっと……。 ――ロナルドさんっ! はっ、と目を開いたとき、目の前には有馬 春臣と氏家 ミチルの顔が並んでいた。 「ロナルドさん、大丈夫ッスか?」 ミチルが心配そうに、覗き込んでいる。 「さっき、呼んだのは、君か?」 ゆっくり尋ねると、こっくりとミチルが頷く。 「いやーびっくりしたッスよ。先生ったら、死んでるんじゃないか? とか言い出したんスから」 「実際、死んでいたんだよな?」 真顔で言う春臣に、ロナルドは真顔で「まさか」と答えておく。 「ちょっと、頭痛がしただけだよ」 「頭痛ッスか」 「あと、耳鳴りと眩暈と吐き気」 さらっと答えるロナルドに、真剣な表情で春臣が頷く。 「やっぱり、死んで」 「ないから」 きっぱりと、今一度突っ込む。 「今は平気なんスか?」 「原因が分かっているからね」 ロナルドはそういうと、楽譜を指差す。 「前、手に入れた楽譜ッスね」 「これが、何か?」 春臣はそう言って楽譜を手に取る。 「協奏曲なんだが、俺一人で演奏するものじゃなくてね。主旋律だけマスターするか、独奏曲に編曲するか、悩みまくりだよ」 ロナルドはそう言って笑う。 彼女からの手紙のような、挑戦状のような、楽譜。 「別の手もある。君が、不快でなければだが」 ぱらぱらと楽譜を見ながら、春臣が言う。 「別の手?」 「アレンジするのはどうだい? 私は、三味線で」 「自分、歌えるッスよ!」 ロナルドは二人を見、ふっと笑みを漏らす。面白そうだ、と。 「是非とも、お願いしたい」 答えを聞き、春臣とミチルは顔を見合わせて笑う。 バイオリンを、手にしながら。 ふわんふわんふわん、と耳鳴りがする。 ロナルドは口元に手を当て、考えるふりをして吐き気を抑える。 「顔色悪いッスけど、大丈夫ッスか?」 「大丈夫大丈夫。それより、このメロディの流れなんだけど」 「ああ、これなら、こうして」 春臣はそういうと、撥を動かす。三味線の張り詰めたような音が、部屋中に広がる。 「それなら、自分はこうッスかね」 春臣の音の乗せるように、ミチルが歌う。 ならば、とロナルドがバイオリンを手に取る。弦を引いてメロディに乗せると、軽い頭痛が襲い掛かる。だが、先程までとは違う。 明らかに、痛みが和らいでいるのが分かる。 (アレンジの力、か) ロナルドは口元だけで笑う。痛みが和らいでいるのは分かるが、消えうせたわけではない。眩暈や吐き気は、容赦なく襲い掛かってくる。 (それでも) ロナルドは指を動かす。細やかに動く指から流れるメロディが、彼女からの言葉のようだった。軽やかに笑い、くぐもったように怒り、静かに微笑む。 ぐわん、ぐわんと頭の中でドラが鳴る。 (始まりの、ドラだ) ロナルドは笑う。ドラが鳴り、メロディの始まりを告げる。 バイオリンが囀り、三味線が嘶き、歌声が迸る。 ぐるぐると合わさる。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。 それは渦だ。 音楽の渦。 三つの異なる音が流れを作り、一つになり、渦巻いて音楽を生み出してゆく。 (美しい) ああ、いま。 ロナルドは目を閉じる。 (音楽、だ。音を楽しむ。楽しい、時を刻む) ぐわわわわわん! ――ばたん。 「ロナルドさん!」 「もっと早く、言って欲しいね」 突如倒れたロナルドに、慌ててミチルと春臣が駆け寄る。 「限界なら限界って、言ってくれないと」 呆れたように、春臣が肩を竦める。 それでも、ロナルドはバイオリンの弦を手放さなかった。 倒れたロナルドの身体を引きずりつつも、どうにかソファの上に寝かしてから、春臣とミチルは「ふう」と息を吐き出す。 「楽譜が原因みたいだな」 「そうみたいッスね。ロナルドさん、言わないッスけど」 「言いたくないんだろう。ならば、仕方ない」 春臣はそう言い、机の上にある楽譜を見る。徐々に完成してゆく編曲作業は、大変ながらも楽しい。 「二人で進めるが、異論は?」 「無いッス!」 二人は顔を見合わせ、小さく笑いあう。 「ここのくだりは、もっとこう、流れるようにいったらどうだね?」 「うーん、それより、活発に動いた方がいいんじゃないッスか?」 ロナルドに気遣うように、ひそひそ声で話し合う。楽器をおおっぴらに鳴らすことはできないから、極力小さく。 「がつん、と動いたらどうッスか?」 「それだと、大幅に変わってしまう。それは、好ましくない」 春臣に言われ、ミチルは「そうッスね」と頷く。 ロナルドが楽譜を大事にしていることを分かっているから、成り立つ会話だ。ロナルドが大切にしているからこそ、大幅なアレンジはしないのだと。 「よく見つけてきたな、この楽譜」 「それ、自分が渡したんス。ロナルドさん、探してるって姫から聞いて」 「優しいじゃないか」 「代わりに稽古つけてもらいやッシタ!」 ああ、と春臣は苦笑する。ミチルはミチルだった。 「何処で見つけたんだ?」 「0世界の、不思議な世界で。うーん、うまく説明できねッス」 「そうか」 トントン、と指で軽く机を叩き、リズムを刻む。 流れるような音符、狂ってるようなトリル、ぶれの激しい高低音。 「滅茶苦茶のようで、そうではない」 「珍しいッスよね、流れが」 「歌いにくいか?」 「ま、難しいッス。姫も、奏でにくいッスか?」 「ま、難しいね」 春臣は答え、にやりと笑う。それに対し、ミチルもにやりと笑い返す。 「燃えるッスね!」 春臣が三味線を奏で始める。続けて、ミチルが歌い始める。 二つの音が重なり、追っかけあい、じゃれあうように動くかと思えば、敵対するように撥ねる。 アレンジは控えめに。 かといって、原曲をそのままにするのではなく。 曲として最大限を生かすように。 三味線で。 歌で。 ――バイオリンで。 聞こえてきたバイオリンの音にはっとして、春臣とミチルはそちらを見る。 気がついたらしいロナルドが、バイオリンの弦を引いていた。 大丈夫なのかと目線だけ送ると、静かな笑みが返ってきた。相変わらず、耳鳴りや頭痛、眩暈、吐き気といった諸症状は出ているのだろうが、それ以上に音楽を奏でたいようだ。 バイオリンが走れば、三味線と歌が回る。 三味線が飛べば、歌とバイオリンが流れる。 歌が転がれば、バイオリンと三味線が包み込む。 戦っているような、踊っているような、お喋りするような。 音と音が交わり、重なり、連なり、纏まる。 そうしてようやく、最後の一音を、弦が奏でた。 しん、と静まり返る。 協奏曲は、見事なアレンジによって、三人のものとなった。 作ったのは、間違いなくパラディン。しかし、今やロナルドたちの曲となったのだ。 「楽しかったッス」 ぽつり、とミチルが呟くようにいう。ハアハア、と小さな息切れをしながら。 「うん、楽しかった」 答えるように、春臣が言う。ゆるりと、三味線の撥を置きながら。 「楽しかったよ」 二人を見ながら、ロナルドは言う。最後まで演奏しきれるとは思わなかった。まだ身体にはダメージが残っているものの、それ以上に高揚感が支配している。 「過去形じゃないッスよ、ロナルドさん」 ミチルは、ちっちっと指を振る。 「そうだな、また演奏すればいい。折角、編曲したのだから」 春臣はそう言って、笑う。 ロナルドは「そうだな」と言って、やはり笑った。達成感と、高揚感と、安堵感。それらが交わり、ロナルドの心を満たす。 (君への返事になっただろうか?) 心の中で、彼女に問いかける。きっと、彼女は笑うはずだ。 今、三人が笑っているように。 <バイオリンの弦を握り締めつつ・了>
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