嘘の青空と偽物の太陽に照らされて活気づくターミナルの街をロナルド・バロウズはタキシードを着崩した姿で大股に歩いていた。かさついた唇から気だるげな大欠伸がふぁと間の抜けた声と一緒に零れる。 「くぅ~、目にしみるねぇ」 空を仰いで伸びをしながら呟く小言。 「やっぱり、タダ酒と女の子と仲良くおしゃべりっていっても、仕事だからきついな」 最近、ターミナルで出来たホストクラブに渋メン要素としてお酒と女の子と楽しいが仕事は仕事として苦労は当然存在する。 「一旦、家に帰って風呂に入ってベッドにダイブしようかな」 今日一日の怠惰な過ごし方を考案するが、家に帰れば腕白な『弟』(性別は女だが)、とドクに何か誘われるかもしれないと考えて、自然と口元を緩む。 閑静な住宅街は覚醒した者たちが笑いながら闊歩する。それを横目にズボンのポケットに両手をつっこみ、太陽の眩しさを疎むように影に身を隠して家路につく。 それはいつも油断したタイミングで現れる。 かつ。 ヒールがかたいタイルを叩く音が鼓膜を刺激し、背筋がぶるりっと震えた。 かつ、かつ、かつ。 それが自分に迫ってきているのをロナルドは猫に見つかった鼠のように敏感に感じていた。忘れていたものが音と一緒に脳裏に蘇るのはいくら振り払おうとしても不可能だ。 かつ、かつ、かつ。 「見つけました」 冬の寒い夜に凍りついた水のような凛とした声にロナルドはばっと振り返った。 「お前は」 ロナルドは思わず、叫んだ。 「おっぱい!」 「……」 「いや、ちが、……ルサンチマン!?」 ルサンチマンと呼ばれたそれは――不気味な白い鳥の仮面にあいた穴から覗く赤い瞳がロナルドを見つめた。 ルサンチマンは音楽を愛する悪魔の従者たちの名称だ。 老若男女、人種、体格差など個々に違うそれすべてがルサンチマンと呼ばれ、主のため屋敷を日々美しく保ち、主のための音楽家たちの世話をするのだ。 ロナルドが思わず、彼女のことをおっぱいなどと口にしてしまったのは個々の差はあってもすべてがルサンチマンと呼ばれる従者たちを区別するのに特徴で呼ぶようにしていた過去の習慣のせいで、決して男の悲しい性で胸を見てしまったわけではない。たぶん、きっと。 ロナルドをルサンチマンの彼女は笑ったり、呆れたりはしない。そもそも感情というものがあるのかも疑わしい。苔のような肌、冷淡な声、薄気味悪い赤目が、じっと凝視し続けるのにロナルドは反射的に後ずさった。 「お前も覚醒したのか?」 ロナルドの頭のなかでドクやミチルのことが脳裏に過る。ルサンチマンのことを彼らに告げるべきか、それとも黙っていたほうがいいのか。 「ご主人はどこだ」 「はぁ?」 「ご主人様はどこだ。答えなさい猿」 強烈な言葉の一撃はロナルドの心を抉った。 「さ、さるって、お前、口悪くなってないか!」 「猿は猿。はやく答えなさい」 「知るわけないだろう!」 ロナルドはむきになって言い返した。 「お前からご主人様の匂いがする」 「ご主人様って、悪魔の? そんなわけないだろう」 ロナルドが戸惑うのにルサンチマンは血を垂らしたような赤目でじっとロナルドを射抜く。 ルサンチマンは覚醒後、無事に保護されたのち、ターミナルでゴミを片づけ、彼女なりに思考を巡らせた。それはルサンチマンである彼女からすれば珍しいことであった。 従者は主以外のために消えてはいけない。 制約が緩みだしたのは主が自分を呼んでいるのだ、主のために、主を探すために、我が主の役に立つため……ターミナルでもルサンチマンの仕事は立派に存在した。 ゆえにルサンチマンは仕事をする。 主の匂いを辿って、必ず主に行きつく。 邪魔をするものは正しく絶望を与え、排除せねばならない。 「答えなさい猿」 「知らないって言ってるだろう。もし知ってたら、俺が会ってる!」 ロナルドはルサンチマンが手に持つ二つの凶悪な武器に手をかけたのにぎくりとした。 「それは、お前のトラベルギア?」 「ご主人様はどこだ」 会話にならない。 そんなもの自分こそ聞きたいくらいと言っても無駄だろう。悪魔の従者たちは臨機応変という言葉からほど遠いことはロナルド自身が良くわかっている。 とはいえ、このままここで言いあいをした挙句、ルサンチマンが実力行使に出てしまったら……ちらりとまわりを見てロナルドは息を飲んだ。 周囲を巻き込むことなど、ルサンチマンは意に介さないだろう。 それだけは絶対に避けたい。 ロナルドは肺から空気を吐き出した。 「とりあえず場所を移そう」 ルサンチマンの答えも聞かずに、ロナルドは腐った水草色をしたひんやりとした肩をかなり強引に押して進んだ。 抵抗されたらと内心、はらはらしていたが幸いなことにルサンチマンは何も言わずにロナルドに身を任せた。 彼女がなにを考えているのかわからないが、――理解できるものではないだろうが――今は言うことを聞けば悪魔に少しでも近づけると思っているようだ。 ロナルドは迷いに迷って、コロッセオに向かった。ここならばなにがあっても周囲に被害はほとんど出ないはずだ。 幸いに訓練している者の姿はなく、管理人もいないので本当に二人きりだ。ロナルドはルサンチマンと向き合った。 「ご主人様はどこだ」 「もう一度言うが、俺は悪魔を知らない、本当にわからないんだよ」 ルサンチマンは黙ったが、ぴりぴりと肌に突き刺さる殺気にロナルドは内心震えあがっていた。きっとただで帰れるはずはない。せめて、なんとかして 瞬いた次に視界からルサンチマンの姿がまるで煙のようにふわっと消えた。 「?」 どこに行ったのか理解できずに茫然とするロナルドの首に冷やかな刃があてられた。 「答えなさい」 「っ!」 ルサンチマンは瞬間移動したのち、己の存在をロナルドに感知させずに背後に回り込んだのだ。 「背中におっぱいがあたって気持ちいいって、こんな状況じゃなきゃいんだけどな」 「猿」 冷やかな切り捨て。 ルサンチマンはあいている手でロナルドの片腕を握り、乱暴に引っ張った。 「っ、おい、やめろ。痛いだろうっ」 「早く答えなさい」 「これ以上の答え、逆立ちしようが裸にひんむかれてもない!」 ロナルドは頭をふりあげてルサンチマンの仮面に頭突きをかました。痛みがあるとは思わないが一瞬でも視界が奪うのが狙いだ。もう片方の手で首にあてられた刃を乱暴にひき離し、息を吐く。 ロナルドはルサンチマンの手を、ルサンチマンはロナルドの手を互いに拘束している。 ぎりぎりの力の均衡を崩す隙をなんとしても作らなくては負ける――しかし、そう思っていたのはロナルドだけだった。 ぎりぃ。肉が裂ける音がロナルドの全身に響き渡る。 「いったぁああああ!」 ルサンチマンが怪力を使い、乱暴にロナルドの腕を引っ張ったのだ。 「答えなさい」 「知らないっていってるだろう! やめろ、俺は音楽家だぞ!」 思わずロナルドの口から悲鳴に近い懇願が漏れた。 もし腕を奪われたら、かずのこ、たらこもこの腕で抱くことが出来なくなるという思考が頭を覆い尽くす。 見栄も、怒りも、憎悪もない、ただ目の前にある命をとられるより深い恐怖に全身から冷や汗が漏れる。 なぜならロナルドは音楽家だ。腕を無くすのは死ぬよりも深い死を意味する。 ルサンチマンである彼女は正しい絶望を与えることを悪魔より教えられていた。 ごきぃ。 骨の砕ける、絶望の音が鼓膜にねっとりと張り付く。 ロナルドは犬のような雄叫びをあげてルサンチマンの片腕を掴んだ手を拳に変えて、彼女の身体を無茶苦茶に打って、拘束から逃れると地面に転がった。 「っ」 脂汗が額から流すロナルドは苦痛に顔を歪めて腕を見る。手が変な方向を曲がっている。 これくらいターミナルの医学でなんとかなると自分自身に言い聞かせるが、口から漏れるのは傷みの喘ぎだけだ。 ルサンチマンは瞬きもせず、ロナルドを見下ろす。 彼女は自分の持つトラベルギアを構えると、はじめてそれを扱うとは思えないほど優雅な動きで振り下ろした。 ざしゅ。 音がする。絶望が砕け散り、修復できなくなる音が、 「あ、あああっ」 ロナルドの口から声にならぬ声が漏れた。 ルサンチマンはロナルドに正しい絶望を与え、完璧に排除することにした。すなわち、彼の右手を斬り落としたのだ。 ロナルドは声もなく、茫然と落ちた手と、それをなくなった血を流し続ける腕を交互に見つめた。 赤い血が零れ落ちて、白いシャツを濡らしていく。 「っ……音楽家の手に何してんだ」 ロナルドが顔をあげて、ルサンチマンを睨みつける。 絶望の果て、ロナルドのなかでなにかが決定的に壊れた。 音楽家であるという箍が外れたロナルドは片腕を地面につくと四つん這いの態勢から立ち上がった。ルサンチマンは構えたが間合いは目にもとまらぬ速さで詰められた。ルサンチマンはギアでロナルドの拳を防ぐが、刃からじりじりと鉄を打ちこまれたような痺れが走る。次に下腹部に痛みのようなものがあった。ルサンチマンの眼は見る。自分の腹から人の腕が生えている。ロナルドは斬り落とした手のない腕をまるで棒かなにかのように突き刺した。ぶちぶちぶち。腕は肉と骨が砕けることも考えずに腹から胸へとせりあがる。彼女は赤い目をぎょろりと揺らして、片腕を振り上げた。ギアの刃はロナルドの首を斬り落とすはずだった。ロナルドは片腕を盾に首を守った。血肉が飛び、ルサンチマンを染める。至近距離でロナルドの足はゴムのように柔軟に動いて無防備に血を流す腹を蹴り飛ばした。がはっ。血が飛び散って、ロナルドの顔を濡らす。後ろに崩れていくルサンチマンの片腕はぬるぬると蠢く触手に変化し、鞭のようにしなってロナルドを襲う。ロナルドの足を縛り上げることには成功したが、一本の触手をロナルドは口に咥え、引っ張った。ぶち。ぶちぶちぶち。ルサンチマンの肉体が砕けていく。ご主人様以外のために破壊されてはいけないと、彼女は逃げようとしたが下腹部の傷が動きを鈍らせる。それでもご主人様のために……ルサンチマンはそのとき気が付いた。 「ご主人様は」 人間がこんなにも強いはずがない。自分の力がいくらこの世界に来て弱くなったとしても。ロナルドの強さの理由は 「ご主人様は、ここに」 ルサンチマンは理解する。 ロナルドの内からご主人様の香りがするのだ、と。 そう理解したとき片腕をもがれて大量の血を溢れさせるルサンチマンは自らの作った赤い池に転げ落ちた。 もう動くことも出来ない哀れなルサンチマンは瞬きもせず、赤い瞳でロナルドを見つめ続ける。 ご主人様によって破壊される、それは従者の使命 諦念にも似た思考がルサンチマンの動きを封じる。 ロナルドがルサンチマンにのしかかり、その手が首にかけられる。 ルサンチマンはじっと見つめていた。 と ロナルドの動きが急に止まり、がくんと首が崩れちると、すぐにゆらりっと人形めいた動きで起き上がったのにサンチマルンは唇を開いた。 「ご、主人、さま」 ロナルドであり、ロナルドでないそれは唇に弧を描くと、ルサンチマンの首にかけていた手を離し、お茶目けある仕草で唇に指をあてて黙れと命じた。 「すぐ決着をつけては興ざめだ。お前も楽しみなさい我が下僕」 ルサンチマンはゆっくりと頷いた。 その様子に彼は静かに微笑むと、ルサンチマンの血まみれの顔を優しく撫で、立ち上がった。ルサンチマンはじっと見つめていた。彼は落ちた手を拾い上げると、折れた骨を癒し、手もくっつけてしまった。ルサンチマンはよろよろと起き上がる。彼はそんなルサンチマンに近づくと、彼女のちぎれた腕をもってきて、まるで人形の腕をくっつけるように容易く戻してしまった。 ルサンチマンはじっと彼を見つめ、囁いた。 「すべてはご主人様の意のままに」 ロナルドは気が付いたとき、白いベッドのなかにいた。 起き上がると、横におっぱい――いや、ルサンチマンがいて悲鳴をあげそうになった。 「こ、ここは、コロッセオの医務室? いたた、頭が……俺は」 ロナルドは頭を抱えたまま訝しんだ。 覚えているのは背中にまわりこんだルサンチマンにおっぱいを押し当てられて悪魔のことを言えと言われて――男なら一度は体験したい、しかし、それが悪魔の従者相手なら絶対に勘弁してくれという事態に陥ったあとの記憶が一切ない。 そのあとどうなったのかはわからないが、ルサンチマンがここに運んでくれたらしい――何も言わないのは悪魔のことを知らないことを納得したらしい。 深いため息が漏れた。 悪魔は現れるのか? そのときルサンチマンは悪魔対策に利用できるかもしれない。諸刃の剣だが、ないよりはあるほうがいい。 「いずれ悪魔も現れるはずだ。協力しないか」 「承諾する」 あっさりとした答えにロナルドは警戒心をむき出しにルサンチマンに言い返した。 「おかしな真似したら殺すよ」 「全て御意に従います」 ルサンチマンは従順なのにロナルドは肩すかしを食らった気分でため息をついた。 「とりあえず、二人に相談しないとな」 頭をかいたあとふと右手首に薄らと赤い線が円を描いているのを見てロナルドは眉根を寄せたが、深くは考えずに立ち上がった。
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